2013年8月27日火曜日

はなきちがひの大工

藝術の美は所詮、市民への奉仕の美である。
花きちがひの大工がゐる。邪魔だ。

これは、太宰治の第一創作集である『晩年』の中の、『葉』の一節である。

デコラティブな装飾を造る独りよがりの大工に、藝術とは市民が楽しめる、もっと控えめな美なんだよ、と太宰治が諭していることを、この一節だけを括れば読み取ることができるかもしれない。

しかし『葉』の美しく儚い文体の中で、この挿入された二行は前後の文脈に関連を持っていない。

私と婆様のことを語りながら、幽霊を見た、夢ではないと言って、太宰治はこの二行を挿入する。

直後では、まち子が「あの花の名前を知っている?」と言い、僕は「こんな樹の名を知っている?」と語る。

『葉』の中には、まるでアフォリズムのような挿入句がいくつも散りばめられ、不思議な感覚を持って進んでいくのだ。

『葉』の冒頭では、ヴェルレエヌの句

撰ばれてあることの
恍惚と不安と
二つわれにあり

が挿入され、物語が始まる。

昭和五十一年十版発行の河出書房新社から出ている『文芸読本 太宰 治』は、旧仮名遣いで太宰治の断片を追うことが出来る味わい深いテクストである。

現在、書店で入手できる新潮文庫の『晩年』は現代仮名遣いになっているので、
私は古書店で旧仮名遣いの『晩年』があるかどうかを聞いてみた。

店主はしばらく考えて、奥の倉庫から、年月を経て装丁が綺麗に焼けた一冊を取り出してきてくれる。
その一冊は、私にとって大変珍しい書物だった。

それは、昭和十六年に発行されたオリジナルの砂子屋書房版を完全復刻した、財団法人 日本近代文学館から刊行された『晩年』である。

中を開くと数ページずつくっついていて、ページごとに切り取られていなかった。
製本が乱れていると思い店主に見せると、昔の本はそのように製本されていて、読む前に自分でページを切り開くことを教えてもらう。

読書をする行為が、こんなにも美しい時代があったことを私は知らなかった。

このブログの冒頭で引用した、花きちがひの大工の句は、私の心を奮わせた。
太宰の言う、花きちがひの大工を戒めるのではなく、花きちがひの大工が建築家の私に他ならない。

これから生み出す私の全ての作品は、花きちがひの大工がつくったものでなければならないと、『葉』を読んで私はあらためて強く思った。

河出書房新社の『文芸読本 太宰 治』には、江藤淳、坂口安吾、瀬戸内晴美、埴谷雄高、大江健三郎、もちろん井伏鱒二に至る文壇が、太宰治を綴っている。

その中に、『「走れメロス」と熱海事件』と謳い、壇一雄が一文を寄稿している。
その冒頭を引用したい。

あらゆる芸術作品が成立する根本の事情は、その作家の内奥にかくれている動かしがたい長年月の忍苦に近い肉感があって、それが激発し流露してゆくものに相違なく、それらの作品成立の動機や原因を、卑近な出来事に結えつけてみるのは決していいことではない。

「あらゆる芸術作品」であるから、文学だけではなく、建築も括られると私は思う。

長年月の忍苦に近い肉感、この表現をなぞるだけで、太宰治が生きてきた瞬間を頭の中に浮かび上がらせることができる。

私は太宰治の死を想いながら書かれた壇一雄のこの一文を読み、あるエッセイが頭の中を過った。
しばしば私が引用する、ランボウに向けたジャン・コクトーの一文である。

しかも太宰治の『葉』に引用されたベルレーヌは、一時期ランボオを恋人にしていたではないか。

アルチュール・ランボーのように閉ざされた作品が、シャルル・ボードレールのようになかば開かれた作品やヴィクトル・ユゴーのように広く開かれた作品と同じ資格でこの国に君臨していることは、わが国の一つの名誉である。

