2014年1月31日金曜日

宇宙は本当に神が創造したのだろうか   ポオ作 『ユリイカ』 を読んで

去年の冬になった頃だろうか、何気なく開いた週刊文春に面白いページを見つけた。

伊集院静が連載をしている、「悩むが花」というページである。
この連載は、読者からの質問を伊集院静が軽妙に答えている。

読者からの質問は、確か「宇宙の果てを考えると眠れなくなってしまう」というようなものだった。

その質問に、伊集院静は「人間の人生の明日が誰にも分からないように、宇宙の果てのことも誰にも分からないのです。」と答えたように思う。

私が今までに出会った宇宙の果てに対する説明の中でも、誰にでも分かりやすく、こんな説明の仕方があったのだろうか、と思わずにはいられない回答であった。

カントは、著書『純粋理性批判』で時間と空間を論じ、形而上学を確立しようとした。

形而上学とは、基本的に物理学や自然学を超えるような存在と原理の探求という意味を持っている。(1)

つまり、伝統的に言えば、神・霊魂の不死・宇宙の始まりを問う学問である。(2)

時間と空間で思考する存在が宇宙であれば、カントは、そんなもの自体がどんな様子をしているか、などということは、我々人間には知りえないのである(3)と論じた。


週刊文春で伊集院静が答えたのと同じではないか。


入り口の入りやすい週刊誌の一ページで、哲学にも似た問答を読んで、私は本棚に放ってある『ユリイカ』を思い出した。

1848年にポオが著した『ユリイカ』は、難解な詩的宇宙論として有名である。

国立の古書店で手にとって読み始めたが、その難解さにすぐに本棚へと上げてしまったままであった。

週間文春誌上で、伊集院静が宇宙の果てを簡単に料理するのを読んで、私はもう一度『ユリイカ』に挑戦する気になった。

とにかく我慢しながら、パラグラフの構成が理解できなくても読み進み、なんとか読了する。

本としては薄い装丁なのに、時間がかかった。

読了した直後に、2回目を読み始めた。

物語のランディングを頭に入れながら途中を読み進めると、今度は面白いように内容が頭の中に残っていくではないか。

ポオは、1000年後の2848年の未来から届いた手紙から、『ユリイカ』を始める。
そして手紙の引用が終わり、更なる導入部分でポオは「無限」という概念を論考する。


論考という言葉は、『ユリイカ』には相応しくないかもしれない。


詩的宇宙論と言われ、本人が題名のあとのキャプションに散文詩と銘打つほどなのであるから、「無限」という物語を語り始める、という記述が正しいだろう。

宇宙を語る入り口でポオは「無限」から始めるのである。興味深い文節なので、少し長いが引用したい。



 そこで、ただちに、空の空たることば「無限」からはじめるとする。これは「神」とか「霊」とかいったことばと同様に、あらゆる言語に同類が存在するが、それはけっしてある観念の表現ではなく、ある観念をめざす努力の表現なのである。それは把握不能な観念を把握せんとするはかない努力の表出にほかならない。人間はこの努力の方向を示唆することば―――その背後にこのこころみの対象が永遠に隠蔽されている雲を示唆することば―――を必要としたのである。つまり、人間と人間とを結びつけ、同時にその人間たちを人間知性が有するさる傾向によって結びつける一語を必要としたのである。こういう要請から「無限」なることばが生まれたのであり、それゆえにこそ、このことばは思考の思考を表象している。(4)



