2012年3月24日土曜日

ソクラテスの弁明

手元に、1冊の薄い本がある。

『ソクラテスの弁明』、『クリトン』が1冊になった、岩波文庫だ。

1927年に第1刷が発行された、久保勉が訳したこのプラトンの著作は、紀元前399年ソクラテスは不信心にして、新しき神を導入し、かつ青年を腐敗せしめる者として、市民の各階級を代表する三人の告発者から訴えられ、ついに死刑を宣告されるに至った(1)ときの物語である。

『ソクラテスの弁明』では、アテナイの法廷でのソクラテスの弁明が、弟子プラトンの筆により活き活きと、かつ芸術的に語られている。

『クリトン』は死刑の宣告があった後、獄中においてソクラテスとその忠信なる老友クリトンとの間に交わされたる対話から成っている(2)

ソクラテスの友であるカイレフォンはデルフォイにおもむき、巫女に神託を求めた。

ソクラテス以上の賢者があるか、とカイレフォンに伺いを立てられた巫女は、ソクラテス以上の賢者は一人もいない、と答える。

ソクラテスはこの神託に対し、神は一体、何を意味し、また何事を暗示するのであろうか(3)と考える。

神には虚言のあるはずがなく、ソクラテスは賢者と名高い人に会い、その賢者とソクラテスとどちらが至賢であるかを確かめようとした。

その結果、自ら賢者だと信じている者が賢者でないと分かると、ソクラテスは、あなたは賢者ではないのだ、と説明しようと努める。

その行為が、自らを賢者であると信じている者たちからの憎悪を受け、ソクラテスは捕らえられてしまうのである。

自らを賢者であると信ずる者に会い、そこを立ち去るソクラテスは、独り考える。

とにかく俺の方があの男より賢明であると。

では、何故ソクラテスは、その男より自分の方が賢明であると考えたのであろうか。

ソクラテスは、その男と自分の二人は、善についても美についても何も知っていないと思っている。
しかし、その男は何も知らないのに、何かを知っていると信じている。

これに反してソクラテスは、何も知りもしないが、知っているととも思っていない。

その男は、自ら知らぬことを知っていない。

少なくともソクラテスは、自ら知らぬことを知っているかぎりにおいて、その男より智慧の上で少しばかり優っていると考えるのだ。

要するにソクラテスは、自分は善や美について深く知ってはいない、ということを自覚している分だけ、知ったかぶりをしている男よりは賢明である、と説いているのである。

この一見逆説のような、美しいコンテクストに私は魅了された。

賢者であることの証明が、何も知らない、ということを自覚していることであるというのだ。

これは、カントが、著作『純粋理性批判』の冒頭で述べた、人間の理解を超えたものを考えることは、私の力以上である、と断言していることを彷彿とさせる。

このように、紀元前399年の古代ギリシャでは、ソクラテスが、自らを知らないということについて論考していた。


そして、現代のギリシャ。

2010年に初めて表面化した、財政危機。
デフォルトが叫ばれている。
EUのお荷物、とも。

ギリシャに世界が注目し始めると、お国事情が露呈されてきた。
公務員の数の多さ、給与の高さを私たちは知る。
財政圧縮を許さないために、ストやデモを繰り返す国民。

私は、このギリシャの国柄を初めて知ると、『ソクラテスの弁明』というタイトルが頭を過った。

まるで、現代のギリシャの窮状を、紀元前399年の古代ギリシャのアテナイから、「世界の皆様、ごめんなさい、許してください」とソクラテスが謝っているかのような、「弁明」である。

ソクラテスは、自分は深い知識は持っていない、と自己評価をして、最高の賢者であると評された。

現代のギリシャも、自国がどのような窮状であるかを充分に知った上で、対策を取らなければならない、とソクラテスは教えている。


(1) プラトン著 久保勉訳 『ソクラテスの弁明・クリトン』 解説p.121.
(2) プラトン著 久保勉訳 『前掲書』 解説p118.
(3) プラトン著 久保勉訳 『前掲書』 p.23.

