今年もいつもの年と変わらず、あっという間に師走になってしまった。
1年の短さは、特にこの時期に痛感する。
あれもやればよかった、これもやることができなかった。
1年という限定された時間の中で、あらゆる後悔が生まれてくる。
私たちが当然のように持っている、時間という概念。
哲学のフィールドを泳いでいると、しばしば「時間とは、何か。」という問い掛けに出くわすことがある。
時間とは、何か。
多くの人は、このように問い掛けられて応えることができるだろうか。
私も哲学に興味を抱かなければ、時間の概念などを考察することはなかったであろう。
ここに、偉大な哲学者が時間について言及した興味深い言葉を挙げたい。
《時間とは何かと問われなければ、私はそれが何であるかを知っている。もし問われたら、私は知らない。(アウグスティヌス『告白』)》(1)
もし私たちが時間について問われたなら、ほとんどの人が上述したアウグスティヌスのように考えるのが普通であろう。
時間というものは、私たちのもっとも身近にあるものであるから、それがどのようなものであるかはイメージ的に頭の中に入っている。
しかし、それを人に論理的に説明することが難しいことも、私たちは知っているのだ。
問われなければ、知っている。
問われたら、知らない。
アウグスティヌスは、西暦354年から430年を生きた、古代キリスト教の偉大な教父であり哲学者であった。
アウグスティヌスの説いた「自由意志」は、ショーペンハウアーやニーチェにまで影響を及ぼす。
『告白』では、若い頃に強い肉欲に支配され生きたこと、私生児である息子をもうけたこと、盗みを働き罪に溺れたことまでも、言及されている。
そのような奔放な生き方をしていたアウグスティヌスは、人間の意志は非常に無力なものである、と説いた。そして、神なしには善をなしえない、と教える。
西洋思想史上もっとも偉大な哲学者の一人であるアウグスティヌスが展開する時間概念は、現在の西洋思想が時間概念を語る上での基礎となっている。
一方、物理学者は時間を測定する、という言い方をする。
しかし、時間は視覚でも触覚でも、聴覚でも味覚でも、そして嗅覚でも捉えられない。
感覚で捉えられないものを、いったいどうやって測定できるのであろうか。(2)
時間の特性に関する長期にわたる哲学論議には昔も今も変わらず、対極な二つの立場がある。一方の側には、時間は自然の創造物として客観的に存在するという考え方がある。
時間の存在形式は、知覚できないという点をのぞけば、他の自然物と変わらない。
ニュートンこそおそらくこの客観論的な考え方のもっとも重要な代表者だった。(3)
反対側の陣営での支配的な考え方によると、時間とはさまざまな出来事をいわば通観することであり、人間の意識、言い換えれば人間の精神や理性の特性に依拠し、したがって、それらの条件である人間の経験に先行するものということになる。
すでにデカルトがこの考え方に傾いていた。それは、時間と空間をア・プリオリな総合の表示と見たカント哲学にもっとも大きな影響を与えた。(4)
どちらにしても、時間は自然の産物である。
アインシュタインの相対性理論を駆使し、物理学から時間を解き明かそうとも、カントの『純粋理性批判』からア・プリオリな認識を抽出し、哲学から時間にアプローチしようとも、私たちは「永遠の現在」を生きることができるのだ。
永遠の現在、その瞬間に時間という概念は消滅していってしまう。
また1年、今年も時が過ぎていくが、時間が通過していってしまうのではなく、私たちの肉体・精神が成長していくのであると、私は考える。
その成長は、時間とは無関係に私が滅びるまで続くのだ。
註
(1) ノベルト・アリエス著 ミヒャエル・シュレーター編 井本晌二/青木誠之訳
『時間について』p.1.
(2) 『前掲書』p.1.
(3) 『前掲書』p.4.
(4) 『前掲書』p.4.
参考文献
ノベルト・アリエス著 ミヒャエル・シュレーター編 井本晌二/青木誠之訳
『時間について』
《叢書・ウニベルシタス 545》 財団法人 法政大学出版局 1996年
2011年12月4日日曜日
2011年11月23日水曜日
ボージョレーとアルベール・カミュ
アトリエの棚を整理していたら、1冊の雑誌が目に留まった。
『エスクァイア日本版』2001年1月号。
表紙には大きく、シャトー・マルゴー1928年のボトルが刻印されている。
「ワインに愛された奇才たち。」とクレジットされたその号は、ピカソやロートレックからゲーンズブールまで、それぞれの奇才とワインに纏わるエピソードが紡ぎとられている。
この1冊を、雑誌というサブカルチャーに閉じ込めておくことはできないだろう。
ここに登場するヨハン・ゲーテ、ナポレオン・ボナパルト、クロード・モネ、パブロ・ピカソ、トゥールーズ・ロートレック、ココ・シャネル、藤田嗣治、アーネスト・ヘミングウェイ、吉田健一、トルーマン・カポーティ、セルジュ・ゲーンズブールそれぞれの研究者はもとより、文学者の1級の資料となりえる文章が展開されている。
雑誌の中のエッセイとして片付けるのには、あまりにも勿体無い。
私が特に惹かれたのは、竹中充によるボージョレーとアルベール・カミュの因果を語った文章であった。
竹中充は、1957年生まれ白百合女子大学仏文学科を卒業し、ワインに関する著作が数冊あるだけで多くを知られていない。
40歳代前半で亡くなったようで、その早世が作品の少なさを物語っている。
彼女の文章を追っていくと、カミュの最後の数日を私も一緒に共有しているような気分に浸ってしまう。
アルジェリアで生まれたカミュは、窮乏であったが太陽とともに育っていった。
その太陽の想いを人生の最後まで放さずに、霧にけぶるパリ(1)で、サルトルと仲良くサン=ジェルマン=デ=プレの悪徳、すなわちシャンパンとウオツカとワインのがぶ飲みに溺れていた。(2)
竹中充の文章でカミュの太陽への想いを知った私は、その正反対のベクトルとしてアルチュール・ランボオを思い浮かべる。
ランスの更に北、太陽の少ない地シャルルビルに生まれたランボオは、エチオピアの灼熱の太陽を想い焦がれて死んでいった。
二人の偉大な文学者は、奇妙にも同じようにアフリカの熱い太陽を想い、自分の意志半ばで若くして死んでいったのだ。
カミュは、死ぬ前日にボージョレーのフルーリーを飲む。
「なぜ僕らは飲むのか?無力感からであり、自分を責めるからである」(3)
「パリ。朝の5時のカフェ。窓ガラスの水滴。沸き立つコーヒー。
市場で働く人と運送業者。
朝方にひっかけるリキュール。それからボージョレー」(4)
朝方にひっかけるリキュールとボージョレー、このカミュの文章からはゆっくりと流れていくであろう、これからの時間が想像できる。
カミュは、自宅のあるプロヴァンスからパリへ向かう途中に、ブルゴーニュに立ち寄った。
それは、カミュのいつもの行程であろう。
いつもと違うのは、友人夫妻と一緒だったということだけである。
ブルゴーニュの地に立ち寄り、ブルゴーニュのワイン、ボージョレーを飲む。
カミュはブレス産鶏肉のクリーム煮に、フルーリーを合わせた。
クリームの濃厚さを、瑞々しい果実味が躍動するワインで洗い流しながら愉しんだのであろうと、私は想像する。
友人の運転する車がプラタナスの木に激突して、このノーベル文学賞受賞作家が死んでしまうまでの2日間を、私はこの1冊の雑誌で知った。
その行程にもし友人がいなかったらと想像するのは、文学を愉しむ者がするべきではないだろう。
ボージョレーのワインが文学として私の心にインプレッションを与えてくれたことは、未だ無かった。
世間は毎年のこの時期、ボージョレーヌーボーの喧騒の余韻を持て余しているかのようだ。
この儚いお祭り騒ぎは、いつまで繰り返されるのであろうか。
表紙のシャトー・マルゴー1928年は、ダリが1976年にパリのタイユバンで飲んだワインである。
註
(1) 竹中 充「カミュ、太陽と死のブルゴーニュ」 『エスクァイア日本版』2001年1月号収録 p.51.