これはポオによる「無限」の定義である。

「神」や「霊」と同じように、「無限」は人間には理解の及ばない観念である、とポオは表現する。


まるで、明日の人生が人間には分からないのと同様、宇宙の果ては人間には分からない、と言っているのと同じではないか。


最近、宇宙を思考すると、自分なりの宇宙観が芽生えてきた。

われわれ人間は、人間が理解できないような大きく長い時間軸を流れている空間の中で生きている。

宇宙の持っている時間にくらべたら、一瞬も存在しないような時間を生きて死んでいくのだ。

そのことを様々な角度から熟考すると、一つの結論に到達してしまった。


われわれの生きているこの世界、そして自分自身全てが、フィクションではないのだろうか。


われわれを取り巻いている世界全て、空間全て、宇宙全体が、われわれを含めて実体を持っていないのではないか。

このように考えると、宇宙が膨張していようが、無限がどのように存在していようが、われわれが宇宙の中にいようがいまいが、それらが人間の理解に及ばないことであっても、理解の地平線を求めることができるのではないだろうか。

われわれが、フィクションである。
われわれの存在自体が、フィクションである。


このような思考をしながら、世の中を刺激的に生きていこうと考えている。


(1) 黒崎政男著 カント『純粋理性批判』入門 p.93
(2) 黒崎政男著 『前掲書』 p.94
(3) 黒崎政男著 『前掲書』 p.104
(4) ポオ著 八木敏雄訳 『ユリイカ』 p.31
(
参考文献
黒崎政男著 カント『純粋理性批判』入門  講談社選書メチエ 2000
ポオ著 八木敏雄訳 『ユリイカ』 岩波文庫 2008

2013年12月31日火曜日

国立新美術館 「Domani・明日展」 

 
黒川紀章が設計した国立新美術館は、夜になると一段と趣を増す。

暗くなったエントランスホワイエの、天井の高い空間の中で空中に浮いているレストランが素敵だ。
ギャラリーの光壁が私を強く覚醒する瞬間に、またここを訪れたいといつも思う。

1214日から126日まで、「Domani・明日展」が開催されている。

文化庁の派遣により海外で研修した芸術家が出展するこの展覧会は、今年で16回を迎える。
今回初めて建築家が参加することになった。

私は1994年に文化庁芸術家在外研修員に選ばれ、イタリアのフィレンツェに派遣され研修をしてきた。

芸術のジャンルのアーティストを海外に派遣する文化庁の制度に、建築のジャンルが加わったのは1983年で、1960年代から始まったこの制度の中では比較的新しい。

現在は、文化庁新進芸術家海外研修員と制度の名称が変わったが、文化庁が派遣する芸術家の仲間に建築家が加わったことで、建築が芸術のジャンルの一員として認められたと言えるかもしれない。

建築の設計と対峙する時、建築は芸術の表現であるのだろうか、という問題意識がいつも私の頭を過る。

建築は芸術の王である。

いや、かつては建築は芸術の王であった、という言葉の意味は、建築家であるならば誰の頭にも刻まれているはずだ。

まず最初に、王のための神殿があった。

その広間に飾るための絵画が生まれる。

晩餐の宴に耳を傾ける音楽も生まれた。

美しく舞う舞踏や、空間に語りかける彫刻も、全ては神殿が造られたことにより生まれた芸術ではないか。

この文脈から、私たち建築家は芸術の始まりが建築であったことを違和感無く心に思い、そして誇りにしているのであった。

しかし現代の都市を見て、街並みを歩く時、建築を芸術だと捉える人は誰も存在しない。
建築家であっても、この時代の建築が芸術であると心思う人は誰もいないだろう。

古代の、王一人が君臨して建築を生み出し、芸術を創造してきた時代と現代は別の世界である。

しかし建築家誰もが理解しているこの一文で全ての建築家が納得しようとも、私だけは抵抗したいと思ってしまう。

経済のしがらみ、ビジネスとしての建築、私たちを取り巻く世界は混沌としている。
設計料で生きている建築家がその恩恵にあずからずに生きていき、建築は芸術だと遠く吼えたとしても、それが正論であると認められる社会ではない。

現代において、建築を構想するときに建築が芸術として存在するためには、私はどのように生きていかなければならないのだろうか。

その大きな問題意識を抱えながら、文化庁芸術家在外研修員としてフィレンツェで研修した期間に、私は拠り所を見つけられたような気がした。

建築だけが芸術として残っているだけではなく、都市全体が芸術で溢れているフィレンツェでは、建築家だけではなく一般市民であっても、建築は芸術であると当然のように認識している。

