今年に入ってから澁澤龍彦を再考しようと思い、1月初旬に古書店でユリイカ臨時増刊『総特集 澁澤龍彦』を入手した。
何故私は今年に入ってから澁澤龍彦を再考しようと思ったのか、そこに至るには、少なからず思考の旅があった。
去年の暮れに、なにげなく馴染みの古書店に私はふらっと入る。
特に求めたいものがある訳でもなく、書棚を眺めたり、平積みでぎっしりと置かれているユリイカや現代思想、現代詩手帖などを「発掘」していた。
そこに、『カントのアクチュアリティ』(1)という1冊が目に留まる。
柄谷行人や浅田彰など4人の共同討議として、その中に黒崎政男のクレジットが目に入った。
私は黒崎政男の著書「カント『純粋理性批判』入門」で、ア・プリオリに認識することの概念を学んだ。
あくまでも、ア・プリオリの概念の表層を舐める程度に、であるが。
現代の論客4人の中にカント研究者・黒崎政男の名を見つけ、この共同討議が興味深いものに思え、私はこの1冊、『批評空間』を買い求めた。
巻頭から始まる26ページもの、しかも3段組みの中身の濃い討議を熟読していくと、浅田彰が言った言葉が気になってくる。
前後のコンテクストを省略し、以下に引用しよう。
浅田
一般に、ヒュームとルソーの衝撃があって、六十年代以降カントが大きく変わると言われますね。そこでルソーの衝撃のほうをもっと突きつめていくと、(中略)ホルクハイマーやラカンが言ったように「サドと共にあるカント(Kant avec Sade)」というのが出てくるだろう。(後略)(2)
更に読み進めていく。
柄谷
でも、坂部さんのカント論を読んだとき、ぼくはなんとなくドゥールーズを考えた。ヒューム-ドゥールーズの線でカントを読む。
浅田
それはレトロスペクティヴな錯覚なんで、さっきも言ったとおり、あの段階では、ラカンやフーコーの言うようなルソー-サドの線に近いカント像だったと思いますよ。(中略)
ともあれ、坂部さんご自身も、それを読まれた柄谷さんも、かつてはカントをルソー-サドの線にひきつけて読まれたのではないかと思うけれども、(後略)(3)
このように、浅田彰はカントを読み解く1つのベクトルとして、サドを引用してくるのである。
前述の浅田彰の言葉にもあるように、カントはルソーの思想に強い影響を受けた。
一方、サドは囚われたバスティーユ監獄の中で、ルソーを読み解いていたという。
ここに登場するサドとは、もちろんサド侯爵のことである。
一般社会では特殊なフィルターをかけられて見られてしまうサドは、思想界・哲学の世界では、思想家としての揺るぎない地位を誇っている。
カントにおける「ルソーの衝撃」には、浅田彰が言う「ラカンが言う、サドと共にあるカント」が背景にあることが、私にとって興味深かった。
そこで、私はサドを読み解くことにしようと考える。
再び馴染みの古書店を訪れて、書棚を眺めた。
サドの文献を探すと、そこには当然のように澁澤龍彦の著作が数多く並んでいる。
私はサドを解釈することに至る前に、日本にサドを紹介した人物と言っていい、澁澤龍彦を再考しようと考えたのだ。
これが、カント― 黒崎政男―浅田彰―サドという思考の海を泳いで澁澤龍彦に到達した、私の旅である。
今年の1月下旬、あるパーティーで世話になっている人から、鎌倉、湘南周辺で家を建てたいから設計をお願いしたいと言われた。
ありがたい話である。
土地から探すので、私は早速鎌倉へと足を運んだ。
江ノ電に乗ると、稲村ガ崎を過ぎて七里ガ浜の手前から海が開けてくる。
東京から訪れた人間がその光景を目にすると、非日常の美しい風景に心を奪われてしまうだろう。
この突然に現れる海の風景も私は大好きであるが、鬱蒼とした鎌倉の森が私は気になる。
鎌倉を訪れるたびに、私は澁澤龍彦と鎌倉を重ね合わせて考えてしまうようになった。
澁澤龍彦は、鎌倉の輝く海よりも、鎌倉の深い森のくぐもった緑の匂いに包まれて暮らすほうが相応しいのではないか。
私は澁澤龍彦の、鎌倉小町の家も、北鎌倉の家も見たことは無い。
しかし、澁澤龍彦―三島由紀夫―土方巽―池田満寿夫―四谷シモンといった交遊録を思うと、鎌倉の海よりも、鎌倉の森を私は想像してしまう。
何回か鎌倉を訪れ、土地を見た。
七里ガ浜の山の頂上に土地があるというので、訪れる。
鬱蒼と茂った、主がいなく手入れを放棄された木々の中に入り、庭に出た。
そこには、大きな空と、遥か彼方まで見渡せる静かな海しか見えない。
私はこういう鎌倉の風景が好きだ。
註
(1) 柄谷行人+浅田彰+坂部恵+黒崎政男 『共同討議 カントのアクチュアリティ』
(2) 『前掲書』p.8.
(3) 『前掲書』p.18.
