最近、ある2冊の文献を並行的に読み解く機会があった。あらためてポストモダンを再考するために、何の脈絡もなく偶然に手に取った2冊である。
しかし読み解いていくと、この2冊が同じ向きを向いていることに気がつき、偶然の巡り合わせに面白く思い、その偶然に感謝もした。
2冊の文献とは、1985年初版の磯崎新著『いま、見えない都市』と、2001年に第1刷が発行された東浩紀著『動物化するポストモダン』である。
磯崎新の『いま、見えない都市』では、全編ポストモダンについて述べられているわけではない。「ポストモダンの時代的背景」、そして「ポストモダンの時代と建築」の項に、この著作ではポストモダンの 論考が集約されている。
東浩紀は建築に近いフィールドでの論考もあるようで、調べてみると2009年に磯崎新に言及したブログもあり、興味深い。
両者のポストモダン論考の背景には、フランスの社会学者ジャン・ボードリヤールから提出された概念、「シミュラークル」が基調となっている。
ボードリヤールはポストモダンの社会では、作品や商品のオリジナルとコピーの区別が弱くなり、そのどちらでもない「シミュラークル」という中間形態が支配的になると予測していた。(1)
シミュラークルという概念を加速させる底辺には、「二次創作」という存在があると東浩紀は指摘する。二次創作とは、原作のマンガ、アニメ、ゲームをおもに性的に読み替えて制作され、売買される同人誌や同人ゲーム、同人フィギュアなどの総称である。(2)
この視点からの論考は、この著作のタイトルのキャプションに付けられた「オタクから見た日本社会」に象徴される。
それを建築的フィルターに戻すと、磯崎新は世界の建築が「a+u」的になってくる、と述べる。
「a+u」などで、全世界の情報がひろげられる。そうすると、世界中に似たような建築が生まれてくるのもいたしかたない。
記号としての情報はそれがスピーディーにひろがって、数多くの眼にふれると、急に新鮮味がうすれる。記号が消費されていくのだ。
建築のスタイルについても同様で、コピーされ変形され、しぼられたあげくに、使い捨てられる。この消費の仕組みの良し悪しを論じてもしかたない程にそれは今日では一般化し、動かしがたい事実になっている。
そうすると、現実に起こっているものはどこか別なものの引き写しにすぎないというようなことが進行し始める。そういう状況になってきたのがポスト・モダンという時代ではないかと見てとれる。(3)
長い引用だが、磯崎新が1985年に指摘した状況が、2001年に、東浩紀によりオタク側からの視点として論考されることが私にはとても興味深い。
磯崎新が述べた、建築のコピー・使い捨ての状況からは、オリジナルが喪失していってしまう。そして磯崎新は、モダンとポストモダンをどこで区切るか、ということにこの著作では言及している。
著作の原文通りに引用したい。
そこで、モダニズムとポスト・モダニズム、あるいはモダンとポストモダンというものを仮定した場合に、それをどこで区切るかということが、まずいちばんの問題になります。
私はこの区切りをアヴァンギャルドが終わったとき、というとちょっと大げさになりますけれども、アヴァンギャルドが効力を失い始めたとき、その時点をこの二つの考え方の区切りにしたいと思うのです。
だから、もし現在がポストモダンであるならば、アヴァンギャルドというのはもはや有効性がなくなった時代であるとみていただいていいと思います。アヴァンギャルドはモダニズムの産物だったからです。(4)
「アヴァンギャルドはモダニズムの産物だった」というセンテンスに、私は衝撃を受けてしまった。それでは私はいま、まさにモダニズムのあとの時代を生きているのにもかかわらず、モダンの産物であるアヴァンギャルド、前衛を志向しようとしているのか。
だから、私のような作風では作品として成立することの困難さが、同時代を生き抜いている建築家に比べて重たいのだろうか。
しかしそれでは建築家としてのアイデンティティがあまりにも希薄である。それよりも、私がスタディの手を動かすとどうしてもあのようなデザインになってしまうのだ。
それが前衛であっても、時代に関係なく私の建築をつくっていくことしか私にはできない。
それが、私の生き方である。
磯崎新の『いま、見えない都市』では、サブ・カルチュアについても述べられている。サブ・カルチュアを評価する磯崎新のスタンスが、世界を代表する文化人であるがゆえに、魅力的な位置に立っていると思うのは私だけだろうか。
註
1 東浩紀著 『動物化するポストモダン』 p.41
2 東浩紀著 『前掲書』 p.40
3 磯崎新著 『いま、見えない都市』 p.142
4 磯崎新著 『前掲書』 pp.114f.
参考文献
東浩紀著『動物化するポストモダン』 講談社現代新書 2010年
磯崎新著『いま、見えない都市』 大和書房 1985年
2011年2月28日月曜日
2011年1月31日月曜日
歩道に落ちる落ち葉は不要なものだろうか プロタゴラスの相対主義
朝早く、街路樹が植栽されている歩道を歩く機会があった。幹が太く、10メートル以上もある立派な樹木が何百メートルも続いている。
落ち葉の季節だった。落葉樹からは葉がいっせいに落ち、歩道に落ち葉の絨毯をつくっていた。
その幅広い歩道いっぱいに、落ち葉が敷きつめられている。
都心から少し離れた場所とはいえ、都会的な風景の中に、こんなに美しい自然がつくる光景に出会ったのは久しぶりだった。
歩道の上に、こんなに厚く落ち葉が「積もっている」状態の上を歩くのは、初めてである。心地良いクッションのように、少し踵が沈む。踏み出した足を落ち葉に沈めるときに、「カサッ」という乾いた音がして新鮮だった。
子供の頃に霜柱を踏んで遊んだ、あの懐かしい、足の感触と聴こえてくる音の調和が蘇ってきた。革靴で歩いていると、少し滑りそうになる。それもまた、楽しい感触だった。
ほどなく歩いていくと中学校があり、そこの生徒が大勢で歩道の落ち葉を掃除していた。まだ授業前の朝のひと時である。何日か続けてその歩道を歩いたが、毎朝生徒が掃除を欠かさないでくれていた。もちろん、先生らしき姿の人も一緒に。
私はその歩道を歩くたびに、気持ちの良い朝を迎えることができた。私だけではないだろう。その歩道を歩く全ての人が、幸せな気持ちになったはずだ。落ち葉のおかげと、その中学校の関係者のおかげで。
「だから、落葉樹はやめましょう。」という声が聞こえてきそうだ。「掃除がたいへんですから。」いつもの聞き飽きた言葉が、後に続く。
クライアントがデベロッパーだと、住宅を設計するときに、よく出会う言葉がある。私は酒が好きだから、庭に桜を植えて家でゆっくりと酒を飲みながら花見ができるようにしましょう、とクライアントに提案をする。すると、いつもの聞き飽きた言葉が返ってくる。「桜は虫が付いて、手入れがたいへんですから。」
プラトンの初期対話編『プロタゴラス』に登場する長老プロタゴラスは、「人間は万物の尺度である」と説いた。これは、「プロタゴラスの相対主義」として有名な言葉である。
善悪を考えるときに、ある人が良いと思うことが、別の人にとっては良いと思わないこともある、それが相対主義の原点だ。
悪の絶対的な基準もない、とする。絶対主義の悪の概念ではなく、相対主義で悪を追求していくと、では一体「悪い」とはどういうことなのだろうか、という思考に入っていってしまう。ソクラテスのプロタゴラスへの提起は、その思考を切り取っている。
私が、落ち葉を踏みながら歩くことを楽しんでいるときに、落ち葉は掃除する手間がたいへんだから、落葉樹なんか植えない方がいいと思う人がいる。
桜を愛でながら酒を飲みたい、と私が思うときに、桜の手間がたいへんだと思う人がいる。
そういうときに、私は相対主義を超越して、美を尺度の拠り所にしようと考える。美や感覚を大事にしたい。
「人間は万物の尺度である」という「人間」を、「美」に変えてしまうのだ。それで全て上手く収まるはずはないし、クライアントにプロタゴラスの話をするわけではない。