建築は芸術であるのだろうか、と悩む建築家や市民は誰もいない。

それであれば、私はこの困難な現代で、私の目指す芸術である建築を全うするためにだけ生きなければならないのが、必然であるだろう。

私は、音楽や彫刻や絵画と同じように、人々を感動させ心を揺さぶり、ある時は疑問や怒りさえも生じさせる建築を生み出したいと考える。

経済や社会の様々なしがらみを乗り越えて、現代社会の中で異端であり狂った建築であったとしても、それをつくり続けていきたいと思うのだ。

Domani・明日展」では、構造家・名和研二氏と設備家・遠藤和広氏の協力を得て、「100年後の未来の家」を構想した。

私たち出展者の建築家には、漠然とした未来の家、というテーマが与えられた。

私は、フィクションの世界ではない、100年後のリアリティを構想した家とコミュニティのあり方をプレゼンテーションしている。

多くの企業や人の協力を得て完成したこのプレゼンテーションは、会場の中で一際輝いている。

2013年8月27日火曜日

はなきちがひの大工

藝術の美は所詮、市民への奉仕の美である。
花きちがひの大工がゐる。邪魔だ。

これは、太宰治の第一創作集である『晩年』の中の、『葉』の一節である。

デコラティブな装飾を造る独りよがりの大工に、藝術とは市民が楽しめる、もっと控えめな美なんだよ、と太宰治が諭していることを、この一節だけを括れば読み取ることができるかもしれない。

しかし『葉』の美しく儚い文体の中で、この挿入された二行は前後の文脈に関連を持っていない。

私と婆様のことを語りながら、幽霊を見た、夢ではないと言って、太宰治はこの二行を挿入する。

直後では、まち子が「あの花の名前を知っている?」と言い、僕は「こんな樹の名を知っている?」と語る。

『葉』の中には、まるでアフォリズムのような挿入句がいくつも散りばめられ、不思議な感覚を持って進んでいくのだ。

『葉』の冒頭では、ヴェルレエヌの句

撰ばれてあることの
恍惚と不安と
二つわれにあり

が挿入され、物語が始まる。

昭和五十一年十版発行の河出書房新社から出ている『文芸読本 太宰 治』は、旧仮名遣いで太宰治の断片を追うことが出来る味わい深いテクストである。

現在、書店で入手できる新潮文庫の『晩年』は現代仮名遣いになっているので、
私は古書店で旧仮名遣いの『晩年』があるかどうかを聞いてみた。

店主はしばらく考えて、奥の倉庫から、年月を経て装丁が綺麗に焼けた一冊を取り出してきてくれる。
その一冊は、私にとって大変珍しい書物だった。

それは、昭和十六年に発行されたオリジナルの砂子屋書房版を完全復刻した、財団法人 日本近代文学館から刊行された『晩年』である。

中を開くと数ページずつくっついていて、ページごとに切り取られていなかった。
製本が乱れていると思い店主に見せると、昔の本はそのように製本されていて、読む前に自分でページを切り開くことを教えてもらう。

読書をする行為が、こんなにも美しい時代があったことを私は知らなかった。

このブログの冒頭で引用した、花きちがひの大工の句は、私の心を奮わせた。
太宰の言う、花きちがひの大工を戒めるのではなく、花きちがひの大工が建築家の私に他ならない。

これから生み出す私の全ての作品は、花きちがひの大工がつくったものでなければならないと、『葉』を読んで私はあらためて強く思った。

河出書房新社の『文芸読本 太宰 治』には、江藤淳、坂口安吾、瀬戸内晴美、埴谷雄高、大江健三郎、もちろん井伏鱒二に至る文壇が、太宰治を綴っている。

その中に、『「走れメロス」と熱海事件』と謳い、壇一雄が一文を寄稿している。
その冒頭を引用したい。

あらゆる芸術作品が成立する根本の事情は、その作家の内奥にかくれている動かしがたい長年月の忍苦に近い肉感があって、それが激発し流露してゆくものに相違なく、それらの作品成立の動機や原因を、卑近な出来事に結えつけてみるのは決していいことではない。