参考文献
プラトン著 久保勉訳 『ソクラテスの弁明・クリトン』岩波文庫 2009年 

2012年2月27日月曜日

カント『純粋理性批判』 ア・プリオリな認識

哲学書の中でも、最も難解である1冊に挙げられるカントの『純粋理性批判』。
この書物には、一体何が書かれているのであろうか。

『純粋理性批判』が扱っているテーマは、実に膨大なものがある。
空間/時間とは何か。自由と必然の関係はどうなっているのか。
形而上学はいかにして可能か。神の存在証明は可能なのか、などなど(1)

形而上学とは、簡単に言えば私たち人間の知識を超えたものに対するスタディである。

神とは何か。宇宙とは何か。世界の始まりとは。心とは。そして存在することとは、どういうことなのか。

難解な『純粋理性批判』を著したカントであるが、彼はこの著作の冒頭で早速と、そのような人間の理解を超えたものを考えることは、私の力以上であると断言している。

世間には、ごく有りふれた形而上学の綱要書のなかでさえ、心の単一性だの、世界の始まりが必然的であることなどを証明する、とうたっているような著者がいくらもいる。しかし私の言分は、このたぐいのどんな著者の主張よりも、くらべものにならぬほど穏やかなものである。かかる著者は、人間の認識を可能的経験の一切の限界を越えて拡張しようとするが、私のほうは、そういうことはまったく私の力以上である、とつつましく告白するからである(2)

このようにカントは、人間の理解を越えたものなど分からないよ、と始めに言っているのだ。
だからと言って、『純粋理性批判』が読みやすい書物である、ということは全くない。

哲学の醍醐味である、単語の意味の再確認に始まり、センテンスの吟味、パラグラフの理解、コンテクストのイメージを充分に浮かばせても、1回の読み込みでは満足したロジックが、私の場合は得られなかった。

当然のことである。
研究者でさえ、一生を『純粋理性批判』とつき合っているのだから。

早々と、本書『純粋理性批判』を解読することを諦めて、入門書を手に取った。
カント研究者である、哲学者・黒崎政男による、「カント『純粋理性批判』入門」である。

これは非常に理解しやすく書かれた入門書、手引書である。
カントのセンテンスを引用しながら、解説を併走させている。
だからといってやはり1回読んだだけでは理解しがたく、私は3回読んでやっと表層を理解した。

黒崎政男は、『純粋理性批判』の魅力とは、〈客観的な認識とは何か〉というテーマであると言う。私たちの認識が客観的であるとはどういうことか。つまり、カントの用語でいえば、〈超越論的真理〉とは何か、という問題である(3)

分かりやすく言うと、〈本当にある〉とはどういうことなのか、つまり、〈在る〉から〈見える〉のか、それとも、〈見る〉から〈在る〉のか、という問題(4)である。

そして、カントの『純粋理性批判』は、対象が認識に従う、という主張をつらぬき通す(5)

これは、ここにコンピュータが存在しているから、私にその存在が可能になる、ということではなく、私がコンピュータがある、と認識したから、ここにコンピュータが(初めて)存在する、と主張する(6)ことに近い。

これを、カントのコペルニクス的転回と呼ぶ。

このような認識、解釈は、哲学書には良く出てくることであるが、哲学と無縁の人は「何だ、これは。」と思うだろう。
コンピュータがそこにあるのに、私がコンピュータを認識しない、と思えばコンピュータは見えなくなるのであろうか。
 私も哲学とは無縁で初めてこの認識に触れれば、おかしなことを言っているではないか、と思わずにはいられない。

しかし独学でも哲学の海を泳いでいると、このような認識に触れることはいくらでもあり、このように思考することが頭の体操のような気になってくるから不思議である。

そうなると、私も一人前の「哲学をする人」の仲間入りだ。

「存在すること」を論考したのは、何もカントが初めてではなく、古代ギリシャのプラトン、ソクラテス、アリストテレス、そして中世スコラ哲学においては普遍論争が有名である。

