2011年10月31日月曜日

経験の差が、感動の差を生むということ。

ある人が何気なく、「経験の差が、感動の差を生む。」と呟いた。
バーの、カウンターでの話である。

会話の中での1フレーズは、そのパラグラフの中に埋もれていってしまうことが多い。
しかし私は、その何気ない「経験の差が、感動の差を生む」という言葉に、大きく反応してしまった。

その理由は、ピカソと岡本太郎であった。

岡本太郎がピカソの絵画を鑑賞して、感動のあまりに涙を流したらしい。
その話を大学4年生の時、卒業設計のゼミの先生から聞いた覚えがあった。

絵を見て、涙を流す。
そんなことが、あるのだろうか。

岡本太郎一流の、周りをインスパイアする語りなのではないだろうか、そう思っていた。

私は、非常に感動しやすいタイプである。
映画を鑑賞したり、小説を読んだりして、幾度と無く感動して涙を目に滲ませる。

それは表現者の一人として喜ばしいことであると、自分自身考えていることだ。
日常の中、人前で涙を流してしまうこと、それは恥ずべきことではないと考えている。

感受性が強いこと、それが自分の作品に還ってくると思っている。
だから、可能な限りに感動して涙を流し続けていたい。

そんな私でも、絵画を鑑賞して涙を流したことはなかった。

ピカソはもっとも好きな画家の一人である。
しかしピカソを鑑賞しても、一度も涙を流したことがなかった。

経験が少なかったのだろう。
ピカソをどれだけ思い入れて鑑賞してきた、という経験。
表現者としての経験も、未熟だった。

初めてパリのピカソ美術館を訪れ、本物の空気に触れたときにも、涙は滲まなかった。
感動をし、インスパイアされ、ピカソと同化したと思ったのに。

私はその後、建築家として経験を積んでいく。

様々な絵画を鑑賞し、そして鑑賞するだけではなく、画家の生き様に触れるように、作品を自分の心に取り込もうとした。


スティーブ・ジョブズが亡くなって、週刊誌に彼の伝説の名演説が全文掲載される。
電車に乗る時間潰しのために、何気なく買った週刊誌のページの中に、私はそれを見つけた。

そのスタンフォード大学の卒業式の演説を読むと、どうしても涙が滲んできてしまう。
読むたびに、読むたびに、感動を誘い涙が流れてきてしまうのだ。

私はアップル信奉者ではないし、アップル製品は1つも持っていない。
しかしこの演説は絶妙で、彼の生き様からはなむけの言葉まで、完璧に美しく纏まっていた。

ジョブズの演説に同調できるのは、人生の経験値が深くなったからなのだろうか。

波乱万丈の人生を自分が生きているから、心の琴線に触れてしまうのだろうか。

パリのピカソ美術館の数十年後、私はバルセロナのピカソ美術館を訪れた。
そのとき、私はピカソの作品に触れ、涙が自然に滲んでくるのを確かに感じたのだ。

幼少期の作品、青の時代、そして最上階に展示してある死ぬ間際のエスキースまでを、涙を滲ませながらピカソを旅するように鑑賞した。

この時私は初めて、岡本太郎がピカソの絵を見て涙を流したことを理解することができたのだった。

2011年9月25日日曜日

珈琲の力学  パリの珈琲は何故おいしいのだろうか

ドリップで珈琲を抽出するひとときは、まるで哲学を思考しているかのようである。

挽いた珈琲豆をペーパーフィルターに入れ、お湯を落とす。
ただそれだけの行為なのだけれど、私にはそれが神聖な儀式のように思えてしまう。

『時間と自由』を語り、空間と時間の概念を哲学したベルクソン。

ベルクソンが「時間」と挌闘したように、珈琲を抽出する「無駄な時間」を昇華させようと、私も「時間」と挌闘する。

珈琲を抽出する行為は珈琲の力学との闘いである、と考えている。
フィルターに挽いた豆を移し、一点のポイントを目指して、可能な限り細く静かにお湯を注ぐ。

お湯は重力に引っ張られて、フィルターに入れた豆の間を通り抜けて行こうとする。

豆の間にお湯が滞在している時間が長いほど、珈琲のコクが増すと思うのだが、物理の法則に負けて無情にもお湯は下へ落ちていってしまう。

では、と思い、私は考える。

細長い、高さを持った特殊なフィルターと容器を作り、珈琲を抽出したらどうだろうか。

お湯が重力の法則に逆らわなくても、時間と距離の関係で珈琲の中の滞在時間が長くなる、特殊な珈琲抽出装置。

先が尖った円錐形のフィルターは、細く、長く、美しいフォルムをしているだろう。
容器に突き刺さったフィルターのコンポジションをイメージすると、アートに他ならないデザインが浮かんでくる。