(2) 竹中 充 『前掲書』 p.54.
(3) 竹中 充 『前掲書』 p.54.
(4) 竹中 充 『前掲書』 p.51.
参考文献
竹中 充 「カミュ、太陽と死のブルゴーニュ」
『エスクァイア日本版』 エスクァイア マガジン ジャパン 2001年1月号
『エスクァイア日本版』2001年1月号。
表紙には大きく、シャトー・マルゴー1928年のボトルが刻印されている。
「ワインに愛された奇才たち。」とクレジットされたその号は、ピカソやロートレックからゲーンズブールまで、それぞれの奇才とワインに纏わるエピソードが紡ぎとられている。
この1冊を、雑誌というサブカルチャーに閉じ込めておくことはできないだろう。
ここに登場するヨハン・ゲーテ、ナポレオン・ボナパルト、クロード・モネ、パブロ・ピカソ、トゥールーズ・ロートレック、ココ・シャネル、藤田嗣治、アーネスト・ヘミングウェイ、吉田健一、トルーマン・カポーティ、セルジュ・ゲーンズブールそれぞれの研究者はもとより、文学者の1級の資料となりえる文章が展開されている。
雑誌の中のエッセイとして片付けるのには、あまりにも勿体無い。
私が特に惹かれたのは、竹中充によるボージョレーとアルベール・カミュの因果を語った文章であった。
竹中充は、1957年生まれ白百合女子大学仏文学科を卒業し、ワインに関する著作が数冊あるだけで多くを知られていない。
40歳代前半で亡くなったようで、その早世が作品の少なさを物語っている。
彼女の文章を追っていくと、カミュの最後の数日を私も一緒に共有しているような気分に浸ってしまう。
アルジェリアで生まれたカミュは、窮乏であったが太陽とともに育っていった。
その太陽の想いを人生の最後まで放さずに、霧にけぶるパリ(1)で、サルトルと仲良くサン=ジェルマン=デ=プレの悪徳、すなわちシャンパンとウオツカとワインのがぶ飲みに溺れていた。(2)
竹中充の文章でカミュの太陽への想いを知った私は、その正反対のベクトルとしてアルチュール・ランボオを思い浮かべる。
ランスの更に北、太陽の少ない地シャルルビルに生まれたランボオは、エチオピアの灼熱の太陽を想い焦がれて死んでいった。
二人の偉大な文学者は、奇妙にも同じようにアフリカの熱い太陽を想い、自分の意志半ばで若くして死んでいったのだ。
カミュは、死ぬ前日にボージョレーのフルーリーを飲む。
「なぜ僕らは飲むのか?無力感からであり、自分を責めるからである」(3)
「パリ。朝の5時のカフェ。窓ガラスの水滴。沸き立つコーヒー。
市場で働く人と運送業者。
朝方にひっかけるリキュール。それからボージョレー」(4)
朝方にひっかけるリキュールとボージョレー、このカミュの文章からはゆっくりと流れていくであろう、これからの時間が想像できる。
カミュは、自宅のあるプロヴァンスからパリへ向かう途中に、ブルゴーニュに立ち寄った。
それは、カミュのいつもの行程であろう。
いつもと違うのは、友人夫妻と一緒だったということだけである。
ブルゴーニュの地に立ち寄り、ブルゴーニュのワイン、ボージョレーを飲む。
カミュはブレス産鶏肉のクリーム煮に、フルーリーを合わせた。
クリームの濃厚さを、瑞々しい果実味が躍動するワインで洗い流しながら愉しんだのであろうと、私は想像する。
友人の運転する車がプラタナスの木に激突して、このノーベル文学賞受賞作家が死んでしまうまでの2日間を、私はこの1冊の雑誌で知った。
その行程にもし友人がいなかったらと想像するのは、文学を愉しむ者がするべきではないだろう。
ボージョレーのワインが文学として私の心にインプレッションを与えてくれたことは、未だ無かった。
世間は毎年のこの時期、ボージョレーヌーボーの喧騒の余韻を持て余しているかのようだ。
この儚いお祭り騒ぎは、いつまで繰り返されるのであろうか。
表紙のシャトー・マルゴー1928年は、ダリが1976年にパリのタイユバンで飲んだワインである。
註
(1) 竹中 充「カミュ、太陽と死のブルゴーニュ」 『エスクァイア日本版』2001年1月号収録 p.51.
(2) 竹中 充 『前掲書』 p.54.
(3) 竹中 充 『前掲書』 p.54.
(4) 竹中 充 『前掲書』 p.51.