その時代、その時の哲学者により、さまざまなベクトルで神に近づこうとする。

カントのコペルニクス的転回となった、対象が認識に従うという主張の根底には、ア・プリオリという述語が生きている。
ア・プリオリとは、「より先なるもの」という意味で、具体的に言うと、経験に先立つ、あるいは、経験に由来しない、という意味である(7)

カントは、ア・プリオリな認識を駆使しながら、『純粋理性批判』で存在することを論じ、時間・空間を論じていく。

カントは、『純粋理性批判』を著した時、実に57歳であった。
これを考えると、カントは沈黙の人であり、遅咲きの人でもあったのだ。
正式に大学に就職するのは、1770年、45歳になってからのことである(8)

遅咲き、これは高齢化社会の現代にとって、ありがたい言葉ではないか。
カントのように、50歳を超えてからもますます頑張りたいものである。


(1) 黒崎政男著 「カント『純粋理性批判』入門」p.10.
(2) カント著 篠田英雄訳 『純粋理性批判』p.18.
(3) 黒崎政男著『前掲書』p.10.
(4) 黒崎政男著『前掲書』p.13.
(5) 黒崎政男著『前掲書』p.12.
(6) 黒崎政男著『前掲書』p.12.
(7) 黒崎政男著『前掲書』p.99.
(8) 黒崎政男著『前掲書』p.14.

参考文献
 黒崎政男著 「カント『純粋理性批判』入門」 講談社選書メチエ 2008年
 カント著 篠田英雄訳 『純粋理性批判』上 岩波文庫 2010年

2012年2月17日金曜日

カントから澁澤龍彦へと向かう思考の旅

今年に入ってから澁澤龍彦を再考しようと思い、1月初旬に古書店でユリイカ臨時増刊『総特集 澁澤龍彦』を入手した。

何故私は今年に入ってから澁澤龍彦を再考しようと思ったのか、そこに至るには、少なからず思考の旅があった。

去年の暮れに、なにげなく馴染みの古書店に私はふらっと入る。

特に求めたいものがある訳でもなく、書棚を眺めたり、平積みでぎっしりと置かれているユリイカや現代思想、現代詩手帖などを「発掘」していた。

そこに、『カントのアクチュアリティ(1)という1冊が目に留まる。
柄谷行人や浅田彰など4人の共同討議として、その中に黒崎政男のクレジットが目に入った。

私は黒崎政男の著書「カント『純粋理性批判』入門」で、ア・プリオリに認識することの概念を学んだ。
あくまでも、ア・プリオリの概念の表層を舐める程度に、であるが。

現代の論客4人の中にカント研究者・黒崎政男の名を見つけ、この共同討議が興味深いものに思え、私はこの1冊、『批評空間』を買い求めた。

巻頭から始まる26ページもの、しかも3段組みの中身の濃い討議を熟読していくと、浅田彰が言った言葉が気になってくる。

前後のコンテクストを省略し、以下に引用しよう。

浅田
一般に、ヒュームとルソーの衝撃があって、六十年代以降カントが大きく変わると言われますね。そこでルソーの衝撃のほうをもっと突きつめていくと、(中略)ホルクハイマーやラカンが言ったように「サドと共にあるカント(Kant avec Sade)」というのが出てくるだろう。(後略(2)

更に読み進めていく。

柄谷
でも、坂部さんのカント論を読んだとき、ぼくはなんとなくドゥールーズを考えた。ヒューム-ドゥールーズの線でカントを読む。
浅田
それはレトロスペクティヴな錯覚なんで、さっきも言ったとおり、あの段階では、ラカンやフーコーの言うようなルソー-サドの線に近いカント像だったと思いますよ。(中略)
ともあれ、坂部さんご自身も、それを読まれた柄谷さんも、かつてはカントをルソー-サドの線にひきつけて読まれたのではないかと思うけれども、(後略)(3)

このように、浅田彰はカントを読み解く1つのベクトルとして、サドを引用してくるのである。
前述の浅田彰の言葉にもあるように、カントはルソーの思想に強い影響を受けた。
一方、サドは囚われたバスティーユ監獄の中で、ルソーを読み解いていたという。