街の中でコクのない珈琲を飲まされてしまうと、パリの珈琲を想い出してしまう。

パリの珈琲は、何故あれほど美味しいのだろうか。

東京の一流のシティホテル、しかも外資系のホテルのコーヒーハウスでさえ、マシーンからボタンひとつで抽出できてしまうコクとは無縁の珈琲をサーブする。

そこには、珈琲に対する哲学は全く存在しない。
日本人とフランス人との珈琲の哲学の相違なのだろうか。

文字通りの、フレンチローストされた豆から抽出された珈琲のコク。
抽出された珈琲の色は、濃い漆黒をしている。

珈琲を抽出してから時間が経ち、酸化して黒味を増した「悲しい黒色」では無い「本当の漆黒」が、そこには存在する。

黒色にも無数の黒色があることを絵画から教えられるように、漆黒にもそれぞれの漆黒があることを、私は珈琲から教えられた。

ある建築家の自邸で、ベトナムの珈琲をサーブされたことがある。
それはコクとともに、独特の美しい香りを持っていた。

まるで、ハーブ系のフレグランスの香りを嗅いでいるかのような、恍惚とした美しい香り。

珈琲で、こんな香りが嗅げるのだろうかという驚愕。

所謂、一般的なベトナム珈琲の抽出の仕方ではなく、普通にドリップした珈琲をサーブされたから、更に美しい香りが際立ったのだろう。

私はそういう飲み方も好きだ。

友人の彫刻家は、イタリアンローストした豆をエスプレッソで抽出しないで、ドリップをして愉しんでいた。

それも旨かった。

今でも漆黒のイタリアンローストをドリップして飲むと、自殺した友人の彫刻家を想い出す。

2011年7月27日水曜日

もう一つのプラハ

私たち建築家にとって、プラハは魅力的な都市である。
全ての時代の歴史的な様式を持った建築物が、美しい姿を私たちの眼前に広げている。

ロマネスクの大聖堂、ゴシックの尖塔、ルネッサンスの宮殿、バロックの教会、アールヌーボーの駅。

世界遺産のこの街の、歴史的な美しい建築物の数々が、よくぞ現代にまで残ってくれていたことに感謝したい。

古都の中にも、異質な現代建築の衝撃を主張している作品がある。
フランク・ゲーリーがチェコ人建築家と協働した、ヴルタヴァ川沿いの「ダンシングビル」。

うねったガラスの造形がゲーリーらしさを出していて、彼の代表作の1つに数え上げられている。

それらの建築を訪ね、ミュシャのポスターに描かれているアールヌーボーの女性に乾杯をしながら、中欧の闇を持った歴史に足を踏み入れたいと、いつも想っていた。

ウイーンから足を延ばせばそれほどの距離を有しないこの魅力的な都市に、ウイーンに滞在するたびに想いを馳せていた。
しかしいまだに、「プラハの悲しみ」を共有することができないでいる。

東京都写真美術館に、「ジョセフ・クーデルカ プラハ 1968」を観に行った。

全篇モノクロで構成されたこの写真展は、プラハの春が終焉し、ワルシャワ条約機構軍がプラハへ侵攻した、「チェコ事件」を記録したドキュメンタリーである。

中欧の複雑に入り組んだ背景を歴史に遡り理解しないことには、プラハの悲しみにたどり着かないかもしれない。

かつてのハプスブルグ家の君臨とウイーンの繁栄が、中欧の中心となって宗教、文化、経済を形成していった。
そこにソ連の強大化による、近隣諸国の取り込みが行われ東欧という概念が成立する。そして、中欧のイメージは消え去られようとしていた。