参考文献
竹中 充 「カミュ、太陽と死のブルゴーニュ」
『エスクァイア日本版』 エスクァイア マガジン ジャパン 2001年1月号
2011年10月31日月曜日
経験の差が、感動の差を生むということ。
ある人が何気なく、「経験の差が、感動の差を生む。」と呟いた。
バーの、カウンターでの話である。
会話の中での1フレーズは、そのパラグラフの中に埋もれていってしまうことが多い。
しかし私は、その何気ない「経験の差が、感動の差を生む」という言葉に、大きく反応してしまった。
その理由は、ピカソと岡本太郎であった。
岡本太郎がピカソの絵画を鑑賞して、感動のあまりに涙を流したらしい。
その話を大学4年生の時、卒業設計のゼミの先生から聞いた覚えがあった。
絵を見て、涙を流す。
そんなことが、あるのだろうか。
岡本太郎一流の、周りをインスパイアする語りなのではないだろうか、そう思っていた。
私は、非常に感動しやすいタイプである。
映画を鑑賞したり、小説を読んだりして、幾度と無く感動して涙を目に滲ませる。
それは表現者の一人として喜ばしいことであると、自分自身考えていることだ。
日常の中、人前で涙を流してしまうこと、それは恥ずべきことではないと考えている。
感受性が強いこと、それが自分の作品に還ってくると思っている。
だから、可能な限りに感動して涙を流し続けていたい。
そんな私でも、絵画を鑑賞して涙を流したことはなかった。
ピカソはもっとも好きな画家の一人である。
しかしピカソを鑑賞しても、一度も涙を流したことがなかった。
経験が少なかったのだろう。
ピカソをどれだけ思い入れて鑑賞してきた、という経験。
表現者としての経験も、未熟だった。
初めてパリのピカソ美術館を訪れ、本物の空気に触れたときにも、涙は滲まなかった。
感動をし、インスパイアされ、ピカソと同化したと思ったのに。
私はその後、建築家として経験を積んでいく。
様々な絵画を鑑賞し、そして鑑賞するだけではなく、画家の生き様に触れるように、作品を自分の心に取り込もうとした。
スティーブ・ジョブズが亡くなって、週刊誌に彼の伝説の名演説が全文掲載される。
電車に乗る時間潰しのために、何気なく買った週刊誌のページの中に、私はそれを見つけた。
そのスタンフォード大学の卒業式の演説を読むと、どうしても涙が滲んできてしまう。
読むたびに、読むたびに、感動を誘い涙が流れてきてしまうのだ。
私はアップル信奉者ではないし、アップル製品は1つも持っていない。
しかしこの演説は絶妙で、彼の生き様からはなむけの言葉まで、完璧に美しく纏まっていた。
ジョブズの演説に同調できるのは、人生の経験値が深くなったからなのだろうか。
波乱万丈の人生を自分が生きているから、心の琴線に触れてしまうのだろうか。
パリのピカソ美術館の数十年後、私はバルセロナのピカソ美術館を訪れた。
そのとき、私はピカソの作品に触れ、涙が自然に滲んでくるのを確かに感じたのだ。
幼少期の作品、青の時代、そして最上階に展示してある死ぬ間際のエスキースまでを、涙を滲ませながらピカソを旅するように鑑賞した。
この時私は初めて、岡本太郎がピカソの絵を見て涙を流したことを理解することができたのだった。
バーの、カウンターでの話である。
会話の中での1フレーズは、そのパラグラフの中に埋もれていってしまうことが多い。
しかし私は、その何気ない「経験の差が、感動の差を生む」という言葉に、大きく反応してしまった。
その理由は、ピカソと岡本太郎であった。
岡本太郎がピカソの絵画を鑑賞して、感動のあまりに涙を流したらしい。
その話を大学4年生の時、卒業設計のゼミの先生から聞いた覚えがあった。
絵を見て、涙を流す。
そんなことが、あるのだろうか。
岡本太郎一流の、周りをインスパイアする語りなのではないだろうか、そう思っていた。
私は、非常に感動しやすいタイプである。
映画を鑑賞したり、小説を読んだりして、幾度と無く感動して涙を目に滲ませる。
それは表現者の一人として喜ばしいことであると、自分自身考えていることだ。
日常の中、人前で涙を流してしまうこと、それは恥ずべきことではないと考えている。
感受性が強いこと、それが自分の作品に還ってくると思っている。
だから、可能な限りに感動して涙を流し続けていたい。
そんな私でも、絵画を鑑賞して涙を流したことはなかった。
ピカソはもっとも好きな画家の一人である。
しかしピカソを鑑賞しても、一度も涙を流したことがなかった。
経験が少なかったのだろう。
ピカソをどれだけ思い入れて鑑賞してきた、という経験。
表現者としての経験も、未熟だった。
初めてパリのピカソ美術館を訪れ、本物の空気に触れたときにも、涙は滲まなかった。
感動をし、インスパイアされ、ピカソと同化したと思ったのに。
私はその後、建築家として経験を積んでいく。
様々な絵画を鑑賞し、そして鑑賞するだけではなく、画家の生き様に触れるように、作品を自分の心に取り込もうとした。
スティーブ・ジョブズが亡くなって、週刊誌に彼の伝説の名演説が全文掲載される。
電車に乗る時間潰しのために、何気なく買った週刊誌のページの中に、私はそれを見つけた。
そのスタンフォード大学の卒業式の演説を読むと、どうしても涙が滲んできてしまう。
読むたびに、読むたびに、感動を誘い涙が流れてきてしまうのだ。
私はアップル信奉者ではないし、アップル製品は1つも持っていない。
しかしこの演説は絶妙で、彼の生き様からはなむけの言葉まで、完璧に美しく纏まっていた。
ジョブズの演説に同調できるのは、人生の経験値が深くなったからなのだろうか。
波乱万丈の人生を自分が生きているから、心の琴線に触れてしまうのだろうか。
パリのピカソ美術館の数十年後、私はバルセロナのピカソ美術館を訪れた。
そのとき、私はピカソの作品に触れ、涙が自然に滲んでくるのを確かに感じたのだ。
幼少期の作品、青の時代、そして最上階に展示してある死ぬ間際のエスキースまでを、涙を滲ませながらピカソを旅するように鑑賞した。
この時私は初めて、岡本太郎がピカソの絵を見て涙を流したことを理解することができたのだった。
2011年9月25日日曜日
珈琲の力学 パリの珈琲は何故おいしいのだろうか
ドリップで珈琲を抽出するひとときは、まるで哲学を思考しているかのようである。
挽いた珈琲豆をペーパーフィルターに入れ、お湯を落とす。
ただそれだけの行為なのだけれど、私にはそれが神聖な儀式のように思えてしまう。
『時間と自由』を語り、空間と時間の概念を哲学したベルクソン。