しかし桜が散る美しい季節に、ひらひらと舞い落ちてきた桜の花びらが一枚、盃の酒の上に浮かぶ姿を美しいと思わない人はいないだろう。
この寒さが通り越していったら、美しい桜が舞う季節が今年もやってくる。愛する人と、盃を持って出かけようではないか。
落ち葉の季節だった。落葉樹からは葉がいっせいに落ち、歩道に落ち葉の絨毯をつくっていた。
その幅広い歩道いっぱいに、落ち葉が敷きつめられている。
都心から少し離れた場所とはいえ、都会的な風景の中に、こんなに美しい自然がつくる光景に出会ったのは久しぶりだった。
歩道の上に、こんなに厚く落ち葉が「積もっている」状態の上を歩くのは、初めてである。心地良いクッションのように、少し踵が沈む。踏み出した足を落ち葉に沈めるときに、「カサッ」という乾いた音がして新鮮だった。
子供の頃に霜柱を踏んで遊んだ、あの懐かしい、足の感触と聴こえてくる音の調和が蘇ってきた。革靴で歩いていると、少し滑りそうになる。それもまた、楽しい感触だった。
ほどなく歩いていくと中学校があり、そこの生徒が大勢で歩道の落ち葉を掃除していた。まだ授業前の朝のひと時である。何日か続けてその歩道を歩いたが、毎朝生徒が掃除を欠かさないでくれていた。もちろん、先生らしき姿の人も一緒に。
私はその歩道を歩くたびに、気持ちの良い朝を迎えることができた。私だけではないだろう。その歩道を歩く全ての人が、幸せな気持ちになったはずだ。落ち葉のおかげと、その中学校の関係者のおかげで。
「だから、落葉樹はやめましょう。」という声が聞こえてきそうだ。「掃除がたいへんですから。」いつもの聞き飽きた言葉が、後に続く。
クライアントがデベロッパーだと、住宅を設計するときに、よく出会う言葉がある。私は酒が好きだから、庭に桜を植えて家でゆっくりと酒を飲みながら花見ができるようにしましょう、とクライアントに提案をする。すると、いつもの聞き飽きた言葉が返ってくる。「桜は虫が付いて、手入れがたいへんですから。」
プラトンの初期対話編『プロタゴラス』に登場する長老プロタゴラスは、「人間は万物の尺度である」と説いた。これは、「プロタゴラスの相対主義」として有名な言葉である。
善悪を考えるときに、ある人が良いと思うことが、別の人にとっては良いと思わないこともある、それが相対主義の原点だ。
悪の絶対的な基準もない、とする。絶対主義の悪の概念ではなく、相対主義で悪を追求していくと、では一体「悪い」とはどういうことなのだろうか、という思考に入っていってしまう。ソクラテスのプロタゴラスへの提起は、その思考を切り取っている。
私が、落ち葉を踏みながら歩くことを楽しんでいるときに、落ち葉は掃除する手間がたいへんだから、落葉樹なんか植えない方がいいと思う人がいる。
桜を愛でながら酒を飲みたい、と私が思うときに、桜の手間がたいへんだと思う人がいる。
そういうときに、私は相対主義を超越して、美を尺度の拠り所にしようと考える。美や感覚を大事にしたい。
「人間は万物の尺度である」という「人間」を、「美」に変えてしまうのだ。それで全て上手く収まるはずはないし、クライアントにプロタゴラスの話をするわけではない。
しかし桜が散る美しい季節に、ひらひらと舞い落ちてきた桜の花びらが一枚、盃の酒の上に浮かぶ姿を美しいと思わない人はいないだろう。
この寒さが通り越していったら、美しい桜が舞う季節が今年もやってくる。愛する人と、盃を持って出かけようではないか。
2010年12月25日土曜日
教育者は『エミール』を読んでいるのだろうか。ルソーの「消極的教育」を再考する。
小学生の児童が、いじめの果てに自殺をしたという報道が駆け巡った。何度となく繰り返される、いじめによる悲劇。しかしまた新しい事件が巷を賑わすと、その悲しさもいつのまにか風化していってしまう。そしてまた同じような悲劇が、私たちを襲う。そのとき、私たちは同じような涙を流すだけだ。
この報道に接したとき、私はふたたびルソーの『エミール』を手に取った。『エミール』は、よく知られたようにルソーの教育論である。1762年に刊行されたこの古典を、私は現代教育者に参考にするべく提言をしようとするのではない。
ルソーと教育論との結びつきも、一見きわめて特異なものであり、逆説的でさえある。まず第一に、彼自身、教育を受けた経験がない。(1)教育を受けたことのない者が著した教育論に、何故私が惹かれたのだろうか。
『エミール』は、教育小説ふうの教育論であるが、この教育論はルネサンスのモンテーニュ、ラブレーから、17世紀のロック、フェヌロン、それに同時代のコンディアックなどの近代の人間観の系譜につながり、とくにモンテーニュとロックに深い血縁を保っている。(2)
『エミール』は、後半ルソーの言う「自然宗教」の思想の展開に多くを費やすが、前半に表れるエミールに対する教育の具体的記述に、私は現代においても学ぶところが大きいと確信する。
エミールとは、ルソーが自分に一人の架空の生徒を与えた、その名前である。孤児としてエミールを設定し、その生徒の教育にたずさわるにふさわしい年齢、健康、知識、その他すべての才能に恵まれていると仮定し、彼が生まれたときから、成人して、もう彼以外の人間によって指導される必要がなくなるときまで、その教育を監督しようと決心した、(3)その思想が詳細に現れている。
この『エミール』前半に現れている重要な思想は、ルソーの提唱する否定的教育、或いは消極的教育である。ルソーは、できるだけ子供の語彙を少なく限るようにしなさい(4)、と言う。これはどういうことかというと、子供が観念よりも言葉のほうを多くもっていると、自分の頭で考えて説明するということに不都合を生じるというのだ。
これはルソーの独特な考えかもしれないが、あまりに早くから口をきかされる子供は、正確な発音を学んでいる暇も、自分の言わせられている事柄を十分に理解している暇ももたない(5)と述べる。
反対に、子供のなすがままにほうっておけば、子供はまず、いちばん発音のやさしい音節を練習する。その音節に、少しずつ意味を付け加えて、それを身ぶりによって人に理解させ、あなたの方のことばを受け入れる前に、自分たちのことばをあなた方に伝えるのだ。(6)
要するに、ルソーは子供を過保護にせずに放っておけと言っているのである。それがルソーの消極的教育の原点だ。それにより、子供は「自分で考える」という一番重要なことを、自然に学んでいく。
けがをしてしまった子供に対しての論考がある。ころんでも、頭にこぶをこしらえても、鼻血を出しても、指を切っても、わたしは驚いて子供のそばに駆け寄ったりしないで、じっとしているだろう、(7)とルソーは述べる。
けがはもうしてしまったのだ。子供がそれを我慢するのは、一つの必然である。実際けがをしたとき、われわれを苦しませるのは、傷そのものよりも、恐れの気持ちなのだ。わたしはせめて、子供にこの二番目の苦しみだけはさせないでおくことだろう(8)、と言う。
さらに引用を続ける。今回の事件の報道に接して、最も私の琴線に触れた一文を挙げたい。
エミールがけがをしないように心を配るどころか、わたしは、彼が一度もけがをせず、苦痛というものを知らずに大きくなったら、非常に残念だと思うだろう。苦しむということは、彼が学ばなければならぬ最初の事柄であり、将来のためにいちばん知っておく必要のある事柄である。(9)
私はこの一文を読んで、自殺した児童をいじめた子供には、おそらく苦しむということがどういうことかを知らずに育ってしまったのではないかと考えた。いじめた児童だけではないだろう。自殺した児童には一人で給食を食べさせていたという担任教師でさえ、人間が苦しむということを知らずに教師になったとしか私には考えられないのだ。
ルソーの独壇場が、逆説的論考である。一般の子供を持つ親の思考とは、正反対の論考をしていることは否めない。そしてルソーが『エミール』を著した18世紀後半と、現代とを結びつけて何が得られるのか、という時代の隔たりもあるかもしれない。更に『エミール』の背景には、ルソーが故郷ジュネーブの豊かな自然を想って提唱した「田園的教育」が見える。
