ワインにはヴィンテージという、他の酒にはない記号が存在する。葡萄の収穫年を記し、ワイン好きにはその年の出来不出来が一目で分かり、それにより同じワインでもヴィンテージにより価格が大きく異なる場合がある。一般的なヴィンテージの捉え方は、概ねこのようなものだろう。しかし私は、別のアプローチでヴィンテージを愉しむことにしている。
赤ワイン、特にタンニンが豊富で長熟に耐えられる力強さを持ったワインは、私にとっては一種のタイムマシーンである。その年に収穫された葡萄でつくられたワインがセラーで深く眠り、生き耐えながら、例えば50年経った現在に偶然の縁で私の前に鎮座する。
今このボトルの中には50年前の液体が封印されているのかと思うと、ワインという飲み物がただの嗜好品を超越した存在として感じてしまう。このコルクを開けた瞬間に 、50年という歳月が目の前に展開されてくるのだ。
時間や空間を考える学問が哲学だとしたら、このようなワインの思考はまさに哲学に他ならないであろう。
私はいつしかオールドヴィンテージのワインを愉しむようになって、背徳の気分を味わうようになった。その年に生産されたワインには限りがあるのだから、年々消費されて残されているワインの数量は減少していく。ある程度の量がリリースされたワインも、50年、80年経てば、世の中に残された数量も僅かなものになってしまうだろう。
50年、80年経ったワインに少しでも歴史を感じてしまったら、これを飲んでしまって良いのだろうかと、一瞬躊躇してしまう。飲んでしまって、この歴史という時間を無にしてしまっていいのだろうか、そういう背徳を感じてしまうのだ。
一方、オールドヴィンテージのワインに対峙して、私は私の時間軸を考える。生きている、限りのある時間の中で、さらにワインに接することのできる短い時間をイメージする。それであれば、できるだけ自分にとって価値のあるワインの愉しみ方をしたほうが悔いが残らないであろう、そのように私の思考は帰結する。
このロジックに導かれ、私はオールドヴィンテージのワインを求めるようになった。100年前のワインを開ける背徳感、これはもう、エクスタシーに通じてしまう。人間が生きられない100年という時間を、ワインはボトルの中で生き続けている。コルクを慎重に開け、100年前の液体をグラスに注いだときには、遥かなる時間の宇宙が五感に広がる。
かつてパリの3つ星レストラン、「ギーサボア」に足を運んだことがある。日本人のグルメにも人気のあるこのレストランのワインリストは、とても重厚で厚かった。そこでは多くのワインに混じり、なんと1916年のポマールがオンリストされているのを私は見つけた。ギーサボアの中でも、最もオールドヴィンテージのワインである。
私はソムリエに、こんな古いワインが飲める状態なのか、ましてや料理に合わせられるポテンシャルを持っているのかどうかを聞いた。ソムリエはテイスティングをしたことないから、分からないと言う。ボトルをセラーから持ってきてもらい、その表情を暫く眺めた私は、状態が悪くても買い取るから開けて欲しいとリクエストをしてしまった。
ソムリエが慎重にコルクを抜栓して、テイスティングをしてから私に言った言葉は今でも忘れられない。フランス人の彼が英語で一言、「パーフェクト」と力強く言ったのだ。
100年経っていても果実味がしっかりと残り、余韻がふくよかで、レンガ色の液体から訴えてくるアロマが素晴らしかった。
その後は背徳を飛び越えて、人生の至福の時間を過ごす。厨房で腕を振るっているサボア氏本人に客席に来てもらい、1916年のポマールを一緒に味わった。そのことは昨日のように今でも思い出される。
1916年といえば、大正5年で第1次世界大戦の最中である。その後の様々な時代の変革をくぐり抜けてきた、たかだか1本のワイン。たかだか1本のワインであるが、そのワインに隠された歴史や時間の宇宙を想像し味わうことが、私の背徳でありエクスタシーであるのだ。このワインの愉しみ方を知ってしまうと、新しい世界が広がっていく。
そうは言っても、いつものデイリーワインをおいしく飲んでいるのは、紛れもなく私がソムリエの顔も持っているからなのである。
2010年7月13日火曜日
2010年6月30日水曜日
「街並み不要論」 都市の街並みは誰がつくるのだろうか
建築家として仕事をしていると、必ず「街並み」という言葉が付いて回る。特に住宅を設計して街と向き合っていると、クライアントから言われるのではなく、有識者たちが「街並みのコンテクスト」について言及してくる場面がとても気になる。それは京都などの歴史的街並みを持った都市の中ではなく、東京の雑多な建築の集積の中であってもそうだ。
この「街並み」という、一見お行儀の良さそうな記号を使えば、都市について論考しているような気になってくるのかもしれない。果たして、京都のような風致地域や歴史的都市以外のそれぞれがそれぞれの価値観だけでつくりあげられた猥雑な都市の街に、私たちは「街並み」を必要とするのだろうか。
これは、ルソーが『学問芸術論』などで言い回した「逆説」や「アイロニー」からの論考ではない。建築家であれば不可侵の、誰もがその「お行儀の良さ」を認めている「街並み」に対しての、「街並み不要論」として述べているのである。
そもそも雑多な集積の都市の中に、街並みを持ち込んでコンテクストを作ろうとすること自体間違っているのではないか。「街並み」という記号から導かれるイメージは、美しい街、気持ちのいい街、整然とした街、などが挙げられるだろう。私たちが生活している街を、それこそこのような文脈に沿って論考しようとすることは、思索の上では可能である。しかし、建築家や都市計画家たちがアカデミックな立場から線を引っ張っていく結果を、私たちが街として現実に見ている訳ではない。
では、一体誰がこの街並みをつくっているのであろうか。都市の猥雑な街並みをつくっているのは、建築家でも都市計画家でも、それに付随する有識者の誰でもない。それは、建て売り住宅業者と不動産業者なのである。この現実を前にして、彼らを責めている訳ではない。彼らは彼らのやり方で、この社会を生き抜いているのだから。
彼らはまるでゲリラのように土地を細分化しながら、商品としての住宅を売り捌く。もし仮に50坪の土地が入手できたならば、迷わずに25坪ずつの2分割を行うだろう。50坪の土地の建て売り住宅では、価格が高く手を出せる世帯が少ないという大義名分の影には、分割して数を増やした方がトータルの利益が出るというロジックが潜む。
