東京の西のはずれ、国立(くにたち)は、駅前の街路樹が印象的な美しい街だ。
今年の桜も、大きく枝を広げた堂々とした姿を白い花で妖艶に飾っていた。
駅舎のロータリーから直線状にまっすぐと伸びた、大学通り。
さらに、ロータリーから放射状に、立川や国分寺方面に向かって伸びる道路を見ると、都市計画がきれいに為されている印象を受ける。
相変わらずに、大学通り沿いにはお洒落な店が並ぶ。
吉祥寺が、住みたい町のランクトップであるが、吉祥寺よりも洗練された美しい街が国立であると、私は思う。
かつては南口を線路沿いに歩けば、すぐに土手が現れ、そこから狸が顔を出したという。
今は駅舎も新しく改修され、もうすぐ完成の日を見る。
北口のゴルフ練習場も、マンションに変わってしまって年月が経った。
馴染みの風景が変わっていくことは、誰もが寂しいと思うことである。
しかし、私の愛する変わらない存在が、国立の裏通りには今も健在である。
私が、年に数回足を運ぶ名店、「うなちゃん」。
つい先日も、私はうなちゃんに足を運んだ。
いつもどおりの土曜日の4時前。
暖簾が仕舞ってあり、外から見ると中には誰もいないような佇まいが、せっかく来たのに臨時休業か、と不安にさせる。
引き戸の隙間から裸電球が灯っているのを確認し、私は扉を引き中へと入った。
開店の1時間前だというのに、既に常連で半分の席が埋まっている。
勿論、それを承知の上で、私は4時に訪れた。
年に数回しか足を運ぶことができない、そして御常連で埋まる店に入る緊張感。
二代目だという店主の笑顔が、新参者の私にも常連と同じ扱いをする安心感を与えてくれる。
開店1時間前の、準備の真っ最中。
この時間帯は、飲み物だけは飲むことができる状況で、常連はそれぞれの、自分の好きな酒を飲み、店主の準備を眺めながら開店を待つ。
弾ける炭を避けながら、私もビールをグラスに注いだ。
そして、鰻を焼く煙に何十年もくすんできた店内を、ゆっくりと見渡す。
セピア色をしたフィルターで撮った写真のように、下焼きを始めた蒲焼の煙が、店の風景をぼかしていた。
その情景に、店主がかけるCDの前川清の歌声が相乗する。
開店前の準備から、閉店まで、店主はCDを代えずに同じ前川清をかけ続ける。
今日だけではなく、明日も、あさっても、出す鰻が変わらないように、BGMも変わらないのがこの店だ。
手際よい店主の準備も終わり、開店が整った。
この店では、最後に食べるうな重が欲しければ、最初に注文するだけで、後は料理の注文はいらない。
次々に出てくる鰻の串焼きを、楽しみに待つだけで良いのだ。
この時間の流れ方、この店の雰囲気は、作ろうと思って作れるものではないだろう。
長い年月をかけて出来上がった、極上の空間である。
歴史は、お金では買えることができない。
新しくプロデュースをし、デザインをし、演出をしたところで、この空気感を再現することは不可能だ。
時間の流れだけが生み出すことのできる、国立の街のはずれにあるサンクチュアリ。
ある時、うなちゃんを訪れた私は、いつもの見慣れた風景に少しながら違和感を覚えたことがあった。
違和感を覚えるのだが、そこには変わらない姿の店構えがあるだけだ。
何が私を奇妙な感じにさせるのだろうかと、不思議に思いながら店に入った。
店内も、いつもと変わらぬ情景がそこにある。
いつものように、店内をゆっくりと見渡した。
私の視線が壁から床へと移ったとき、新しいモルタル塗りの、床から立ち上がった基礎が目に入った。
建築家の私は、曳き家で家屋をそのまま引っ張ったことを理解する。
前面道路の拡張で、後退した敷地に新しく建築をしないで、曳き家という方法で家屋を壊さずに、そのまま移動させたのだ。
私が感じた奇妙な違和感とは、いつもの変わらない姿の店構えがあるのだが、店がそのまま後退し、前の道路との間に2メートル程度の空き地ができたことから生じたものだった。
歴史を変えないという店主の思いが、道路の拡張にあったとしても、うなちゃんのそのままの姿を残すことができたのだろう。
隣の客から、店主が冷蔵庫から出した氷が回ってきた。
酎ハイを飲んでいる客の、氷の継ぎ足しだ。
氷が足りない客は自分のグラスに氷を入れ、隣の客に渡す。
それぞれ客同士の手渡しで、氷が回っていく。
この連帯感が、今日もこの店に来ることができて良かったと思わせる。
袖触れ合う隣同士が、カウンターを囲んだ全員が、一つの空間を共有する幸せな時間を過ごすことができた夜だった。
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