しかし私はこの古典から、「苦しむことを知る必要性」がいかに重要であるかを学んだ。はたして、自分がもがき苦しんだ経験がない人間に、人の苦しみなど到底理解できないのではないだろうか。
いじめを起こした児童も、自分が苦しんだ経験が少ないのであろう。だからこそ、あのような悲惨な事件を引き起こしてしまう。
ルソーの言う消極的教育を知り、子供に苦しむことを早くから学ばせることは、250年経った現代でも必要なことではないだろうか。教師だけではなく、小さい子供を持つ親にとって、ルソーの『エミール』を再考することが重要なことであると、私は真剣に考える。
今日は12月25日、クリスマスだ。楽しいことを知らずに死んでいった児童の無念さが悲しい。
註
(1) 平岡 昇著「ルソーの思想と作品」p.37 責任編集 平岡 昇『世界の名著 ルソー』
(2) 平岡 昇著『前掲書』p.41
(3) ルソー著 平岡 昇訳『エミール』p.370
(4) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.384
(5) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.383
(6) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.383
(7) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.385
(8) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.385
(9) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.386
参考文献
責任編集 平岡 昇『世界の名著 ルソー』 中央公論社 昭和51年
ルソー著『エミール』(前掲書に収録)
この報道に接したとき、私はふたたびルソーの『エミール』を手に取った。『エミール』は、よく知られたようにルソーの教育論である。1762年に刊行されたこの古典を、私は現代教育者に参考にするべく提言をしようとするのではない。
ルソーと教育論との結びつきも、一見きわめて特異なものであり、逆説的でさえある。まず第一に、彼自身、教育を受けた経験がない。(1)教育を受けたことのない者が著した教育論に、何故私が惹かれたのだろうか。
『エミール』は、教育小説ふうの教育論であるが、この教育論はルネサンスのモンテーニュ、ラブレーから、17世紀のロック、フェヌロン、それに同時代のコンディアックなどの近代の人間観の系譜につながり、とくにモンテーニュとロックに深い血縁を保っている。(2)
『エミール』は、後半ルソーの言う「自然宗教」の思想の展開に多くを費やすが、前半に表れるエミールに対する教育の具体的記述に、私は現代においても学ぶところが大きいと確信する。
エミールとは、ルソーが自分に一人の架空の生徒を与えた、その名前である。孤児としてエミールを設定し、その生徒の教育にたずさわるにふさわしい年齢、健康、知識、その他すべての才能に恵まれていると仮定し、彼が生まれたときから、成人して、もう彼以外の人間によって指導される必要がなくなるときまで、その教育を監督しようと決心した、(3)その思想が詳細に現れている。
この『エミール』前半に現れている重要な思想は、ルソーの提唱する否定的教育、或いは消極的教育である。ルソーは、できるだけ子供の語彙を少なく限るようにしなさい(4)、と言う。これはどういうことかというと、子供が観念よりも言葉のほうを多くもっていると、自分の頭で考えて説明するということに不都合を生じるというのだ。
これはルソーの独特な考えかもしれないが、あまりに早くから口をきかされる子供は、正確な発音を学んでいる暇も、自分の言わせられている事柄を十分に理解している暇ももたない(5)と述べる。
反対に、子供のなすがままにほうっておけば、子供はまず、いちばん発音のやさしい音節を練習する。その音節に、少しずつ意味を付け加えて、それを身ぶりによって人に理解させ、あなたの方のことばを受け入れる前に、自分たちのことばをあなた方に伝えるのだ。(6)
要するに、ルソーは子供を過保護にせずに放っておけと言っているのである。それがルソーの消極的教育の原点だ。それにより、子供は「自分で考える」という一番重要なことを、自然に学んでいく。
けがをしてしまった子供に対しての論考がある。ころんでも、頭にこぶをこしらえても、鼻血を出しても、指を切っても、わたしは驚いて子供のそばに駆け寄ったりしないで、じっとしているだろう、(7)とルソーは述べる。
けがはもうしてしまったのだ。子供がそれを我慢するのは、一つの必然である。実際けがをしたとき、われわれを苦しませるのは、傷そのものよりも、恐れの気持ちなのだ。わたしはせめて、子供にこの二番目の苦しみだけはさせないでおくことだろう(8)、と言う。
さらに引用を続ける。今回の事件の報道に接して、最も私の琴線に触れた一文を挙げたい。
エミールがけがをしないように心を配るどころか、わたしは、彼が一度もけがをせず、苦痛というものを知らずに大きくなったら、非常に残念だと思うだろう。苦しむということは、彼が学ばなければならぬ最初の事柄であり、将来のためにいちばん知っておく必要のある事柄である。(9)
私はこの一文を読んで、自殺した児童をいじめた子供には、おそらく苦しむということがどういうことかを知らずに育ってしまったのではないかと考えた。いじめた児童だけではないだろう。自殺した児童には一人で給食を食べさせていたという担任教師でさえ、人間が苦しむということを知らずに教師になったとしか私には考えられないのだ。
ルソーの独壇場が、逆説的論考である。一般の子供を持つ親の思考とは、正反対の論考をしていることは否めない。そしてルソーが『エミール』を著した18世紀後半と、現代とを結びつけて何が得られるのか、という時代の隔たりもあるかもしれない。更に『エミール』の背景には、ルソーが故郷ジュネーブの豊かな自然を想って提唱した「田園的教育」が見える。
しかし私はこの古典から、「苦しむことを知る必要性」がいかに重要であるかを学んだ。はたして、自分がもがき苦しんだ経験がない人間に、人の苦しみなど到底理解できないのではないだろうか。
いじめを起こした児童も、自分が苦しんだ経験が少ないのであろう。だからこそ、あのような悲惨な事件を引き起こしてしまう。
ルソーの言う消極的教育を知り、子供に苦しむことを早くから学ばせることは、250年経った現代でも必要なことではないだろうか。教師だけではなく、小さい子供を持つ親にとって、ルソーの『エミール』を再考することが重要なことであると、私は真剣に考える。
今日は12月25日、クリスマスだ。楽しいことを知らずに死んでいった児童の無念さが悲しい。
註
(1) 平岡 昇著「ルソーの思想と作品」p.37 責任編集 平岡 昇『世界の名著 ルソー』
(2) 平岡 昇著『前掲書』p.41
(3) ルソー著 平岡 昇訳『エミール』p.370
(4) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.384
(5) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.383
(6) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.383
(7) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.385
(8) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.385
(9) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.386