更に踏み込んで言及すれば、できれば土地の上に住宅など造らないで土地だけの転売で早く売り抜けたいというのが、大多数の本音だ。上に住宅を造ればその分いらぬ金がかかるし、工事期間が鬱陶しい。そして何年ものクレーム処理に走らなければならなくなってしまう。
こう述べると、まるで多くの建て売り住宅業者は、土地を売るために住宅を乗せているだけではないか、と思われるだろう。その通りであると思われてもしかたのない状況なのだ。競売や任意売却などで入手した土地が、そのまま売り抜けられる良い仕入れであれば、転売を試みる業者は多いはずだ。良い仕入れとは、あらゆる手段を講じ安く入手できた土地である。それをできればエンド(彼らは実際にその土地を利用し、住むであろう一般購入者のことをそう呼ぶ。)に高値で売りたい。そしてそうでない土地は、まずプランを付けて売ってみる。プランといっても、私たち建築家が言うプランとはかけ離れた、パズルの間取り図だ。ここで売れないと、ようやく付き合いのある建て売り住宅専門設計屋に設計を依頼する。
1棟の設計料は、確認申請込みで仕上げ表を付けた設計図書を10枚程度作成し、おおよそ50万円前後だろう。そして施工坪単価35万円程度の木造住宅が出来上がる。彼ら建て売り住宅業者や、不動産業者には、知的生産料の重要性は必要がない。住宅が出来上がるまでの設計料などは、できればいらぬ経費であり、1円でも安くしたいのが本音だ。
何度も言及するが、多くの建て売り業者や不動産業者の悪口を言おうとしているのではない。建築家として、憂いているだけなのだ。全部とは言わないが、多くの建て売り住宅業者の土地入手から住宅販売のフローは、上述したような流れである。そして、建築家が関わる住宅をヒエラルキーの頂点とすると、その下にハウスメーカーなどの注文住宅があり、最もボリュームの多いゾーンに建て売り住宅が輝いている現実がある。
あらためて考えると、「注文住宅」という言葉は何ていう不適切なニュアンスを響かせるのだろう。そもそも住宅とは、注文して建てるのが当然であると言ってしまいたい。
さて、このようなロジックで街並みに建て売り住宅がスプロールすると、建て売り住宅業者や不動産業者が街並みを生み出し、都市計画家の役割を担っていると言えるではないか。それ故に猥雑で、ある意味魅力的な街並みが生まれてしまうのだ。もちろん、建築の文化を考え、街並みを美しく考えようとしている、素晴らしい建て売り住宅業者や不動産業者がいることも忘れてはならないことを、この「街並み不要論」の最後に付加えたい。
この「街並み」という、一見お行儀の良さそうな記号を使えば、都市について論考しているような気になってくるのかもしれない。果たして、京都のような風致地域や歴史的都市以外のそれぞれがそれぞれの価値観だけでつくりあげられた猥雑な都市の街に、私たちは「街並み」を必要とするのだろうか。
これは、ルソーが『学問芸術論』などで言い回した「逆説」や「アイロニー」からの論考ではない。建築家であれば不可侵の、誰もがその「お行儀の良さ」を認めている「街並み」に対しての、「街並み不要論」として述べているのである。
そもそも雑多な集積の都市の中に、街並みを持ち込んでコンテクストを作ろうとすること自体間違っているのではないか。「街並み」という記号から導かれるイメージは、美しい街、気持ちのいい街、整然とした街、などが挙げられるだろう。私たちが生活している街を、それこそこのような文脈に沿って論考しようとすることは、思索の上では可能である。しかし、建築家や都市計画家たちがアカデミックな立場から線を引っ張っていく結果を、私たちが街として現実に見ている訳ではない。
では、一体誰がこの街並みをつくっているのであろうか。都市の猥雑な街並みをつくっているのは、建築家でも都市計画家でも、それに付随する有識者の誰でもない。それは、建て売り住宅業者と不動産業者なのである。この現実を前にして、彼らを責めている訳ではない。彼らは彼らのやり方で、この社会を生き抜いているのだから。
彼らはまるでゲリラのように土地を細分化しながら、商品としての住宅を売り捌く。もし仮に50坪の土地が入手できたならば、迷わずに25坪ずつの2分割を行うだろう。50坪の土地の建て売り住宅では、価格が高く手を出せる世帯が少ないという大義名分の影には、分割して数を増やした方がトータルの利益が出るというロジックが潜む。
更に踏み込んで言及すれば、できれば土地の上に住宅など造らないで土地だけの転売で早く売り抜けたいというのが、大多数の本音だ。上に住宅を造ればその分いらぬ金がかかるし、工事期間が鬱陶しい。そして何年ものクレーム処理に走らなければならなくなってしまう。
こう述べると、まるで多くの建て売り住宅業者は、土地を売るために住宅を乗せているだけではないか、と思われるだろう。その通りであると思われてもしかたのない状況なのだ。競売や任意売却などで入手した土地が、そのまま売り抜けられる良い仕入れであれば、転売を試みる業者は多いはずだ。良い仕入れとは、あらゆる手段を講じ安く入手できた土地である。それをできればエンド(彼らは実際にその土地を利用し、住むであろう一般購入者のことをそう呼ぶ。)に高値で売りたい。そしてそうでない土地は、まずプランを付けて売ってみる。プランといっても、私たち建築家が言うプランとはかけ離れた、パズルの間取り図だ。ここで売れないと、ようやく付き合いのある建て売り住宅専門設計屋に設計を依頼する。
1棟の設計料は、確認申請込みで仕上げ表を付けた設計図書を10枚程度作成し、おおよそ50万円前後だろう。そして施工坪単価35万円程度の木造住宅が出来上がる。彼ら建て売り住宅業者や、不動産業者には、知的生産料の重要性は必要がない。住宅が出来上がるまでの設計料などは、できればいらぬ経費であり、1円でも安くしたいのが本音だ。
何度も言及するが、多くの建て売り業者や不動産業者の悪口を言おうとしているのではない。建築家として、憂いているだけなのだ。全部とは言わないが、多くの建て売り住宅業者の土地入手から住宅販売のフローは、上述したような流れである。そして、建築家が関わる住宅をヒエラルキーの頂点とすると、その下にハウスメーカーなどの注文住宅があり、最もボリュームの多いゾーンに建て売り住宅が輝いている現実がある。
