2011年7月27日水曜日

もう一つのプラハ

私たち建築家にとって、プラハは魅力的な都市である。
全ての時代の歴史的な様式を持った建築物が、美しい姿を私たちの眼前に広げている。

ロマネスクの大聖堂、ゴシックの尖塔、ルネッサンスの宮殿、バロックの教会、アールヌーボーの駅。

世界遺産のこの街の、歴史的な美しい建築物の数々が、よくぞ現代にまで残ってくれていたことに感謝したい。

古都の中にも、異質な現代建築の衝撃を主張している作品がある。
フランク・ゲーリーがチェコ人建築家と協働した、ヴルタヴァ川沿いの「ダンシングビル」。

うねったガラスの造形がゲーリーらしさを出していて、彼の代表作の1つに数え上げられている。

それらの建築を訪ね、ミュシャのポスターに描かれているアールヌーボーの女性に乾杯をしながら、中欧の闇を持った歴史に足を踏み入れたいと、いつも想っていた。

ウイーンから足を延ばせばそれほどの距離を有しないこの魅力的な都市に、ウイーンに滞在するたびに想いを馳せていた。
しかしいまだに、「プラハの悲しみ」を共有することができないでいる。

東京都写真美術館に、「ジョセフ・クーデルカ プラハ 1968」を観に行った。

全篇モノクロで構成されたこの写真展は、プラハの春が終焉し、ワルシャワ条約機構軍がプラハへ侵攻した、「チェコ事件」を記録したドキュメンタリーである。

中欧の複雑に入り組んだ背景を歴史に遡り理解しないことには、プラハの悲しみにたどり着かないかもしれない。

かつてのハプスブルグ家の君臨とウイーンの繁栄が、中欧の中心となって宗教、文化、経済を形成していった。
そこにソ連の強大化による、近隣諸国の取り込みが行われ東欧という概念が成立する。そして、中欧のイメージは消え去られようとしていた。

ソ連の衛星国と成り下がったそれらの国々は、その後の革命により共産党政権が崩壊し、民主化をたどる。そして再び中欧の繁栄が起きた。

これらの諸国を一括りに語れないのは、民族や言語、文化の違いがあるだけではないだろう。宗教が全てであった時代を経験したこれらの諸国で、ローマカトリックがあり、正教会があるという歴史は、神聖ローマ帝国にまで遡らなければならない。

英雄と崇められていたスターリンの、国内での非スターリン化が、チェコスロバキアのノヴォトニー独裁に影を落とし始め、プラハの春の胎動を起こし始める。

その後就任したドゥブチェクは、党への権限の一元集中の是正や粛清犠牲者の名誉回復、言論 や芸術活動の自由化を謳う。

その一連の改革に終焉を打ったのが、ソ連が陣頭したワルシャワ条約機構軍のプラハ侵攻であった。ソ連が導こうとした共産主義への正常化政策という大義名分が、プラハ市民を怒りと悲しみに包む。

クーデルカの写真では、侵攻する軍に対し市民が立ち上がり、命を顧みず食い止めようとする姿が刻印されている。

市民の命の安全を考え、侵攻する軍隊に抵抗することを禁止した政府の命を受け、何も持たずに戦車の上に上がり抗議する青年。

戦車に安全に身を守られながら武器を持った多くの兵士に対峙する、何も持たないプラハ市民たち。
彼らは大勢で、戦車を取り囲んでいた。

私はこの衝撃を見て、自分がこの場にいたらこのような勇気ある行動を取れるのだろうか、自問せざる終えなかった。

国を愛する力が、このように市民を突き上げたのだろうか。

街を愛する力が、戦車を食い止めようとさせるのだろうか。

中欧という歴史を背負ったDNAがあるからだ、と言ってしまえばそれまでであるが、確実に私たち日本人とは相違がある。

その相違とは、やはりどれだけ自分の国を愛することができるのか、という深度に他ならないだろう。

今の私たち日本人は、自分の国を愛そうと思っていても素直に愛することが出来ないのではないだろうか。

政治の混乱、原発崩壊で初めて分かった偽装蔓延。

この時代のプラハ市民に学ぶことは、とても大きいと私は考えてしまうのだ。