参考文献
責任編集 平岡 昇『世界の名著 ルソー』 中央公論社 昭和51年
ルソー著『エミール』(前掲書に収録)
2010年11月27日土曜日
風の匂いを感じた、色彩豊かなファン・ゴッホ展
ファン・ゴッホを見に、国立新美術館へ行った。夕方、外が暗くなってから訪れる。ホワイエに面した展示室の光壁が、幻想的に柔らかく灯っていた。
黒川紀章の最期の代表作になってしまった国立新美術館は、夜の帳が下りてから訪れると一層楽しめるだろう。外光が燦燦と降り注ぐ日中も、天井の高いボリュームのあるホワイエにそびえ立つ、レストランとなっている逆円錐形の異様が際立っている。
しかし夜はそれが妖しくライトアップされ、展示室の光壁が私に恍惚を誘った。そのフラッシュバックの中で、初めて黒川紀章と遭遇した時のことが頭を過ぎる。
それは学生時代に仲間と訪れた、黒川紀章の事務所のエントランス前での出来事であった。「KISHO N KUROKAWA」とクレジットされたオフィスの壁面に、「このNはなんだろう、紀章の訓読みの頭文字だろうか。」と言いながら立っていると、左の部屋から右の部屋へと本人がエントランスの前を通り抜けて行ったのだ。
その一瞬に、黒川紀章は私たちを鋭いあの眼光で睨んだ。私は怯みながらも、口の上に細い髭を生やしているのを見逃さなかった。後から先にも、黒川紀章が髭を蓄えているのを見たのは、この時だけである。
その後、ソウルオリンピックの選手村のコンペを手伝うようにと、縁があり呼ばれる。夜、外出から戻り、黒いコートと皮手袋をしたままでスタッフの進捗状況を見回るその姿は、ダンディそのものであった。
このファン・ゴッホ展には、オランダのファン・ゴッホ美術館からも多くの作品が来ている。そのオランダのファン・ゴッホ美術館も、黒川紀章の作品だ。もし黒川紀章が生きていたら、この因縁をどのような想いで感じたのだろうか。
哀しいかな、ファン・ゴッホの日本でのイメージは、新宿の超高層ビルの一室の一枚の絵と、ゴーギャンの目の前で自分の耳を切り落とし、最期は麦畑で腹をピストルで撃って自殺した姿だ。そして、生前は絵が一枚しか売れなかった悲劇の人生が付加えられる。
そういうイメージをファン・ゴッホに重ね合わせている全ての日本人は、この展覧会を訪れてほしい。前半の暗い色調の絵から、次第に美しい色彩が溢れる、輝く作品が続く。
私たちが抱いている「悲劇の運命の天才」の姿は、ここでは微塵も感じられなかった。
私は、『花瓶のヤグルマギクとケシ』という作品に注目した。背景の明るいブルーに、白いヤグルマギクと赤いケシが、見事に際立っている。ファン・ゴッホが弟のテオに宛てた手紙の中では、「これほどの色彩の管弦楽法に出会うためには、ドラクロワにまで一気に向かう必要がある」と記されている。(1)
この時期に、ファン・ゴッホは新しい色彩と技法を習得し、独自の静物画を描くためにきわめて個性的なやり方でそれを実践した。(2)
そして私が最も注目したのが、『ヒバリの飛び立つ麦畑』という作品だった。この絵からは「風の動き」が感じられる。そして「風の匂い」までもが沸き立ってくるのだ。
麦が風に揺られ、その少し「くぐもった」青い香りが風に運ばれてきて、画面の前の私に匂い立ってくるではないか。更に無数の麦の穂が風に揺られ、その音がシンフォニーの中の一瞬、軽いドラムの連打のように音を立てて私の耳に確かに聴こえて来る。
ファン・ゴッホは、麦にターコイズ、刈り取られた畑にはピンクを塗った。まだ濡れている下の層に、上から絵具を加えて構図を整えている。明るい色の地面は、下に塗られた薄い絵具層を通して輝いている。(3)
このブログでは、前回「アルチュール・ランボオ」を取り上げたが、そこにジャン・コクトーの文章を引用した。敢えてここでも、再び引用したい。
これまでたびたびくり返してきたが、われわれの惑星よりも進化したある惑星が創造されれば、恐らくそれはアインシュタインを嘲笑することになるかもしれない。しかし、ヴァン・ゴッホやセザンヌを嘲笑することはなかろう。(4)
ファン・ゴッホは1890年、37歳で死んだ。アルチュール・ランボオは1891年37歳で死ぬ。同時代、偶然にも同じ年齢で狂いながら死んでいった二人の天才芸術家がいた。
私は、決してファン・ゴッホが哀しい人生を送ったとは考えていない。画家として無名のままで逝ってしまったファン・ゴッホだったが、牧師の家に生まれ、後に画商となった弟・テオに勧められ画家になることを決心する。ロートレックやゴーギャンと邂逅し、画家としての自分の道をしっかりと進んでいった。
対象とする花を買う金にも困り、夏は静物画ではなく風景画を描かざるおえないほど困窮していたが、いつも弟・テオが生活費の面倒を見てくれていた。そこには、芸術家の濃密な人生に満足している自分があったのではないだろうか。そうでなければ、2000枚もの作品を残せる訳がない。
しかし、ファン・ゴッホは自分にストイックになりすぎて、作品のために人生を賭けすぎてしまい、理性を壊してしまった。
ある意味ファン・ゴッホの作品は、精神的な面から考えると弟・テオとの共同作業のようなものなのかもしれない。その弟・テオは、ファン・ゴッホが麦畑で自殺したわずか3ヵ月後に入院する。その年の初めにテオと妻ヨーとの間に息子が生まれたばかりだというのに。
そして兄、ファン・ゴッホが自殺してから半年後、自らも病院で死んでいった。あまりにも哀しいのは、弟・テオの方ではないか。
芸術家には、眩しいくらいの輝きと、それに反転する暗い影が付き纏う。それが天才を極めれば極めるほど、眩しさが突き抜ければ突き抜けるほど、影は暗闇に近づいてしまう。
『ヒバリの飛び立つ麦畑』は、いつまでも風の匂いと音を私に届けていた。
註
1 『没後120年 ゴッホ展』図録 p.104
2 『前掲書』 p.104
3 『前掲書』 p.112
4 『ユリイカ』 総特集 ランボオ 1971年4月臨時増刊号
p.9 「ランボオの爆薬」 ジャン・コクトー/中条忍訳 青土社
参考文献
『没後120年 ファン・ゴッホ展』図録
『ユリイカ』 総特集 ランボオ 1971年4月臨時増刊号 青土社
黒川紀章の最期の代表作になってしまった国立新美術館は、夜の帳が下りてから訪れると一層楽しめるだろう。外光が燦燦と降り注ぐ日中も、天井の高いボリュームのあるホワイエにそびえ立つ、レストランとなっている逆円錐形の異様が際立っている。
しかし夜はそれが妖しくライトアップされ、展示室の光壁が私に恍惚を誘った。そのフラッシュバックの中で、初めて黒川紀章と遭遇した時のことが頭を過ぎる。
それは学生時代に仲間と訪れた、黒川紀章の事務所のエントランス前での出来事であった。「KISHO N KUROKAWA」とクレジットされたオフィスの壁面に、「このNはなんだろう、紀章の訓読みの頭文字だろうか。」と言いながら立っていると、左の部屋から右の部屋へと本人がエントランスの前を通り抜けて行ったのだ。
その一瞬に、黒川紀章は私たちを鋭いあの眼光で睨んだ。私は怯みながらも、口の上に細い髭を生やしているのを見逃さなかった。後から先にも、黒川紀章が髭を蓄えているのを見たのは、この時だけである。
その後、ソウルオリンピックの選手村のコンペを手伝うようにと、縁があり呼ばれる。夜、外出から戻り、黒いコートと皮手袋をしたままでスタッフの進捗状況を見回るその姿は、ダンディそのものであった。
このファン・ゴッホ展には、オランダのファン・ゴッホ美術館からも多くの作品が来ている。そのオランダのファン・ゴッホ美術館も、黒川紀章の作品だ。もし黒川紀章が生きていたら、この因縁をどのような想いで感じたのだろうか。
哀しいかな、ファン・ゴッホの日本でのイメージは、新宿の超高層ビルの一室の一枚の絵と、ゴーギャンの目の前で自分の耳を切り落とし、最期は麦畑で腹をピストルで撃って自殺した姿だ。そして、生前は絵が一枚しか売れなかった悲劇の人生が付加えられる。