あらためて考えると、「注文住宅」という言葉は何ていう不適切なニュアンスを響かせるのだろう。そもそも住宅とは、注文して建てるのが当然であると言ってしまいたい。
さて、このようなロジックで街並みに建て売り住宅がスプロールすると、建て売り住宅業者や不動産業者が街並みを生み出し、都市計画家の役割を担っていると言えるではないか。それ故に猥雑で、ある意味魅力的な街並みが生まれてしまうのだ。もちろん、建築の文化を考え、街並みを美しく考えようとしている、素晴らしい建て売り住宅業者や不動産業者がいることも忘れてはならないことを、この「街並み不要論」の最後に付加えたい。
2010年6月15日火曜日
ニーチェの芸術論 アポロンとディオニュソス
私と同じように哲学の専門教育を受けていないが、哲学が好きで、哲学を自分で探求している人は意外と多い。そういう哲学好きの人が、たまにふらりとバーの扉を開けてくれる。先日もウエブサイトで哲学とバーで検索し、初めてこのバーに足を踏み入れてくれた人がいた。
そのW氏が薦めてくれたのが、アンドレコント=スポンヴィルという哲学者の『資本主義に徳はあるか』という著作である。私はスポンヴィルという哲学者を知らなかったし、その著作にも触れたことはなかった。このありがたいサジェスチョンから、スポンビルの思想に触れることが楽しみだ。
独学で哲学を思索していると、研究者のように幅広い知識や情報を得ることができない。私は恥ずかしくもなく、知らないことを知らないと言うようにしている。そうすると、いろいろな人が、いろいろなことを教えてくれる。このようにして、私の拙い思索の系譜が広がっていくのだ。
そのW氏と酒を飲みながら話すうちに、ニーチェはどのように芸術を語ったのだろうか、という話題になった。私はバックカウンターの、酒の棚に挟まれてある本棚から2冊のニーチェの本を取り出し、カウンターの上に置いた。私が愛読している藤田健治と三島憲一が著した著作である。
ニーチェは、ギリシャ悲劇がどのように起こり、どのように亡びたか、ギリシャにおける悲劇的なものは何をその根底にしていたか(1)、という問題から説き始め、芸術論を展開させている。では何故ニーチェがギリシャ悲劇を論考しようとしたのか、ということは、三島憲一の「『ニーチェ』第三章 第一節 ギリシアへの夢」を参照することで、想像がつく。
ニーチェが古典文献学を学んでいた学生時代、古代ギリシャの厳密な学問的研究から学んだ(2)知識が、ギリシャへの憧れを形成していったのだ。その憧れが、ギリシャ文化自身の相反する二つの方向がある、アポロンとディオニュソスという神々(3)を引用することで、自分の芸術論を位置づけようとしたとする私の考察は、後述するショーペンハウアやワーグナーとの関係と共に、ニーチェがギリシャ悲劇を論考した理由の一つとして数え上げてもいいだろう。
三島憲一によれば、ディオニュソスとは生の根源にうごめくほの暗い名称であり、酒と狂乱の神であり、衝動と情念の世界の原理とされる。(4)それに対し、アポロンは光にあふれた形態の世界の原理であるという。(5)ディオニュソスが「生命の祝祭」であると同時に「性的放縦」を意味していたのと同様に、アポロンは美しい形態の神であるとともに、また場合によっては、生命の自然な発露を押さえ、抑圧する形式万能主義の神でもある。(6)
ニーチェがこのように自身の芸術論を語ろうとした背景には、音楽への愛があった。ニーチェによるワーグナーへの憧れと邂逅、そして別離。その時代の中でニーチェが触れたのは、悲劇的なものはギリシャを超え現代に及び、それはワーグナーの生み出した楽劇の核心でもあり、やがてまたそれは生きんとする意志の現れであった。(7)
ニーチェは、ルソー、ゲーテ、ショーペンハウア三人を、近代が立てた三つの人間像として挙げている。(8)ルソー的な人間がときとすると権謀術策を弄するカティリナ的な人間となるように、ゲーテ的な人間は時代に妥協し協調する俗物的人間となる。これらに対し、ショーペンハウア的人間は誠実から進んで苦悩を引き受ける人間であるとする。(9) このショーペンハウアに見出される同じ悲劇的英雄を、ニーチェはワーグナーのうちに見ている。(10)
このような過程を経て、ニーチェはショーペンハウアの哲学からディオニュソス的なものの方が根源的直接的であり、アポロン的なものは第二次間接的であるとする見方をする。(11)
もう少し分かりやすく論ずれば、アポロン的芸術は理念を仲介として具体的に描写し、その限り現象の世界における一定の時と所にしばられた個の枠から離れられないのに対し、ディオニュソス的芸術は、わき上がる情熱的な歓喜の中に個の枠が吹き飛ばされて、すべてのものの根源と一つになってとけこむ体験を与えるのである。(12)そして、本来音楽の精神は、陶酔的感情的なディオニュソス的なものであるとニーチェはいう。(13)
ニーチェ は、ショーペンハウア、ワーグナーを通してこのような芸術論を語るのであるが、その根底にはニーチェ特有の人間が持つ永遠の生命の存在が叫び続けられているのが見て取れる。
ニーチェの芸術論においては、悲劇は私たち人間に向かってあるがままの自然のあるとおりであれ、という。あるがままの自然とは、たえず移り変わる現象の中で永遠に生み出してやまず、すべてを存在させずにいない生命力のことであり、現象の変化のうちに永遠に生き続ける創造的生命のことである。(14)
これはまさに、ニーチェがこの後展開させる永劫回帰や超人という思索に通じる論考に他ならない。
なにげなくカウンターの上に置いた二冊のニーチェから、思いがけずに芸術論から人間の永遠の生命を探求することができた一夜だった。
註
1 藤田健治 『ニーチェ』p.32.
2 三島憲一 『ニーチェ』p.47.
3 藤田健治 『前掲書』p.33.文脈により筆者が改編する。
4 三島憲一 『前掲書』p.69.
5 三島憲一 『前掲書』p.69
6 三島憲一 『前掲書』p.70文脈により筆者が改編する。
7 藤田健治 『前掲書』p,32文脈により筆者が改編する。
8 藤田健治 『前掲書』p.63
9 藤田健治 『前掲書』p.63
10 藤田健治 『前掲書』pp.63f.
11 藤田健治 『前掲書』p.34.
12 藤田健治 『前掲書』p.35.文脈により筆者が改編する。
13 藤田健治 『前掲書』p.36.
14 藤田健治 『前掲書』pp37f..