参考文献
柄谷行人+浅田彰+坂部恵+黒崎政男 『共同討議 カントのアクチュアリティ』
批評空間 19 大田出版 1998年
黒崎政男著 「カント『純粋理性批判』入門」 講談社選書メチエ 2008年
2012年2月17日金曜日
2012年1月25日水曜日
船戸与一とテキーラの芋虫
我が街荻窪に、訪れるべき名店がまた1軒姿を消す。
「番小屋」は40年も営業した、私の知る限りでは荻窪でもっとも古い居酒屋であった。
今年の3月に、番小屋はその幕を閉じる。
その番小屋を根城として、愛すべき凄い酒飲みがいた。
我が街荻窪を代表する作家といえば、かつては井伏鱒二であろうか。
荻窪駅前の教会通り商店街にある鮨屋を愛し、着流しでその鮨屋に入っていく姿を何度も私は見かけた。
その鮨屋も、既に何十年か前に姿を消している。
その井伏鱒二に弟子入りした太宰治も、一時は荻窪に暮らしていたようだ。
太宰治が暮らしていたという民家は、その古い当時の姿を変えずに荻窪の片隅に今も残っている。
文学界の巨星である井伏鱒二が、荻窪を堂々と歩き人目もはばからず街場の鮨屋に入るように、直木賞作家である冒険小説家・船戸与一も、荻窪の住民に溶け込んで荻窪の街を普通に歩いている。
番小屋は、「お母さん」が一人で切り盛りをしている居酒屋だ。
かつては、若いアルバイトの男の子もカウンターの中に入って働いていた。
そのお母さんを開店前に手伝うのが、「お父さん」である。
お父さんは、船戸与一と同じ小説家であり、作風もハードボイルドである。
スキンヘッドが似合う、ショーン・コネリーを彷彿とさせる風貌をしている。
お母さん、お父さんと家族ぐるみの付き合いをしているのが、船戸与一であった。
私は初めて、番小屋で船戸与一に出会う。
それ以降、船戸与一の魅力に私は惹きこまれていった。
お母さんたち、店の常連たちは、敬愛を込めて船戸与一のことを、本名をもじった名前で呼んでいた。
私は部外者の立場をわきまえて、一歩踏み込んだ中に溶け込みたかったけれども、「船戸さん」としか呼んだことがない。
それが私の礼儀だった。
番小屋に顔を出すたびに、どこの馬の骨かも分からない私にも、船戸与一は心優しく話しかけてくれるようになった。
次第に心は飲み友達のようになって、打ち解けていく。
いつしか私は、船戸与一を私が設計したレストランに連れて行くようになった。
冒険小説家に似つかわしくない、お上品なフランス料理でも、快く付き合ってくれる。
私のバーにも顔を出してくれるようになった。
「おい、堀川。オマエの店で一番高いボトルはどれだ。それを入れるぞ。」
私の店の売り上げを心配して、船戸与一は心優しく、そのひび割れた声で言う。
ある時、番小屋のお父さんと船戸与一は、二人で私のバーを訪れてくれた。
芋虫がまるまると1匹入ったテキーラのボトルを見つけて、それは何だと言う。
グサノロホというメスカルは、テキーラの原料となるリュウゼツランにつく芋虫を1匹、メスカルの中に入れている。
塩を舐めてからライムを口に入れ、テキーラを飲む、その塩がグサノロホには付いていた。
ただし、リュウゼツランに付く芋虫のオシッコを乾燥させてつくった塩である。
そんなことを話しながらメスカルを飲んでいると、おもむろに船戸与一が、その芋虫を食わせろと私に言った。
もちろん、腹が減っているから私に芋虫を食わせろと言ったのではない。
何にでも興味を持ち、自分の作品の舞台となる世界の地に行かないことには、作品を書くことができない、と言う船戸与一。
全て、自分の目で見て、自分で体験したことが、彼の小説の骨格となっている。
その興味がテキーラの芋虫に向けられ、私はボトルの中から芋虫をまな板の上に取り出した。
名を成す小説家にもなると、目の前の芋虫も食ってみないと気が済まないのであろうか。
端から1センチずつ位に切っていくと、白い外観の中からオレンジがかった内臓が見えてくる。
食べやすいように切って出すと、今度は「堀川、オマエも一緒に食え。」と言われてしまった。
一瞬躊躇したが、二人が何の逡巡もなく芋虫を口の中に入れるのを見て、私は覚悟を決めて口の中に入れる。
何の味もしない、ゴムのような食感は、今でも忘れられない。
それよりも、船戸与一と番小屋のお父さんと3人でテキーラの芋虫を食べたことは、誰にでも誇れる仲間意識を私に生み出してくれた。
その番小屋も幕を閉じてしまう春以降、私はどの店で粋な男に出会うことができるのだろうか。
「番小屋」は40年も営業した、私の知る限りでは荻窪でもっとも古い居酒屋であった。
今年の3月に、番小屋はその幕を閉じる。
その番小屋を根城として、愛すべき凄い酒飲みがいた。
我が街荻窪を代表する作家といえば、かつては井伏鱒二であろうか。
荻窪駅前の教会通り商店街にある鮨屋を愛し、着流しでその鮨屋に入っていく姿を何度も私は見かけた。
その鮨屋も、既に何十年か前に姿を消している。
その井伏鱒二に弟子入りした太宰治も、一時は荻窪に暮らしていたようだ。
太宰治が暮らしていたという民家は、その古い当時の姿を変えずに荻窪の片隅に今も残っている。
文学界の巨星である井伏鱒二が、荻窪を堂々と歩き人目もはばからず街場の鮨屋に入るように、直木賞作家である冒険小説家・船戸与一も、荻窪の住民に溶け込んで荻窪の街を普通に歩いている。
番小屋は、「お母さん」が一人で切り盛りをしている居酒屋だ。
かつては、若いアルバイトの男の子もカウンターの中に入って働いていた。
そのお母さんを開店前に手伝うのが、「お父さん」である。
お父さんは、船戸与一と同じ小説家であり、作風もハードボイルドである。
スキンヘッドが似合う、ショーン・コネリーを彷彿とさせる風貌をしている。
お母さん、お父さんと家族ぐるみの付き合いをしているのが、船戸与一であった。
私は初めて、番小屋で船戸与一に出会う。
それ以降、船戸与一の魅力に私は惹きこまれていった。
お母さんたち、店の常連たちは、敬愛を込めて船戸与一のことを、本名をもじった名前で呼んでいた。
私は部外者の立場をわきまえて、一歩踏み込んだ中に溶け込みたかったけれども、「船戸さん」としか呼んだことがない。
それが私の礼儀だった。
番小屋に顔を出すたびに、どこの馬の骨かも分からない私にも、船戸与一は心優しく話しかけてくれるようになった。
次第に心は飲み友達のようになって、打ち解けていく。
いつしか私は、船戸与一を私が設計したレストランに連れて行くようになった。
冒険小説家に似つかわしくない、お上品なフランス料理でも、快く付き合ってくれる。
私のバーにも顔を出してくれるようになった。
「おい、堀川。オマエの店で一番高いボトルはどれだ。それを入れるぞ。」
私の店の売り上げを心配して、船戸与一は心優しく、そのひび割れた声で言う。
ある時、番小屋のお父さんと船戸与一は、二人で私のバーを訪れてくれた。
芋虫がまるまると1匹入ったテキーラのボトルを見つけて、それは何だと言う。