中条忍訳の、この名文で始まるジャン・コクトーの『ランボーの爆薬』と題されたエッセイが、いつも私の頭の中で渦巻いている。

ランボーぐらい大きな名声がでると、かならず行き違いが生ずる、行き違いは芸術のあらゆる大冒険につきまとう。お供の犠牲になった多くの人たちはやっきになってある種の傲慢を何時までも持ち続けようとする。この通りすがりの男が重要であったのは、構文の新しい使い方をしたためだということを彼らは考えもしない。

このように、ジャン・コクトーの文は続く。

これ以上、太宰治とアルチュール・ランボオを重ね合わせることには意味がないが、若くして死んでいった芸術家を回想するそれぞれの文を、相乗させられずにはいられなかった。

太宰治の生み出す芸術作品のような建築を、私はつくりたいと思うのである。

参考文献
『文芸読本 太宰 治』  河出書房新社 昭和五十一年十版
太宰 治著 『晩年』   精選 名著復刻全集 近代文学館  
  財団法人 日本近代文学館 刊行 昭和49
『ユリイカ 総特集 ランボオ4月臨時増刊』青土社 1971年  






2013年4月30日火曜日

地中へと志向する妖しい建築

日経新聞の書評を読み、興味を持った1冊の書籍を、仕事の途中で寄った銀座の書店で買い求めた。

『冥府の建築家』。

ジルベール・クラベルという、僅か44歳で亡くなったせむし男の「狂った物語」を、著者・田中純が膨大な資料を読み込み、書き上げた大作である。

ジルベール・クラベルの「狂った物語」とは、どういうものであるか。

バーゼルの裕福な家で生まれたジルベール・クラベルは、イタリアの南、ナポリからヴェスヴィオ山を更に南下した、地中海とティレニア海を分断するソレント半島の付け根に位置するポジターノの監視塔の廃墟を、1909年2月に買い取った(1)

16世紀にイスラム教徒(特に海賊)の襲撃を見張るためにこの町の岬に建てられた、朽ち果てた監視塔をクラベルは改築する(2)

クラベルは長い交渉を通じて徐々に塔周辺の土地を取得し、海に面した岩壁を爆破させて通路を穿ち、居室を刳り貫いていった。

こうして岩壁には四層におよび108メートルの長さにわたる居室と通路の複合体が築かれてゆくことになる。

各部屋には「セイレーンの部屋」、「ダイアモンドの部屋」などという名が付けられた。

落盤をはじめとする数々の困難に直面しながら、羅針盤や占い棒(ダウンジング・ロッド)を用いて地中の空洞が探られ、あらたな地下通路が掘られるとともに、既存の回廊や部屋が拡張されて相互に連結されていった(3)

建築は通常、大地から空に向かって伸びていく。

クラベルの場合は、地中へと向かう妖しい魅力にとりつかれてしまった。

地中、地中へと、狂ったように掘っていく。

裕福な家に生まれたクラベルは、その資金力に物を言わせてプロジェクトを遂行していった。

自由にできるお金があったとはいえ、病魔に侵されながらも己の将来との葛藤の中で最期までつくり続けようとしたクラベルは、当時のイタリア未来派の芸術家の中でも稀有な存在であっただろう。