ここに登場するサドとは、もちろんサド侯爵のことである。

一般社会では特殊なフィルターをかけられて見られてしまうサドは、思想界・哲学の世界では、思想家としての揺るぎない地位を誇っている。

カントにおける「ルソーの衝撃」には、浅田彰が言う「ラカンが言う、サドと共にあるカント」が背景にあることが、私にとって興味深かった。
そこで、私はサドを読み解くことにしようと考える。

再び馴染みの古書店を訪れて、書棚を眺めた。
サドの文献を探すと、そこには当然のように澁澤龍彦の著作が数多く並んでいる。
私はサドを解釈することに至る前に、日本にサドを紹介した人物と言っていい、澁澤龍彦を再考しようと考えたのだ。

これが、カント― 黒崎政男―浅田彰―サドという思考の海を泳いで澁澤龍彦に到達した、私の旅である。

今年の1月下旬、あるパーティーで世話になっている人から、鎌倉、湘南周辺で家を建てたいから設計をお願いしたいと言われた。
ありがたい話である。
土地から探すので、私は早速鎌倉へと足を運んだ。

江ノ電に乗ると、稲村ガ崎を過ぎて七里ガ浜の手前から海が開けてくる。
東京から訪れた人間がその光景を目にすると、非日常の美しい風景に心を奪われてしまうだろう。

この突然に現れる海の風景も私は大好きであるが、鬱蒼とした鎌倉の森が私は気になる。
鎌倉を訪れるたびに、私は澁澤龍彦と鎌倉を重ね合わせて考えてしまうようになった。

澁澤龍彦は、鎌倉の輝く海よりも、鎌倉の深い森のくぐもった緑の匂いに包まれて暮らすほうが相応しいのではないか。
私は澁澤龍彦の、鎌倉小町の家も、北鎌倉の家も見たことは無い。
しかし、澁澤龍彦―三島由紀夫―土方巽―池田満寿夫―四谷シモンといった交遊録を思うと、鎌倉の海よりも、鎌倉の森を私は想像してしまう。

何回か鎌倉を訪れ、土地を見た。
七里ガ浜の山の頂上に土地があるというので、訪れる。

鬱蒼と茂った、主がいなく手入れを放棄された木々の中に入り、庭に出た。
そこには、大きな空と、遥か彼方まで見渡せる静かな海しか見えない。

私はこういう鎌倉の風景が好きだ。


(1) 柄谷行人+浅田彰+坂部恵+黒崎政男 『共同討議 カントのアクチュアリティ』
(2) 『前掲書』p.8.
(3) 『前掲書』p.18.

参考文献
柄谷行人+浅田彰+坂部恵+黒崎政男 『共同討議 カントのアクチュアリティ』
批評空間 19 大田出版 1998年

黒崎政男著 「カント『純粋理性批判』入門」 講談社選書メチエ 2008年

2012年1月25日水曜日

船戸与一とテキーラの芋虫

我が街荻窪に、訪れるべき名店がまた1軒姿を消す。

「番小屋」は40年も営業した、私の知る限りでは荻窪でもっとも古い居酒屋であった。
今年の3月に、番小屋はその幕を閉じる。
その番小屋を根城として、愛すべき凄い酒飲みがいた。

我が街荻窪を代表する作家といえば、かつては井伏鱒二であろうか。
荻窪駅前の教会通り商店街にある鮨屋を愛し、着流しでその鮨屋に入っていく姿を何度も私は見かけた。

その鮨屋も、既に何十年か前に姿を消している。

その井伏鱒二に弟子入りした太宰治も、一時は荻窪に暮らしていたようだ。
太宰治が暮らしていたという民家は、その古い当時の姿を変えずに荻窪の片隅に今も残っている。

文学界の巨星である井伏鱒二が、荻窪を堂々と歩き人目もはばからず街場の鮨屋に入るように、直木賞作家である冒険小説家・船戸与一も、荻窪の住民に溶け込んで荻窪の街を普通に歩いている。