そういうイメージをファン・ゴッホに重ね合わせている全ての日本人は、この展覧会を訪れてほしい。前半の暗い色調の絵から、次第に美しい色彩が溢れる、輝く作品が続く。
私たちが抱いている「悲劇の運命の天才」の姿は、ここでは微塵も感じられなかった。
私は、『花瓶のヤグルマギクとケシ』という作品に注目した。背景の明るいブルーに、白いヤグルマギクと赤いケシが、見事に際立っている。ファン・ゴッホが弟のテオに宛てた手紙の中では、「これほどの色彩の管弦楽法に出会うためには、ドラクロワにまで一気に向かう必要がある」と記されている。(1)
この時期に、ファン・ゴッホは新しい色彩と技法を習得し、独自の静物画を描くためにきわめて個性的なやり方でそれを実践した。(2)
そして私が最も注目したのが、『ヒバリの飛び立つ麦畑』という作品だった。この絵からは「風の動き」が感じられる。そして「風の匂い」までもが沸き立ってくるのだ。
麦が風に揺られ、その少し「くぐもった」青い香りが風に運ばれてきて、画面の前の私に匂い立ってくるではないか。更に無数の麦の穂が風に揺られ、その音がシンフォニーの中の一瞬、軽いドラムの連打のように音を立てて私の耳に確かに聴こえて来る。
ファン・ゴッホは、麦にターコイズ、刈り取られた畑にはピンクを塗った。まだ濡れている下の層に、上から絵具を加えて構図を整えている。明るい色の地面は、下に塗られた薄い絵具層を通して輝いている。(3)
このブログでは、前回「アルチュール・ランボオ」を取り上げたが、そこにジャン・コクトーの文章を引用した。敢えてここでも、再び引用したい。
これまでたびたびくり返してきたが、われわれの惑星よりも進化したある惑星が創造されれば、恐らくそれはアインシュタインを嘲笑することになるかもしれない。しかし、ヴァン・ゴッホやセザンヌを嘲笑することはなかろう。(4)
ファン・ゴッホは1890年、37歳で死んだ。アルチュール・ランボオは1891年37歳で死ぬ。同時代、偶然にも同じ年齢で狂いながら死んでいった二人の天才芸術家がいた。
私は、決してファン・ゴッホが哀しい人生を送ったとは考えていない。画家として無名のままで逝ってしまったファン・ゴッホだったが、牧師の家に生まれ、後に画商となった弟・テオに勧められ画家になることを決心する。ロートレックやゴーギャンと邂逅し、画家としての自分の道をしっかりと進んでいった。
対象とする花を買う金にも困り、夏は静物画ではなく風景画を描かざるおえないほど困窮していたが、いつも弟・テオが生活費の面倒を見てくれていた。そこには、芸術家の濃密な人生に満足している自分があったのではないだろうか。そうでなければ、2000枚もの作品を残せる訳がない。
しかし、ファン・ゴッホは自分にストイックになりすぎて、作品のために人生を賭けすぎてしまい、理性を壊してしまった。
ある意味ファン・ゴッホの作品は、精神的な面から考えると弟・テオとの共同作業のようなものなのかもしれない。その弟・テオは、ファン・ゴッホが麦畑で自殺したわずか3ヵ月後に入院する。その年の初めにテオと妻ヨーとの間に息子が生まれたばかりだというのに。
そして兄、ファン・ゴッホが自殺してから半年後、自らも病院で死んでいった。あまりにも哀しいのは、弟・テオの方ではないか。
芸術家には、眩しいくらいの輝きと、それに反転する暗い影が付き纏う。それが天才を極めれば極めるほど、眩しさが突き抜ければ突き抜けるほど、影は暗闇に近づいてしまう。
『ヒバリの飛び立つ麦畑』は、いつまでも風の匂いと音を私に届けていた。
註
1 『没後120年 ゴッホ展』図録 p.104
2 『前掲書』 p.104
3 『前掲書』 p.112
4 『ユリイカ』 総特集 ランボオ 1971年4月臨時増刊号
p.9 「ランボオの爆薬」 ジャン・コクトー/中条忍訳 青土社
参考文献
『没後120年 ファン・ゴッホ展』図録
『ユリイカ』 総特集 ランボオ 1971年4月臨時増刊号 青土社
2010年11月10日水曜日
たった4年間の詩人 アルチュール・ランボオの死に様
今日11月10日は、稀有な詩人アルチュール・ランボオがマルセイユで右足を切断された後に死んでいった日である。野垂れ死にである。1891年11月10日、37歳だった。
1873年7月10日。ランボオは恋人の男色家詩人・ヴェルレーヌに、恋愛沙汰の末に拳銃で右手首を撃たれる。ランボオ、僅か19歳の夏の出来事である。
1874年3月、ランボオ20歳の時に『イリュミナシオン』執筆。それ以降実質的に詩を放棄し、灼熱のアフリカに渡り武器商人となり金銭に翻弄される。
私はランボオを追った無数の文献から1冊を手にする時に、そこにランボーと表記されているより、ランボオと刻まれているほうが好きだ。
ランボオは、僅か4年間の詩人だった。その4年の短い間に、数え切れない幾多の研究者を追従させてしまうほどの、世界を震撼させる狂気の詩を生み出した。「その短い4年の間に」ではなく、「その短い4年の間だけ」と記述するほうが正確かもしれない。
狂気を孕む芸術を生み出すには、どれだけ自分が狂気に近づかなければならないのだろうか。それともランボオやニーチェのように、自分自身が狂気の世界に入ってしまわなければ狂気を生み出すことはできないのだろうか。
ランボオの生き様を見ると、「天才」は自由奔放に生き多くの人間に迷惑をかけても許される人種のような気がする。常に周囲に迷惑をかけながら、放浪への脱出をいつも試みて、母親から逃れようとしていた。いや、母親からの逃避だけではないだろう。
ランボオが生まれ育った北フランスのシャルルビル。パリからシャルルビルへ向かう途中に、ランスがある。シャンパーニュで有名なランスは、寒さゆえに葡萄の熟成が悪く、自家消費用の白ワインも品質が悪かった時代があった。消費されずにいるワインを放っておいたら自然に二次発酵をおこしてしまい、現在のシャンパンの原形が出来たという逸話もあるほど、気候には恵まれていない。
そこから更に北上しなければ、ランボオが生まれ育ち、何度も故郷を捨てようとしたシャルルビルには到達しない。ランボオは母親から逃避しようとし、そして寒々とした故郷を捨て、最後には灼熱のアフリカを目指してしまった。
天才の母親というのは、何て哀れなのだろうか。太宰治がそうであるように、ランボオは放浪し資金が底を突くと、親に金を無心する。母親は諌めながらも、ランボオに融通する。何度も故郷に召還されながらも、その都度母親から逃げようとしたランボオ。
その母親は、息子が好き勝手生きた代償として腫瘍のために右足を切断するという電報を受け取ったとき、どのような気持ちになっていただろうか。
私は『ユリイカ』1971年4月臨時増刊号「総特集 ランボオ」を参照しながら、この文を書いている。その巻頭に、ジャン・コクトーの興味深い文章が掲載されていた。
アルチュール・ランボーのように閉ざされた作品が、シャルル・ボードレール
のようになかば開かれた作品やヴィクトル・ユゴーのように広く開かれた作品
と同じ資格でこの国に君臨していることは、わが国の一つの名誉である。
ランボオはボードレールを貪り読んでいたが、コクトーによるこの比較は素晴らしい。そしてコクトーでさえ、ランボオを「閉ざされた」と評しているのだ。
更に、コクトーの美しい文章を引用したい。
ランボーぐらい大きな名声がでると、かならず行き違いが生ずる、行き違いは芸術のあらゆる大冒険につきまとう。
お供の犠牲となった多くの人たちはやっきになってある種の外観を、ランボーのある種の傲慢を何時までも持ち続けようとする。この「通りすがりの男」が「重要」であったのは、構文の新しい使い方をしたためだということを彼らは考えもしない。(中略)
これまでたびたびくり返してきたが、われわれの惑星よりも進化したある惑星が創造されれば、恐らくそれはアインシュタインを嘲笑することになるかもしれない。しかし、ヴァン・ゴッホやセザンヌを嘲笑することはなかろう。
