ドリップで珈琲を抽出するひとときは、まるで哲学を思考しているかのようである。
挽いた珈琲豆をペーパーフィルターに入れ、お湯を落とす。
ただそれだけの行為なのだけれど、私にはそれが神聖な儀式のように思えてしまう。
『時間と自由』を語り、空間と時間の概念を哲学したベルクソン。
ベルクソンが「時間」と挌闘したように、珈琲を抽出する「無駄な時間」を昇華させようと、私も「時間」と挌闘する。
珈琲を抽出する行為は珈琲の力学との闘いである、と考えている。
フィルターに挽いた豆を移し、一点のポイントを目指して、可能な限り細く静かにお湯を注ぐ。
お湯は重力に引っ張られて、フィルターに入れた豆の間を通り抜けて行こうとする。
豆の間にお湯が滞在している時間が長いほど、珈琲のコクが増すと思うのだが、物理の法則に負けて無情にもお湯は下へ落ちていってしまう。
では、と思い、私は考える。
細長い、高さを持った特殊なフィルターと容器を作り、珈琲を抽出したらどうだろうか。
お湯が重力の法則に逆らわなくても、時間と距離の関係で珈琲の中の滞在時間が長くなる、特殊な珈琲抽出装置。
先が尖った円錐形のフィルターは、細く、長く、美しいフォルムをしているだろう。
容器に突き刺さったフィルターのコンポジションをイメージすると、アートに他ならないデザインが浮かんでくる。
街の中でコクのない珈琲を飲まされてしまうと、パリの珈琲を想い出してしまう。
パリの珈琲は、何故あれほど美味しいのだろうか。
東京の一流のシティホテル、しかも外資系のホテルのコーヒーハウスでさえ、マシーンからボタンひとつで抽出できてしまうコクとは無縁の珈琲をサーブする。
そこには、珈琲に対する哲学は全く存在しない。
日本人とフランス人との珈琲の哲学の相違なのだろうか。
文字通りの、フレンチローストされた豆から抽出された珈琲のコク。
抽出された珈琲の色は、濃い漆黒をしている。
珈琲を抽出してから時間が経ち、酸化して黒味を増した「悲しい黒色」では無い「本当の漆黒」が、そこには存在する。
黒色にも無数の黒色があることを絵画から教えられるように、漆黒にもそれぞれの漆黒があることを、私は珈琲から教えられた。
ある建築家の自邸で、ベトナムの珈琲をサーブされたことがある。
それはコクとともに、独特の美しい香りを持っていた。
まるで、ハーブ系のフレグランスの香りを嗅いでいるかのような、恍惚とした美しい香り。
珈琲で、こんな香りが嗅げるのだろうかという驚愕。
所謂、一般的なベトナム珈琲の抽出の仕方ではなく、普通にドリップした珈琲をサーブされたから、更に美しい香りが際立ったのだろう。
私はそういう飲み方も好きだ。
友人の彫刻家は、イタリアンローストした豆をエスプレッソで抽出しないで、ドリップをして愉しんでいた。
それも旨かった。
今でも漆黒のイタリアンローストをドリップして飲むと、自殺した友人の彫刻家を想い出す。
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