参考文献
藤田健治 『ニーチェ』中公新書1994年
三島憲一 『ニーチェ』岩波新書1993年
そのW氏が薦めてくれたのが、アンドレコント=スポンヴィルという哲学者の『資本主義に徳はあるか』という著作である。私はスポンヴィルという哲学者を知らなかったし、その著作にも触れたことはなかった。このありがたいサジェスチョンから、スポンビルの思想に触れることが楽しみだ。
独学で哲学を思索していると、研究者のように幅広い知識や情報を得ることができない。私は恥ずかしくもなく、知らないことを知らないと言うようにしている。そうすると、いろいろな人が、いろいろなことを教えてくれる。このようにして、私の拙い思索の系譜が広がっていくのだ。
そのW氏と酒を飲みながら話すうちに、ニーチェはどのように芸術を語ったのだろうか、という話題になった。私はバックカウンターの、酒の棚に挟まれてある本棚から2冊のニーチェの本を取り出し、カウンターの上に置いた。私が愛読している藤田健治と三島憲一が著した著作である。
ニーチェは、ギリシャ悲劇がどのように起こり、どのように亡びたか、ギリシャにおける悲劇的なものは何をその根底にしていたか(1)、という問題から説き始め、芸術論を展開させている。では何故ニーチェがギリシャ悲劇を論考しようとしたのか、ということは、三島憲一の「『ニーチェ』第三章 第一節 ギリシアへの夢」を参照することで、想像がつく。
ニーチェが古典文献学を学んでいた学生時代、古代ギリシャの厳密な学問的研究から学んだ(2)知識が、ギリシャへの憧れを形成していったのだ。その憧れが、ギリシャ文化自身の相反する二つの方向がある、アポロンとディオニュソスという神々(3)を引用することで、自分の芸術論を位置づけようとしたとする私の考察は、後述するショーペンハウアやワーグナーとの関係と共に、ニーチェがギリシャ悲劇を論考した理由の一つとして数え上げてもいいだろう。
三島憲一によれば、ディオニュソスとは生の根源にうごめくほの暗い名称であり、酒と狂乱の神であり、衝動と情念の世界の原理とされる。(4)それに対し、アポロンは光にあふれた形態の世界の原理であるという。(5)ディオニュソスが「生命の祝祭」であると同時に「性的放縦」を意味していたのと同様に、アポロンは美しい形態の神であるとともに、また場合によっては、生命の自然な発露を押さえ、抑圧する形式万能主義の神でもある。(6)
ニーチェがこのように自身の芸術論を語ろうとした背景には、音楽への愛があった。ニーチェによるワーグナーへの憧れと邂逅、そして別離。その時代の中でニーチェが触れたのは、悲劇的なものはギリシャを超え現代に及び、それはワーグナーの生み出した楽劇の核心でもあり、やがてまたそれは生きんとする意志の現れであった。(7)
ニーチェは、ルソー、ゲーテ、ショーペンハウア三人を、近代が立てた三つの人間像として挙げている。(8)ルソー的な人間がときとすると権謀術策を弄するカティリナ的な人間となるように、ゲーテ的な人間は時代に妥協し協調する俗物的人間となる。これらに対し、ショーペンハウア的人間は誠実から進んで苦悩を引き受ける人間であるとする。(9) このショーペンハウアに見出される同じ悲劇的英雄を、ニーチェはワーグナーのうちに見ている。(10)
このような過程を経て、ニーチェはショーペンハウアの哲学からディオニュソス的なものの方が根源的直接的であり、アポロン的なものは第二次間接的であるとする見方をする。(11)
もう少し分かりやすく論ずれば、アポロン的芸術は理念を仲介として具体的に描写し、その限り現象の世界における一定の時と所にしばられた個の枠から離れられないのに対し、ディオニュソス的芸術は、わき上がる情熱的な歓喜の中に個の枠が吹き飛ばされて、すべてのものの根源と一つになってとけこむ体験を与えるのである。(12)そして、本来音楽の精神は、陶酔的感情的なディオニュソス的なものであるとニーチェはいう。(13)
ニーチェ は、ショーペンハウア、ワーグナーを通してこのような芸術論を語るのであるが、その根底にはニーチェ特有の人間が持つ永遠の生命の存在が叫び続けられているのが見て取れる。
ニーチェの芸術論においては、悲劇は私たち人間に向かってあるがままの自然のあるとおりであれ、という。あるがままの自然とは、たえず移り変わる現象の中で永遠に生み出してやまず、すべてを存在させずにいない生命力のことであり、現象の変化のうちに永遠に生き続ける創造的生命のことである。(14)
これはまさに、ニーチェがこの後展開させる永劫回帰や超人という思索に通じる論考に他ならない。
なにげなくカウンターの上に置いた二冊のニーチェから、思いがけずに芸術論から人間の永遠の生命を探求することができた一夜だった。
註
1 藤田健治 『ニーチェ』p.32.
2 三島憲一 『ニーチェ』p.47.
3 藤田健治 『前掲書』p.33.文脈により筆者が改編する。
4 三島憲一 『前掲書』p.69.
5 三島憲一 『前掲書』p.69
6 三島憲一 『前掲書』p.70文脈により筆者が改編する。
7 藤田健治 『前掲書』p,32文脈により筆者が改編する。
8 藤田健治 『前掲書』p.63
9 藤田健治 『前掲書』p.63
10 藤田健治 『前掲書』pp.63f.
11 藤田健治 『前掲書』p.34.
12 藤田健治 『前掲書』p.35.文脈により筆者が改編する。
13 藤田健治 『前掲書』p.36.
14 藤田健治 『前掲書』pp37f..
参考文献
藤田健治 『ニーチェ』中公新書1994年
三島憲一 『ニーチェ』岩波新書1993年
2010年5月23日日曜日
プルーストからヴェネツィアの幻惑を想像する。
いつ購入したのかも忘れてしまった本を、棚から取り出して読んだ。それは馴染みの古書店で見つけた、タイトルが美しい、そして装丁も美しい本だった。両手を頬に当てて目を閉じて、何かを考えているかのような哲学的な表情をした、美しい女性が表紙になっている。その横に、『ヴェネツィアでプルーストを読む』と本のタイトルがクレジットされていた。
帯には、「マルセル・プルーストに導かれてヴェネツィアを徘徊するための、幻惑のヴェネツィア・ガイド」と書かれている。「幻惑のヴェネツィア・ガイド」という部分は、大きくクレジットされていた。全体が黒いベースに、女性の上半身の写真がモノクロで、そして白抜きの文字が表紙を引き締めている。私はプルーストに惹かれてというよりも、この美しいグラフィカルな装丁に魅せられて買ってしまっていた。
そろそろヴェネツィアにまた行きたい、そう思ってこの本を古書店の棚から引き出したのだが、ヨーロッパに赴いてもヴェネツィアまで足を延ばす機会はなかった。ヴェネツィアに行くことになったらこの本を読もう、そう思いながらこの本は自分の書棚から全く動くことはなかった。
この本を読んだのは、ヴェネツィアに行くことになったからではない。ヴェネツィアに焦がれながらも、ヴェネツィアに行く機会がない自分の心を満たすために、購入して以来初めて本の扉を開けた。
「幻惑のヴェネツィア・ガイド」と帯にあるが、この本は、所謂ガイドブックではない。フランス文学を専攻し、詩人でもある著者の鈴村和成が、プルーストの跡を辿りヴェネツィアやノルマンディーを徘徊する、美しい文体で書かれた詩的な文学評論である。文章の余韻や空白感が素晴らしく、著者の詩人である謂れを彷彿とさせていた。
プルーストがヴェネツィアで泊まったホテルには、長らくダニエリ説とエウローバ説があった(1)という。そして近年の評伝ではエウローバ説が採られている(2)、とされる。私は、ここでホテル・チプリアーニを思い浮かべた。確か5月だったと思うが、その時のヴェネツィアは風が強く、とても肌寒かった。専用のタクシー(モーターボート)で迎えられたホテルは、離れ小島のようなロケーションを独り占めするかのように建っている。私は無意識にダニエリの窮屈そうなファサードを嫌って、チプリアーニを選択したのかもしれなかった。