ソ連の衛星国と成り下がったそれらの国々は、その後の革命により共産党政権が崩壊し、民主化をたどる。そして再び中欧の繁栄が起きた。

これらの諸国を一括りに語れないのは、民族や言語、文化の違いがあるだけではないだろう。宗教が全てであった時代を経験したこれらの諸国で、ローマカトリックがあり、正教会があるという歴史は、神聖ローマ帝国にまで遡らなければならない。

英雄と崇められていたスターリンの、国内での非スターリン化が、チェコスロバキアのノヴォトニー独裁に影を落とし始め、プラハの春の胎動を起こし始める。

その後就任したドゥブチェクは、党への権限の一元集中の是正や粛清犠牲者の名誉回復、言論 や芸術活動の自由化を謳う。

その一連の改革に終焉を打ったのが、ソ連が陣頭したワルシャワ条約機構軍のプラハ侵攻であった。ソ連が導こうとした共産主義への正常化政策という大義名分が、プラハ市民を怒りと悲しみに包む。

クーデルカの写真では、侵攻する軍に対し市民が立ち上がり、命を顧みず食い止めようとする姿が刻印されている。

市民の命の安全を考え、侵攻する軍隊に抵抗することを禁止した政府の命を受け、何も持たずに戦車の上に上がり抗議する青年。

戦車に安全に身を守られながら武器を持った多くの兵士に対峙する、何も持たないプラハ市民たち。
彼らは大勢で、戦車を取り囲んでいた。

私はこの衝撃を見て、自分がこの場にいたらこのような勇気ある行動を取れるのだろうか、自問せざる終えなかった。

国を愛する力が、このように市民を突き上げたのだろうか。

街を愛する力が、戦車を食い止めようとさせるのだろうか。

中欧という歴史を背負ったDNAがあるからだ、と言ってしまえばそれまでであるが、確実に私たち日本人とは相違がある。

その相違とは、やはりどれだけ自分の国を愛することができるのか、という深度に他ならないだろう。

今の私たち日本人は、自分の国を愛そうと思っていても素直に愛することが出来ないのではないだろうか。

政治の混乱、原発崩壊で初めて分かった偽装蔓延。

この時代のプラハ市民に学ぶことは、とても大きいと私は考えてしまうのだ。

2011年6月30日木曜日

宰相・大平正芳のウイスキー

東京都世田谷区瀬田。
東急東横線二子玉川駅から北東へ高台を上がると、そこには閑静な、歴史ある高級住宅地が形成されている。

二子玉川は東横線始発の渋谷からディスタンスがあるにもかかわらず、高島屋のスノッブな雰囲気がその高級住宅地のイメージを相乗させている。渋谷寄りにある自由が丘とともに、地域住民だけの街ではなく渋谷から足を延ばすことも面白い。

目指す瀬田1丁目には、高級マンションを横目に急勾配の坂道を登らなければならなかった。高台に出ると、閑静な住宅地に相応しくない幅員の広い道路が静かに佇んでいる。
 住宅地の1区画が大きく確保されている、住環境の良好なその街区の中で、ひときわ威容を誇っている宅地があった。

770坪。その数字は大きな住宅地というイメージではなく、コレクションを満喫できる美術館がすっぽり収まるのほどの大きさである。

その瀬田の高台の770坪は、日本の宰相・大平正芳内閣総理大臣の邸宅跡地であった。
私はその大平正芳邸跡地に、あるプロジェクトを企画しプロデュースを任せられる。今から数年前のことだった。その魅力あるプロジェクトは、基本設計まで完了しその役目をひとまず終える。

私が巻き込んだ世界のスーパーアーキテクトは、日本の磯崎新、アメリカのリチャード・マイヤー、イギリスのリチャード・ロジャース、オーストリアのハンス・ホラインである。建築を知っている人間には、そのビッグネームが一堂に会したプロジェクトがあったと聞くだけで、驚きに包まれるに違いない。

そのプロジェクトのことはいずれ書かなければならないと思っている。ここでは、大平正芳邸の佇まいについて記していきたい。

門を通り抜け、樹木が鬱蒼と茂った石畳の車路を車寄せまで静寂の中を歩く。瀬田は緑多い地域であるが、大平邸は大きく成長した樹木が敷地境界線をガードするかのように茂っていて、周囲の樹木とは別格の佇まいを見せている。