番小屋は、「お母さん」が一人で切り盛りをしている居酒屋だ。
かつては、若いアルバイトの男の子もカウンターの中に入って働いていた。

そのお母さんを開店前に手伝うのが、「お父さん」である。

お父さんは、船戸与一と同じ小説家であり、作風もハードボイルドである。
スキンヘッドが似合う、ショーン・コネリーを彷彿とさせる風貌をしている。

お母さん、お父さんと家族ぐるみの付き合いをしているのが、船戸与一であった。

私は初めて、番小屋で船戸与一に出会う。
それ以降、船戸与一の魅力に私は惹きこまれていった。

お母さんたち、店の常連たちは、敬愛を込めて船戸与一のことを、本名をもじった名前で呼んでいた。
私は部外者の立場をわきまえて、一歩踏み込んだ中に溶け込みたかったけれども、「船戸さん」としか呼んだことがない。

それが私の礼儀だった。

番小屋に顔を出すたびに、どこの馬の骨かも分からない私にも、船戸与一は心優しく話しかけてくれるようになった。

次第に心は飲み友達のようになって、打ち解けていく。

いつしか私は、船戸与一を私が設計したレストランに連れて行くようになった。
冒険小説家に似つかわしくない、お上品なフランス料理でも、快く付き合ってくれる。

私のバーにも顔を出してくれるようになった。

「おい、堀川。オマエの店で一番高いボトルはどれだ。それを入れるぞ。」
私の店の売り上げを心配して、船戸与一は心優しく、そのひび割れた声で言う。

ある時、番小屋のお父さんと船戸与一は、二人で私のバーを訪れてくれた。
芋虫がまるまると1匹入ったテキーラのボトルを見つけて、それは何だと言う。

グサノロホというメスカルは、テキーラの原料となるリュウゼツランにつく芋虫を1匹、メスカルの中に入れている。
塩を舐めてからライムを口に入れ、テキーラを飲む、その塩がグサノロホには付いていた。
ただし、リュウゼツランに付く芋虫のオシッコを乾燥させてつくった塩である。

そんなことを話しながらメスカルを飲んでいると、おもむろに船戸与一が、その芋虫を食わせろと私に言った。
もちろん、腹が減っているから私に芋虫を食わせろと言ったのではない。

何にでも興味を持ち、自分の作品の舞台となる世界の地に行かないことには、作品を書くことができない、と言う船戸与一。

全て、自分の目で見て、自分で体験したことが、彼の小説の骨格となっている。

その興味がテキーラの芋虫に向けられ、私はボトルの中から芋虫をまな板の上に取り出した。
名を成す小説家にもなると、目の前の芋虫も食ってみないと気が済まないのであろうか。

端から1センチずつ位に切っていくと、白い外観の中からオレンジがかった内臓が見えてくる。
食べやすいように切って出すと、今度は「堀川、オマエも一緒に食え。」と言われてしまった。

一瞬躊躇したが、二人が何の逡巡もなく芋虫を口の中に入れるのを見て、私は覚悟を決めて口の中に入れる。
何の味もしない、ゴムのような食感は、今でも忘れられない。

それよりも、船戸与一と番小屋のお父さんと3人でテキーラの芋虫を食べたことは、誰にでも誇れる仲間意識を私に生み出してくれた。

その番小屋も幕を閉じてしまう春以降、私はどの店で粋な男に出会うことができるのだろうか。

2012年1月3日火曜日

クリエイティブとは、真似をしないこと

「クリエイティブとは、真似をしないこと」
これは、伝説のレストラン、エル・ブリの格言である。

スペインの田舎、カタルーニャ地方の海岸線沿いにある僅か50席のレストランに、年間200万件の予約が入る。

独創的な料理を提供するために、4月から10月までの半年しか営業をせず、残りの半年は新しいメニューの開発に勤しむという。

どの逸話を取っても、伝説のレストランにふさわしい言葉である。

かつては日本のメディアでは「エル・ブジ」とも表記されていたエル・ブリは、フェラン・アドリア率いる素晴らしいチームが運営するレストランであった。

であった、という過去形の表記をしたのは、2011年7月に惜しまれながらも閉店をしてしまったからである。
その閉店は、2年後に料理研究財団として新たに生まれ変わるためのステップだという。