ベルクソンが「時間」と挌闘したように、珈琲を抽出する「無駄な時間」を昇華させようと、私も「時間」と挌闘する。
珈琲を抽出する行為は珈琲の力学との闘いである、と考えている。
フィルターに挽いた豆を移し、一点のポイントを目指して、可能な限り細く静かにお湯を注ぐ。
お湯は重力に引っ張られて、フィルターに入れた豆の間を通り抜けて行こうとする。
豆の間にお湯が滞在している時間が長いほど、珈琲のコクが増すと思うのだが、物理の法則に負けて無情にもお湯は下へ落ちていってしまう。
では、と思い、私は考える。
細長い、高さを持った特殊なフィルターと容器を作り、珈琲を抽出したらどうだろうか。
お湯が重力の法則に逆らわなくても、時間と距離の関係で珈琲の中の滞在時間が長くなる、特殊な珈琲抽出装置。
先が尖った円錐形のフィルターは、細く、長く、美しいフォルムをしているだろう。
容器に突き刺さったフィルターのコンポジションをイメージすると、アートに他ならないデザインが浮かんでくる。
街の中でコクのない珈琲を飲まされてしまうと、パリの珈琲を想い出してしまう。
パリの珈琲は、何故あれほど美味しいのだろうか。
東京の一流のシティホテル、しかも外資系のホテルのコーヒーハウスでさえ、マシーンからボタンひとつで抽出できてしまうコクとは無縁の珈琲をサーブする。
そこには、珈琲に対する哲学は全く存在しない。
日本人とフランス人との珈琲の哲学の相違なのだろうか。
文字通りの、フレンチローストされた豆から抽出された珈琲のコク。
抽出された珈琲の色は、濃い漆黒をしている。
珈琲を抽出してから時間が経ち、酸化して黒味を増した「悲しい黒色」では無い「本当の漆黒」が、そこには存在する。
黒色にも無数の黒色があることを絵画から教えられるように、漆黒にもそれぞれの漆黒があることを、私は珈琲から教えられた。
ある建築家の自邸で、ベトナムの珈琲をサーブされたことがある。
それはコクとともに、独特の美しい香りを持っていた。
まるで、ハーブ系のフレグランスの香りを嗅いでいるかのような、恍惚とした美しい香り。
珈琲で、こんな香りが嗅げるのだろうかという驚愕。
所謂、一般的なベトナム珈琲の抽出の仕方ではなく、普通にドリップした珈琲をサーブされたから、更に美しい香りが際立ったのだろう。
私はそういう飲み方も好きだ。
友人の彫刻家は、イタリアンローストした豆をエスプレッソで抽出しないで、ドリップをして愉しんでいた。
それも旨かった。
今でも漆黒のイタリアンローストをドリップして飲むと、自殺した友人の彫刻家を想い出す。
挽いた珈琲豆をペーパーフィルターに入れ、お湯を落とす。
ただそれだけの行為なのだけれど、私にはそれが神聖な儀式のように思えてしまう。
『時間と自由』を語り、空間と時間の概念を哲学したベルクソン。
ベルクソンが「時間」と挌闘したように、珈琲を抽出する「無駄な時間」を昇華させようと、私も「時間」と挌闘する。
珈琲を抽出する行為は珈琲の力学との闘いである、と考えている。
フィルターに挽いた豆を移し、一点のポイントを目指して、可能な限り細く静かにお湯を注ぐ。
お湯は重力に引っ張られて、フィルターに入れた豆の間を通り抜けて行こうとする。
豆の間にお湯が滞在している時間が長いほど、珈琲のコクが増すと思うのだが、物理の法則に負けて無情にもお湯は下へ落ちていってしまう。
では、と思い、私は考える。
細長い、高さを持った特殊なフィルターと容器を作り、珈琲を抽出したらどうだろうか。
お湯が重力の法則に逆らわなくても、時間と距離の関係で珈琲の中の滞在時間が長くなる、特殊な珈琲抽出装置。
先が尖った円錐形のフィルターは、細く、長く、美しいフォルムをしているだろう。
容器に突き刺さったフィルターのコンポジションをイメージすると、アートに他ならないデザインが浮かんでくる。
街の中でコクのない珈琲を飲まされてしまうと、パリの珈琲を想い出してしまう。
パリの珈琲は、何故あれほど美味しいのだろうか。
東京の一流のシティホテル、しかも外資系のホテルのコーヒーハウスでさえ、マシーンからボタンひとつで抽出できてしまうコクとは無縁の珈琲をサーブする。
そこには、珈琲に対する哲学は全く存在しない。
日本人とフランス人との珈琲の哲学の相違なのだろうか。
文字通りの、フレンチローストされた豆から抽出された珈琲のコク。
抽出された珈琲の色は、濃い漆黒をしている。
珈琲を抽出してから時間が経ち、酸化して黒味を増した「悲しい黒色」では無い「本当の漆黒」が、そこには存在する。
黒色にも無数の黒色があることを絵画から教えられるように、漆黒にもそれぞれの漆黒があることを、私は珈琲から教えられた。
ある建築家の自邸で、ベトナムの珈琲をサーブされたことがある。
それはコクとともに、独特の美しい香りを持っていた。
まるで、ハーブ系のフレグランスの香りを嗅いでいるかのような、恍惚とした美しい香り。
珈琲で、こんな香りが嗅げるのだろうかという驚愕。
所謂、一般的なベトナム珈琲の抽出の仕方ではなく、普通にドリップした珈琲をサーブされたから、更に美しい香りが際立ったのだろう。
私はそういう飲み方も好きだ。
友人の彫刻家は、イタリアンローストした豆をエスプレッソで抽出しないで、ドリップをして愉しんでいた。
それも旨かった。
今でも漆黒のイタリアンローストをドリップして飲むと、自殺した友人の彫刻家を想い出す。
2011年7月27日水曜日
もう一つのプラハ
私たち建築家にとって、プラハは魅力的な都市である。
全ての時代の歴史的な様式を持った建築物が、美しい姿を私たちの眼前に広げている。
ロマネスクの大聖堂、ゴシックの尖塔、ルネッサンスの宮殿、バロックの教会、アールヌーボーの駅。
世界遺産のこの街の、歴史的な美しい建築物の数々が、よくぞ現代にまで残ってくれていたことに感謝したい。
古都の中にも、異質な現代建築の衝撃を主張している作品がある。
フランク・ゲーリーがチェコ人建築家と協働した、ヴルタヴァ川沿いの「ダンシングビル」。
うねったガラスの造形がゲーリーらしさを出していて、彼の代表作の1つに数え上げられている。
それらの建築を訪ね、ミュシャのポスターに描かれているアールヌーボーの女性に乾杯をしながら、中欧の闇を持った歴史に足を踏み入れたいと、いつも想っていた。
ウイーンから足を延ばせばそれほどの距離を有しないこの魅力的な都市に、ウイーンに滞在するたびに想いを馳せていた。
しかしいまだに、「プラハの悲しみ」を共有することができないでいる。
東京都写真美術館に、「ジョセフ・クーデルカ プラハ 1968」を観に行った。