その大事業を支えたのが、弟ルネであった。

いつの時代でも、兄を支える弟が存在する。

ゴッホを支えた、弟テオのように。

クラベル本人は、決して芸術家としての矜持を誇っていた訳ではないと私は考える。

ベンヤミンやリルケとポジターノの要塞で邂逅していたといはいえ、ジルベールは自分の城をつくることが最優先で、芸術家としての存在を誇ろうとしてはいない。

しかしその行為、生き様は、芸術家以外の何者でもないはずだ。

私たち現代の建築家は、ジルベール・クラベルのような突き抜けた思想を持って仕事をしているのだろうか。

建築家ではないクラベルが、超えることが困難な大きな思想を100年前のイタリアから私たちに投げかけているではないか。

日々のルーティーンに埋没することは許されない。

この素晴らしいアーカイブを発掘してくれた著者・田中純に感謝し、私たち現代の建築家の目指すベクトルを考え直さないといけない。


(1) 田中 純 著 『冥府の建築家』 p.12
(2) 田中 純 著 『前掲書』 p.12
(3) 田中 純 著 『前掲書』  p.13

参考文献
田中 純 著 『冥府の建築家』 みすず書房 2012年







2013年3月31日日曜日

水曜日に仕込む五本の豚足

我が街、荻窪の名店がまた一つ姿を消す。

カウンターだけのラーメン屋、漢珍亭。

たぶん店主もラーメン屋ではなく、中華料理屋であるという自負があるのだと思う。
火を前にして鍋をあおるその姿は、職人の域を脱している。
以前から、店主が六十五歳になったら引退すると決めていた理由も、理解できてしまう。

私は、ここの餃子が世界で一番旨いと思っている。
多くの人をこの店に連れて行き、餃子を食べてもらった。

餃子の餡も絶品であるが、焼き方が最高だ。
シンプルなラーメン屋の餃子なのだが、こんな柔らかさとジューシーな味には出会ったことがない。 

蒸し加減と、油を少し垂らす絶妙の焼き方にもう出会えないと思うと、この餃子に匹敵する次の店を探すのは困難なことであると感じる。

そして、煮玉子。

今では、どこのラーメン屋にも味付け玉子が置いてある。
荻窪ラーメンは一世を風靡したが、遥か昔にここ漢珍亭からその煮玉子が日本全国に発信された。
だが、姿、形は同じようであっても、やたらとしょっぱい味付け玉子を前にすると、漢珍亭の独特な味付けの一品を思い出さずにはいられない。

私はラーメンそのものは、あまり食さない。
漢珍亭以外の数店に入るだけであるが、玉子をラーメンに乗せることもしない。

荻窪法人会のレクチャーで、料理評論家の山本益博が漢珍亭の閉店をインフォメーションしたというのを知った。

私がそのことを店主に伝えると、店主は山本さんを知らないと言う。
私は、それが素晴らしいと思った。

さすが、漢珍亭は市井のラーメン店である。
メディアの一喜一憂に動かされること無く、六十年以上同じ味を提供してきた。

しかし地元の小さな店を紹介する素晴らしい山本益博の仕事により、最後の味を楽しもうとする客で連日店は満員だ。

私は常連のごとく、餃子のあとにスープ仕立ての絶品の豚足を注文する。

柔らかさが素晴らしいだけでは無く、このようなスタイルの豚足に出会ったことが無かった。
毎週水曜日に、五本だけ豚足を仕込むという。

金曜日に訪れると、もう品切れだった。
一週間に五人前だけの料理に出会うために、木曜日に足を運ばなければならない。

この街中にひっそりと隠れた名店は、四月いっぱいで無くなってしまう。

訪れるべき店ほど無くなってしまう儚さが寂しい。

阿佐ヶ谷には、中杉という串揚げの名店がある。
コストパフォーマンスの良いその店も、四月の中頃で終了するという。

長い間愛され続けてきた店も、店主の高齢化にはどうしようもないのであろう。
閑古鳥が鳴いて店をたたむよりも、連日満員で惜しまれつつ閉店することに、意義を唱える余地はない。

そのようにして消えていく名店が、私たちに語り継がれる伝説となっていくのであろう。 






2013年2月28日木曜日

狂気の建築家・渡邊洋治と銀座のバー

ある日の午後、私は銀座松坂屋の裏通りを歩いていた。

仕事の途中であったから、久しぶりの裏町の散策という気分ではない。
目的地に向う途中の街並みの一角に、私は小さく佇むインフォメーションボードを目にした。

そこには、「当店は2月末日で閉店します」というインフォメーションが掲げられていた。
顔を上げてその店のファサードを目にすると、その閉店するという店はバーTARUではないか。