グサノロホというメスカルは、テキーラの原料となるリュウゼツランにつく芋虫を1匹、メスカルの中に入れている。
塩を舐めてからライムを口に入れ、テキーラを飲む、その塩がグサノロホには付いていた。
ただし、リュウゼツランに付く芋虫のオシッコを乾燥させてつくった塩である。
そんなことを話しながらメスカルを飲んでいると、おもむろに船戸与一が、その芋虫を食わせろと私に言った。
もちろん、腹が減っているから私に芋虫を食わせろと言ったのではない。
何にでも興味を持ち、自分の作品の舞台となる世界の地に行かないことには、作品を書くことができない、と言う船戸与一。
全て、自分の目で見て、自分で体験したことが、彼の小説の骨格となっている。
その興味がテキーラの芋虫に向けられ、私はボトルの中から芋虫をまな板の上に取り出した。
名を成す小説家にもなると、目の前の芋虫も食ってみないと気が済まないのであろうか。
端から1センチずつ位に切っていくと、白い外観の中からオレンジがかった内臓が見えてくる。
食べやすいように切って出すと、今度は「堀川、オマエも一緒に食え。」と言われてしまった。
一瞬躊躇したが、二人が何の逡巡もなく芋虫を口の中に入れるのを見て、私は覚悟を決めて口の中に入れる。
何の味もしない、ゴムのような食感は、今でも忘れられない。
それよりも、船戸与一と番小屋のお父さんと3人でテキーラの芋虫を食べたことは、誰にでも誇れる仲間意識を私に生み出してくれた。
その番小屋も幕を閉じてしまう春以降、私はどの店で粋な男に出会うことができるのだろうか。
2012年1月3日火曜日
クリエイティブとは、真似をしないこと
「クリエイティブとは、真似をしないこと」
これは、伝説のレストラン、エル・ブリの格言である。
スペインの田舎、カタルーニャ地方の海岸線沿いにある僅か50席のレストランに、年間200万件の予約が入る。
独創的な料理を提供するために、4月から10月までの半年しか営業をせず、残りの半年は新しいメニューの開発に勤しむという。
どの逸話を取っても、伝説のレストランにふさわしい言葉である。
かつては日本のメディアでは「エル・ブジ」とも表記されていたエル・ブリは、フェラン・アドリア率いる素晴らしいチームが運営するレストランであった。
であった、という過去形の表記をしたのは、2011年7月に惜しまれながらも閉店をしてしまったからである。
その閉店は、2年後に料理研究財団として新たに生まれ変わるためのステップだという。
まだエル・ブリの凄さが日本に完全に伝えられていない頃、それでもグルマンやワインフリークの間には、断片的な情報は入ってきていた。
私はかつて、ビルバオのグッゲンハイム美術館を訪れるために、バルセロナからビルバオをブッキングした際にカタルーニャのエル・ブリを訪れようと計画したことがあった。
しかし、冬の閉店時期だったために、それは叶わなかった。
もし、エル・ブリの完全なる凄さが私の耳に入ってきたならば、エル・ブリの開店時期に合わせてビルバオに行っていたかもしれない。
それほどにも、エル・ブリは焦がれて行かなければならないレストランである。
世界規模での訪れるべきレストランやホテルの新しい情報ほど、日本に入ってくることが遅いと、私は痛感する。
今でも鮮明に記憶しているが、アマンリゾーツの最初のホテル、アマンプリがオープンしたときにも、日本に入ってきた情報はごく僅かであった。
今でこそ我が日本の女性たちに大人気のアマンであるが、オープン当初は日本への情報発信がほとんどされていなかった、と言うと、信じられないと言う人がほとんどだろう。
私がプーケットを訪れようとしたときに、銀座にあったアメックスのトラベルカウンターにさえも、アマンプリのヴィジュアルな情報はなく、文字情報だけであった。
最高のラグジュアリーなホテルは、プーケット・ヨットクラブとアマンプリが併記されていて、ヴィジュアルな情報が完備されていた英語表記のプーケット・ヨットクラブよりも、文字情報だけしかなかった現地的な響きのするアマンプリを選んで、私は後悔しなかった。
こうして、オープン当初のアマンプリを訪れることができ、それ以来アマンリゾーツの虜になってしまう。
建築家、ハンス・ホラインに会いに行ったときに滞在したウイーンのシャトーホテル、パレ・コブルグも、まだ日本では誰も知らないだろう。
しかし数年後には、日本でブレイクするはずである。
世界中にある、まだ知らない素晴らしいレストランやホテルを訪れてみたいと思っているのは、私だけではないだろう。
このエル・ブリの、とてつもなく素晴らしい料理の数々を食べることの出来た人は、本当に幸せである。
料理と言う概念を覆した、創造性と斬新なコンセプト。
公開された映画、「エルブリの秘密 世界一予約のとれないレストラン」を鑑賞すると、フェラン・アドリアの生み出す料理は、料理を超えて芸術であることが誰の目にも理解できる。
フェラン・アドリアは、2007年ドイツの現代美術展ドクメンタ12にも参加した。
ドクメンタ12は、20世紀の重要な前衛芸術運動として、ピカソやモンドリアン、マティスを取り上げたり、ヨーゼフ・ボイスの作品を展示したりする、世界でもっとも重要な美術展の1つである。
もちろん、美術展に料理人が参加するのは初めてで、これは世界がフェラン・アドリアを芸術家として認めたことに他ならない。
食材を真空化したり、液体窒素で瞬間冷凍する。
エスプーマという泡立て手法を考案し、医療用のオブラートから食材を包む手法をインスピレーションする。
それは料理というよりは、美しい現代美術にも匹敵する創造物である。
「クリエイティブとは、真似をしないこと」
私たち建築家も、肝に銘じなければならない言葉だ。
参考文献
映画「エル・ブリの秘密 世界一予約のとれないレストラン」 パンフレット
これは、伝説のレストラン、エル・ブリの格言である。
スペインの田舎、カタルーニャ地方の海岸線沿いにある僅か50席のレストランに、年間200万件の予約が入る。
独創的な料理を提供するために、4月から10月までの半年しか営業をせず、残りの半年は新しいメニューの開発に勤しむという。
どの逸話を取っても、伝説のレストランにふさわしい言葉である。
かつては日本のメディアでは「エル・ブジ」とも表記されていたエル・ブリは、フェラン・アドリア率いる素晴らしいチームが運営するレストランであった。
であった、という過去形の表記をしたのは、2011年7月に惜しまれながらも閉店をしてしまったからである。
その閉店は、2年後に料理研究財団として新たに生まれ変わるためのステップだという。
まだエル・ブリの凄さが日本に完全に伝えられていない頃、それでもグルマンやワインフリークの間には、断片的な情報は入ってきていた。
私はかつて、ビルバオのグッゲンハイム美術館を訪れるために、バルセロナからビルバオをブッキングした際にカタルーニャのエル・ブリを訪れようと計画したことがあった。