全篇モノクロで構成されたこの写真展は、プラハの春が終焉し、ワルシャワ条約機構軍がプラハへ侵攻した、「チェコ事件」を記録したドキュメンタリーである。
中欧の複雑に入り組んだ背景を歴史に遡り理解しないことには、プラハの悲しみにたどり着かないかもしれない。
かつてのハプスブルグ家の君臨とウイーンの繁栄が、中欧の中心となって宗教、文化、経済を形成していった。
そこにソ連の強大化による、近隣諸国の取り込みが行われ東欧という概念が成立する。そして、中欧のイメージは消え去られようとしていた。
ソ連の衛星国と成り下がったそれらの国々は、その後の革命により共産党政権が崩壊し、民主化をたどる。そして再び中欧の繁栄が起きた。
これらの諸国を一括りに語れないのは、民族や言語、文化の違いがあるだけではないだろう。宗教が全てであった時代を経験したこれらの諸国で、ローマカトリックがあり、正教会があるという歴史は、神聖ローマ帝国にまで遡らなければならない。
英雄と崇められていたスターリンの、国内での非スターリン化が、チェコスロバキアのノヴォトニー独裁に影を落とし始め、プラハの春の胎動を起こし始める。
その後就任したドゥブチェクは、党への権限の一元集中の是正や粛清犠牲者の名誉回復、言論 や芸術活動の自由化を謳う。
その一連の改革に終焉を打ったのが、ソ連が陣頭したワルシャワ条約機構軍のプラハ侵攻であった。ソ連が導こうとした共産主義への正常化政策という大義名分が、プラハ市民を怒りと悲しみに包む。
クーデルカの写真では、侵攻する軍に対し市民が立ち上がり、命を顧みず食い止めようとする姿が刻印されている。
市民の命の安全を考え、侵攻する軍隊に抵抗することを禁止した政府の命を受け、何も持たずに戦車の上に上がり抗議する青年。
戦車に安全に身を守られながら武器を持った多くの兵士に対峙する、何も持たないプラハ市民たち。
彼らは大勢で、戦車を取り囲んでいた。
私はこの衝撃を見て、自分がこの場にいたらこのような勇気ある行動を取れるのだろうか、自問せざる終えなかった。
国を愛する力が、このように市民を突き上げたのだろうか。
街を愛する力が、戦車を食い止めようとさせるのだろうか。
中欧という歴史を背負ったDNAがあるからだ、と言ってしまえばそれまでであるが、確実に私たち日本人とは相違がある。
その相違とは、やはりどれだけ自分の国を愛することができるのか、という深度に他ならないだろう。
今の私たち日本人は、自分の国を愛そうと思っていても素直に愛することが出来ないのではないだろうか。
政治の混乱、原発崩壊で初めて分かった偽装蔓延。
この時代のプラハ市民に学ぶことは、とても大きいと私は考えてしまうのだ。
全ての時代の歴史的な様式を持った建築物が、美しい姿を私たちの眼前に広げている。
ロマネスクの大聖堂、ゴシックの尖塔、ルネッサンスの宮殿、バロックの教会、アールヌーボーの駅。
世界遺産のこの街の、歴史的な美しい建築物の数々が、よくぞ現代にまで残ってくれていたことに感謝したい。
古都の中にも、異質な現代建築の衝撃を主張している作品がある。
フランク・ゲーリーがチェコ人建築家と協働した、ヴルタヴァ川沿いの「ダンシングビル」。
うねったガラスの造形がゲーリーらしさを出していて、彼の代表作の1つに数え上げられている。
それらの建築を訪ね、ミュシャのポスターに描かれているアールヌーボーの女性に乾杯をしながら、中欧の闇を持った歴史に足を踏み入れたいと、いつも想っていた。
ウイーンから足を延ばせばそれほどの距離を有しないこの魅力的な都市に、ウイーンに滞在するたびに想いを馳せていた。
しかしいまだに、「プラハの悲しみ」を共有することができないでいる。
東京都写真美術館に、「ジョセフ・クーデルカ プラハ 1968」を観に行った。
全篇モノクロで構成されたこの写真展は、プラハの春が終焉し、ワルシャワ条約機構軍がプラハへ侵攻した、「チェコ事件」を記録したドキュメンタリーである。
中欧の複雑に入り組んだ背景を歴史に遡り理解しないことには、プラハの悲しみにたどり着かないかもしれない。
かつてのハプスブルグ家の君臨とウイーンの繁栄が、中欧の中心となって宗教、文化、経済を形成していった。
そこにソ連の強大化による、近隣諸国の取り込みが行われ東欧という概念が成立する。そして、中欧のイメージは消え去られようとしていた。
ソ連の衛星国と成り下がったそれらの国々は、その後の革命により共産党政権が崩壊し、民主化をたどる。そして再び中欧の繁栄が起きた。
これらの諸国を一括りに語れないのは、民族や言語、文化の違いがあるだけではないだろう。宗教が全てであった時代を経験したこれらの諸国で、ローマカトリックがあり、正教会があるという歴史は、神聖ローマ帝国にまで遡らなければならない。
英雄と崇められていたスターリンの、国内での非スターリン化が、チェコスロバキアのノヴォトニー独裁に影を落とし始め、プラハの春の胎動を起こし始める。
その後就任したドゥブチェクは、党への権限の一元集中の是正や粛清犠牲者の名誉回復、言論 や芸術活動の自由化を謳う。
その一連の改革に終焉を打ったのが、ソ連が陣頭したワルシャワ条約機構軍のプラハ侵攻であった。ソ連が導こうとした共産主義への正常化政策という大義名分が、プラハ市民を怒りと悲しみに包む。
クーデルカの写真では、侵攻する軍に対し市民が立ち上がり、命を顧みず食い止めようとする姿が刻印されている。
市民の命の安全を考え、侵攻する軍隊に抵抗することを禁止した政府の命を受け、何も持たずに戦車の上に上がり抗議する青年。
戦車に安全に身を守られながら武器を持った多くの兵士に対峙する、何も持たないプラハ市民たち。
彼らは大勢で、戦車を取り囲んでいた。
私はこの衝撃を見て、自分がこの場にいたらこのような勇気ある行動を取れるのだろうか、自問せざる終えなかった。
国を愛する力が、このように市民を突き上げたのだろうか。
街を愛する力が、戦車を食い止めようとさせるのだろうか。
中欧という歴史を背負ったDNAがあるからだ、と言ってしまえばそれまでであるが、確実に私たち日本人とは相違がある。
その相違とは、やはりどれだけ自分の国を愛することができるのか、という深度に他ならないだろう。
今の私たち日本人は、自分の国を愛そうと思っていても素直に愛することが出来ないのではないだろうか。
政治の混乱、原発崩壊で初めて分かった偽装蔓延。
この時代のプラハ市民に学ぶことは、とても大きいと私は考えてしまうのだ。
2011年6月30日木曜日