プロジェクトを始動するために大平邸を解体するときには、周辺住民が大平邸に植栽されている樹木を分けて欲しいと嘆願し、そのように事業主が分け与えたほどの立派な銘木が揃っていた。

大平邸は、決して華美に走らず瀟洒な佇まいを見せる平屋建てであった。それは、日本の宰相として頂点を極めた人間をイメージすると、拍子抜けするほどの閑静な趣きを私に見せている。

私は、大平正芳と縁もゆかりもない。建築家の因果により、一時の日本の歴史をつくる場を大平正芳と共有したであろうこの邸宅に対峙することができる幸せを、車寄せの石畳に立ち私は噛み締めていた。

主がいなくなったこの邸宅に、幅広いガラス扉を開けて私は入る。既に解体業者が入り込み、雑然とした内部を目にすると、建築家という現実に引き戻されてしまう。

リビングルームの窓から前面の庭を望むと、まるで軽井沢の別荘のように、ここでも自然が自由に育っている。その荒れた風景は、主がいなくなり手入れを放棄されてしまった、悲しい物語を読むようだ。

私は内部に入り、初めて頂点を極めた者の恐ろしさが分かったような気がした。大平邸は、平屋建てである。770坪を一部家族に分筆したとしても、その規模は計り知れないほどの大きさだった。

何か必要な家屋、書斎があれば、敷地のどこにでも増築できるだろう。私が驚愕したのは、総理大臣の広い邸宅とはいえ平屋建ての住宅に、なんと地下に金庫室が設えてあったのである。

大きな平屋建てに不釣合いな、地下の金庫室。

常人の発想であれば、地下室に物を入れるのであれば、広い敷地の中、地上に倉庫などいくらでも建てられるだろう、と考える。しかし大平正芳は違った。
万が一の震災・火災に備えて、ということもあるだろう。しかし私には、決して表には出せない、日本の舵取りをしてきた証を眠らせていたのだと思えてしまうのだ。
私でなくても、大平正芳が暮らした手の跡を見てしまえば、誰でもそう思ってしまうはずだ。

リビングルームの床に、1本のウイスキーボトルが転がっていた。
コルクがささり、中身も2センチ程度残っている。私は何気なく手に取り、ラベルを読んだ。
そこには、「プレジデンツ チョイス」と書かれている。

メーカーは、サントリー。私には今までに見たことのないラベル、商品名であった。
マスターブレンダーとして、佐治敬三のサインが自筆でクレジットされている。
ボトルには、一般的なサントリーの商品のように流通させるためのバーコードや、企業の住所などは表記されていなかった。

まさに、「プレジデント」の邸宅に転がっていた、「プレジデンツ チョイス」であったので、歴代首相にサントリーが贈っていた特別な秘蔵のウイスキーであると、私は考えた。

特権階級の世界には、庶民には分からない、知らされない世界があるのだという秘め事を前にして、私は大平正芳邸の内部に入り込んだことに興奮を覚えた。

その後、プレジデンツ チョイスとは、サントリーのプレジデントがチョイスしたウイスキーであることが判明する。それであっても、プロパーの商品ラインナップには乗らない、隠れた特別なウイスキーであることには代わりない。

それをたぶんサントリーから贈られ、毎晩瀬田の邸宅で飲んでいたのだろう。この1本のウイスキーから、1つの小説を書くことができるかもしれない。

解体した大平正芳邸からは、大規模な瀬田遺跡が出土した。卑弥呼の時代だそうである。遥か時代を超えたその文脈から、私は悠久の繋がりを想わずにはいられない。

大平邸から持ち帰った「プレジデンツ チョイス」は、欠けたコルクを抜き去り、沈んでいたウイスキーの残りを洗い、私のバーに鎮座させている。

 

2011年5月28日土曜日

人間は、万物の尺度である。 原発の是非をプロタゴラスに問う。

2011年1月31日の私のブログで、プロタゴラスの相対主義について論考した。
「人間は、万物の尺度である。」
これは、例えば善悪を考えるときに、それぞれの人にとってそれぞれの善悪の価値観が存在する、という意味の言葉である。