「あらゆる芸術作品」であるから、文学だけではなく、建築も括られると私は思う。

長年月の忍苦に近い肉感、この表現をなぞるだけで、太宰治が生きてきた瞬間を頭の中に浮かび上がらせることができる。

私は太宰治の死を想いながら書かれた壇一雄のこの一文を読み、あるエッセイが頭の中を過った。
しばしば私が引用する、ランボウに向けたジャン・コクトーの一文である。

しかも太宰治の『葉』に引用されたベルレーヌは、一時期ランボオを恋人にしていたではないか。

アルチュール・ランボーのように閉ざされた作品が、シャルル・ボードレールのようになかば開かれた作品やヴィクトル・ユゴーのように広く開かれた作品と同じ資格でこの国に君臨していることは、わが国の一つの名誉である。

中条忍訳の、この名文で始まるジャン・コクトーの『ランボーの爆薬』と題されたエッセイが、いつも私の頭の中で渦巻いている。

ランボーぐらい大きな名声がでると、かならず行き違いが生ずる、行き違いは芸術のあらゆる大冒険につきまとう。お供の犠牲になった多くの人たちはやっきになってある種の傲慢を何時までも持ち続けようとする。この通りすがりの男が重要であったのは、構文の新しい使い方をしたためだということを彼らは考えもしない。

このように、ジャン・コクトーの文は続く。

これ以上、太宰治とアルチュール・ランボオを重ね合わせることには意味がないが、若くして死んでいった芸術家を回想するそれぞれの文を、相乗させられずにはいられなかった。

太宰治の生み出す芸術作品のような建築を、私はつくりたいと思うのである。

参考文献
『文芸読本 太宰 治』  河出書房新社 昭和五十一年十版
太宰 治著 『晩年』   精選 名著復刻全集 近代文学館  
  財団法人 日本近代文学館 刊行 昭和49
『ユリイカ 総特集 ランボオ4月臨時増刊』青土社 1971年  






2013年4月30日火曜日

地中へと志向する妖しい建築

日経新聞の書評を読み、興味を持った1冊の書籍を、仕事の途中で寄った銀座の書店で買い求めた。

『冥府の建築家』。

ジルベール・クラベルという、僅か44歳で亡くなったせむし男の「狂った物語」を、著者・田中純が膨大な資料を読み込み、書き上げた大作である。

ジルベール・クラベルの「狂った物語」とは、どういうものであるか。

バーゼルの裕福な家で生まれたジルベール・クラベルは、イタリアの南、ナポリからヴェスヴィオ山を更に南下した、地中海とティレニア海を分断するソレント半島の付け根に位置するポジターノの監視塔の廃墟を、1909年2月に買い取った(1)

16世紀にイスラム教徒(特に海賊)の襲撃を見張るためにこの町の岬に建てられた、朽ち果てた監視塔をクラベルは改築する(2)

クラベルは長い交渉を通じて徐々に塔周辺の土地を取得し、海に面した岩壁を爆破させて通路を穿ち、居室を刳り貫いていった。

こうして岩壁には四層におよび108メートルの長さにわたる居室と通路の複合体が築かれてゆくことになる。

各部屋には「セイレーンの部屋」、「ダイアモンドの部屋」などという名が付けられた。

落盤をはじめとする数々の困難に直面しながら、羅針盤や占い棒(ダウンジング・ロッド)を用いて地中の空洞が探られ、あらたな地下通路が掘られるとともに、既存の回廊や部屋が拡張されて相互に連結されていった(3)