宰相・大平正芳のウイスキー
東京都世田谷区瀬田。
東急東横線二子玉川駅から北東へ高台を上がると、そこには閑静な、歴史ある高級住宅地が形成されている。
二子玉川は東横線始発の渋谷からディスタンスがあるにもかかわらず、高島屋のスノッブな雰囲気がその高級住宅地のイメージを相乗させている。渋谷寄りにある自由が丘とともに、地域住民だけの街ではなく渋谷から足を延ばすことも面白い。
目指す瀬田1丁目には、高級マンションを横目に急勾配の坂道を登らなければならなかった。高台に出ると、閑静な住宅地に相応しくない幅員の広い道路が静かに佇んでいる。
住宅地の1区画が大きく確保されている、住環境の良好なその街区の中で、ひときわ威容を誇っている宅地があった。
770坪。その数字は大きな住宅地というイメージではなく、コレクションを満喫できる美術館がすっぽり収まるのほどの大きさである。
その瀬田の高台の770坪は、日本の宰相・大平正芳内閣総理大臣の邸宅跡地であった。
私はその大平正芳邸跡地に、あるプロジェクトを企画しプロデュースを任せられる。今から数年前のことだった。その魅力あるプロジェクトは、基本設計まで完了しその役目をひとまず終える。
私が巻き込んだ世界のスーパーアーキテクトは、日本の磯崎新、アメリカのリチャード・マイヤー、イギリスのリチャード・ロジャース、オーストリアのハンス・ホラインである。建築を知っている人間には、そのビッグネームが一堂に会したプロジェクトがあったと聞くだけで、驚きに包まれるに違いない。
そのプロジェクトのことはいずれ書かなければならないと思っている。ここでは、大平正芳邸の佇まいについて記していきたい。
門を通り抜け、樹木が鬱蒼と茂った石畳の車路を車寄せまで静寂の中を歩く。瀬田は緑多い地域であるが、大平邸は大きく成長した樹木が敷地境界線をガードするかのように茂っていて、周囲の樹木とは別格の佇まいを見せている。
プロジェクトを始動するために大平邸を解体するときには、周辺住民が大平邸に植栽されている樹木を分けて欲しいと嘆願し、そのように事業主が分け与えたほどの立派な銘木が揃っていた。
大平邸は、決して華美に走らず瀟洒な佇まいを見せる平屋建てであった。それは、日本の宰相として頂点を極めた人間をイメージすると、拍子抜けするほどの閑静な趣きを私に見せている。
私は、大平正芳と縁もゆかりもない。建築家の因果により、一時の日本の歴史をつくる場を大平正芳と共有したであろうこの邸宅に対峙することができる幸せを、車寄せの石畳に立ち私は噛み締めていた。
主がいなくなったこの邸宅に、幅広いガラス扉を開けて私は入る。既に解体業者が入り込み、雑然とした内部を目にすると、建築家という現実に引き戻されてしまう。
リビングルームの窓から前面の庭を望むと、まるで軽井沢の別荘のように、ここでも自然が自由に育っている。その荒れた風景は、主がいなくなり手入れを放棄されてしまった、悲しい物語を読むようだ。
私は内部に入り、初めて頂点を極めた者の恐ろしさが分かったような気がした。大平邸は、平屋建てである。770坪を一部家族に分筆したとしても、その規模は計り知れないほどの大きさだった。
何か必要な家屋、書斎があれば、敷地のどこにでも増築できるだろう。私が驚愕したのは、総理大臣の広い邸宅とはいえ平屋建ての住宅に、なんと地下に金庫室が設えてあったのである。
大きな平屋建てに不釣合いな、地下の金庫室。
常人の発想であれば、地下室に物を入れるのであれば、広い敷地の中、地上に倉庫などいくらでも建てられるだろう、と考える。しかし大平正芳は違った。
万が一の震災・火災に備えて、ということもあるだろう。しかし私には、決して表には出せない、日本の舵取りをしてきた証を眠らせていたのだと思えてしまうのだ。
私でなくても、大平正芳が暮らした手の跡を見てしまえば、誰でもそう思ってしまうはずだ。
リビングルームの床に、1本のウイスキーボトルが転がっていた。
コルクがささり、中身も2センチ程度残っている。私は何気なく手に取り、ラベルを読んだ。
そこには、「プレジデンツ チョイス」と書かれている。
メーカーは、サントリー。私には今までに見たことのないラベル、商品名であった。
マスターブレンダーとして、佐治敬三のサインが自筆でクレジットされている。
ボトルには、一般的なサントリーの商品のように流通させるためのバーコードや、企業の住所などは表記されていなかった。
まさに、「プレジデント」の邸宅に転がっていた、「プレジデンツ チョイス」であったので、歴代首相にサントリーが贈っていた特別な秘蔵のウイスキーであると、私は考えた。
特権階級の世界には、庶民には分からない、知らされない世界があるのだという秘め事を前にして、私は大平正芳邸の内部に入り込んだことに興奮を覚えた。
その後、プレジデンツ チョイスとは、サントリーのプレジデントがチョイスしたウイスキーであることが判明する。それであっても、プロパーの商品ラインナップには乗らない、隠れた特別なウイスキーであることには代わりない。
それをたぶんサントリーから贈られ、毎晩瀬田の邸宅で飲んでいたのだろう。この1本のウイスキーから、1つの小説を書くことができるかもしれない。
解体した大平正芳邸からは、大規模な瀬田遺跡が出土した。卑弥呼の時代だそうである。遥か時代を超えたその文脈から、私は悠久の繋がりを想わずにはいられない。
大平邸から持ち帰った「プレジデンツ チョイス」は、欠けたコルクを抜き去り、沈んでいたウイスキーの残りを洗い、私のバーに鎮座させている。
東急東横線二子玉川駅から北東へ高台を上がると、そこには閑静な、歴史ある高級住宅地が形成されている。
二子玉川は東横線始発の渋谷からディスタンスがあるにもかかわらず、高島屋のスノッブな雰囲気がその高級住宅地のイメージを相乗させている。渋谷寄りにある自由が丘とともに、地域住民だけの街ではなく渋谷から足を延ばすことも面白い。
目指す瀬田1丁目には、高級マンションを横目に急勾配の坂道を登らなければならなかった。高台に出ると、閑静な住宅地に相応しくない幅員の広い道路が静かに佇んでいる。
住宅地の1区画が大きく確保されている、住環境の良好なその街区の中で、ひときわ威容を誇っている宅地があった。
770坪。その数字は大きな住宅地というイメージではなく、コレクションを満喫できる美術館がすっぽり収まるのほどの大きさである。
その瀬田の高台の770坪は、日本の宰相・大平正芳内閣総理大臣の邸宅跡地であった。