大正末期に開店し、長い間銀座を生き抜いてきたTARUが閉店するという。

老朽化したビルであるから、再開発に飲み込まれるのはいたしかたないのだろうか。

地下1階のその店に行くのに、私はいつも階段で下りずに、エレベーターを使うことにしていた。
自分で扉を開ける、古き良き時代のもっとも古いタイプのエレベーターが、私を迎えてくれる。

初めて乗った時には、途中で壊れて止まってしまうのではないかとびくびくしたことを、今でも思い出す。

TARUに私を連れて行ってくれたのは、建築家・渡邊洋治のアーカイブを管理している渡邊洋治の甥であった。

日本建築家協会で、私が「日本の前衛を再考する」というレクチャーを1年を通して開催した時に、渡邊洋治を取り上げ私は彼と邂逅する。

彼は私を、平河町の渡邊洋治のアトリエにも招きいれてくれた。
そこでは下から上まで、更に屋上にも、その全てに私は渡邊洋治の魂を感じ取った。

渡邊洋治ほど、「狂った建築家」という称号が相応しい建築家は他にはいないだろう。

建築家・松永安光が、渡邊洋治は事務所で所員を前にして日本刀を振りかざす、と話したことを思い出した。

東大からハーバードへ行き、芦原建築事務所に入所して独立した、建築家としての王道を歩み「建築界の良心」ともいえる松永安光さえも、渡邊洋治という狂った建築家に言及する。

それほどまで、渡邊洋治という異端は今でも輝いているのだろう。

彼が私をTARUに連れて行ってくれたのは、ここが渡邊洋治の縁の場所であったからだ。

渡邊洋治は、自分の師匠・吉阪隆正にここに何度も連れてこられたという。

早稲田の中で主流になれなかった渡邊洋治を、浮かび上がらせようとしていたのが吉阪隆正であった。

しかしクライアントや作品に恵まれず、つくりたくてもつくれなかった渡邊洋治は、生涯独身を貫き酒を自分の人生の欠かせない友としていた。

それ故、61歳の若さで逝ってしまったのだろう。

建築家にとって、「つくれない」ということは、どれほど悲しいことであるか。

そのTARUは、日本のインテリアデザインの礎を築き上げた二人の巨匠が、デザインに参加している。

剣持勇と渡辺力が一緒にデザインした仕事は、TARU以外には現存していないだろう。
そもそも、二人がコラボレートした仕事なんて、他にあるのだろうか。

その空間に、一時吉阪隆正と渡辺洋治がグラスを酌み交わしていた。

2月末日閉店と知って、私は友人とTARUを訪問した。
特に異端ではない、そのレトロな空気は、私たちを時間が止まった空間へと導いてくれた。

嬉しいことに、閉店が1ヶ月延長されるという。

あと何回か、あの蛇腹扉を自分で開けるエレベーターに乗ることが出来る。





2013年1月31日木曜日

日本経済上昇の予感

今年の正月は、映画『シェフ』を見に行った。

そういえば、去年の正月に見に行った映画は『エルブリの秘密 世界一予約の取れないレストラン』だった。

偶然にも2年連続で、正月にレストランや食がテーマの映画を見に行ったことになる。

レストランや食がテーマとなった映画は多いが、この2作品は共に高級レストランを題材とした、珍しい映画である。
しかも、ジャン・レノ演じるシェフは、エルブリのフェラン・アドリアが一世を風靡した、食材を泡状にするエスプーマや最先端の分子料理に見向きもしない。

映画では、痛烈な風刺、アイロニーとなって、化学の実験室のような分子料理のプレゼンテーションとしてそれらが現れる。

まるで1年前に公開された、『エルブリの秘密 世界一予約の取れないレストラン』に対抗するかのような映画だ。

映画監督やスタッフたちは、三ツ星レストラン「アルページュ」のアラン・パッサールやアラン・デュカス、ピエール・ガニェールといったスターシェフの厨房に足を踏み入れて、取材をしたらしい。

