ファン・ゴッホを見に、国立新美術館へ行った。夕方、外が暗くなってから訪れる。ホワイエに面した展示室の光壁が、幻想的に柔らかく灯っていた。
黒川紀章の最期の代表作になってしまった国立新美術館は、夜の帳が下りてから訪れると一層楽しめるだろう。外光が燦燦と降り注ぐ日中も、天井の高いボリュームのあるホワイエにそびえ立つ、レストランとなっている逆円錐形の異様が際立っている。
しかし夜はそれが妖しくライトアップされ、展示室の光壁が私に恍惚を誘った。そのフラッシュバックの中で、初めて黒川紀章と遭遇した時のことが頭を過ぎる。
それは学生時代に仲間と訪れた、黒川紀章の事務所のエントランス前での出来事であった。「KISHO N KUROKAWA」とクレジットされたオフィスの壁面に、「このNはなんだろう、紀章の訓読みの頭文字だろうか。」と言いながら立っていると、左の部屋から右の部屋へと本人がエントランスの前を通り抜けて行ったのだ。
その一瞬に、黒川紀章は私たちを鋭いあの眼光で睨んだ。私は怯みながらも、口の上に細い髭を生やしているのを見逃さなかった。後から先にも、黒川紀章が髭を蓄えているのを見たのは、この時だけである。
その後、ソウルオリンピックの選手村のコンペを手伝うようにと、縁があり呼ばれる。夜、外出から戻り、黒いコートと皮手袋をしたままでスタッフの進捗状況を見回るその姿は、ダンディそのものであった。
このファン・ゴッホ展には、オランダのファン・ゴッホ美術館からも多くの作品が来ている。そのオランダのファン・ゴッホ美術館も、黒川紀章の作品だ。もし黒川紀章が生きていたら、この因縁をどのような想いで感じたのだろうか。
哀しいかな、ファン・ゴッホの日本でのイメージは、新宿の超高層ビルの一室の一枚の絵と、ゴーギャンの目の前で自分の耳を切り落とし、最期は麦畑で腹をピストルで撃って自殺した姿だ。そして、生前は絵が一枚しか売れなかった悲劇の人生が付加えられる。
そういうイメージをファン・ゴッホに重ね合わせている全ての日本人は、この展覧会を訪れてほしい。前半の暗い色調の絵から、次第に美しい色彩が溢れる、輝く作品が続く。
私たちが抱いている「悲劇の運命の天才」の姿は、ここでは微塵も感じられなかった。
私は、『花瓶のヤグルマギクとケシ』という作品に注目した。背景の明るいブルーに、白いヤグルマギクと赤いケシが、見事に際立っている。ファン・ゴッホが弟のテオに宛てた手紙の中では、「これほどの色彩の管弦楽法に出会うためには、ドラクロワにまで一気に向かう必要がある」と記されている。(1)
この時期に、ファン・ゴッホは新しい色彩と技法を習得し、独自の静物画を描くためにきわめて個性的なやり方でそれを実践した。(2)
そして私が最も注目したのが、『ヒバリの飛び立つ麦畑』という作品だった。この絵からは「風の動き」が感じられる。そして「風の匂い」までもが沸き立ってくるのだ。
麦が風に揺られ、その少し「くぐもった」青い香りが風に運ばれてきて、画面の前の私に匂い立ってくるではないか。更に無数の麦の穂が風に揺られ、その音がシンフォニーの中の一瞬、軽いドラムの連打のように音を立てて私の耳に確かに聴こえて来る。
ファン・ゴッホは、麦にターコイズ、刈り取られた畑にはピンクを塗った。まだ濡れている下の層に、上から絵具を加えて構図を整えている。明るい色の地面は、下に塗られた薄い絵具層を通して輝いている。(3)
このブログでは、前回「アルチュール・ランボオ」を取り上げたが、そこにジャン・コクトーの文章を引用した。敢えてここでも、再び引用したい。
これまでたびたびくり返してきたが、われわれの惑星よりも進化したある惑星が創造されれば、恐らくそれはアインシュタインを嘲笑することになるかもしれない。しかし、ヴァン・ゴッホやセザンヌを嘲笑することはなかろう。(4)
ファン・ゴッホは1890年、37歳で死んだ。アルチュール・ランボオは1891年37歳で死ぬ。同時代、偶然にも同じ年齢で狂いながら死んでいった二人の天才芸術家がいた。
私は、決してファン・ゴッホが哀しい人生を送ったとは考えていない。画家として無名のままで逝ってしまったファン・ゴッホだったが、牧師の家に生まれ、後に画商となった弟・テオに勧められ画家になることを決心する。ロートレックやゴーギャンと邂逅し、画家としての自分の道をしっかりと進んでいった。
対象とする花を買う金にも困り、夏は静物画ではなく風景画を描かざるおえないほど困窮していたが、いつも弟・テオが生活費の面倒を見てくれていた。そこには、芸術家の濃密な人生に満足している自分があったのではないだろうか。そうでなければ、2000枚もの作品を残せる訳がない。
しかし、ファン・ゴッホは自分にストイックになりすぎて、作品のために人生を賭けすぎてしまい、理性を壊してしまった。
ある意味ファン・ゴッホの作品は、精神的な面から考えると弟・テオとの共同作業のようなものなのかもしれない。その弟・テオは、ファン・ゴッホが麦畑で自殺したわずか3ヵ月後に入院する。その年の初めにテオと妻ヨーとの間に息子が生まれたばかりだというのに。
そして兄、ファン・ゴッホが自殺してから半年後、自らも病院で死んでいった。あまりにも哀しいのは、弟・テオの方ではないか。
芸術家には、眩しいくらいの輝きと、それに反転する暗い影が付き纏う。それが天才を極めれば極めるほど、眩しさが突き抜ければ突き抜けるほど、影は暗闇に近づいてしまう。
『ヒバリの飛び立つ麦畑』は、いつまでも風の匂いと音を私に届けていた。
註
1 『没後120年 ゴッホ展』図録 p.104
2 『前掲書』 p.104
3 『前掲書』 p.112
4 『ユリイカ』 総特集 ランボオ 1971年4月臨時増刊号
p.9 「ランボオの爆薬」 ジャン・コクトー/中条忍訳 青土社
参考文献
『没後120年 ファン・ゴッホ展』図録
『ユリイカ』 総特集 ランボオ 1971年4月臨時増刊号 青土社
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