2010年6月15日火曜日

ニーチェの芸術論 アポロンとディオニュソス

 私と同じように哲学の専門教育を受けていないが、哲学が好きで、哲学を自分で探求している人は意外と多い。そういう哲学好きの人が、たまにふらりとバーの扉を開けてくれる。先日もウエブサイトで哲学とバーで検索し、初めてこのバーに足を踏み入れてくれた人がいた。
 そのW氏が薦めてくれたのが、アンドレコント=スポンヴィルという哲学者の『資本主義に徳はあるか』という著作である。私はスポンヴィルという哲学者を知らなかったし、その著作にも触れたことはなかった。このありがたいサジェスチョンから、スポンビルの思想に触れることが楽しみだ。
 独学で哲学を思索していると、研究者のように幅広い知識や情報を得ることができない。私は恥ずかしくもなく、知らないことを知らないと言うようにしている。そうすると、いろいろな人が、いろいろなことを教えてくれる。このようにして、私の拙い思索の系譜が広がっていくのだ。

 そのW氏と酒を飲みながら話すうちに、ニーチェはどのように芸術を語ったのだろうか、という話題になった。私はバックカウンターの、酒の棚に挟まれてある本棚から2冊のニーチェの本を取り出し、カウンターの上に置いた。私が愛読している藤田健治と三島憲一が著した著作である。

 ニーチェは、ギリシャ悲劇がどのように起こり、どのように亡びたか、ギリシャにおける悲劇的なものは何をその根底にしていたか(1)、という問題から説き始め、芸術論を展開させている。では何故ニーチェがギリシャ悲劇を論考しようとしたのか、ということは、三島憲一の「『ニーチェ』第三章 第一節 ギリシアへの夢」を参照することで、想像がつく。
 ニーチェが古典文献学を学んでいた学生時代、古代ギリシャの厳密な学問的研究から学んだ(2)知識が、ギリシャへの憧れを形成していったのだ。その憧れが、ギリシャ文化自身の相反する二つの方向がある、アポロンとディオニュソスという神々(3)を引用することで、自分の芸術論を位置づけようとしたとする私の考察は、後述するショーペンハウアやワーグナーとの関係と共に、ニーチェがギリシャ悲劇を論考した理由の一つとして数え上げてもいいだろう。

 三島憲一によれば、ディオニュソスとは生の根源にうごめくほの暗い名称であり、酒と狂乱の神であり、衝動と情念の世界の原理とされる。(4)それに対し、アポロンは光にあふれた形態の世界の原理であるという。(5)ディオニュソスが「生命の祝祭」であると同時に「性的放縦」を意味していたのと同様に、アポロンは美しい形態の神であるとともに、また場合によっては、生命の自然な発露を押さえ、抑圧する形式万能主義の神でもある。(6)

 ニーチェがこのように自身の芸術論を語ろうとした背景には、音楽への愛があった。ニーチェによるワーグナーへの憧れと邂逅、そして別離。その時代の中でニーチェが触れたのは、悲劇的なものはギリシャを超え現代に及び、それはワーグナーの生み出した楽劇の核心でもあり、やがてまたそれは生きんとする意志の現れであった。(7) 

 ニーチェは、ルソー、ゲーテ、ショーペンハウア三人を、近代が立てた三つの人間像として挙げている。(8)ルソー的な人間がときとすると権謀術策を弄するカティリナ的な人間となるように、ゲーテ的な人間は時代に妥協し協調する俗物的人間となる。これらに対し、ショーペンハウア的人間は誠実から進んで苦悩を引き受ける人間であるとする。(9) このショーペンハウアに見出される同じ悲劇的英雄を、ニーチェはワーグナーのうちに見ている。(10)

 このような過程を経て、ニーチェはショーペンハウアの哲学からディオニュソス的なものの方が根源的直接的であり、アポロン的なものは第二次間接的であるとする見方をする。(11)
 もう少し分かりやすく論ずれば、アポロン的芸術は理念を仲介として具体的に描写し、その限り現象の世界における一定の時と所にしばられた個の枠から離れられないのに対し、ディオニュソス的芸術は、わき上がる情熱的な歓喜の中に個の枠が吹き飛ばされて、すべてのものの根源と一つになってとけこむ体験を与えるのである。(12)そして、本来音楽の精神は、陶酔的感情的なディオニュソス的なものであるとニーチェはいう。(13)

 ニーチェ は、ショーペンハウア、ワーグナーを通してこのような芸術論を語るのであるが、その根底にはニーチェ特有の人間が持つ永遠の生命の存在が叫び続けられているのが見て取れる。
ニーチェの芸術論においては、悲劇は私たち人間に向かってあるがままの自然のあるとおりであれ、という。あるがままの自然とは、たえず移り変わる現象の中で永遠に生み出してやまず、すべてを存在させずにいない生命力のことであり、現象の変化のうちに永遠に生き続ける創造的生命のことである。(14)
 これはまさに、ニーチェがこの後展開させる永劫回帰や超人という思索に通じる論考に他ならない。

なにげなくカウンターの上に置いた二冊のニーチェから、思いがけずに芸術論から人間の永遠の生命を探求することができた一夜だった。

1 藤田健治 『ニーチェ』p.32.
2 三島憲一 『ニーチェ』p.47. 
3 藤田健治 『前掲書』p.33.文脈により筆者が改編する。
4 三島憲一 『前掲書』p.69.
5 三島憲一 『前掲書』p.69
6 三島憲一 『前掲書』p.70文脈により筆者が改編する。
7 藤田健治 『前掲書』p,32文脈により筆者が改編する。
8 藤田健治 『前掲書』p.63
9 藤田健治 『前掲書』p.63
10 藤田健治 『前掲書』pp.63f.
11 藤田健治 『前掲書』p.34.
12 藤田健治 『前掲書』p.35.文脈により筆者が改編する。
13 藤田健治 『前掲書』p.36.
14 藤田健治 『前掲書』pp37f..
参考文献
藤田健治 『ニーチェ』中公新書1994年
三島憲一 『ニーチェ』岩波新書1993年

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