朝早く、街路樹が植栽されている歩道を歩く機会があった。幹が太く、10メートル以上もある立派な樹木が何百メートルも続いている。
落ち葉の季節だった。落葉樹からは葉がいっせいに落ち、歩道に落ち葉の絨毯をつくっていた。
その幅広い歩道いっぱいに、落ち葉が敷きつめられている。
都心から少し離れた場所とはいえ、都会的な風景の中に、こんなに美しい自然がつくる光景に出会ったのは久しぶりだった。
歩道の上に、こんなに厚く落ち葉が「積もっている」状態の上を歩くのは、初めてである。心地良いクッションのように、少し踵が沈む。踏み出した足を落ち葉に沈めるときに、「カサッ」という乾いた音がして新鮮だった。
子供の頃に霜柱を踏んで遊んだ、あの懐かしい、足の感触と聴こえてくる音の調和が蘇ってきた。革靴で歩いていると、少し滑りそうになる。それもまた、楽しい感触だった。
ほどなく歩いていくと中学校があり、そこの生徒が大勢で歩道の落ち葉を掃除していた。まだ授業前の朝のひと時である。何日か続けてその歩道を歩いたが、毎朝生徒が掃除を欠かさないでくれていた。もちろん、先生らしき姿の人も一緒に。
私はその歩道を歩くたびに、気持ちの良い朝を迎えることができた。私だけではないだろう。その歩道を歩く全ての人が、幸せな気持ちになったはずだ。落ち葉のおかげと、その中学校の関係者のおかげで。
「だから、落葉樹はやめましょう。」という声が聞こえてきそうだ。「掃除がたいへんですから。」いつもの聞き飽きた言葉が、後に続く。
クライアントがデベロッパーだと、住宅を設計するときに、よく出会う言葉がある。私は酒が好きだから、庭に桜を植えて家でゆっくりと酒を飲みながら花見ができるようにしましょう、とクライアントに提案をする。すると、いつもの聞き飽きた言葉が返ってくる。「桜は虫が付いて、手入れがたいへんですから。」
プラトンの初期対話編『プロタゴラス』に登場する長老プロタゴラスは、「人間は万物の尺度である」と説いた。これは、「プロタゴラスの相対主義」として有名な言葉である。
善悪を考えるときに、ある人が良いと思うことが、別の人にとっては良いと思わないこともある、それが相対主義の原点だ。
悪の絶対的な基準もない、とする。絶対主義の悪の概念ではなく、相対主義で悪を追求していくと、では一体「悪い」とはどういうことなのだろうか、という思考に入っていってしまう。ソクラテスのプロタゴラスへの提起は、その思考を切り取っている。
私が、落ち葉を踏みながら歩くことを楽しんでいるときに、落ち葉は掃除する手間がたいへんだから、落葉樹なんか植えない方がいいと思う人がいる。
桜を愛でながら酒を飲みたい、と私が思うときに、桜の手間がたいへんだと思う人がいる。
そういうときに、私は相対主義を超越して、美を尺度の拠り所にしようと考える。美や感覚を大事にしたい。
「人間は万物の尺度である」という「人間」を、「美」に変えてしまうのだ。それで全て上手く収まるはずはないし、クライアントにプロタゴラスの話をするわけではない。
しかし桜が散る美しい季節に、ひらひらと舞い落ちてきた桜の花びらが一枚、盃の酒の上に浮かぶ姿を美しいと思わない人はいないだろう。
この寒さが通り越していったら、美しい桜が舞う季節が今年もやってくる。愛する人と、盃を持って出かけようではないか。
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