しかし、冬の閉店時期だったために、それは叶わなかった。
もし、エル・ブリの完全なる凄さが私の耳に入ってきたならば、エル・ブリの開店時期に合わせてビルバオに行っていたかもしれない。
それほどにも、エル・ブリは焦がれて行かなければならないレストランである。
世界規模での訪れるべきレストランやホテルの新しい情報ほど、日本に入ってくることが遅いと、私は痛感する。
今でも鮮明に記憶しているが、アマンリゾーツの最初のホテル、アマンプリがオープンしたときにも、日本に入ってきた情報はごく僅かであった。
今でこそ我が日本の女性たちに大人気のアマンであるが、オープン当初は日本への情報発信がほとんどされていなかった、と言うと、信じられないと言う人がほとんどだろう。
私がプーケットを訪れようとしたときに、銀座にあったアメックスのトラベルカウンターにさえも、アマンプリのヴィジュアルな情報はなく、文字情報だけであった。
最高のラグジュアリーなホテルは、プーケット・ヨットクラブとアマンプリが併記されていて、ヴィジュアルな情報が完備されていた英語表記のプーケット・ヨットクラブよりも、文字情報だけしかなかった現地的な響きのするアマンプリを選んで、私は後悔しなかった。
こうして、オープン当初のアマンプリを訪れることができ、それ以来アマンリゾーツの虜になってしまう。
建築家、ハンス・ホラインに会いに行ったときに滞在したウイーンのシャトーホテル、パレ・コブルグも、まだ日本では誰も知らないだろう。
しかし数年後には、日本でブレイクするはずである。
世界中にある、まだ知らない素晴らしいレストランやホテルを訪れてみたいと思っているのは、私だけではないだろう。
このエル・ブリの、とてつもなく素晴らしい料理の数々を食べることの出来た人は、本当に幸せである。
料理と言う概念を覆した、創造性と斬新なコンセプト。
公開された映画、「エルブリの秘密 世界一予約のとれないレストラン」を鑑賞すると、フェラン・アドリアの生み出す料理は、料理を超えて芸術であることが誰の目にも理解できる。
フェラン・アドリアは、2007年ドイツの現代美術展ドクメンタ12にも参加した。
ドクメンタ12は、20世紀の重要な前衛芸術運動として、ピカソやモンドリアン、マティスを取り上げたり、ヨーゼフ・ボイスの作品を展示したりする、世界でもっとも重要な美術展の1つである。
もちろん、美術展に料理人が参加するのは初めてで、これは世界がフェラン・アドリアを芸術家として認めたことに他ならない。
食材を真空化したり、液体窒素で瞬間冷凍する。
エスプーマという泡立て手法を考案し、医療用のオブラートから食材を包む手法をインスピレーションする。
それは料理というよりは、美しい現代美術にも匹敵する創造物である。
「クリエイティブとは、真似をしないこと」
私たち建築家も、肝に銘じなければならない言葉だ。
参考文献
映画「エル・ブリの秘密 世界一予約のとれないレストラン」 パンフレット
2011年12月4日日曜日
問われなければ知っているが、問われたら知らない。
今年もいつもの年と変わらず、あっという間に師走になってしまった。
1年の短さは、特にこの時期に痛感する。
あれもやればよかった、これもやることができなかった。
1年という限定された時間の中で、あらゆる後悔が生まれてくる。
私たちが当然のように持っている、時間という概念。
哲学のフィールドを泳いでいると、しばしば「時間とは、何か。」という問い掛けに出くわすことがある。
時間とは、何か。
多くの人は、このように問い掛けられて応えることができるだろうか。
私も哲学に興味を抱かなければ、時間の概念などを考察することはなかったであろう。
ここに、偉大な哲学者が時間について言及した興味深い言葉を挙げたい。
《時間とは何かと問われなければ、私はそれが何であるかを知っている。もし問われたら、私は知らない。(アウグスティヌス『告白』)》(1)
もし私たちが時間について問われたなら、ほとんどの人が上述したアウグスティヌスのように考えるのが普通であろう。
時間というものは、私たちのもっとも身近にあるものであるから、それがどのようなものであるかはイメージ的に頭の中に入っている。
しかし、それを人に論理的に説明することが難しいことも、私たちは知っているのだ。
問われなければ、知っている。
問われたら、知らない。
アウグスティヌスは、西暦354年から430年を生きた、古代キリスト教の偉大な教父であり哲学者であった。
アウグスティヌスの説いた「自由意志」は、ショーペンハウアーやニーチェにまで影響を及ぼす。
『告白』では、若い頃に強い肉欲に支配され生きたこと、私生児である息子をもうけたこと、盗みを働き罪に溺れたことまでも、言及されている。
そのような奔放な生き方をしていたアウグスティヌスは、人間の意志は非常に無力なものである、と説いた。そして、神なしには善をなしえない、と教える。
西洋思想史上もっとも偉大な哲学者の一人であるアウグスティヌスが展開する時間概念は、現在の西洋思想が時間概念を語る上での基礎となっている。
一方、物理学者は時間を測定する、という言い方をする。
しかし、時間は視覚でも触覚でも、聴覚でも味覚でも、そして嗅覚でも捉えられない。
感覚で捉えられないものを、いったいどうやって測定できるのであろうか。(2)
時間の特性に関する長期にわたる哲学論議には昔も今も変わらず、対極な二つの立場がある。一方の側には、時間は自然の創造物として客観的に存在するという考え方がある。
時間の存在形式は、知覚できないという点をのぞけば、他の自然物と変わらない。
ニュートンこそおそらくこの客観論的な考え方のもっとも重要な代表者だった。(3)
反対側の陣営での支配的な考え方によると、時間とはさまざまな出来事をいわば通観することであり、人間の意識、言い換えれば人間の精神や理性の特性に依拠し、したがって、それらの条件である人間の経験に先行するものということになる。
すでにデカルトがこの考え方に傾いていた。それは、時間と空間をア・プリオリな総合の表示と見たカント哲学にもっとも大きな影響を与えた。(4)
どちらにしても、時間は自然の産物である。
アインシュタインの相対性理論を駆使し、物理学から時間を解き明かそうとも、カントの『純粋理性批判』からア・プリオリな認識を抽出し、哲学から時間にアプローチしようとも、私たちは「永遠の現在」を生きることができるのだ。
永遠の現在、その瞬間に時間という概念は消滅していってしまう。
また1年、今年も時が過ぎていくが、時間が通過していってしまうのではなく、私たちの肉体・精神が成長していくのであると、私は考える。
その成長は、時間とは無関係に私が滅びるまで続くのだ。
註
(1) ノベルト・アリエス著 ミヒャエル・シュレーター編 井本晌二/青木誠之訳
『時間について』p.1.