プラトンの初期対話編『プロタゴラス』では、有力なソフィストである長老プロタゴラスたちを相手に、ソクラテスが議論を仕掛けていく。

「人間は、万物の尺度である。」
これは、ある人にとって「悪い」と感じることが、ほかの全ての人にとっての「悪い」にはならない。
究極に考えればある人にとって「悪い」と感じることが、ある人にとっては「良い」と感じることもあるかもしれないのだ、ということが導かれる。

相対的に善悪を考える、それがプロタゴラスの相対主義である。
100人、人間がいれば、100通りの善の考え方がある、だから、「人間は、万物の尺度である」とする。

1月31日のブログでは、歩道に落ちる落ち葉や、桜を愛でながら酒を飲むことに関して、プロタゴラスの相対主義を引用しながら論考した。
そして、あの3月11日。
大地震が襲った後の、原発の崩壊。

今更ながら、それを容認してきた私たちがいるから、原発を造り続けてきた日本があるのです、と言う人がいるだろう。

私たちひとりひとりがもっと強く原発を反対しなかったから、これだけの原発ができてしまったのです、と言う人も。

私は、そういう人たちに問いたい。
私たちが原発はいらないという強い気持ちを持っていたとしても、それを超える強い力で国家が原発を造ってきたのではないのかと。

歩道に落ちる落ち葉や、桜を愛でながら酒を飲む詩的な風景ではなく、原発の是非をプロタゴラスの相対主義に当てはめて考えるとどうなるだろうか。

私たちが原発は危険だからいらない、と思っていても、あらゆる理由から原発は必要なのです、という人たちがいる。
それを突き詰めて、私たちの側から原発は悪だとすると、その人たちにとっては原発は善であるのだ。

この両極をパースペクティブに見ると、私はニーチェがキリスト教をルサンチマンの宗教であると断罪したことが、一瞬脳裏を過った。

ニーチェはキリスト教を悪の宗教だと言い、一方、キリスト教を善としてすがる人たちがいる。
しかし宗教は意思の問題で、悪と考えれば自ら遠ざかることもできるだろう。
原発はフクシマのように、逃げても逃げても遠ざかることはできない。

原発の問題は、電力の供給の問題である。
電力の供給という大前提に、危険と知りつつ全てを屈して推進していったのか。

プラトンの初期対話編『プロタゴラス』を、あらためて原発を頭に入れながら読み進めていくと、ぞっとしてしまう。
以下引用するので、そのように読み進めてもらいたい。


そもそも「悪いと知りつつ行う」というときの「悪い」とは何を意味するのか。
何かを行って、ある快楽を得る場合、その瞬間に快楽を提供するのみで、後になっても一切苦痛が生じないとしたら、それは別に悪でも何でもなかろう。
美食や暴飲など目先の快楽が後に深刻な病気を引き起こすように、後から結果する大きな苦痛のゆえに悪とされるのだ。
つまり、結果として苦痛に終わり、他の快楽を奪うからこそ、ある行為や快楽が「悪い」と言われるのであって、快楽それ自身は決して悪ではない
(『プロタゴラス』三五二D-E)

紀元前400年の哲学者の言葉に、現代の私たちは考えさせられてしまう。
まるで、今フクシマを前にして原発のレゾンデトールを語っているかのようである。

フクシマの惨状を知った上で尚マスコミの前に出てきて、原発の必要性を語った学者たちの言葉そのものではないか。

しかしここには、哲学者・荻野弘之が言うように、プラトンにせよアリストテレスにせよ「無抑制」という事態を問題にする際に、「意思」に相当する概念を一切用いていないのである。

言い換えれば、前述の『プロタゴラス』の快楽を原発に読み替えて、原発のレゾンデトールを肯定できたとしても、原発を推進しようとする人の意思を読み取ることはできない。

日本の未来を安全に取り戻すために、私たちは今こそ深く思慮しなければならない。

参考文献
荻野弘之著 『哲学の饗宴 ソクラテス・プラトン・アリストテレス』 
日本放送出版協会 2009年

2011年4月21日木曜日

甘美な死骸

 閉会間近の「シュルレアリスム展――パリ、ポンピドゥセンター所蔵作品による――」を見に、新国立美術館に向かった。

前回ポンピドゥセンターに赴いたのはもう3年も前、仕掛かっていたプロジェクトを纏めるために、ウイーンのハンス・ホラインに会いに行った帰りにパリに立ち寄った時であった。
その時に滞在した、日本にはほとんど紹介されていないウイーンの極上なシャトーホテル、パレ・コブルグのことはいずれこのブログに書きたいと思うが、ヴァンドーム広場の横に当時新しくオープンしたパークハイアットが素晴らしいという噂を聞き、リサーチを兼ねて滞在する目的でパリに寄った。