私はその大平正芳邸跡地に、あるプロジェクトを企画しプロデュースを任せられる。今から数年前のことだった。その魅力あるプロジェクトは、基本設計まで完了しその役目をひとまず終える。
私が巻き込んだ世界のスーパーアーキテクトは、日本の磯崎新、アメリカのリチャード・マイヤー、イギリスのリチャード・ロジャース、オーストリアのハンス・ホラインである。建築を知っている人間には、そのビッグネームが一堂に会したプロジェクトがあったと聞くだけで、驚きに包まれるに違いない。
そのプロジェクトのことはいずれ書かなければならないと思っている。ここでは、大平正芳邸の佇まいについて記していきたい。
門を通り抜け、樹木が鬱蒼と茂った石畳の車路を車寄せまで静寂の中を歩く。瀬田は緑多い地域であるが、大平邸は大きく成長した樹木が敷地境界線をガードするかのように茂っていて、周囲の樹木とは別格の佇まいを見せている。
プロジェクトを始動するために大平邸を解体するときには、周辺住民が大平邸に植栽されている樹木を分けて欲しいと嘆願し、そのように事業主が分け与えたほどの立派な銘木が揃っていた。
大平邸は、決して華美に走らず瀟洒な佇まいを見せる平屋建てであった。それは、日本の宰相として頂点を極めた人間をイメージすると、拍子抜けするほどの閑静な趣きを私に見せている。
私は、大平正芳と縁もゆかりもない。建築家の因果により、一時の日本の歴史をつくる場を大平正芳と共有したであろうこの邸宅に対峙することができる幸せを、車寄せの石畳に立ち私は噛み締めていた。
主がいなくなったこの邸宅に、幅広いガラス扉を開けて私は入る。既に解体業者が入り込み、雑然とした内部を目にすると、建築家という現実に引き戻されてしまう。
リビングルームの窓から前面の庭を望むと、まるで軽井沢の別荘のように、ここでも自然が自由に育っている。その荒れた風景は、主がいなくなり手入れを放棄されてしまった、悲しい物語を読むようだ。
私は内部に入り、初めて頂点を極めた者の恐ろしさが分かったような気がした。大平邸は、平屋建てである。770坪を一部家族に分筆したとしても、その規模は計り知れないほどの大きさだった。
何か必要な家屋、書斎があれば、敷地のどこにでも増築できるだろう。私が驚愕したのは、総理大臣の広い邸宅とはいえ平屋建ての住宅に、なんと地下に金庫室が設えてあったのである。
大きな平屋建てに不釣合いな、地下の金庫室。
常人の発想であれば、地下室に物を入れるのであれば、広い敷地の中、地上に倉庫などいくらでも建てられるだろう、と考える。しかし大平正芳は違った。
万が一の震災・火災に備えて、ということもあるだろう。しかし私には、決して表には出せない、日本の舵取りをしてきた証を眠らせていたのだと思えてしまうのだ。
私でなくても、大平正芳が暮らした手の跡を見てしまえば、誰でもそう思ってしまうはずだ。
リビングルームの床に、1本のウイスキーボトルが転がっていた。
コルクがささり、中身も2センチ程度残っている。私は何気なく手に取り、ラベルを読んだ。
そこには、「プレジデンツ チョイス」と書かれている。
メーカーは、サントリー。私には今までに見たことのないラベル、商品名であった。
マスターブレンダーとして、佐治敬三のサインが自筆でクレジットされている。
ボトルには、一般的なサントリーの商品のように流通させるためのバーコードや、企業の住所などは表記されていなかった。
まさに、「プレジデント」の邸宅に転がっていた、「プレジデンツ チョイス」であったので、歴代首相にサントリーが贈っていた特別な秘蔵のウイスキーであると、私は考えた。
特権階級の世界には、庶民には分からない、知らされない世界があるのだという秘め事を前にして、私は大平正芳邸の内部に入り込んだことに興奮を覚えた。
その後、プレジデンツ チョイスとは、サントリーのプレジデントがチョイスしたウイスキーであることが判明する。それであっても、プロパーの商品ラインナップには乗らない、隠れた特別なウイスキーであることには代わりない。
それをたぶんサントリーから贈られ、毎晩瀬田の邸宅で飲んでいたのだろう。この1本のウイスキーから、1つの小説を書くことができるかもしれない。
解体した大平正芳邸からは、大規模な瀬田遺跡が出土した。卑弥呼の時代だそうである。遥か時代を超えたその文脈から、私は悠久の繋がりを想わずにはいられない。
大平邸から持ち帰った「プレジデンツ チョイス」は、欠けたコルクを抜き去り、沈んでいたウイスキーの残りを洗い、私のバーに鎮座させている。
2011年5月28日土曜日
人間は、万物の尺度である。 原発の是非をプロタゴラスに問う。
2011年1月31日の私のブログで、プロタゴラスの相対主義について論考した。
「人間は、万物の尺度である。」
これは、例えば善悪を考えるときに、それぞれの人にとってそれぞれの善悪の価値観が存在する、という意味の言葉である。
プラトンの初期対話編『プロタゴラス』では、有力なソフィストである長老プロタゴラスたちを相手に、ソクラテスが議論を仕掛けていく。
「人間は、万物の尺度である。」
これは、ある人にとって「悪い」と感じることが、ほかの全ての人にとっての「悪い」にはならない。
究極に考えればある人にとって「悪い」と感じることが、ある人にとっては「良い」と感じることもあるかもしれないのだ、ということが導かれる。
相対的に善悪を考える、それがプロタゴラスの相対主義である。
100人、人間がいれば、100通りの善の考え方がある、だから、「人間は、万物の尺度である」とする。
1月31日のブログでは、歩道に落ちる落ち葉や、桜を愛でながら酒を飲むことに関して、プロタゴラスの相対主義を引用しながら論考した。
そして、あの3月11日。
大地震が襲った後の、原発の崩壊。
今更ながら、それを容認してきた私たちがいるから、原発を造り続けてきた日本があるのです、と言う人がいるだろう。
私たちひとりひとりがもっと強く原発を反対しなかったから、これだけの原発ができてしまったのです、と言う人も。
私は、そういう人たちに問いたい。
私たちが原発はいらないという強い気持ちを持っていたとしても、それを超える強い力で国家が原発を造ってきたのではないのかと。
歩道に落ちる落ち葉や、桜を愛でながら酒を飲む詩的な風景ではなく、原発の是非をプロタゴラスの相対主義に当てはめて考えるとどうなるだろうか。
私たちが原発は危険だからいらない、と思っていても、あらゆる理由から原発は必要なのです、という人たちがいる。