まだエル・ブリの凄さが日本に完全に伝えられていない頃、それでもグルマンやワインフリークの間には、断片的な情報は入ってきていた。

私はかつて、ビルバオのグッゲンハイム美術館を訪れるために、バルセロナからビルバオをブッキングした際にカタルーニャのエル・ブリを訪れようと計画したことがあった。

しかし、冬の閉店時期だったために、それは叶わなかった。

もし、エル・ブリの完全なる凄さが私の耳に入ってきたならば、エル・ブリの開店時期に合わせてビルバオに行っていたかもしれない。

それほどにも、エル・ブリは焦がれて行かなければならないレストランである。

世界規模での訪れるべきレストランやホテルの新しい情報ほど、日本に入ってくることが遅いと、私は痛感する。

今でも鮮明に記憶しているが、アマンリゾーツの最初のホテル、アマンプリがオープンしたときにも、日本に入ってきた情報はごく僅かであった。

今でこそ我が日本の女性たちに大人気のアマンであるが、オープン当初は日本への情報発信がほとんどされていなかった、と言うと、信じられないと言う人がほとんどだろう。

私がプーケットを訪れようとしたときに、銀座にあったアメックスのトラベルカウンターにさえも、アマンプリのヴィジュアルな情報はなく、文字情報だけであった。

最高のラグジュアリーなホテルは、プーケット・ヨットクラブとアマンプリが併記されていて、ヴィジュアルな情報が完備されていた英語表記のプーケット・ヨットクラブよりも、文字情報だけしかなかった現地的な響きのするアマンプリを選んで、私は後悔しなかった。

こうして、オープン当初のアマンプリを訪れることができ、それ以来アマンリゾーツの虜になってしまう。

建築家、ハンス・ホラインに会いに行ったときに滞在したウイーンのシャトーホテル、パレ・コブルグも、まだ日本では誰も知らないだろう。

しかし数年後には、日本でブレイクするはずである。

世界中にある、まだ知らない素晴らしいレストランやホテルを訪れてみたいと思っているのは、私だけではないだろう。

このエル・ブリの、とてつもなく素晴らしい料理の数々を食べることの出来た人は、本当に幸せである。
料理と言う概念を覆した、創造性と斬新なコンセプト。

公開された映画、「エルブリの秘密 世界一予約のとれないレストラン」を鑑賞すると、フェラン・アドリアの生み出す料理は、料理を超えて芸術であることが誰の目にも理解できる。

フェラン・アドリアは、2007年ドイツの現代美術展ドクメンタ12にも参加した。
ドクメンタ12は、20世紀の重要な前衛芸術運動として、ピカソやモンドリアン、マティスを取り上げたり、ヨーゼフ・ボイスの作品を展示したりする、世界でもっとも重要な美術展の1つである。
もちろん、美術展に料理人が参加するのは初めてで、これは世界がフェラン・アドリアを芸術家として認めたことに他ならない。

食材を真空化したり、液体窒素で瞬間冷凍する。

エスプーマという泡立て手法を考案し、医療用のオブラートから食材を包む手法をインスピレーションする。

それは料理というよりは、美しい現代美術にも匹敵する創造物である。

「クリエイティブとは、真似をしないこと」
私たち建築家も、肝に銘じなければならない言葉だ。

参考文献
映画「エル・ブリの秘密 世界一予約のとれないレストラン」 パンフレット

2011年12月4日日曜日

問われなければ知っているが、問われたら知らない。

今年もいつもの年と変わらず、あっという間に師走になってしまった。
1年の短さは、特にこの時期に痛感する。

あれもやればよかった、これもやることができなかった。
1年という限定された時間の中で、あらゆる後悔が生まれてくる。

私たちが当然のように持っている、時間という概念。
哲学のフィールドを泳いでいると、しばしば「時間とは、何か。」という問い掛けに出くわすことがある。

時間とは、何か。

多くの人は、このように問い掛けられて応えることができるだろうか。
私も哲学に興味を抱かなければ、時間の概念などを考察することはなかったであろう。

ここに、偉大な哲学者が時間について言及した興味深い言葉を挙げたい。

《時間とは何かと問われなければ、私はそれが何であるかを知っている。もし問われたら、私は知らない。(アウグスティヌス『告白』)》(1)