建築は通常、大地から空に向かって伸びていく。

クラベルの場合は、地中へと向かう妖しい魅力にとりつかれてしまった。

地中、地中へと、狂ったように掘っていく。

裕福な家に生まれたクラベルは、その資金力に物を言わせてプロジェクトを遂行していった。

自由にできるお金があったとはいえ、病魔に侵されながらも己の将来との葛藤の中で最期までつくり続けようとしたクラベルは、当時のイタリア未来派の芸術家の中でも稀有な存在であっただろう。

その大事業を支えたのが、弟ルネであった。

いつの時代でも、兄を支える弟が存在する。

ゴッホを支えた、弟テオのように。

クラベル本人は、決して芸術家としての矜持を誇っていた訳ではないと私は考える。

ベンヤミンやリルケとポジターノの要塞で邂逅していたといはいえ、ジルベールは自分の城をつくることが最優先で、芸術家としての存在を誇ろうとしてはいない。

しかしその行為、生き様は、芸術家以外の何者でもないはずだ。

私たち現代の建築家は、ジルベール・クラベルのような突き抜けた思想を持って仕事をしているのだろうか。

建築家ではないクラベルが、超えることが困難な大きな思想を100年前のイタリアから私たちに投げかけているではないか。

日々のルーティーンに埋没することは許されない。

この素晴らしいアーカイブを発掘してくれた著者・田中純に感謝し、私たち現代の建築家の目指すベクトルを考え直さないといけない。


(1) 田中 純 著 『冥府の建築家』 p.12
(2) 田中 純 著 『前掲書』 p.12
(3) 田中 純 著 『前掲書』  p.13

参考文献
田中 純 著 『冥府の建築家』 みすず書房 2012年







2013年3月31日日曜日

水曜日に仕込む五本の豚足

我が街、荻窪の名店がまた一つ姿を消す。

カウンターだけのラーメン屋、漢珍亭。

たぶん店主もラーメン屋ではなく、中華料理屋であるという自負があるのだと思う。
火を前にして鍋をあおるその姿は、職人の域を脱している。
以前から、店主が六十五歳になったら引退すると決めていた理由も、理解できてしまう。

私は、ここの餃子が世界で一番旨いと思っている。
多くの人をこの店に連れて行き、餃子を食べてもらった。

餃子の餡も絶品であるが、焼き方が最高だ。
シンプルなラーメン屋の餃子なのだが、こんな柔らかさとジューシーな味には出会ったことがない。 

蒸し加減と、油を少し垂らす絶妙の焼き方にもう出会えないと思うと、この餃子に匹敵する次の店を探すのは困難なことであると感じる。

そして、煮玉子。

今では、どこのラーメン屋にも味付け玉子が置いてある。
荻窪ラーメンは一世を風靡したが、遥か昔にここ漢珍亭からその煮玉子が日本全国に発信された。
だが、姿、形は同じようであっても、やたらとしょっぱい味付け玉子を前にすると、漢珍亭の独特な味付けの一品を思い出さずにはいられない。