それを突き詰めて、私たちの側から原発は悪だとすると、その人たちにとっては原発は善であるのだ。
この両極をパースペクティブに見ると、私はニーチェがキリスト教をルサンチマンの宗教であると断罪したことが、一瞬脳裏を過った。
ニーチェはキリスト教を悪の宗教だと言い、一方、キリスト教を善としてすがる人たちがいる。
しかし宗教は意思の問題で、悪と考えれば自ら遠ざかることもできるだろう。
原発はフクシマのように、逃げても逃げても遠ざかることはできない。
原発の問題は、電力の供給の問題である。
電力の供給という大前提に、危険と知りつつ全てを屈して推進していったのか。
プラトンの初期対話編『プロタゴラス』を、あらためて原発を頭に入れながら読み進めていくと、ぞっとしてしまう。
以下引用するので、そのように読み進めてもらいたい。
そもそも「悪いと知りつつ行う」というときの「悪い」とは何を意味するのか。
何かを行って、ある快楽を得る場合、その瞬間に快楽を提供するのみで、後になっても一切苦痛が生じないとしたら、それは別に悪でも何でもなかろう。
美食や暴飲など目先の快楽が後に深刻な病気を引き起こすように、後から結果する大きな苦痛のゆえに悪とされるのだ。
つまり、結果として苦痛に終わり、他の快楽を奪うからこそ、ある行為や快楽が「悪い」と言われるのであって、快楽それ自身は決して悪ではない
(『プロタゴラス』三五二D-E)
紀元前400年の哲学者の言葉に、現代の私たちは考えさせられてしまう。
まるで、今フクシマを前にして原発のレゾンデトールを語っているかのようである。
フクシマの惨状を知った上で尚マスコミの前に出てきて、原発の必要性を語った学者たちの言葉そのものではないか。
しかしここには、哲学者・荻野弘之が言うように、プラトンにせよアリストテレスにせよ「無抑制」という事態を問題にする際に、「意思」に相当する概念を一切用いていないのである。
言い換えれば、前述の『プロタゴラス』の快楽を原発に読み替えて、原発のレゾンデトールを肯定できたとしても、原発を推進しようとする人の意思を読み取ることはできない。
日本の未来を安全に取り戻すために、私たちは今こそ深く思慮しなければならない。
参考文献
荻野弘之著 『哲学の饗宴 ソクラテス・プラトン・アリストテレス』
日本放送出版協会 2009年
「人間は、万物の尺度である。」
これは、例えば善悪を考えるときに、それぞれの人にとってそれぞれの善悪の価値観が存在する、という意味の言葉である。
プラトンの初期対話編『プロタゴラス』では、有力なソフィストである長老プロタゴラスたちを相手に、ソクラテスが議論を仕掛けていく。
「人間は、万物の尺度である。」
これは、ある人にとって「悪い」と感じることが、ほかの全ての人にとっての「悪い」にはならない。
究極に考えればある人にとって「悪い」と感じることが、ある人にとっては「良い」と感じることもあるかもしれないのだ、ということが導かれる。
相対的に善悪を考える、それがプロタゴラスの相対主義である。
100人、人間がいれば、100通りの善の考え方がある、だから、「人間は、万物の尺度である」とする。
1月31日のブログでは、歩道に落ちる落ち葉や、桜を愛でながら酒を飲むことに関して、プロタゴラスの相対主義を引用しながら論考した。
そして、あの3月11日。
大地震が襲った後の、原発の崩壊。
今更ながら、それを容認してきた私たちがいるから、原発を造り続けてきた日本があるのです、と言う人がいるだろう。
私たちひとりひとりがもっと強く原発を反対しなかったから、これだけの原発ができてしまったのです、と言う人も。
私は、そういう人たちに問いたい。
私たちが原発はいらないという強い気持ちを持っていたとしても、それを超える強い力で国家が原発を造ってきたのではないのかと。
歩道に落ちる落ち葉や、桜を愛でながら酒を飲む詩的な風景ではなく、原発の是非をプロタゴラスの相対主義に当てはめて考えるとどうなるだろうか。
私たちが原発は危険だからいらない、と思っていても、あらゆる理由から原発は必要なのです、という人たちがいる。
それを突き詰めて、私たちの側から原発は悪だとすると、その人たちにとっては原発は善であるのだ。
この両極をパースペクティブに見ると、私はニーチェがキリスト教をルサンチマンの宗教であると断罪したことが、一瞬脳裏を過った。
ニーチェはキリスト教を悪の宗教だと言い、一方、キリスト教を善としてすがる人たちがいる。
しかし宗教は意思の問題で、悪と考えれば自ら遠ざかることもできるだろう。
原発はフクシマのように、逃げても逃げても遠ざかることはできない。
原発の問題は、電力の供給の問題である。
電力の供給という大前提に、危険と知りつつ全てを屈して推進していったのか。
プラトンの初期対話編『プロタゴラス』を、あらためて原発を頭に入れながら読み進めていくと、ぞっとしてしまう。
以下引用するので、そのように読み進めてもらいたい。
そもそも「悪いと知りつつ行う」というときの「悪い」とは何を意味するのか。
何かを行って、ある快楽を得る場合、その瞬間に快楽を提供するのみで、後になっても一切苦痛が生じないとしたら、それは別に悪でも何でもなかろう。
美食や暴飲など目先の快楽が後に深刻な病気を引き起こすように、後から結果する大きな苦痛のゆえに悪とされるのだ。
つまり、結果として苦痛に終わり、他の快楽を奪うからこそ、ある行為や快楽が「悪い」と言われるのであって、快楽それ自身は決して悪ではない
(『プロタゴラス』三五二D-E)
紀元前400年の哲学者の言葉に、現代の私たちは考えさせられてしまう。
まるで、今フクシマを前にして原発のレゾンデトールを語っているかのようである。
フクシマの惨状を知った上で尚マスコミの前に出てきて、原発の必要性を語った学者たちの言葉そのものではないか。
しかしここには、哲学者・荻野弘之が言うように、プラトンにせよアリストテレスにせよ「無抑制」という事態を問題にする際に、「意思」に相当する概念を一切用いていないのである。
言い換えれば、前述の『プロタゴラス』の快楽を原発に読み替えて、原発のレゾンデトールを肯定できたとしても、原発を推進しようとする人の意思を読み取ることはできない。
日本の未来を安全に取り戻すために、私たちは今こそ深く思慮しなければならない。
参考文献
荻野弘之著 『哲学の饗宴 ソクラテス・プラトン・アリストテレス』
日本放送出版協会 2009年
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