著者はこの本の所々に、レストランや料理、酒についての記述を散りばめていた。プルーストを辿り、彼の泊まった同じホテルに泊まり、時には同じレストランでプルーストの食べた料理も食べる。ノルマンディでムール貝やカキ、海老を氷の上に盛ったフリュイ・ド・メールを食べたときの記述が、「目の前の夕暮れの海にレモンを搾って食べているようだ」(3)という詩的な表現が 美しかった。
チプリアーニのオーナーが経営している、世界で最も有名なバー「ハリーズ・バー」。そこには誰もが知っているスペシャリテ、桃のシャンパンカクテル「ベリーニ」がある。バーと名が付いているとはいえ、本格的なダイニングを擁した世界の社交場だ。カウンターの前面では、普通以上にドレスアップした男女がスタンディングでひしめき合う。この異空間を目にすると、外界のヴェネツィアの歴史的な街並みからのギャップに、くらくらと目眩がするほどだ。カウンターの中では、あらかじめ桃のネクターとスプマンテをブレンドしたベリーニが大きな銀のボールに入れられ、それをシャンパングラスにすくって入れてサーブされる。このスノッブな空間は鈴村和成の詩的な文体と相乗しないが、私は著者の余韻が美しい酒や料理の記述を読むに連れて、「ハリーズ・バー」で繰り広げられる「幻惑のヴェネツィア」を想い出していたのだった。
この本の帯にあるように、ヴェネツィアを表すのに最も相応しい言葉は「幻惑」であろう。マルセル・プルーストを追わないまでも、ヴェネツィアに佇めば誰でも幻惑を目にすることができるはずだ。ヴェネツィアの美しく輝く光を目にすればするほど、その影に幻惑される。私は、かつて須賀敦子の『ザッテレの河岸で』というエッセイで、「コルティジャーネ」という言葉を初めて知った。コルティジャーネ。この言葉の語尾をコルテジャーニと男性形に変えると、宮廷人や貴族の意味になるのだが、女性名詞の場合には、日本語でふつう「高級娼婦」という、およそ詩的でない言葉があてられる。(4)コルティジャーネが最後に収容される施設が「なおる見込みのない人たちの病院」(オスペターレデリ インクラビリ)と名づけられた病院であった。そして彼女たちが罹ったなおる見込みのない病気とは、梅毒だった。その施設の遺構は、いまだヴェネツィアに佇んでいる。
もちろん、このような施設は世界のどこにでも存在した。しかし、カサノヴァまで遡らなくても、男色という影を持つプルーストしかり、ヴェネツィアの魅力を追っていくと闇の美しさを持った幻惑に、どうしても足を引き摺りこまれてしまう。
この美しい装丁は、木村裕治、後藤洋介によるもので、カバー写真は”Threading thought” Diana and Marlo/Orion Pressからのものである。
註
1 鈴村和成 『ヴェネツィアでプルーストを読む』p.54.
2 鈴村和成 『前掲書』p.54.
3 鈴村和成 『前掲書』p.182.
4 須賀敦子 『ザッテレの河岸で』p.101.
参考文献
鈴村和成 『ヴェネツィアでプルーストを読む』集英社2004年
渡部雄吉 須賀敦子 中嶋和郎 『ヴェネツィア案内』新潮社2007年
帯には、「マルセル・プルーストに導かれてヴェネツィアを徘徊するための、幻惑のヴェネツィア・ガイド」と書かれている。「幻惑のヴェネツィア・ガイド」という部分は、大きくクレジットされていた。全体が黒いベースに、女性の上半身の写真がモノクロで、そして白抜きの文字が表紙を引き締めている。私はプルーストに惹かれてというよりも、この美しいグラフィカルな装丁に魅せられて買ってしまっていた。
そろそろヴェネツィアにまた行きたい、そう思ってこの本を古書店の棚から引き出したのだが、ヨーロッパに赴いてもヴェネツィアまで足を延ばす機会はなかった。ヴェネツィアに行くことになったらこの本を読もう、そう思いながらこの本は自分の書棚から全く動くことはなかった。
この本を読んだのは、ヴェネツィアに行くことになったからではない。ヴェネツィアに焦がれながらも、ヴェネツィアに行く機会がない自分の心を満たすために、購入して以来初めて本の扉を開けた。
「幻惑のヴェネツィア・ガイド」と帯にあるが、この本は、所謂ガイドブックではない。フランス文学を専攻し、詩人でもある著者の鈴村和成が、プルーストの跡を辿りヴェネツィアやノルマンディーを徘徊する、美しい文体で書かれた詩的な文学評論である。文章の余韻や空白感が素晴らしく、著者の詩人である謂れを彷彿とさせていた。
プルーストがヴェネツィアで泊まったホテルには、長らくダニエリ説とエウローバ説があった(1)という。そして近年の評伝ではエウローバ説が採られている(2)、とされる。私は、ここでホテル・チプリアーニを思い浮かべた。確か5月だったと思うが、その時のヴェネツィアは風が強く、とても肌寒かった。専用のタクシー(モーターボート)で迎えられたホテルは、離れ小島のようなロケーションを独り占めするかのように建っている。私は無意識にダニエリの窮屈そうなファサードを嫌って、チプリアーニを選択したのかもしれなかった。
著者はこの本の所々に、レストランや料理、酒についての記述を散りばめていた。プルーストを辿り、彼の泊まった同じホテルに泊まり、時には同じレストランでプルーストの食べた料理も食べる。ノルマンディでムール貝やカキ、海老を氷の上に盛ったフリュイ・ド・メールを食べたときの記述が、「目の前の夕暮れの海にレモンを搾って食べているようだ」(3)という詩的な表現が 美しかった。
チプリアーニのオーナーが経営している、世界で最も有名なバー「ハリーズ・バー」。そこには誰もが知っているスペシャリテ、桃のシャンパンカクテル「ベリーニ」がある。バーと名が付いているとはいえ、本格的なダイニングを擁した世界の社交場だ。カウンターの前面では、普通以上にドレスアップした男女がスタンディングでひしめき合う。この異空間を目にすると、外界のヴェネツィアの歴史的な街並みからのギャップに、くらくらと目眩がするほどだ。カウンターの中では、あらかじめ桃のネクターとスプマンテをブレンドしたベリーニが大きな銀のボールに入れられ、それをシャンパングラスにすくって入れてサーブされる。このスノッブな空間は鈴村和成の詩的な文体と相乗しないが、私は著者の余韻が美しい酒や料理の記述を読むに連れて、「ハリーズ・バー」で繰り広げられる「幻惑のヴェネツィア」を想い出していたのだった。
この本の帯にあるように、ヴェネツィアを表すのに最も相応しい言葉は「幻惑」であろう。マルセル・プルーストを追わないまでも、ヴェネツィアに佇めば誰でも幻惑を目にすることができるはずだ。ヴェネツィアの美しく輝く光を目にすればするほど、その影に幻惑される。私は、かつて須賀敦子の『ザッテレの河岸で』というエッセイで、「コルティジャーネ」という言葉を初めて知った。コルティジャーネ。この言葉の語尾をコルテジャーニと男性形に変えると、宮廷人や貴族の意味になるのだが、女性名詞の場合には、日本語でふつう「高級娼婦」という、およそ詩的でない言葉があてられる。(4)コルティジャーネが最後に収容される施設が「なおる見込みのない人たちの病院」(オスペターレデリ インクラビリ)と名づけられた病院であった。そして彼女たちが罹ったなおる見込みのない病気とは、梅毒だった。その施設の遺構は、いまだヴェネツィアに佇んでいる。
もちろん、このような施設は世界のどこにでも存在した。しかし、カサノヴァまで遡らなくても、男色という影を持つプルーストしかり、ヴェネツィアの魅力を追っていくと闇の美しさを持った幻惑に、どうしても足を引き摺りこまれてしまう。
この美しい装丁は、木村裕治、後藤洋介によるもので、カバー写真は”Threading thought” Diana and Marlo/Orion Pressからのものである。
註
1 鈴村和成 『ヴェネツィアでプルーストを読む』p.54.