分析や科学の進歩ではつかめぬある力が支配するこの分野で、アルチュール・ランボーは一つの素晴らしい爆薬を、つまり、勇壮や武器に関する既存の考えに対立する一響の春雷を、一つの武器を、一つの勇壮を代表している。(後略)
(「ランボーの爆薬」 ジャン・コクトー/中条忍訳 文中「」は筆者による)
ランボオを知らなくても、コクトーが好きでなくても、この珠玉のセンテンスを読めば心が揺さぶられるはずだ。巻末の山口佳巳が編纂した「アルチュール・ランボオ詳細年譜」の頁に、ジャコメッティ、コクトー、ピカソが描いたランボオ像が挿入されている。
ジャコメッティは、ランボオを線の濃淡だけで描く。ピカソは、その若い時代そのものの素晴らしいデッサンで、写実的にランボオを浮かび上がらせた。そしてコクトーは、いつものように背景にギリシャ神話の美男子を組み込んだ。
たった4年間の詩人がこれほどまでに世界を坩堝に巻き込んだのは、男と恋愛をして19歳の若さで拳銃で撃たれからだろうか。
詩を放棄して灼熱のアフリカで武器商人となったからなのか。
梅毒にかかり腫瘍を併発して右足を切断されても尚、南を目指し旅をしようとしたからなのか。
その驚きの人生全てを生きたからだろうか。
子供たちには酸い林檎の肉よりももっと甘い
緑の水が、樫材のおれの身体にしみわたり、
安酒のしみ、へどのあとを洗いおとし、
舵も錨も、ちりじりに流し去った
(粟津則雄訳 『酔いどれ船』より)
参考文献
『ユリイカ』 総特集 ランボオ 1971年4月臨時増刊号 青土社
1873年7月10日。ランボオは恋人の男色家詩人・ヴェルレーヌに、恋愛沙汰の末に拳銃で右手首を撃たれる。ランボオ、僅か19歳の夏の出来事である。
1874年3月、ランボオ20歳の時に『イリュミナシオン』執筆。それ以降実質的に詩を放棄し、灼熱のアフリカに渡り武器商人となり金銭に翻弄される。
私はランボオを追った無数の文献から1冊を手にする時に、そこにランボーと表記されているより、ランボオと刻まれているほうが好きだ。
ランボオは、僅か4年間の詩人だった。その4年の短い間に、数え切れない幾多の研究者を追従させてしまうほどの、世界を震撼させる狂気の詩を生み出した。「その短い4年の間に」ではなく、「その短い4年の間だけ」と記述するほうが正確かもしれない。
狂気を孕む芸術を生み出すには、どれだけ自分が狂気に近づかなければならないのだろうか。それともランボオやニーチェのように、自分自身が狂気の世界に入ってしまわなければ狂気を生み出すことはできないのだろうか。
ランボオの生き様を見ると、「天才」は自由奔放に生き多くの人間に迷惑をかけても許される人種のような気がする。常に周囲に迷惑をかけながら、放浪への脱出をいつも試みて、母親から逃れようとしていた。いや、母親からの逃避だけではないだろう。
ランボオが生まれ育った北フランスのシャルルビル。パリからシャルルビルへ向かう途中に、ランスがある。シャンパーニュで有名なランスは、寒さゆえに葡萄の熟成が悪く、自家消費用の白ワインも品質が悪かった時代があった。消費されずにいるワインを放っておいたら自然に二次発酵をおこしてしまい、現在のシャンパンの原形が出来たという逸話もあるほど、気候には恵まれていない。
そこから更に北上しなければ、ランボオが生まれ育ち、何度も故郷を捨てようとしたシャルルビルには到達しない。ランボオは母親から逃避しようとし、そして寒々とした故郷を捨て、最後には灼熱のアフリカを目指してしまった。
天才の母親というのは、何て哀れなのだろうか。太宰治がそうであるように、ランボオは放浪し資金が底を突くと、親に金を無心する。母親は諌めながらも、ランボオに融通する。何度も故郷に召還されながらも、その都度母親から逃げようとしたランボオ。
その母親は、息子が好き勝手生きた代償として腫瘍のために右足を切断するという電報を受け取ったとき、どのような気持ちになっていただろうか。
私は『ユリイカ』1971年4月臨時増刊号「総特集 ランボオ」を参照しながら、この文を書いている。その巻頭に、ジャン・コクトーの興味深い文章が掲載されていた。
アルチュール・ランボーのように閉ざされた作品が、シャルル・ボードレール
のようになかば開かれた作品やヴィクトル・ユゴーのように広く開かれた作品
と同じ資格でこの国に君臨していることは、わが国の一つの名誉である。
ランボオはボードレールを貪り読んでいたが、コクトーによるこの比較は素晴らしい。そしてコクトーでさえ、ランボオを「閉ざされた」と評しているのだ。
更に、コクトーの美しい文章を引用したい。
ランボーぐらい大きな名声がでると、かならず行き違いが生ずる、行き違いは芸術のあらゆる大冒険につきまとう。
お供の犠牲となった多くの人たちはやっきになってある種の外観を、ランボーのある種の傲慢を何時までも持ち続けようとする。この「通りすがりの男」が「重要」であったのは、構文の新しい使い方をしたためだということを彼らは考えもしない。(中略)
これまでたびたびくり返してきたが、われわれの惑星よりも進化したある惑星が創造されれば、恐らくそれはアインシュタインを嘲笑することになるかもしれない。しかし、ヴァン・ゴッホやセザンヌを嘲笑することはなかろう。
分析や科学の進歩ではつかめぬある力が支配するこの分野で、アルチュール・ランボーは一つの素晴らしい爆薬を、つまり、勇壮や武器に関する既存の考えに対立する一響の春雷を、一つの武器を、一つの勇壮を代表している。(後略)
(「ランボーの爆薬」 ジャン・コクトー/中条忍訳 文中「」は筆者による)
ランボオを知らなくても、コクトーが好きでなくても、この珠玉のセンテンスを読めば心が揺さぶられるはずだ。巻末の山口佳巳が編纂した「アルチュール・ランボオ詳細年譜」の頁に、ジャコメッティ、コクトー、ピカソが描いたランボオ像が挿入されている。
ジャコメッティは、ランボオを線の濃淡だけで描く。ピカソは、その若い時代そのものの素晴らしいデッサンで、写実的にランボオを浮かび上がらせた。そしてコクトーは、いつものように背景にギリシャ神話の美男子を組み込んだ。
たった4年間の詩人がこれほどまでに世界を坩堝に巻き込んだのは、男と恋愛をして19歳の若さで拳銃で撃たれからだろうか。
詩を放棄して灼熱のアフリカで武器商人となったからなのか。
梅毒にかかり腫瘍を併発して右足を切断されても尚、南を目指し旅をしようとしたからなのか。
その驚きの人生全てを生きたからだろうか。
子供たちには酸い林檎の肉よりももっと甘い
緑の水が、樫材のおれの身体にしみわたり、
安酒のしみ、へどのあとを洗いおとし、
舵も錨も、ちりじりに流し去った
(粟津則雄訳 『酔いどれ船』より)
参考文献
『ユリイカ』 総特集 ランボオ 1971年4月臨時増刊号 青土社
2010年10月23日土曜日
もの派、そして前衛の意識とは
上村松園展で賑わう竹橋の東京国立近代美術館へ、常設展で展示されているコレクションの「ある作品」だけを鑑賞するために足を運んだ。吉田克朗のドローイングが展示されていると教えられたのだ。
会期をあと2日に残したその日も、上村松園展のチケットを求める人々が30分待ちの札を掲げる列を作っていた。
列を整理している担当者に常設展だけを鑑賞したい旨を伝え、列に並ばずにエントランスホール内の受付カウンターでチケットを求めて2階の展示ホールに直接向かう。
常設展は所蔵作品展として、『近代日本の美術』と題し4階・3階・2階と展示ホールを巡る構成になっていた。2階は、「現代美術 1970年代以降」のフロアーである。
私の目指す吉田克朗のドローイングは、そのフロアーの一角の展示室で『手探りのドローイング』と題され、他の2人のアーティストと共に展示されていた。吉田克朗は1970年代に日本の美術史に大きな爪跡を残した、「もの派」の中心人物である。
2010年の現在にもの派を語ろうなどと言えば、「なんだ、それは」と言われかねないほど時代は加速していってしまった。
ここで私の言う「加速」とは、もの派の時代の1970年代から現在の2010年の、40年間もの時間のベクトルを指しているのではない。