その時のポンピドゥセンターは、この建築の設計者の一人であるリチャード・ロジャースの展覧会が開催されていた。
私が仕掛けた、そのハンス・ホラインが参加したプロジェクトには、リチャード・ロジャース、リチャード・マイヤー、磯崎新という世界のビッグネームの参加が実現し、リチャード・ロジャースの担当者からポンピドゥセンターで展覧会が開催されているというインフォメーションを受けたので、それを見る目的もありパリに立ち寄った。いずれ、このスーパープロジェクトのことも活字にしなければならないと思っている。

ロジャースの展覧会も印象的であったが、ポンピドゥセンターの広場を挟んで向かい側にあるカフェのコーヒーが、とても美味しかったのを覚えている。

パリのコーヒーは、なぜあんなに美味しいのだろうか。

文字通りの、深く焙煎したフレンチローストからドリップされた、漆黒のコーヒー。私がいつも悲しくなるのは、日本で飲む、いや「飲ませられる」、マシーンでボタン操作によって抽出されただけのコクのないコーヒーに遭遇するときである。
東京にある外資系の一流ホテルのコーヒーハウスでさえ、そのコーヒーがサーブされる。これは憂鬱な事態だ。

「シュルレアリスム展」の構成は素晴らしかった。
後にシュルレアリスムの胎動に繋がっていくダダに生き、ダダと絶縁しシュルレアリスムを解放する、アンドレ・ブルトンに導かれての会場散策。それぞれの会場入り口には、アンドレ・ブルトンの散文、論述のプレゼンテーションが掲げられ、それを確認し、展示物を鑑賞する。

私の2回目のブログ『建築日常茶飯事論』でも触れたが、1916年、チューリッヒのキャバレー・ヴォルテールでダダが誕生した。
サルトルの時代のパリのカフェもそうであるが、一介のカフェやバーから魅力的な文化や芸術運動が生まれた「古き良き時代」があった。その時代のカフェやバーは、良質なコミュニティとなり、多くの文化人、芸術家を引き寄せる。
建築家の私が23年間も荻窪の片隅で小さなバーを営んでいるのは、その憧れをいまだに追っているからなのだ。

展示作品に、「甘美な死骸」というタイトルの作品があった。
「甘美な死骸」という不思議な言葉は、アンドレ・ブルトンやマン・レイ、ジョアン・ミロ達が、それぞれの言葉を浮かべて、その脈絡のない言葉を並べて文章をつくる、言葉遊びである。
メンバーの誰かが「甘美」と言い、他の誰かが「死骸」と言って、それを繋げただけの言葉だ。

それがドローイングの作品となると、前後関係を無視して各自が自由なスケッチを描き、それを繋げて一つの作品としてプレゼンテーションする。

たぶん彼らはカフェやバーでワインを飲みながら芸術論を闘わし、ある時興が乗って、このような芸術作品を共同でつくろうという意思が生まれたのであろう。
その作品に対峙した私は、「甘美な死骸」が生まれたシチュエーションをまるで自分がその場にいたように、クリアーに目の前に浮かばせることができた。
そして、それを羨ましく想う。

ダダやシュルレアリスムの時代から現代を考察すれば、私たちの時代は芸術運動不毛の時代である。政治運動や社会論考が、芸術運動と直結していたその時代は、自分たちのイデオロギーを運動として昇華させていくのが自然であった。
しかし私たちの時代では、インターネットで世界と瞬時に個人が繋がり、情報発信がいとも容易く行えてしまう。