監督はアラン・デュカスの厨房で、グリーンピースのコンソメスープを運良く試食できたという。
その幼少時の記憶を喚起する美味が、人々を感動させる料理の人間味を描く映画となった。

『シェフ』は、銀座テアトルシネマで鑑賞した。
銀座テアトルシネマが入っているビルは、ホテル西洋銀座の建築である。
素晴らしい日本のホテル文化を創り出していた、あの、ホテル西洋銀座だ。

銀座の片隅に佇み、隠れ家に入るようにフロントに上がる、独特な趣が忘れられない。
本物の高級感を、あのように演出したホテルは、日本ではこれからは出現しないだろう。

ホテル西洋銀座は、そのテイストとは正反対のビジネスホテルとして、別資本で生まれ変わるという。

設計者である菊竹清訓も、亡くなってしまっている。

黒川紀章とともにメタボリズムを牽引した、建築家・菊竹清訓の作品の中では重要度が低い作品かもしれないが、私は好きな建築である。
建築の外観は残るかもしれないが、中身が全く変わってしまうことは大きな残念だ。

銀座という一流の立地に対し、本物の高級感を文化として創出し、日本に根付かせようとしたのがホテル西洋銀座だったと私は考える。

彫刻家・脇田愛二郎の、錆びた鉄板を使ったレリーフが客室に飾られてあったように。

だからこそ、吉兆が出店しているのだろう。


この挑戦は、商業という名を借りた文化創出であった、と言うのは言いすぎであろうか。
いや、私を含めて、その幻影を今でも追い求めている人間は、確かに少なからず存在する。

バブル崩壊以降の失われた20年を経て、デフレスパイラルに陥ってしまった日本に文化を語る資格はないのだろうか。
アートを鑑賞しに美術館に足を運ぶよりも、目の前の100円ハンバーガーに手を伸ばしてしまう。

そのような、暗い沈滞した世相が、いよいよ方向転換をしそうな予感がする。
予感、というよりは、確実に世の中は上昇ムードに染まりつつあるのだ。

政権が変わり、経済上昇を演出しているのだろうか。
仮に演出であり、その後の落ち込みが予想されたとしても、この気分により明るい日本に少しでも長く導けるのならば、私は良いことであると考える。

その杞憂を払拭するくらいの、メセナに終わらない本物の文化創出を生み出したいと考えているのは、私だけではなく全てのアーティストの想いである。

再び、ホテル西洋銀座のような、洗練されたバトラーサービスを受けたいと思っているのも私だけではないだろう。

参考文献
『シェフ』パンフレット 発行 東京テアトル株式会社





2012年12月15日土曜日

真冬のサマータイム・ブルース

3.11福島原発以降の、初めての総選挙が明日行われる。
この選挙の大きな争点の一つに、脱原発があることは間違いがないだろう。

3.11以降から現在までにトーンダウンしてしまっている政党・政治家に投票する人も、原発の扱いは気になるはずだ。

私の選挙区は長年に渡り、自民党選出議員の牙城である。
民主党の嵐が吹き荒れた時でも、全くその強さは揺るぐことがなかった。

そこに、脱原発を訴える独りの俳優が立候補をする。

3.11以降、脱原発を訴えていた俳優にすぎない、と私は思っていたが、敢えて磐石の組織・地盤を持っている自民党議員の選挙区に挑戦をする、という構図に私は驚いた。

中選挙区の時代に、その自民党候補以外の枠を争い当選していた議員は小選挙区1人区になり勝てず、何度も国政を目指していたが、しかたなく杉並区長になった。

その彼も、今回の選挙では別の選挙区・別の政党で立候補し、国政を目指す。

そのような、誰もが自民党候補者しかいないと思っている区民の中に、その俳優は飛び込んできたのだ。

地盤が無く、政党もない彼は、少しでも勝てそうな地区で立候補をすればよいのにと、誰もが思うだろう。

その彼の演説を聞いていると、あるアーティストの歌が頭を過った。
RCサクセション・忌野清志郎の「サマータイムブルース」。

1988年に発表されたこの楽曲を、現在の目で見る。
その歌詞は、2011年3月11日以降をまるで予言しているかのようだ。

(前略)
熱い炎が先っちょまで出てる

東海地震もそこまで来てる

だけどもまだまだ増えていく

原子力発電所が建っていく

さっぱり分かんねぇ 誰のため?

