2010年11月10日水曜日

たった4年間の詩人 アルチュール・ランボオの死に様

 今日11月10日は、稀有な詩人アルチュール・ランボオがマルセイユで右足を切断された後に死んでいった日である。野垂れ死にである。1891年11月10日、37歳だった。

1873年7月10日。ランボオは恋人の男色家詩人・ヴェルレーヌに、恋愛沙汰の末に拳銃で右手首を撃たれる。ランボオ、僅か19歳の夏の出来事である。

1874年3月、ランボオ20歳の時に『イリュミナシオン』執筆。それ以降実質的に詩を放棄し、灼熱のアフリカに渡り武器商人となり金銭に翻弄される。

私はランボオを追った無数の文献から1冊を手にする時に、そこにランボーと表記されているより、ランボオと刻まれているほうが好きだ。

ランボオは、僅か4年間の詩人だった。その4年の短い間に、数え切れない幾多の研究者を追従させてしまうほどの、世界を震撼させる狂気の詩を生み出した。「その短い4年の間に」ではなく、「その短い4年の間だけ」と記述するほうが正確かもしれない。

狂気を孕む芸術を生み出すには、どれだけ自分が狂気に近づかなければならないのだろうか。それともランボオやニーチェのように、自分自身が狂気の世界に入ってしまわなければ狂気を生み出すことはできないのだろうか。

ランボオの生き様を見ると、「天才」は自由奔放に生き多くの人間に迷惑をかけても許される人種のような気がする。常に周囲に迷惑をかけながら、放浪への脱出をいつも試みて、母親から逃れようとしていた。いや、母親からの逃避だけではないだろう。

ランボオが生まれ育った北フランスのシャルルビル。パリからシャルルビルへ向かう途中に、ランスがある。シャンパーニュで有名なランスは、寒さゆえに葡萄の熟成が悪く、自家消費用の白ワインも品質が悪かった時代があった。消費されずにいるワインを放っておいたら自然に二次発酵をおこしてしまい、現在のシャンパンの原形が出来たという逸話もあるほど、気候には恵まれていない。

そこから更に北上しなければ、ランボオが生まれ育ち、何度も故郷を捨てようとしたシャルルビルには到達しない。ランボオは母親から逃避しようとし、そして寒々とした故郷を捨て、最後には灼熱のアフリカを目指してしまった。

天才の母親というのは、何て哀れなのだろうか。太宰治がそうであるように、ランボオは放浪し資金が底を突くと、親に金を無心する。母親は諌めながらも、ランボオに融通する。何度も故郷に召還されながらも、その都度母親から逃げようとしたランボオ。

 その母親は、息子が好き勝手生きた代償として腫瘍のために右足を切断するという電報を受け取ったとき、どのような気持ちになっていただろうか。

 私は『ユリイカ』1971年4月臨時増刊号「総特集 ランボオ」を参照しながら、この文を書いている。その巻頭に、ジャン・コクトーの興味深い文章が掲載されていた。

   アルチュール・ランボーのように閉ざされた作品が、シャルル・ボードレール
   のようになかば開かれた作品やヴィクトル・ユゴーのように広く開かれた作品
   と同じ資格でこの国に君臨していることは、わが国の一つの名誉である。



 ランボオはボードレールを貪り読んでいたが、コクトーによるこの比較は素晴らしい。そしてコクトーでさえ、ランボオを「閉ざされた」と評しているのだ。

 更に、コクトーの美しい文章を引用したい。

 ランボーぐらい大きな名声がでると、かならず行き違いが生ずる、行き違いは芸術のあらゆる大冒険につきまとう。
お供の犠牲となった多くの人たちはやっきになってある種の外観を、ランボーのある種の傲慢を何時までも持ち続けようとする。この「通りすがりの男」が「重要」であったのは、構文の新しい使い方をしたためだということを彼らは考えもしない。(中略)
   これまでたびたびくり返してきたが、われわれの惑星よりも進化したある惑星が創造されれば、恐らくそれはアインシュタインを嘲笑することになるかもしれない。しかし、ヴァン・ゴッホやセザンヌを嘲笑することはなかろう。
   分析や科学の進歩ではつかめぬある力が支配するこの分野で、アルチュール・ランボーは一つの素晴らしい爆薬を、つまり、勇壮や武器に関する既存の考えに対立する一響の春雷を、一つの武器を、一つの勇壮を代表している。(後略)
            (「ランボーの爆薬」 ジャン・コクトー/中条忍訳 文中「」は筆者による) 



 ランボオを知らなくても、コクトーが好きでなくても、この珠玉のセンテンスを読めば心が揺さぶられるはずだ。巻末の山口佳巳が編纂した「アルチュール・ランボオ詳細年譜」の頁に、ジャコメッティ、コクトー、ピカソが描いたランボオ像が挿入されている。

 ジャコメッティは、ランボオを線の濃淡だけで描く。ピカソは、その若い時代そのものの素晴らしいデッサンで、写実的にランボオを浮かび上がらせた。そしてコクトーは、いつものように背景にギリシャ神話の美男子を組み込んだ。

 たった4年間の詩人がこれほどまでに世界を坩堝に巻き込んだのは、男と恋愛をして19歳の若さで拳銃で撃たれからだろうか。
 詩を放棄して灼熱のアフリカで武器商人となったからなのか。
 梅毒にかかり腫瘍を併発して右足を切断されても尚、南を目指し旅をしようとしたからなのか。
 その驚きの人生全てを生きたからだろうか。

       子供たちには酸い林檎の肉よりももっと甘い
          緑の水が、樫材のおれの身体にしみわたり、
          安酒のしみ、へどのあとを洗いおとし、
          舵も錨も、ちりじりに流し去った
                     (粟津則雄訳 『酔いどれ船』より)

参考文献
『ユリイカ』 総特集 ランボオ 1971年4月臨時増刊号  青土社


   

0 件のコメント:

コメントを投稿