2 鈴村和成 『前掲書』p.54.
3 鈴村和成 『前掲書』p.182.
4 須賀敦子 『ザッテレの河岸で』p.101.
参考文献
鈴村和成 『ヴェネツィアでプルーストを読む』集英社2004年
渡部雄吉 須賀敦子 中嶋和郎 『ヴェネツィア案内』新潮社2007年
2010年5月7日金曜日
『新建築』2010年4月号の足跡
先月号の『新建築』(2010年4月号)は、「東京2010」という巻頭特集であった。110名による、見るべき建築を各人3つずつ挙げてコメントを入れたガイドである。4月から建築を学ぶために入学した学生や、社会人1年生となった若者に、あらためて東京の建築の中から「この建築は是非見ておきなさい」という、先輩からのメッセージが込められている。まさに、「新年度が始まるこの時期に、建築入門またはより深く建築を考えるきっかけとして使う保存版」となる特集だった。
そして、丹下健三・吉阪隆正・村野藤吾・篠原一男・磯崎新といった巨匠たちの作品に混じり、私の小さな「建築と哲学のバー SAD CAFÉ」も掲載される。建築の規模としても掲載作品の中で一番小さいだろうが、それよりもバーとして唯一の掲載作品である。これは、建築家・宇野亨による推薦であった。
宇野亨は、そのコメントの通りに学生時代によくこのバーに通ってくれていた。当時は「建築と哲学のバー SAD CAFÉ」とは名乗らずに、「SAD CAFÉ THE LAST RESORT」というキャプションを店名に付けていた時代だった。SAD CAFÉもTHE LAST RESORTも、ウエストコーストから世界を巻き込んだロックグループ イーグルスの曲名から取ったものである。そう、あの「ホテルカリフォルニア」のイーグルスだ。
宇野亨はカウンターに座り、現在と変わらないあの瞑目で低音の、そして思慮深い言葉でグラスを傾ける合間に静かに話していた。そういえば、眼鏡の奥から覗く目はまるで哲学をしているかのような目であったかもしれない。あるとき、著名な建築家集団であるシーラカンスで働くことにしたと報告をしに来たことがあった。学生時代から、そこでアルバイトをしていたのだろうか。詳細は忘れてしまったが、学生生活を終え建築家としての修行の第一歩をシーラカンスに向けたということだった。
その時に私は反対の立場を取ったのを、よく覚えている。シーラカンスが悪い、と言ったのではない。建築家として、設計共同体の中で自分の個性をどのようにコントロールしていくのか、ということを真剣に議論したのだった。たぶんそのときも、宇野亨は言葉を選びながら、静かに自分の意見を私に言ったのだろう。そして私の危惧は取り越し苦労に終わり、現在はCAnパートナーとして名古屋ブランチを統括している素晴らしい建築家となっている。宇野亨の推薦文に、「世界中で一番好きなバーである」というコメントを見つけたときには、非常に光栄な気持ちになった。
さて、『新建築』2010年4月号がリリースされてから、バーの様子が変わってきた。まだ発売されたばかりなので、そのガイドを見て来店する人がいるとすれば3~4ヶ月位あとであろうと私は思っていた。かつて雑誌『ブルータス』にこのバーが掲載された切り抜きを持って、その『ブルータス』が発売された2年後に初めて来店してくれた写真家がいたことを思い出す。彼は「いつか来たかった」と言ってくれ、手帖に挟んで入れていたその切抜きを嬉しそうに私に見せた。そして自宅を、建築家・室伏次郎氏に依頼して設計してもらったことを話し始める。水深10センチ程度の「見るためのプール」をつくってもらったのだと言う。私はその作品を『新建築』で見て記憶にあり、その作品の記憶と目の前にいるその作品の住人が一致した奇妙な感覚に陥ったことも、おぼろげに思い出した。
しかし今回は、『新建築』発売後からバーの前で写真を撮る人が増えてきた。22年前の作品を撮ってくれるなんて、嬉しい限りである。そして先日は、『新建築』を手に持ちながら沖縄からわざわざこのバーにやって来てくれた建築家がいた。遠方からの来訪とはいえ、なんと沖縄からである。なかなか場所が特定できなくて迷ったと言われ、裏通りにあるこのバーを申し訳なく思ってしまった。
ガイドブックを見なくても、面白がってやってくる来訪者がいる。このバーの近くにある小学校の生徒たちだ。彼らはまるで、アミューズメントパークのアトラクションを見るかのように、このバーのファサードに興味を示す。昼間、バーの店内で建築のスタディをしていると、表の小さな子供たちの喧騒とファサードの突出したパネルを叩く音が聞こえてくる。それは私にとって、心地良い騒音だ。小さな子供がこの奇妙な建築物を見て、インプレッションを受けて将来建築家を目指すきっかけになってくれればこの上なく幸せである。そんな大それたことを考えなくても、いつもの子供たちの「何だ、これは!」という嬌声が、考えるという「哲学」に結びつくことを願っているのだ。
沖縄の来訪者とは、暫く後に酒を酌み交わす約束をして別れた素晴らしい一夜だった。宇野亨に感謝したい。
そして、丹下健三・吉阪隆正・村野藤吾・篠原一男・磯崎新といった巨匠たちの作品に混じり、私の小さな「建築と哲学のバー SAD CAFÉ」も掲載される。建築の規模としても掲載作品の中で一番小さいだろうが、それよりもバーとして唯一の掲載作品である。これは、建築家・宇野亨による推薦であった。
宇野亨は、そのコメントの通りに学生時代によくこのバーに通ってくれていた。当時は「建築と哲学のバー SAD CAFÉ」とは名乗らずに、「SAD CAFÉ THE LAST RESORT」というキャプションを店名に付けていた時代だった。SAD CAFÉもTHE LAST RESORTも、ウエストコーストから世界を巻き込んだロックグループ イーグルスの曲名から取ったものである。そう、あの「ホテルカリフォルニア」のイーグルスだ。