狭い日本のサマータイム・ブルース


寒い冬がそこまで来てる

あんたもこのごろ抜け毛が多い

それでもTVは言っている

「日本の原発は安全です」

さっぱり分かんねぇ 根拠がねぇ

これが最後のサマータイム・ブルース


あくせく稼いで税金とられ

たまのバカンス田舎へ行けば

37個も建っている

原子力発電所がまだ増える

知らねぇうちに 漏れていた

あきれたもんだなサマータイム・ブルース


電力は余ってる 要らねぇ

もう要らねえ

電力は余ってる 要らねぇ

欲しくない
(後略)


まるで現在のことを見ているかのような、忌野清志郎のシャウトだ。

この作品が発表された1988年は、私は20代最後の年を生きていた。
29歳という大人が、あの時恥ずかしいまでも原発に無関心だったのを、あらためて思い知る。

この楽曲には、都立日野高校で忌野清志郎と同級生だった俳優の三浦友和もバックボーカリストとして参加している。
泉谷しげるの叫び声も聞こえる。
三浦友和は、挿入されたナレーションを担当していた。

参加した三浦友和によると、反原発の歌が収録されているという理由で、このアルバム『COVERS』は所属のレコード会社からは発売されず、他社から出したという。

今日を生きている我々は、その圧力がどこからかかったのかは明白に理解できるだろう。

誰かが永遠に原発の危険性を訴え続けていかないと、我々はいつもの日常に戻っていってしまう。

先日渋谷で、現職総理大臣の応援演説に遭遇した。
人は集まってきたが、盛り上がることはなかった。

その総理大臣が、我が街荻窪で応援演説をする場面に、今日遭遇した。
私が知る限り、現職の総理大臣が荻窪の駅前に立ったことはない。

彼らも必死なのだろう。

昨日の夜、荻窪駅の横の小さなポケットパークで、その俳優が演説をしていた。
聴衆は溢れんばかりで、拍手が大きく熱気に包まれていた。

総理大臣が応援に来るわけでもない、その独りの候補者は、どこまで奮闘をするのだろうか。

「サマータイム・ブルース」が収録されている『COVERS』には、多くのゲストミュージシャンが参加している。

クレジットは全てローマ字なので特定は難しいが、「サン・トワ・マミー」では、ピアノがYosuke Yamashita とクレジットされている。

あの山下洋輔かな、と思って想像してしまう。

同じ楽曲のバックボーカルに、Isuke kuwatake  というクレジットがあった。
イスケ・クワタケ氏である。
私はこれを、ケイスケ・クワタと読み、桑田佳祐のことだと勝手に思うことにした。

今、忌野清志郎が生きていたら、この日本をどのように憂うだろうか。 

参考文献
『COVERS』RCサクセション 1988年 キティレコード
「忌野清志郎のロック魂を語ろう」 三浦友和×仲井戸麗市 対談 『週刊現代』2012年12月1日号 講談社