この時代に「甘美な死骸」を求めることは、夢物語のことなのだろうか。

参考文献
『現代詩手帖 1994年10月号 特集;いま、アンドレ・ブルトン』 思潮社

2011年3月26日土曜日

ピュシスとノモス

自然に対峙するとき、人間の営みはどれほどの大きさなのだろうか。

3月11日、東日本に激震が走ったとき、私たちは自然の前でまったく力を持たなかった。
人間を幸福にするための最先端の科学・テクノロジー・エネルギーも、自然の脅威の前では役に立たない。それでも私たちは生き抜かなければならないのだ。

「自然は従うことによらなければ征服されない」とは、F・ベーコンのよく知られた言葉である(1)
自然の脅威は、この短いセンテンスに凝縮されている。

宇宙の果てしない営みの長さから考えれば、私たち人間が科学を持ってから僅か400年。
たった400年では、あの自然の前に私たちの力が一瞬にして崩壊してしまうのは、当然の帰結であるというのだろうか。

私たちの科学・テクノロジー・エネルギーは、自然に従わなかったために、惨事を引き起こしてしまったというのだろうか。

「自然」と「科学」を対峙させて思考するとき、そこに生まれるのが「自然哲学」である。
デカルトの時代、17世紀に科学が誕生するまでは、人間の魂と肉体の関係をどのように位置付けて論じるか、それが哲学の一翼であった。魂、神、そして宇宙の神秘を思考すること、それが形而上学となる。

人間と自然のかかわりを論じた哲学者といえば、プラトンであろう。

紀元前5世紀のアテナイにおいて、「ピュシス(自然)」(=自然本性)という概念は、人為的な「法律・習慣(ノモス)」との対立におかれ、「これこれのものは自然本性的にあるのではなく、人為的にあるにすぎぬ」という形で、従来、強固な基盤を持つと思われていた伝統的な価値に不信の念が投げかけられた。

つまり、人の行為の規範に対して、人々が漠然と抱いていた不信の念は、ピュシスとノモス―――自然と人為―――という対立概念によって、一定の形を与えられたわけである(2)

プラトンの対話編の中で、ノモスとピュシスという問題が初めて本格的な形でとりあげられるのは『ゴルギアス』においてである(3)

『ゴルギアス』では、プラトンとソクラテスの自然に対する考え方の相違が鮮明に浮かび上がり、技術論が展開された。
技術は善とされ、「快適に生きること」こそ、よく生きることであり、善と快は同一のものと考えられたのだ(4)

研究者は、プラトンを前期・中期・後期と3つの時代に括る。

中期プラトンから後期プラトンにかけて、プラトンはものの自然本来的な在り方、真実の構造、それぞれの事物にあって、そのものに固有なふるまい方をさせ、固有な相貌をとらせる内在的な原理を、自然の意味として論じている。

アリストテレスも「自らの内にそれ自体として動の原理を有するものの持っている本性(ウーシア)」とそれを規定し、これを「自然(ピュシス)」の第一の本来的な意味である、とした(4)

研究者、武宮諦はこれを纏め、「自然に反して(パラ・ピュシン)何かをなそうとするならば、何もなしとげることができないのみか、事物のもっている折角のすぐれた本性を台なしにしてしまうのである」と論じる(5)

では、やはり私たちは、「自然は従うことによらなければ、征服されない」というベーコンの言葉に還らなければならないのか。

紀元前5世紀のアテナイで、プラトンが「ピュシス」と「ノモス」を論じて以来、私たちは自然の上に文化を築くことなく、自然にただ従うだけの小さな存在でしかなかったのであろうか。

大地が大きく揺れ、多くの人間が死んでいくのを、アリストテレスの言葉を借りれば「ピュシスの本来的な意味である」として、力なく片付けてしまっていいのであろうか。

私たちは宇宙の中に存在する極小のエレメントとして、何かの摂理に作用されているだけなのだろうか。

私はまるで紀元前に生きている哲学者のように、人間の知りえない領域を今こそ知りたいと渇望している。




(1) 武宮 諦 「自然と人為」 『新・岩波講座哲学 5 自然とコスモス』収録 p.42.
(2) 武宮 諦 『前掲書』 p.35. 
(3) 武宮 諦 『前掲書』 p.38.
(4) 武宮 諦 『前掲書』 p.40.
(5) 武宮 諦 『前掲書』 p.36.
(6) 武宮 諦 『前掲書』 p.36.


参考文献
『新・岩波講座哲学 5 自然とコスモス』 岩波書店 1985年