もの派の語る、これ以上ない存在感を示す素材たち。圧倒的なボリュームと重量感で私たちに迫ってくる。
私がその片鱗に触れ驚愕したのは、1991年10月に上野の東京都美術館で開催された『構造と記憶』展だった。そこでは戸谷成雄、剣持和夫、遠藤利克の3人の作品が、私に衝撃を与える。
私は処女作を1988年に完成することができ、建築家として道を歩み始めたばかりだった。その頃はまだ建築だけの視野しか持つことが出来ず、美術全般への興味を持っていたが作品を眺める余裕などなかった。
私は自分の追い求める造形と共に、素材の持つ魅力を建築にフィードバックしようと、一生懸命に格闘していたような気がする。
その自分の追及するベクトルと同じ向きを向いていたのが、「ポストもの派」と呼ばれる3人の作品だった。偶然とは恐ろしいもので、私は見るべきものに導かれて東京都美術館に足を運んだのかもしれない。
1960年代・70年代のコンセプチュアルな前衛芸術を否定しようと、「素材の持つ力」を表現しようとしたのが「もの派」であると言われている。
その系譜を受け継いだ「ポストもの派」と呼ばれる3人の作品を東京都美術館で見たときに、私はこれこそが前衛であると感じた。
鑑賞者の意識を混沌とさせる細工などを持たず、原点に帰り「素材の持つ力」だけで私たちに圧倒的な迫力で語りかけてくる。
これが前衛でなくて、何が前衛なのだろうか。
前述した「時代の加速」とは、時間のベクトルではなく、表現のベクトルを言っている。建築でいえば、「建築を消していく」作業が時代の潮流の先端ということなのだろうか。
そこにはここで私が今まで語ってきた「素材感」以上に、「存在感」をも消したい、という意識が働く。
その流れの中で埋没しないためにも、私は吉田克朗のドローイングをあらためて見る必要があった。それらは白い紙の中に、暗闇を生み出そうとするかのようにボリュームをつくっていた。
前衛は、いつまでたっても前衛のままでいるはずだ。時代の流れがどのように流れようとも、その流れの中から切っ先を立てて頭を出している、川の中の尖った岩が前衛である。
川の流れは何千年と岩に当たりながら、岩を細くしようとする。しかし決してその岩は消滅することはない。
吉田克朗のドローイングを見て、これからの私の歩むべき方向をあらためて確認した1日だった。
会期をあと2日に残したその日も、上村松園展のチケットを求める人々が30分待ちの札を掲げる列を作っていた。
列を整理している担当者に常設展だけを鑑賞したい旨を伝え、列に並ばずにエントランスホール内の受付カウンターでチケットを求めて2階の展示ホールに直接向かう。
常設展は所蔵作品展として、『近代日本の美術』と題し4階・3階・2階と展示ホールを巡る構成になっていた。2階は、「現代美術 1970年代以降」のフロアーである。
私の目指す吉田克朗のドローイングは、そのフロアーの一角の展示室で『手探りのドローイング』と題され、他の2人のアーティストと共に展示されていた。吉田克朗は1970年代に日本の美術史に大きな爪跡を残した、「もの派」の中心人物である。
2010年の現在にもの派を語ろうなどと言えば、「なんだ、それは」と言われかねないほど時代は加速していってしまった。
ここで私の言う「加速」とは、もの派の時代の1970年代から現在の2010年の、40年間もの時間のベクトルを指しているのではない。
もの派の語る、これ以上ない存在感を示す素材たち。圧倒的なボリュームと重量感で私たちに迫ってくる。
私がその片鱗に触れ驚愕したのは、1991年10月に上野の東京都美術館で開催された『構造と記憶』展だった。そこでは戸谷成雄、剣持和夫、遠藤利克の3人の作品が、私に衝撃を与える。
私は処女作を1988年に完成することができ、建築家として道を歩み始めたばかりだった。その頃はまだ建築だけの視野しか持つことが出来ず、美術全般への興味を持っていたが作品を眺める余裕などなかった。
私は自分の追い求める造形と共に、素材の持つ魅力を建築にフィードバックしようと、一生懸命に格闘していたような気がする。
その自分の追及するベクトルと同じ向きを向いていたのが、「ポストもの派」と呼ばれる3人の作品だった。偶然とは恐ろしいもので、私は見るべきものに導かれて東京都美術館に足を運んだのかもしれない。
1960年代・70年代のコンセプチュアルな前衛芸術を否定しようと、「素材の持つ力」を表現しようとしたのが「もの派」であると言われている。
その系譜を受け継いだ「ポストもの派」と呼ばれる3人の作品を東京都美術館で見たときに、私はこれこそが前衛であると感じた。
鑑賞者の意識を混沌とさせる細工などを持たず、原点に帰り「素材の持つ力」だけで私たちに圧倒的な迫力で語りかけてくる。
これが前衛でなくて、何が前衛なのだろうか。
前述した「時代の加速」とは、時間のベクトルではなく、表現のベクトルを言っている。建築でいえば、「建築を消していく」作業が時代の潮流の先端ということなのだろうか。
そこにはここで私が今まで語ってきた「素材感」以上に、「存在感」をも消したい、という意識が働く。
その流れの中で埋没しないためにも、私は吉田克朗のドローイングをあらためて見る必要があった。それらは白い紙の中に、暗闇を生み出そうとするかのようにボリュームをつくっていた。
前衛は、いつまでたっても前衛のままでいるはずだ。時代の流れがどのように流れようとも、その流れの中から切っ先を立てて頭を出している、川の中の尖った岩が前衛である。
川の流れは何千年と岩に当たりながら、岩を細くしようとする。しかし決してその岩は消滅することはない。
吉田克朗のドローイングを見て、これからの私の歩むべき方向をあらためて確認した1日だった。
2010年9月30日木曜日
荒木経惟の「エロース」と「エロス」の考察
ある日、銀座のライカショールームから1通の招待状が届く。それは写真家・荒木経惟の写真展のオープニングパーティーの案内だった。ライカはショールームで購入したプロパーの顧客のために、併設された小さなギャラリーで開催される写真展のレセプションの招待を毎回行っている。
私は建築家ハンス・ホラインに会うために銀座のライカでM8を購入し、その数日後にウイーンに旅立った。2年前のことである。それ以来今までに届いた招待状を開封しても、私は一度も展覧会に足を運んだことはなかった。
しかし今回は荒木経惟である。私はこの狂気を孕んだ写真家に是非とも会いたくなった。
去年、建築家ザハ・ハディッドがデザインし香港から日本に到着したシャネルのモバイルアートギャラリーを、原宿に見に行ったことがある。その有機的な空間の一角には、荒木経惟の写真が鎮座していた。それは世界で評価されている荒木経惟の一端に他ならなかった。
荒木経惟は、日本を代表し世界の文化的フィールドで活躍する写真家となっても、「エロス」を捨てないでいる。私が荒木経惟を前述で、「狂気を孕んだ写真家」と最大限の賞賛をした所以がここにあるのだ。「文化人」となってしまっても、その両極の果てにあるフィールドで生きている狂気。
私はこの荒木経惟の生き方を見ると、田中美知太郎の名著『プラトン「饗宴」への招待』での一節を想い出さずにはいられない。
プラトン40代後半の著作である『饗宴』は、プラトン中期の作品に位置付けられる。研究者によれば、中期作品群のソクラテスは著者であるプラトン自身の見解を表明するものであると考えられている。(1)ということは、『饗宴』は完全なるプラトン哲学の「哲学書」に他ならない。
しかしアガトンの邸宅で催された酒宴を、神話から得たミュトス(物語)を挿入しながら「エロース」について語り合うこの「哲学書」は、プラトンの他の著作と一線を画した素晴らしい物語であると、私はには感じるのだ。
そのプラトンの物語を、初心者にも理解しやすく語ってくれているのが、NHKのラジオ放送を纏めた田中美知太郎の『プラトン「饗宴」への招待』である。ラジオの向こうにいる聴取者に、分かりやすく話した口語体をそのまま活字にしたこのテクストは、今や古典となってしまっているが是非一度手にしてもらいたい名著だ。頁を捲っていると、田中美知太郎が自分に語りかけてくれているような気持ちになってしまう。