もし私たちが時間について問われたなら、ほとんどの人が上述したアウグスティヌスのように考えるのが普通であろう。

時間というものは、私たちのもっとも身近にあるものであるから、それがどのようなものであるかはイメージ的に頭の中に入っている。
しかし、それを人に論理的に説明することが難しいことも、私たちは知っているのだ。

問われなければ、知っている。

問われたら、知らない。

アウグスティヌスは、西暦354年から430年を生きた、古代キリスト教の偉大な教父であり哲学者であった。
アウグスティヌスの説いた「自由意志」は、ショーペンハウアーやニーチェにまで影響を及ぼす。

『告白』では、若い頃に強い肉欲に支配され生きたこと、私生児である息子をもうけたこと、盗みを働き罪に溺れたことまでも、言及されている。

そのような奔放な生き方をしていたアウグスティヌスは、人間の意志は非常に無力なものである、と説いた。そして、神なしには善をなしえない、と教える。

西洋思想史上もっとも偉大な哲学者の一人であるアウグスティヌスが展開する時間概念は、現在の西洋思想が時間概念を語る上での基礎となっている。

一方、物理学者は時間を測定する、という言い方をする。
しかし、時間は視覚でも触覚でも、聴覚でも味覚でも、そして嗅覚でも捉えられない。

感覚で捉えられないものを、いったいどうやって測定できるのであろうか(2)

時間の特性に関する長期にわたる哲学論議には昔も今も変わらず、対極な二つの立場がある。一方の側には、時間は自然の創造物として客観的に存在するという考え方がある。
時間の存在形式は、知覚できないという点をのぞけば、他の自然物と変わらない。
ニュートンこそおそらくこの客観論的な考え方のもっとも重要な代表者だった(3)

反対側の陣営での支配的な考え方によると、時間とはさまざまな出来事をいわば通観することであり、人間の意識、言い換えれば人間の精神や理性の特性に依拠し、したがって、それらの条件である人間の経験に先行するものということになる。

すでにデカルトがこの考え方に傾いていた。それは、時間と空間をア・プリオリな総合の表示と見たカント哲学にもっとも大きな影響を与えた(4)

どちらにしても、時間は自然の産物である。

アインシュタインの相対性理論を駆使し、物理学から時間を解き明かそうとも、カントの『純粋理性批判』からア・プリオリな認識を抽出し、哲学から時間にアプローチしようとも、私たちは「永遠の現在」を生きることができるのだ。

永遠の現在、その瞬間に時間という概念は消滅していってしまう。

また1年、今年も時が過ぎていくが、時間が通過していってしまうのではなく、私たちの肉体・精神が成長していくのであると、私は考える。

その成長は、時間とは無関係に私が滅びるまで続くのだ。


(1) ノベルト・アリエス著 ミヒャエル・シュレーター編 井本晌二/青木誠之訳
   『時間について』p.1.
(2) 『前掲書』p.1.
(3) 『前掲書』p.4.
(4) 『前掲書』p.4.

参考文献
 ノベルト・アリエス著 ミヒャエル・シュレーター編 井本晌二/青木誠之訳
  『時間について』  
 《叢書・ウニベルシタス 545》 財団法人 法政大学出版局 1996年

2011年11月23日水曜日

ボージョレーとアルベール・カミュ

アトリエの棚を整理していたら、1冊の雑誌が目に留まった。

『エスクァイア日本版』2001年1月号。
表紙には大きく、シャトー・マルゴー1928年のボトルが刻印されている。

「ワインに愛された奇才たち。」とクレジットされたその号は、ピカソやロートレックからゲーンズブールまで、それぞれの奇才とワインに纏わるエピソードが紡ぎとられている。