私はラーメンそのものは、あまり食さない。
漢珍亭以外の数店に入るだけであるが、玉子をラーメンに乗せることもしない。

荻窪法人会のレクチャーで、料理評論家の山本益博が漢珍亭の閉店をインフォメーションしたというのを知った。

私がそのことを店主に伝えると、店主は山本さんを知らないと言う。
私は、それが素晴らしいと思った。

さすが、漢珍亭は市井のラーメン店である。
メディアの一喜一憂に動かされること無く、六十年以上同じ味を提供してきた。

しかし地元の小さな店を紹介する素晴らしい山本益博の仕事により、最後の味を楽しもうとする客で連日店は満員だ。

私は常連のごとく、餃子のあとにスープ仕立ての絶品の豚足を注文する。

柔らかさが素晴らしいだけでは無く、このようなスタイルの豚足に出会ったことが無かった。
毎週水曜日に、五本だけ豚足を仕込むという。

金曜日に訪れると、もう品切れだった。
一週間に五人前だけの料理に出会うために、木曜日に足を運ばなければならない。

この街中にひっそりと隠れた名店は、四月いっぱいで無くなってしまう。

訪れるべき店ほど無くなってしまう儚さが寂しい。

阿佐ヶ谷には、中杉という串揚げの名店がある。
コストパフォーマンスの良いその店も、四月の中頃で終了するという。

長い間愛され続けてきた店も、店主の高齢化にはどうしようもないのであろう。
閑古鳥が鳴いて店をたたむよりも、連日満員で惜しまれつつ閉店することに、意義を唱える余地はない。

そのようにして消えていく名店が、私たちに語り継がれる伝説となっていくのであろう。 






2013年2月28日木曜日

狂気の建築家・渡邊洋治と銀座のバー

ある日の午後、私は銀座松坂屋の裏通りを歩いていた。

仕事の途中であったから、久しぶりの裏町の散策という気分ではない。
目的地に向う途中の街並みの一角に、私は小さく佇むインフォメーションボードを目にした。

そこには、「当店は2月末日で閉店します」というインフォメーションが掲げられていた。
顔を上げてその店のファサードを目にすると、その閉店するという店はバーTARUではないか。

大正末期に開店し、長い間銀座を生き抜いてきたTARUが閉店するという。

老朽化したビルであるから、再開発に飲み込まれるのはいたしかたないのだろうか。

地下1階のその店に行くのに、私はいつも階段で下りずに、エレベーターを使うことにしていた。
自分で扉を開ける、古き良き時代のもっとも古いタイプのエレベーターが、私を迎えてくれる。

初めて乗った時には、途中で壊れて止まってしまうのではないかとびくびくしたことを、今でも思い出す。

TARUに私を連れて行ってくれたのは、建築家・渡邊洋治のアーカイブを管理している渡邊洋治の甥であった。

日本建築家協会で、私が「日本の前衛を再考する」というレクチャーを1年を通して開催した時に、渡邊洋治を取り上げ私は彼と邂逅する。

彼は私を、平河町の渡邊洋治のアトリエにも招きいれてくれた。
そこでは下から上まで、更に屋上にも、その全てに私は渡邊洋治の魂を感じ取った。

渡邊洋治ほど、「狂った建築家」という称号が相応しい建築家は他にはいないだろう。

建築家・松永安光が、渡邊洋治は事務所で所員を前にして日本刀を振りかざす、と話したことを思い出した。

東大からハーバードへ行き、芦原建築事務所に入所して独立した、建築家としての王道を歩み「建築界の良心」ともいえる松永安光さえも、渡邊洋治という狂った建築家に言及する。