宇野亨はカウンターに座り、現在と変わらないあの瞑目で低音の、そして思慮深い言葉でグラスを傾ける合間に静かに話していた。そういえば、眼鏡の奥から覗く目はまるで哲学をしているかのような目であったかもしれない。あるとき、著名な建築家集団であるシーラカンスで働くことにしたと報告をしに来たことがあった。学生時代から、そこでアルバイトをしていたのだろうか。詳細は忘れてしまったが、学生生活を終え建築家としての修行の第一歩をシーラカンスに向けたということだった。
その時に私は反対の立場を取ったのを、よく覚えている。シーラカンスが悪い、と言ったのではない。建築家として、設計共同体の中で自分の個性をどのようにコントロールしていくのか、ということを真剣に議論したのだった。たぶんそのときも、宇野亨は言葉を選びながら、静かに自分の意見を私に言ったのだろう。そして私の危惧は取り越し苦労に終わり、現在はCAnパートナーとして名古屋ブランチを統括している素晴らしい建築家となっている。宇野亨の推薦文に、「世界中で一番好きなバーである」というコメントを見つけたときには、非常に光栄な気持ちになった。
さて、『新建築』2010年4月号がリリースされてから、バーの様子が変わってきた。まだ発売されたばかりなので、そのガイドを見て来店する人がいるとすれば3~4ヶ月位あとであろうと私は思っていた。かつて雑誌『ブルータス』にこのバーが掲載された切り抜きを持って、その『ブルータス』が発売された2年後に初めて来店してくれた写真家がいたことを思い出す。彼は「いつか来たかった」と言ってくれ、手帖に挟んで入れていたその切抜きを嬉しそうに私に見せた。そして自宅を、建築家・室伏次郎氏に依頼して設計してもらったことを話し始める。水深10センチ程度の「見るためのプール」をつくってもらったのだと言う。私はその作品を『新建築』で見て記憶にあり、その作品の記憶と目の前にいるその作品の住人が一致した奇妙な感覚に陥ったことも、おぼろげに思い出した。
しかし今回は、『新建築』発売後からバーの前で写真を撮る人が増えてきた。22年前の作品を撮ってくれるなんて、嬉しい限りである。そして先日は、『新建築』を手に持ちながら沖縄からわざわざこのバーにやって来てくれた建築家がいた。遠方からの来訪とはいえ、なんと沖縄からである。なかなか場所が特定できなくて迷ったと言われ、裏通りにあるこのバーを申し訳なく思ってしまった。
ガイドブックを見なくても、面白がってやってくる来訪者がいる。このバーの近くにある小学校の生徒たちだ。彼らはまるで、アミューズメントパークのアトラクションを見るかのように、このバーのファサードに興味を示す。昼間、バーの店内で建築のスタディをしていると、表の小さな子供たちの喧騒とファサードの突出したパネルを叩く音が聞こえてくる。それは私にとって、心地良い騒音だ。小さな子供がこの奇妙な建築物を見て、インプレッションを受けて将来建築家を目指すきっかけになってくれればこの上なく幸せである。そんな大それたことを考えなくても、いつもの子供たちの「何だ、これは!」という嬌声が、考えるという「哲学」に結びつくことを願っているのだ。
沖縄の来訪者とは、暫く後に酒を酌み交わす約束をして別れた素晴らしい一夜だった。宇野亨に感謝したい。
2010年4月13日火曜日
哲学者の恋人達
馴染みの古書店に入り、暫く棚を眺める。そして気になる数冊を買い求め、貪るように読んでいく。時には仕事を放り出して、そして時にはワインを飲みながら。気が向けばそのスタディをレポートに纏める。何のことはない、これが私の哲学へのアプローチだ。
建築家である私は、哲学の専門教育を受けていない。であるから思想の系譜を体系づけて学んだ訳ではないし、身近にいる有識者から最適なテクストの享受を受けたこともない。辞書を片手に、原文に挑むこともない。その楽しさ、苦しさを思うと、大学で哲学を学んだ人を羨ましく思ってしまう。しかし、そういう在野で自由に思索を深めていくと、研究者がスポットライトを当ててこなかった部分がとても気になるのだ。私の場合、それは哲学者の生き様と、生み出す思想の関係性であった。
世に出た偉大な哲学者の多くも、私たちと相違なく濃密な恋愛をしてきた。それぞれの哲学者の恋愛については、それはそれで研究者により多くのテクストが生まれている。しかし多くの哲学者の恋愛を並列させ、その恋愛が哲学者の思索に与えた多大なる影響を纏め上げ、哲学と恋愛の関係を説いたテクストにはまだお目にかかっていない。
だからと言って、私がここでそのテーマを描いていこうという大それた気持ちは持っていないが、少しずつでも触れていきたいと思い始めた。
このコンテクストでは、冒頭はやはりニーチェとルー・ザロメ(1)のわずか6ヶ月の叶わぬ恋であろう。研究者により「ルー体験」というテクストが確立されているほど、ニーチェにとってルーの存在はあまりにも大きかった。恋に破れ、そして「ツァラトゥストラはかく語りき」(2)に突入、その後発狂して死へと向かう。ニーチェとルーのアフェアは、藤田健治による『ニーチェ』(3)を読むと、ルーの吐息、ニーチェの苦悩が文学を超えて目の前に現れる。明治生まれのこの研究者による柔らかい文章が、ルーとニーチェの生きた時代へと読者を誘ってくれる。
ドイツ現代 思想家である三島憲一による『ニーチェ』(4)の冒頭、第2章に興味深いテクストがあった。
哲学者や思想家の生涯というものは、彼のなかで起きた思想のドラマに較べれば、外面的には往々にして波乱万丈の面白みをもってはいな いものである。彼の頭脳のなかで行われた思想的な冒瀆や凌辱、彼が蒙った知的な屈辱や敗北、そして十九世紀以後は多くの場合にそうであるが、最後には時代に取り残され、裏切られた結果としての自己破産、―――そうしたものに較べれば、実際の人生航路は割合と単調で変化に乏しいことが多い。