(2) 『前掲書』p.1.
(3) 『前掲書』p.4.
(4) 『前掲書』p.4.
参考文献
ノベルト・アリエス著 ミヒャエル・シュレーター編 井本晌二/青木誠之訳
『時間について』
《叢書・ウニベルシタス 545》 財団法人 法政大学出版局 1996年
1年の短さは、特にこの時期に痛感する。
あれもやればよかった、これもやることができなかった。
1年という限定された時間の中で、あらゆる後悔が生まれてくる。
私たちが当然のように持っている、時間という概念。
哲学のフィールドを泳いでいると、しばしば「時間とは、何か。」という問い掛けに出くわすことがある。
時間とは、何か。
多くの人は、このように問い掛けられて応えることができるだろうか。
私も哲学に興味を抱かなければ、時間の概念などを考察することはなかったであろう。
ここに、偉大な哲学者が時間について言及した興味深い言葉を挙げたい。
《時間とは何かと問われなければ、私はそれが何であるかを知っている。もし問われたら、私は知らない。(アウグスティヌス『告白』)》(1)
もし私たちが時間について問われたなら、ほとんどの人が上述したアウグスティヌスのように考えるのが普通であろう。
時間というものは、私たちのもっとも身近にあるものであるから、それがどのようなものであるかはイメージ的に頭の中に入っている。
しかし、それを人に論理的に説明することが難しいことも、私たちは知っているのだ。
問われなければ、知っている。
問われたら、知らない。
アウグスティヌスは、西暦354年から430年を生きた、古代キリスト教の偉大な教父であり哲学者であった。
アウグスティヌスの説いた「自由意志」は、ショーペンハウアーやニーチェにまで影響を及ぼす。
『告白』では、若い頃に強い肉欲に支配され生きたこと、私生児である息子をもうけたこと、盗みを働き罪に溺れたことまでも、言及されている。
そのような奔放な生き方をしていたアウグスティヌスは、人間の意志は非常に無力なものである、と説いた。そして、神なしには善をなしえない、と教える。
西洋思想史上もっとも偉大な哲学者の一人であるアウグスティヌスが展開する時間概念は、現在の西洋思想が時間概念を語る上での基礎となっている。
一方、物理学者は時間を測定する、という言い方をする。
しかし、時間は視覚でも触覚でも、聴覚でも味覚でも、そして嗅覚でも捉えられない。
感覚で捉えられないものを、いったいどうやって測定できるのであろうか。(2)
時間の特性に関する長期にわたる哲学論議には昔も今も変わらず、対極な二つの立場がある。一方の側には、時間は自然の創造物として客観的に存在するという考え方がある。
時間の存在形式は、知覚できないという点をのぞけば、他の自然物と変わらない。
ニュートンこそおそらくこの客観論的な考え方のもっとも重要な代表者だった。(3)
反対側の陣営での支配的な考え方によると、時間とはさまざまな出来事をいわば通観することであり、人間の意識、言い換えれば人間の精神や理性の特性に依拠し、したがって、それらの条件である人間の経験に先行するものということになる。
すでにデカルトがこの考え方に傾いていた。それは、時間と空間をア・プリオリな総合の表示と見たカント哲学にもっとも大きな影響を与えた。(4)
どちらにしても、時間は自然の産物である。
アインシュタインの相対性理論を駆使し、物理学から時間を解き明かそうとも、カントの『純粋理性批判』からア・プリオリな認識を抽出し、哲学から時間にアプローチしようとも、私たちは「永遠の現在」を生きることができるのだ。
永遠の現在、その瞬間に時間という概念は消滅していってしまう。
また1年、今年も時が過ぎていくが、時間が通過していってしまうのではなく、私たちの肉体・精神が成長していくのであると、私は考える。
その成長は、時間とは無関係に私が滅びるまで続くのだ。
註
(1) ノベルト・アリエス著 ミヒャエル・シュレーター編 井本晌二/青木誠之訳
『時間について』p.1.
(2) 『前掲書』p.1.
(3) 『前掲書』p.4.
(4) 『前掲書』p.4.
参考文献
ノベルト・アリエス著 ミヒャエル・シュレーター編 井本晌二/青木誠之訳
『時間について』
《叢書・ウニベルシタス 545》 財団法人 法政大学出版局 1996年
2011年11月23日水曜日
ボージョレーとアルベール・カミュ
アトリエの棚を整理していたら、1冊の雑誌が目に留まった。
『エスクァイア日本版』2001年1月号。
表紙には大きく、シャトー・マルゴー1928年のボトルが刻印されている。
「ワインに愛された奇才たち。」とクレジットされたその号は、ピカソやロートレックからゲーンズブールまで、それぞれの奇才とワインに纏わるエピソードが紡ぎとられている。
この1冊を、雑誌というサブカルチャーに閉じ込めておくことはできないだろう。
ここに登場するヨハン・ゲーテ、ナポレオン・ボナパルト、クロード・モネ、パブロ・ピカソ、トゥールーズ・ロートレック、ココ・シャネル、藤田嗣治、アーネスト・ヘミングウェイ、吉田健一、トルーマン・カポーティ、セルジュ・ゲーンズブールそれぞれの研究者はもとより、文学者の1級の資料となりえる文章が展開されている。
雑誌の中のエッセイとして片付けるのには、あまりにも勿体無い。
私が特に惹かれたのは、竹中充によるボージョレーとアルベール・カミュの因果を語った文章であった。
竹中充は、1957年生まれ白百合女子大学仏文学科を卒業し、ワインに関する著作が数冊あるだけで多くを知られていない。
40歳代前半で亡くなったようで、その早世が作品の少なさを物語っている。
彼女の文章を追っていくと、カミュの最後の数日を私も一緒に共有しているような気分に浸ってしまう。
アルジェリアで生まれたカミュは、窮乏であったが太陽とともに育っていった。
その太陽の想いを人生の最後まで放さずに、霧にけぶるパリ(1)で、サルトルと仲良くサン=ジェルマン=デ=プレの悪徳、すなわちシャンパンとウオツカとワインのがぶ飲みに溺れていた。(2)
竹中充の文章でカミュの太陽への想いを知った私は、その正反対のベクトルとしてアルチュール・ランボオを思い浮かべる。