それほどまで、渡邊洋治という異端は今でも輝いているのだろう。

彼が私をTARUに連れて行ってくれたのは、ここが渡邊洋治の縁の場所であったからだ。

渡邊洋治は、自分の師匠・吉阪隆正にここに何度も連れてこられたという。

早稲田の中で主流になれなかった渡邊洋治を、浮かび上がらせようとしていたのが吉阪隆正であった。

しかしクライアントや作品に恵まれず、つくりたくてもつくれなかった渡邊洋治は、生涯独身を貫き酒を自分の人生の欠かせない友としていた。

それ故、61歳の若さで逝ってしまったのだろう。

建築家にとって、「つくれない」ということは、どれほど悲しいことであるか。

そのTARUは、日本のインテリアデザインの礎を築き上げた二人の巨匠が、デザインに参加している。

剣持勇と渡辺力が一緒にデザインした仕事は、TARU以外には現存していないだろう。
そもそも、二人がコラボレートした仕事なんて、他にあるのだろうか。

その空間に、一時吉阪隆正と渡辺洋治がグラスを酌み交わしていた。

2月末日閉店と知って、私は友人とTARUを訪問した。
特に異端ではない、そのレトロな空気は、私たちを時間が止まった空間へと導いてくれた。

嬉しいことに、閉店が1ヶ月延長されるという。

あと何回か、あの蛇腹扉を自分で開けるエレベーターに乗ることが出来る。





2013年1月31日木曜日

日本経済上昇の予感

今年の正月は、映画『シェフ』を見に行った。

そういえば、去年の正月に見に行った映画は『エルブリの秘密 世界一予約の取れないレストラン』だった。

偶然にも2年連続で、正月にレストランや食がテーマの映画を見に行ったことになる。

レストランや食がテーマとなった映画は多いが、この2作品は共に高級レストランを題材とした、珍しい映画である。
しかも、ジャン・レノ演じるシェフは、エルブリのフェラン・アドリアが一世を風靡した、食材を泡状にするエスプーマや最先端の分子料理に見向きもしない。

映画では、痛烈な風刺、アイロニーとなって、化学の実験室のような分子料理のプレゼンテーションとしてそれらが現れる。

まるで1年前に公開された、『エルブリの秘密 世界一予約の取れないレストラン』に対抗するかのような映画だ。

映画監督やスタッフたちは、三ツ星レストラン「アルページュ」のアラン・パッサールやアラン・デュカス、ピエール・ガニェールといったスターシェフの厨房に足を踏み入れて、取材をしたらしい。

監督はアラン・デュカスの厨房で、グリーンピースのコンソメスープを運良く試食できたという。
その幼少時の記憶を喚起する美味が、人々を感動させる料理の人間味を描く映画となった。

『シェフ』は、銀座テアトルシネマで鑑賞した。
銀座テアトルシネマが入っているビルは、ホテル西洋銀座の建築である。
素晴らしい日本のホテル文化を創り出していた、あの、ホテル西洋銀座だ。

銀座の片隅に佇み、隠れ家に入るようにフロントに上がる、独特な趣が忘れられない。
本物の高級感を、あのように演出したホテルは、日本ではこれからは出現しないだろう。

ホテル西洋銀座は、そのテイストとは正反対のビジネスホテルとして、別資本で生まれ変わるという。

設計者である菊竹清訓も、亡くなってしまっている。

黒川紀章とともにメタボリズムを牽引した、建築家・菊竹清訓の作品の中では重要度が低い作品かもしれないが、私は好きな建築である。
建築の外観は残るかもしれないが、中身が全く変わってしまうことは大きな残念だ。

銀座という一流の立地に対し、本物の高級感を文化として創出し、日本に根付かせようとしたのがホテル西洋銀座だったと私は考える。

彫刻家・脇田愛二郎の、錆びた鉄板を使ったレリーフが客室に飾られてあったように。

だからこそ、吉兆が出店しているのだろう。


この挑戦は、商業という名を借りた文化創出であった、と言うのは言いすぎであろうか。
いや、私を含めて、その幻影を今でも追い求めている人間は、確かに少なからず存在する。

バブル崩壊以降の失われた20年を経て、デフレスパイラルに陥ってしまった日本に文化を語る資格はないのだろうか。
アートを鑑賞しに美術館に足を運ぶよりも、目の前の100円ハンバーガーに手を伸ばしてしまう。

そのような、暗い沈滞した世相が、いよいよ方向転換をしそうな予感がする。
予感、というよりは、確実に世の中は上昇ムードに染まりつつあるのだ。

政権が変わり、経済上昇を演出しているのだろうか。
仮に演出であり、その後の落ち込みが予想されたとしても、この気分により明るい日本に少しでも長く導けるのならば、私は良いことであると考える。

その杞憂を払拭するくらいの、メセナに終わらない本物の文化創出を生み出したいと考えているのは、私だけではなく全てのアーティストの想いである。

再び、ホテル西洋銀座のような、洗練されたバトラーサービスを受けたいと思っているのも私だけではないだろう。

参考文献
『シェフ』パンフレット 発行 東京テアトル株式会社