2011年5月28日土曜日

人間は、万物の尺度である。 原発の是非をプロタゴラスに問う。

2011年1月31日の私のブログで、プロタゴラスの相対主義について論考した。
「人間は、万物の尺度である。」
これは、例えば善悪を考えるときに、それぞれの人にとってそれぞれの善悪の価値観が存在する、という意味の言葉である。

プラトンの初期対話編『プロタゴラス』では、有力なソフィストである長老プロタゴラスたちを相手に、ソクラテスが議論を仕掛けていく。

「人間は、万物の尺度である。」
これは、ある人にとって「悪い」と感じることが、ほかの全ての人にとっての「悪い」にはならない。
究極に考えればある人にとって「悪い」と感じることが、ある人にとっては「良い」と感じることもあるかもしれないのだ、ということが導かれる。

相対的に善悪を考える、それがプロタゴラスの相対主義である。
100人、人間がいれば、100通りの善の考え方がある、だから、「人間は、万物の尺度である」とする。

1月31日のブログでは、歩道に落ちる落ち葉や、桜を愛でながら酒を飲むことに関して、プロタゴラスの相対主義を引用しながら論考した。
そして、あの3月11日。
大地震が襲った後の、原発の崩壊。

今更ながら、それを容認してきた私たちがいるから、原発を造り続けてきた日本があるのです、と言う人がいるだろう。

私たちひとりひとりがもっと強く原発を反対しなかったから、これだけの原発ができてしまったのです、と言う人も。

私は、そういう人たちに問いたい。
私たちが原発はいらないという強い気持ちを持っていたとしても、それを超える強い力で国家が原発を造ってきたのではないのかと。

歩道に落ちる落ち葉や、桜を愛でながら酒を飲む詩的な風景ではなく、原発の是非をプロタゴラスの相対主義に当てはめて考えるとどうなるだろうか。

私たちが原発は危険だからいらない、と思っていても、あらゆる理由から原発は必要なのです、という人たちがいる。
それを突き詰めて、私たちの側から原発は悪だとすると、その人たちにとっては原発は善であるのだ。

この両極をパースペクティブに見ると、私はニーチェがキリスト教をルサンチマンの宗教であると断罪したことが、一瞬脳裏を過った。

ニーチェはキリスト教を悪の宗教だと言い、一方、キリスト教を善としてすがる人たちがいる。
しかし宗教は意思の問題で、悪と考えれば自ら遠ざかることもできるだろう。
原発はフクシマのように、逃げても逃げても遠ざかることはできない。

原発の問題は、電力の供給の問題である。
電力の供給という大前提に、危険と知りつつ全てを屈して推進していったのか。

プラトンの初期対話編『プロタゴラス』を、あらためて原発を頭に入れながら読み進めていくと、ぞっとしてしまう。
以下引用するので、そのように読み進めてもらいたい。


そもそも「悪いと知りつつ行う」というときの「悪い」とは何を意味するのか。
何かを行って、ある快楽を得る場合、その瞬間に快楽を提供するのみで、後になっても一切苦痛が生じないとしたら、それは別に悪でも何でもなかろう。
美食や暴飲など目先の快楽が後に深刻な病気を引き起こすように、後から結果する大きな苦痛のゆえに悪とされるのだ。
つまり、結果として苦痛に終わり、他の快楽を奪うからこそ、ある行為や快楽が「悪い」と言われるのであって、快楽それ自身は決して悪ではない
(『プロタゴラス』三五二D-E)

紀元前400年の哲学者の言葉に、現代の私たちは考えさせられてしまう。
まるで、今フクシマを前にして原発のレゾンデトールを語っているかのようである。

フクシマの惨状を知った上で尚マスコミの前に出てきて、原発の必要性を語った学者たちの言葉そのものではないか。

しかしここには、哲学者・荻野弘之が言うように、プラトンにせよアリストテレスにせよ「無抑制」という事態を問題にする際に、「意思」に相当する概念を一切用いていないのである。

言い換えれば、前述の『プロタゴラス』の快楽を原発に読み替えて、原発のレゾンデトールを肯定できたとしても、原発を推進しようとする人の意思を読み取ることはできない。

日本の未来を安全に取り戻すために、私たちは今こそ深く思慮しなければならない。

参考文献
荻野弘之著 『哲学の饗宴 ソクラテス・プラトン・アリストテレス』 
日本放送出版協会 2009年