ランスの更に北、太陽の少ない地シャルルビルに生まれたランボオは、エチオピアの灼熱の太陽を想い焦がれて死んでいった。
二人の偉大な文学者は、奇妙にも同じようにアフリカの熱い太陽を想い、自分の意志半ばで若くして死んでいったのだ。
カミュは、死ぬ前日にボージョレーのフルーリーを飲む。
「なぜ僕らは飲むのか?無力感からであり、自分を責めるからである」(3)
「パリ。朝の5時のカフェ。窓ガラスの水滴。沸き立つコーヒー。
市場で働く人と運送業者。
朝方にひっかけるリキュール。それからボージョレー」(4)
朝方にひっかけるリキュールとボージョレー、このカミュの文章からはゆっくりと流れていくであろう、これからの時間が想像できる。
カミュは、自宅のあるプロヴァンスからパリへ向かう途中に、ブルゴーニュに立ち寄った。
それは、カミュのいつもの行程であろう。
いつもと違うのは、友人夫妻と一緒だったということだけである。
ブルゴーニュの地に立ち寄り、ブルゴーニュのワイン、ボージョレーを飲む。
カミュはブレス産鶏肉のクリーム煮に、フルーリーを合わせた。
クリームの濃厚さを、瑞々しい果実味が躍動するワインで洗い流しながら愉しんだのであろうと、私は想像する。
友人の運転する車がプラタナスの木に激突して、このノーベル文学賞受賞作家が死んでしまうまでの2日間を、私はこの1冊の雑誌で知った。
その行程にもし友人がいなかったらと想像するのは、文学を愉しむ者がするべきではないだろう。
ボージョレーのワインが文学として私の心にインプレッションを与えてくれたことは、未だ無かった。
世間は毎年のこの時期、ボージョレーヌーボーの喧騒の余韻を持て余しているかのようだ。
この儚いお祭り騒ぎは、いつまで繰り返されるのであろうか。
表紙のシャトー・マルゴー1928年は、ダリが1976年にパリのタイユバンで飲んだワインである。
註
(1) 竹中 充「カミュ、太陽と死のブルゴーニュ」 『エスクァイア日本版』2001年1月号収録 p.51.
(2) 竹中 充 『前掲書』 p.54.
(3) 竹中 充 『前掲書』 p.54.
(4) 竹中 充 『前掲書』 p.51.
参考文献
竹中 充 「カミュ、太陽と死のブルゴーニュ」
『エスクァイア日本版』 エスクァイア マガジン ジャパン 2001年1月号
『エスクァイア日本版』2001年1月号。
表紙には大きく、シャトー・マルゴー1928年のボトルが刻印されている。
「ワインに愛された奇才たち。」とクレジットされたその号は、ピカソやロートレックからゲーンズブールまで、それぞれの奇才とワインに纏わるエピソードが紡ぎとられている。
この1冊を、雑誌というサブカルチャーに閉じ込めておくことはできないだろう。
ここに登場するヨハン・ゲーテ、ナポレオン・ボナパルト、クロード・モネ、パブロ・ピカソ、トゥールーズ・ロートレック、ココ・シャネル、藤田嗣治、アーネスト・ヘミングウェイ、吉田健一、トルーマン・カポーティ、セルジュ・ゲーンズブールそれぞれの研究者はもとより、文学者の1級の資料となりえる文章が展開されている。
雑誌の中のエッセイとして片付けるのには、あまりにも勿体無い。
私が特に惹かれたのは、竹中充によるボージョレーとアルベール・カミュの因果を語った文章であった。
竹中充は、1957年生まれ白百合女子大学仏文学科を卒業し、ワインに関する著作が数冊あるだけで多くを知られていない。
40歳代前半で亡くなったようで、その早世が作品の少なさを物語っている。
彼女の文章を追っていくと、カミュの最後の数日を私も一緒に共有しているような気分に浸ってしまう。
アルジェリアで生まれたカミュは、窮乏であったが太陽とともに育っていった。
その太陽の想いを人生の最後まで放さずに、霧にけぶるパリ(1)で、サルトルと仲良くサン=ジェルマン=デ=プレの悪徳、すなわちシャンパンとウオツカとワインのがぶ飲みに溺れていた。(2)
竹中充の文章でカミュの太陽への想いを知った私は、その正反対のベクトルとしてアルチュール・ランボオを思い浮かべる。
ランスの更に北、太陽の少ない地シャルルビルに生まれたランボオは、エチオピアの灼熱の太陽を想い焦がれて死んでいった。
二人の偉大な文学者は、奇妙にも同じようにアフリカの熱い太陽を想い、自分の意志半ばで若くして死んでいったのだ。
カミュは、死ぬ前日にボージョレーのフルーリーを飲む。
「なぜ僕らは飲むのか?無力感からであり、自分を責めるからである」(3)
「パリ。朝の5時のカフェ。窓ガラスの水滴。沸き立つコーヒー。
市場で働く人と運送業者。
朝方にひっかけるリキュール。それからボージョレー」(4)
朝方にひっかけるリキュールとボージョレー、このカミュの文章からはゆっくりと流れていくであろう、これからの時間が想像できる。
カミュは、自宅のあるプロヴァンスからパリへ向かう途中に、ブルゴーニュに立ち寄った。
それは、カミュのいつもの行程であろう。
いつもと違うのは、友人夫妻と一緒だったということだけである。
ブルゴーニュの地に立ち寄り、ブルゴーニュのワイン、ボージョレーを飲む。
カミュはブレス産鶏肉のクリーム煮に、フルーリーを合わせた。
クリームの濃厚さを、瑞々しい果実味が躍動するワインで洗い流しながら愉しんだのであろうと、私は想像する。
友人の運転する車がプラタナスの木に激突して、このノーベル文学賞受賞作家が死んでしまうまでの2日間を、私はこの1冊の雑誌で知った。
その行程にもし友人がいなかったらと想像するのは、文学を愉しむ者がするべきではないだろう。
ボージョレーのワインが文学として私の心にインプレッションを与えてくれたことは、未だ無かった。
世間は毎年のこの時期、ボージョレーヌーボーの喧騒の余韻を持て余しているかのようだ。
この儚いお祭り騒ぎは、いつまで繰り返されるのであろうか。
表紙のシャトー・マルゴー1928年は、ダリが1976年にパリのタイユバンで飲んだワインである。
註
(1) 竹中 充「カミュ、太陽と死のブルゴーニュ」 『エスクァイア日本版』2001年1月号収録 p.51.