2012年11月26日月曜日

フロイトの料理読本

だいぶ前に古書店で手に入れた、『フロイトの料理読本』という著作が私の本棚にある。

このフロイトとは、精神分析の権威である、あのフロイトのことだ。

精神医学、心理学の領域の人間が料理読本を著す、という物珍しさも手伝って、この本を見せると誰もが興味深く手に取り、貸して欲しいと言われる。

そのような訳で、店のお客さん何人にもこの本を貸し出してあげた、人気の一冊である。

正確に言えば、フロイト自身がこの『フロイト料理読本』を著したわけではない。

巻頭の謝辞によれば、「ジムクント・フロイト記録保管所」に埋もれていた、フロイトの原稿を発掘した二人の編者が編集した著作である。

編者の覚書によれば、フロイトが晩年に英語で書いた料理読本もあるということだ。

フロイトが著した著作ではないが、原稿はフロイト自身のものであり、フロイトの人間関係から導かれた料理がレシピやエッセイ、文章とともに満載されている。

アイロニーが込められた、フロイト特有の文章に誰もが引き込まれてしまうだろう。

料理名だけを見ても、その内容を覗きたくなってしまう。

いくつか例を挙げよう。

失語症ソースをかけた牡牛のタン・ブレーズ
性感帯ホットケーキ
言葉のサラダ
フェットチーネ・リビドー
昇華サンドウィッチ
自己愛ソース
超自我エッグノッグ
妄想のパイ

「言葉のサラダ」などは、そのままお洒落なカフェメニューにクレジットされても良いくらいのネーミングであると思う。

これらのネーミングであっても、料理はしごく真っ当なレシピだ。

例えば、「仔牛肉神経衰弱」という料理のレシピを見てみよう。

良質の仔牛の尻肉を3、4ポンドを取り出し、紐でしっかり縛る。
ローストする前に、そのまま2~3時間おいておく。
小麦粉を大匙2杯、チリ・パウダーを茶匙1杯、パプリカ大匙1杯、塩とこしょうを混ぜたものをローストにまぶす。
溶かしたバターをときどき塗りながら、約180度のオーブンで半時間かけてローストにする。
その間に、茶色がかったストックにカップ1/2のコニャックを加えて、とろ火で1/3くらいに煮詰める。
さらに半時間ローストし続けるが、そのときには、ストックとコニャックを混ぜたものを塗りつける。炒めたタマネギやその他の心温まる野菜を加えてもよいが、皿を飾ることまで考えなくてよい。
問題なのは肉であり、柔らかくなくても一度だけは許される。

以上が「仔牛肉神経衰弱」という料理のレシピ全文である。

どこが神経衰弱なのかはこのレシピでは読みとれないが、最後の、柔らかくなくても一度だけは許される、という一文が引き締めている。

私たちがビストロで食べるメインディッシュの付け合せの、例えばニンジンのブレゼなどにも、「心温まる野菜」というネーミングを付けたらどうだろうか。

「仔牛肉のロースト 心温まる野菜添え」というように。

建築と料理は似たようなものである、というのが私の持論である。
素材を選び、切り方を変え、料理方法を選ぶ。
まるで、一つの建築をデザインするように、野菜や魚、肉を眺めながらイメージする。

とは言っても、素材を炒めて塩味を付けたパスタ程度しかいつもは作らないが。

フロイトの「仔牛肉神経衰弱」の、レシピの前に書かれている文章の中へ入っていこう。

フロイトは、神経衰弱の患者の身体は湿っていて締まりがなく青白いが、事実、これは良質の仔牛の肉の白みがかかったピンク色と非常に似ている、と記述している。

神経衰弱は意志の問題であるとし、研究者が「ヴィール(仔牛)」と発音していた「意志(ウイル)」の問題である、とフロイトは言う。

そこでこのメニューは、「仔牛肉(意志)神経衰弱」と、正確には本書にこのように記述されたのだ。

なるほど、と思わずにはいられない。

神経衰弱の多くの患者は従順で、治療には協力的である、とフロイトは言う。
ただ、症状の改善は遅い。
身体があまりにも弱いから、という理由だ。

したがって、神経衰弱の仔牛料理は、そのような「粗食」に対する失敗のない私の治療法になる、とフロイトは続ける。

最後に、こう記述してあった。

焼きすぎないように注意しなければならない。
少しはタフであってもいいだろう。
事実タフであるほどよい。

参考文献
J・ヒルマン+C・ボーア著 木村 定+池村義明 訳『フロイトの料理読本』 青土社1991年