この1冊を、雑誌というサブカルチャーに閉じ込めておくことはできないだろう。

ここに登場するヨハン・ゲーテ、ナポレオン・ボナパルト、クロード・モネ、パブロ・ピカソ、トゥールーズ・ロートレック、ココ・シャネル、藤田嗣治、アーネスト・ヘミングウェイ、吉田健一、トルーマン・カポーティ、セルジュ・ゲーンズブールそれぞれの研究者はもとより、文学者の1級の資料となりえる文章が展開されている。

雑誌の中のエッセイとして片付けるのには、あまりにも勿体無い。

私が特に惹かれたのは、竹中充によるボージョレーとアルベール・カミュの因果を語った文章であった。

竹中充は、1957年生まれ白百合女子大学仏文学科を卒業し、ワインに関する著作が数冊あるだけで多くを知られていない。

40歳代前半で亡くなったようで、その早世が作品の少なさを物語っている。

彼女の文章を追っていくと、カミュの最後の数日を私も一緒に共有しているような気分に浸ってしまう。

アルジェリアで生まれたカミュは、窮乏であったが太陽とともに育っていった。
その太陽の想いを人生の最後まで放さずに、霧にけぶるパリ(1)で、サルトルと仲良くサン=ジェルマン=デ=プレの悪徳、すなわちシャンパンとウオツカとワインのがぶ飲みに溺れていた(2)

竹中充の文章でカミュの太陽への想いを知った私は、その正反対のベクトルとしてアルチュール・ランボオを思い浮かべる。

ランスの更に北、太陽の少ない地シャルルビルに生まれたランボオは、エチオピアの灼熱の太陽を想い焦がれて死んでいった。

二人の偉大な文学者は、奇妙にも同じようにアフリカの熱い太陽を想い、自分の意志半ばで若くして死んでいったのだ。

カミュは、死ぬ前日にボージョレーのフルーリーを飲む。

「なぜ僕らは飲むのか?無力感からであり、自分を責めるからである(3)

「パリ。朝の5時のカフェ。窓ガラスの水滴。沸き立つコーヒー。
市場で働く人と運送業者。
朝方にひっかけるリキュール。それからボージョレー」(4)

朝方にひっかけるリキュールとボージョレー、このカミュの文章からはゆっくりと流れていくであろう、これからの時間が想像できる。

カミュは、自宅のあるプロヴァンスからパリへ向かう途中に、ブルゴーニュに立ち寄った。
それは、カミュのいつもの行程であろう。
いつもと違うのは、友人夫妻と一緒だったということだけである。

ブルゴーニュの地に立ち寄り、ブルゴーニュのワイン、ボージョレーを飲む。

カミュはブレス産鶏肉のクリーム煮に、フルーリーを合わせた。

クリームの濃厚さを、瑞々しい果実味が躍動するワインで洗い流しながら愉しんだのであろうと、私は想像する。


友人の運転する車がプラタナスの木に激突して、このノーベル文学賞受賞作家が死んでしまうまでの2日間を、私はこの1冊の雑誌で知った。

その行程にもし友人がいなかったらと想像するのは、文学を愉しむ者がするべきではないだろう。

ボージョレーのワインが文学として私の心にインプレッションを与えてくれたことは、未だ無かった。

世間は毎年のこの時期、ボージョレーヌーボーの喧騒の余韻を持て余しているかのようだ。

この儚いお祭り騒ぎは、いつまで繰り返されるのであろうか。

表紙のシャトー・マルゴー1928年は、ダリが1976年にパリのタイユバンで飲んだワインである。



(1) 竹中 充「カミュ、太陽と死のブルゴーニュ」 『エスクァイア日本版』2001年1月号収録 p.51.
(2) 竹中 充 『前掲書』  p.54.
(3) 竹中 充 『前掲書』  p.54.
(4) 竹中 充 『前掲書』  p.51.

参考文献
竹中 充 「カミュ、太陽と死のブルゴーニュ」  
『エスクァイア日本版』 エスクァイア マガジン ジャパン  2001年1月号