(2) 竹中 充 『前掲書』 p.54.
(3) 竹中 充 『前掲書』 p.54.
(4) 竹中 充 『前掲書』 p.51.
参考文献
竹中 充 「カミュ、太陽と死のブルゴーニュ」
『エスクァイア日本版』 エスクァイア マガジン ジャパン 2001年1月号
2011年10月31日月曜日
経験の差が、感動の差を生むということ。
ある人が何気なく、「経験の差が、感動の差を生む。」と呟いた。
バーの、カウンターでの話である。
会話の中での1フレーズは、そのパラグラフの中に埋もれていってしまうことが多い。
しかし私は、その何気ない「経験の差が、感動の差を生む」という言葉に、大きく反応してしまった。
その理由は、ピカソと岡本太郎であった。
岡本太郎がピカソの絵画を鑑賞して、感動のあまりに涙を流したらしい。
その話を大学4年生の時、卒業設計のゼミの先生から聞いた覚えがあった。
絵を見て、涙を流す。
そんなことが、あるのだろうか。
岡本太郎一流の、周りをインスパイアする語りなのではないだろうか、そう思っていた。
私は、非常に感動しやすいタイプである。
映画を鑑賞したり、小説を読んだりして、幾度と無く感動して涙を目に滲ませる。
それは表現者の一人として喜ばしいことであると、自分自身考えていることだ。
日常の中、人前で涙を流してしまうこと、それは恥ずべきことではないと考えている。
感受性が強いこと、それが自分の作品に還ってくると思っている。
だから、可能な限りに感動して涙を流し続けていたい。
そんな私でも、絵画を鑑賞して涙を流したことはなかった。
ピカソはもっとも好きな画家の一人である。
しかしピカソを鑑賞しても、一度も涙を流したことがなかった。
経験が少なかったのだろう。
ピカソをどれだけ思い入れて鑑賞してきた、という経験。
表現者としての経験も、未熟だった。
初めてパリのピカソ美術館を訪れ、本物の空気に触れたときにも、涙は滲まなかった。
感動をし、インスパイアされ、ピカソと同化したと思ったのに。
私はその後、建築家として経験を積んでいく。
様々な絵画を鑑賞し、そして鑑賞するだけではなく、画家の生き様に触れるように、作品を自分の心に取り込もうとした。
スティーブ・ジョブズが亡くなって、週刊誌に彼の伝説の名演説が全文掲載される。
電車に乗る時間潰しのために、何気なく買った週刊誌のページの中に、私はそれを見つけた。
そのスタンフォード大学の卒業式の演説を読むと、どうしても涙が滲んできてしまう。
読むたびに、読むたびに、感動を誘い涙が流れてきてしまうのだ。
私はアップル信奉者ではないし、アップル製品は1つも持っていない。
しかしこの演説は絶妙で、彼の生き様からはなむけの言葉まで、完璧に美しく纏まっていた。
ジョブズの演説に同調できるのは、人生の経験値が深くなったからなのだろうか。
波乱万丈の人生を自分が生きているから、心の琴線に触れてしまうのだろうか。
パリのピカソ美術館の数十年後、私はバルセロナのピカソ美術館を訪れた。
そのとき、私はピカソの作品に触れ、涙が自然に滲んでくるのを確かに感じたのだ。
幼少期の作品、青の時代、そして最上階に展示してある死ぬ間際のエスキースまでを、涙を滲ませながらピカソを旅するように鑑賞した。
この時私は初めて、岡本太郎がピカソの絵を見て涙を流したことを理解することができたのだった。
バーの、カウンターでの話である。
会話の中での1フレーズは、そのパラグラフの中に埋もれていってしまうことが多い。
しかし私は、その何気ない「経験の差が、感動の差を生む」という言葉に、大きく反応してしまった。
その理由は、ピカソと岡本太郎であった。
岡本太郎がピカソの絵画を鑑賞して、感動のあまりに涙を流したらしい。
その話を大学4年生の時、卒業設計のゼミの先生から聞いた覚えがあった。
絵を見て、涙を流す。
そんなことが、あるのだろうか。
岡本太郎一流の、周りをインスパイアする語りなのではないだろうか、そう思っていた。
私は、非常に感動しやすいタイプである。
映画を鑑賞したり、小説を読んだりして、幾度と無く感動して涙を目に滲ませる。
それは表現者の一人として喜ばしいことであると、自分自身考えていることだ。
日常の中、人前で涙を流してしまうこと、それは恥ずべきことではないと考えている。
感受性が強いこと、それが自分の作品に還ってくると思っている。
だから、可能な限りに感動して涙を流し続けていたい。
そんな私でも、絵画を鑑賞して涙を流したことはなかった。
ピカソはもっとも好きな画家の一人である。
しかしピカソを鑑賞しても、一度も涙を流したことがなかった。
経験が少なかったのだろう。
ピカソをどれだけ思い入れて鑑賞してきた、という経験。
表現者としての経験も、未熟だった。
初めてパリのピカソ美術館を訪れ、本物の空気に触れたときにも、涙は滲まなかった。
感動をし、インスパイアされ、ピカソと同化したと思ったのに。
私はその後、建築家として経験を積んでいく。
様々な絵画を鑑賞し、そして鑑賞するだけではなく、画家の生き様に触れるように、作品を自分の心に取り込もうとした。
スティーブ・ジョブズが亡くなって、週刊誌に彼の伝説の名演説が全文掲載される。
電車に乗る時間潰しのために、何気なく買った週刊誌のページの中に、私はそれを見つけた。
そのスタンフォード大学の卒業式の演説を読むと、どうしても涙が滲んできてしまう。
読むたびに、読むたびに、感動を誘い涙が流れてきてしまうのだ。
私はアップル信奉者ではないし、アップル製品は1つも持っていない。
しかしこの演説は絶妙で、彼の生き様からはなむけの言葉まで、完璧に美しく纏まっていた。
ジョブズの演説に同調できるのは、人生の経験値が深くなったからなのだろうか。
波乱万丈の人生を自分が生きているから、心の琴線に触れてしまうのだろうか。
パリのピカソ美術館の数十年後、私はバルセロナのピカソ美術館を訪れた。
そのとき、私はピカソの作品に触れ、涙が自然に滲んでくるのを確かに感じたのだ。
幼少期の作品、青の時代、そして最上階に展示してある死ぬ間際のエスキースまでを、涙を滲ませながらピカソを旅するように鑑賞した。