『饗宴』は、アガトンの邸宅に集まったソクラテス他、パイドロスからアルキピアデスまでの「エロース」に関する演説をプラトンがそれぞれ浮かび上がらせているのだが、その「エロース」に関して田中美知太郎は放送の中で注釈を付けた。
ソクラテスたちが語り合う「エロース」は、美の総称でもあり、私たちが日常接する世俗的な「エロス」とはニュアンスが微妙に違う、ということを田中美知太郎は『饗宴』の理解のために説明をしている。
私は荒木経惟の写真展を見て、あらためて田中美知太郎の上述のパラグラフが頭に浮かんだ。まさに荒木経惟は、「エロース」と「エロス」の両極の世界で仕事をしているのである。
シャネルを相手に、そして世界をフィールドにして活躍する荒木経惟のメタファーが、プラトンがソクラテスに語らせた「エロース」ではないだろうか。一方「エロス」は、巨匠となってもいまだに週刊誌のグラビアで人妻の崩れかけたヌードを撮り続けている荒木経惟の姿である。
ライカの写真展では、美しいモデルの写真の間に敢えて豊満な女性のヌードを配置して展示をしている。妊娠しているのか、と見まがうほどの豊満な裸の女性の美しさを、荒木経惟は会場で熱心に語った。
美しい顔立ち、均整の取れた女性だけが、美の対象ではない。全ての女性の持っている美しさと「エロス」を、荒木経惟は写真で導きだそうとしているのだ。
文化を生み出す仕事と併走して、荒木経惟は好んで「エロス」の海へと入っていく。たぶん、荒木経惟はこのように言われるのを好まないだろうが、私には聞こえてくるのだ。
「世界の文化人なのだから、今さら『エロス』のフィールドで仕事をしなくてもいいのに。」
しかし荒木経惟は前衛だからこそ、このスタンスを永遠に崩さないだろう。気の利いたフィンガーフードと共にルイ・ロデレールのシャンパーニュがふんだんに振舞われた会場で、「また病院に戻らなければならない」と言う荒木経惟を私は引きとめて、買い求めた写真集にサインを貰った。
エスコートした女性をカメラに収めるべくライカのコンパクトカメラを手にすると、「皆ライカなんだ。この女性、貰って帰ってもいい?」と私に素敵な軽口を叩く。
そこには、これからも前衛を貫いていく荒木経惟のしっかりとした姿があった。ルイ・ロデレールのシャンパーニュのほろ酔い加減に、崩れた女性も美しいのなら、建築も崩れた方が美しいのだということが頭を過ぎる。そして建築界に荒木経惟はいないことに気がつく。これからも更に、狂気と前衛を求めていかなければならないことを確信した銀座の夜だった。
註
(1) 朴 一功『饗宴/パイドン』p.366
参考文献
1 田中 美知太郎『プラトン「饗宴」への招待』 筑摩書房 昭和49年
2 プラトン『饗宴』(プラトン『饗宴/パイドン』朴 一功訳 京都大学学術出版会 2007年)
私は建築家ハンス・ホラインに会うために銀座のライカでM8を購入し、その数日後にウイーンに旅立った。2年前のことである。それ以来今までに届いた招待状を開封しても、私は一度も展覧会に足を運んだことはなかった。
しかし今回は荒木経惟である。私はこの狂気を孕んだ写真家に是非とも会いたくなった。
去年、建築家ザハ・ハディッドがデザインし香港から日本に到着したシャネルのモバイルアートギャラリーを、原宿に見に行ったことがある。その有機的な空間の一角には、荒木経惟の写真が鎮座していた。それは世界で評価されている荒木経惟の一端に他ならなかった。
荒木経惟は、日本を代表し世界の文化的フィールドで活躍する写真家となっても、「エロス」を捨てないでいる。私が荒木経惟を前述で、「狂気を孕んだ写真家」と最大限の賞賛をした所以がここにあるのだ。「文化人」となってしまっても、その両極の果てにあるフィールドで生きている狂気。
私はこの荒木経惟の生き方を見ると、田中美知太郎の名著『プラトン「饗宴」への招待』での一節を想い出さずにはいられない。
プラトン40代後半の著作である『饗宴』は、プラトン中期の作品に位置付けられる。研究者によれば、中期作品群のソクラテスは著者であるプラトン自身の見解を表明するものであると考えられている。(1)ということは、『饗宴』は完全なるプラトン哲学の「哲学書」に他ならない。
しかしアガトンの邸宅で催された酒宴を、神話から得たミュトス(物語)を挿入しながら「エロース」について語り合うこの「哲学書」は、プラトンの他の著作と一線を画した素晴らしい物語であると、私はには感じるのだ。
そのプラトンの物語を、初心者にも理解しやすく語ってくれているのが、NHKのラジオ放送を纏めた田中美知太郎の『プラトン「饗宴」への招待』である。ラジオの向こうにいる聴取者に、分かりやすく話した口語体をそのまま活字にしたこのテクストは、今や古典となってしまっているが是非一度手にしてもらいたい名著だ。頁を捲っていると、田中美知太郎が自分に語りかけてくれているような気持ちになってしまう。
『饗宴』は、アガトンの邸宅に集まったソクラテス他、パイドロスからアルキピアデスまでの「エロース」に関する演説をプラトンがそれぞれ浮かび上がらせているのだが、その「エロース」に関して田中美知太郎は放送の中で注釈を付けた。
ソクラテスたちが語り合う「エロース」は、美の総称でもあり、私たちが日常接する世俗的な「エロス」とはニュアンスが微妙に違う、ということを田中美知太郎は『饗宴』の理解のために説明をしている。
私は荒木経惟の写真展を見て、あらためて田中美知太郎の上述のパラグラフが頭に浮かんだ。まさに荒木経惟は、「エロース」と「エロス」の両極の世界で仕事をしているのである。
シャネルを相手に、そして世界をフィールドにして活躍する荒木経惟のメタファーが、プラトンがソクラテスに語らせた「エロース」ではないだろうか。一方「エロス」は、巨匠となってもいまだに週刊誌のグラビアで人妻の崩れかけたヌードを撮り続けている荒木経惟の姿である。
ライカの写真展では、美しいモデルの写真の間に敢えて豊満な女性のヌードを配置して展示をしている。妊娠しているのか、と見まがうほどの豊満な裸の女性の美しさを、荒木経惟は会場で熱心に語った。
美しい顔立ち、均整の取れた女性だけが、美の対象ではない。全ての女性の持っている美しさと「エロス」を、荒木経惟は写真で導きだそうとしているのだ。
文化を生み出す仕事と併走して、荒木経惟は好んで「エロス」の海へと入っていく。たぶん、荒木経惟はこのように言われるのを好まないだろうが、私には聞こえてくるのだ。
「世界の文化人なのだから、今さら『エロス』のフィールドで仕事をしなくてもいいのに。」
しかし荒木経惟は前衛だからこそ、このスタンスを永遠に崩さないだろう。気の利いたフィンガーフードと共にルイ・ロデレールのシャンパーニュがふんだんに振舞われた会場で、「また病院に戻らなければならない」と言う荒木経惟を私は引きとめて、買い求めた写真集にサインを貰った。
エスコートした女性をカメラに収めるべくライカのコンパクトカメラを手にすると、「皆ライカなんだ。この女性、貰って帰ってもいい?」と私に素敵な軽口を叩く。
そこには、これからも前衛を貫いていく荒木経惟のしっかりとした姿があった。ルイ・ロデレールのシャンパーニュのほろ酔い加減に、崩れた女性も美しいのなら、建築も崩れた方が美しいのだということが頭を過ぎる。そして建築界に荒木経惟はいないことに気がつく。これからも更に、狂気と前衛を求めていかなければならないことを確信した銀座の夜だった。
註
(1) 朴 一功『饗宴/パイドン』p.366
参考文献
1 田中 美知太郎『プラトン「饗宴」への招待』 筑摩書房 昭和49年
2 プラトン『饗宴』(プラトン『饗宴/パイドン』朴 一功訳 京都大学学術出版会 2007年)
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