この時私は初めて、岡本太郎がピカソの絵を見て涙を流したことを理解することができたのだった。
2011年9月25日日曜日
珈琲の力学 パリの珈琲は何故おいしいのだろうか
ドリップで珈琲を抽出するひとときは、まるで哲学を思考しているかのようである。
挽いた珈琲豆をペーパーフィルターに入れ、お湯を落とす。
ただそれだけの行為なのだけれど、私にはそれが神聖な儀式のように思えてしまう。
『時間と自由』を語り、空間と時間の概念を哲学したベルクソン。
ベルクソンが「時間」と挌闘したように、珈琲を抽出する「無駄な時間」を昇華させようと、私も「時間」と挌闘する。
珈琲を抽出する行為は珈琲の力学との闘いである、と考えている。
フィルターに挽いた豆を移し、一点のポイントを目指して、可能な限り細く静かにお湯を注ぐ。
お湯は重力に引っ張られて、フィルターに入れた豆の間を通り抜けて行こうとする。
豆の間にお湯が滞在している時間が長いほど、珈琲のコクが増すと思うのだが、物理の法則に負けて無情にもお湯は下へ落ちていってしまう。
では、と思い、私は考える。
細長い、高さを持った特殊なフィルターと容器を作り、珈琲を抽出したらどうだろうか。
お湯が重力の法則に逆らわなくても、時間と距離の関係で珈琲の中の滞在時間が長くなる、特殊な珈琲抽出装置。
先が尖った円錐形のフィルターは、細く、長く、美しいフォルムをしているだろう。
容器に突き刺さったフィルターのコンポジションをイメージすると、アートに他ならないデザインが浮かんでくる。
街の中でコクのない珈琲を飲まされてしまうと、パリの珈琲を想い出してしまう。
パリの珈琲は、何故あれほど美味しいのだろうか。
東京の一流のシティホテル、しかも外資系のホテルのコーヒーハウスでさえ、マシーンからボタンひとつで抽出できてしまうコクとは無縁の珈琲をサーブする。
そこには、珈琲に対する哲学は全く存在しない。
日本人とフランス人との珈琲の哲学の相違なのだろうか。
文字通りの、フレンチローストされた豆から抽出された珈琲のコク。
抽出された珈琲の色は、濃い漆黒をしている。
珈琲を抽出してから時間が経ち、酸化して黒味を増した「悲しい黒色」では無い「本当の漆黒」が、そこには存在する。
黒色にも無数の黒色があることを絵画から教えられるように、漆黒にもそれぞれの漆黒があることを、私は珈琲から教えられた。
ある建築家の自邸で、ベトナムの珈琲をサーブされたことがある。
それはコクとともに、独特の美しい香りを持っていた。
まるで、ハーブ系のフレグランスの香りを嗅いでいるかのような、恍惚とした美しい香り。
珈琲で、こんな香りが嗅げるのだろうかという驚愕。
所謂、一般的なベトナム珈琲の抽出の仕方ではなく、普通にドリップした珈琲をサーブされたから、更に美しい香りが際立ったのだろう。
私はそういう飲み方も好きだ。
友人の彫刻家は、イタリアンローストした豆をエスプレッソで抽出しないで、ドリップをして愉しんでいた。
それも旨かった。
今でも漆黒のイタリアンローストをドリップして飲むと、自殺した友人の彫刻家を想い出す。
挽いた珈琲豆をペーパーフィルターに入れ、お湯を落とす。
ただそれだけの行為なのだけれど、私にはそれが神聖な儀式のように思えてしまう。
『時間と自由』を語り、空間と時間の概念を哲学したベルクソン。
ベルクソンが「時間」と挌闘したように、珈琲を抽出する「無駄な時間」を昇華させようと、私も「時間」と挌闘する。
珈琲を抽出する行為は珈琲の力学との闘いである、と考えている。
フィルターに挽いた豆を移し、一点のポイントを目指して、可能な限り細く静かにお湯を注ぐ。
お湯は重力に引っ張られて、フィルターに入れた豆の間を通り抜けて行こうとする。
豆の間にお湯が滞在している時間が長いほど、珈琲のコクが増すと思うのだが、物理の法則に負けて無情にもお湯は下へ落ちていってしまう。
では、と思い、私は考える。
細長い、高さを持った特殊なフィルターと容器を作り、珈琲を抽出したらどうだろうか。
お湯が重力の法則に逆らわなくても、時間と距離の関係で珈琲の中の滞在時間が長くなる、特殊な珈琲抽出装置。
先が尖った円錐形のフィルターは、細く、長く、美しいフォルムをしているだろう。
容器に突き刺さったフィルターのコンポジションをイメージすると、アートに他ならないデザインが浮かんでくる。
街の中でコクのない珈琲を飲まされてしまうと、パリの珈琲を想い出してしまう。
パリの珈琲は、何故あれほど美味しいのだろうか。
東京の一流のシティホテル、しかも外資系のホテルのコーヒーハウスでさえ、マシーンからボタンひとつで抽出できてしまうコクとは無縁の珈琲をサーブする。
そこには、珈琲に対する哲学は全く存在しない。
日本人とフランス人との珈琲の哲学の相違なのだろうか。
文字通りの、フレンチローストされた豆から抽出された珈琲のコク。
抽出された珈琲の色は、濃い漆黒をしている。
珈琲を抽出してから時間が経ち、酸化して黒味を増した「悲しい黒色」では無い「本当の漆黒」が、そこには存在する。
黒色にも無数の黒色があることを絵画から教えられるように、漆黒にもそれぞれの漆黒があることを、私は珈琲から教えられた。
ある建築家の自邸で、ベトナムの珈琲をサーブされたことがある。
それはコクとともに、独特の美しい香りを持っていた。
まるで、ハーブ系のフレグランスの香りを嗅いでいるかのような、恍惚とした美しい香り。
珈琲で、こんな香りが嗅げるのだろうかという驚愕。
所謂、一般的なベトナム珈琲の抽出の仕方ではなく、普通にドリップした珈琲をサーブされたから、更に美しい香りが際立ったのだろう。
私はそういう飲み方も好きだ。
友人の彫刻家は、イタリアンローストした豆をエスプレッソで抽出しないで、ドリップをして愉しんでいた。
それも旨かった。
今でも漆黒のイタリアンローストをドリップして飲むと、自殺した友人の彫刻家を想い出す。
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