それにもかかわらず、およそ時代に正面から立ち向かったほどの人物の場合には、彼の生い立ちや受けた教育や交友や出会いのうちに当該の時代や社会というものが、見えざる手によって計画され操られているかのように、典型的にそしてきわめて凝縮されたかたちで現れているものである。(5)
このセンテンスこそが、ニーチェを始めとする偉大な哲学者の生涯を象徴している凝縮された表現に他ならない、と私は思う。ニーチェは自分が理解されるとは思っていなかったが、理解されることを希ってもいた。ある手紙には、「私の作品は時間がかかる。・・・・・ひょっとすると五十年もたてば、・・・・・わたしによってなにが為されたかに気がつく者が幾人かいるかもしれない」と書いている。また、「私の物語るのは、次の二世紀の歴史である。(中略)すなわちニヒリズムの到来を書きしるす」のだとも遺稿のなかで述べている。(6)
発狂の末、1900年に死に至ったニーチェから100年後の私たちは、ニーチェの予言した通りのニヒリズムの時代を今生きているではないか。ニーチェとルーの恋が成就していたならば、ニーチェはニヒリズムなどを論じず別の思索をしたのかもしれない。
ニーチェから時代を遡り中世スコラ哲学を紐解けば、必ず登場する普遍論争。その唯名論者であるアベラールと恋人エロイーズの悲しい恋の物語は、私たち現代のアジアに生きる人間にとっては、本当に中世ヨーロッパの時代を感じさせる物語だ。
更に遡ること、やがて中世スコラ哲学へと繋がっていく教義を論じた、哲学者であり偉大なキリスト教父であったアウグスティヌス。若い時代に自分の持つ強い肉欲に奔放に生きたアウグスティヌスは、階級の違う女性を愛し子供をもうけた男でもあった。しかしやがてアウグスティヌスと別離をさせられてしまうその女性には、世間から隠されるように葬られても、悲しみの中にアウグスティヌスへの愛と従順さが見て取れる。
ニーチェに影響を受けたハイデガー。1924年ケーニヒスベルグからやってきた、まだ18歳のユダヤ系美人の女子学生ハンナ・アーレントは、翌年には妻子ある35歳のハイデガーと不倫の恋に落ちる。(7) 1945年に公職を追放され大学を追われたハイデガーは、著名な政治哲学者に成長した昔の恋人、ハンナ・アーレントと再会し、ハンナはヤスパースと協力しハイデガーの追放解除に成功する。(8)不倫の恋人に助けられた幸運なハイデガーと見るよりも、不倫という自分の立場を超えて相手に与えることをした心美しいハンナ、とこの恋を私は読みたい。
ニーチェ同様に、ハイデガーに影響を与えたキルケゴール。そのキルケゴールは、父親の不倫のトラウマから婚約者の心を傷つけてしまった。24歳 のキルケゴールは、なんと出会った14歳の少女に一目惚れをしてしまう。3年後の27歳のときにプロポーズし、承諾を得る。しかし、翌年一方的に婚約を破棄し、婚約指輪を送り返す。(9)キルケゴールは、愛しながら別れるというのだ。愛すればこそ、自分には夫になるべき資格が備わっていないというのである。(10)相手は、まだ18歳になったばかりなのに。
このように私には、哲学者の生んだ思索と同等に、或いはそれ以上に、哲学者の恋愛が哲学者に与えた影響が気になってしまうのだ。専門の研究者でなくても構わない、学生の卒業論文としてでも、このテーマのテクストを読んでみたいと思っている。そして私も、ワインを片手にこのテクストのスタディを続けていきたいと思うのだ。
註
1 ルー・ザロメの表記は、三島憲一による『ニーチェ』に従った。
藤田健治『ニーチェ』では、ルゥ・ザローメである。
2 ここでは、藤田健治による表記に従った。
三島憲一による表記では、『ツァラトゥストラはこう言った』である。
3 藤田健治『ニーチェ』その思想と実存の解明 中公新書 1994年
4 三島憲一『ニーチェ』岩波新書 1993年
5 三島憲一『前掲書』p.16.
6 三島憲一『前掲書』p.194.
7 木田元『反哲学入門』p.212.文脈により筆者が一部改編した。
8 木田元『前掲書』p.225.文脈により筆者が一部改編した。
9 渋谷大輔・山本洋一・三森定史・鰆木周見夫『哲学・思想がわかる』p.186.文脈により筆者が一部改編した。
10 渋谷大輔・山本洋一・三森定史・鰆木周見夫『哲学・思想がわかる』p.186.文脈により筆者が一部改編した。
参考文献
藤田健治『ニーチェ』その思想と実存の解明 中公新書 1994年
三島憲一『ニーチェ』岩波新書 1993年
木田元『反哲学入門』新潮社 2009年
渋谷大輔・山本洋一・三森定史・鰆木周見夫『哲学想がわかる』日本文芸社 2000年
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建築家である私は、哲学の専門教育を受けていない。であるから思想の系譜を体系づけて学んだ訳ではないし、身近にいる有識者から最適なテクストの享受を受けたこともない。辞書を片手に、原文に挑むこともない。その楽しさ、苦しさを思うと、大学で哲学を学んだ人を羨ましく思ってしまう。しかし、そういう在野で自由に思索を深めていくと、研究者がスポットライトを当ててこなかった部分がとても気になるのだ。私の場合、それは哲学者の生き様と、生み出す思想の関係性であった。
世に出た偉大な哲学者の多くも、私たちと相違なく濃密な恋愛をしてきた。それぞれの哲学者の恋愛については、それはそれで研究者により多くのテクストが生まれている。しかし多くの哲学者の恋愛を並列させ、その恋愛が哲学者の思索に与えた多大なる影響を纏め上げ、哲学と恋愛の関係を説いたテクストにはまだお目にかかっていない。
だからと言って、私がここでそのテーマを描いていこうという大それた気持ちは持っていないが、少しずつでも触れていきたいと思い始めた。
このコンテクストでは、冒頭はやはりニーチェとルー・ザロメ(1)のわずか6ヶ月の叶わぬ恋であろう。研究者により「ルー体験」というテクストが確立されているほど、ニーチェにとってルーの存在はあまりにも大きかった。恋に破れ、そして「ツァラトゥストラはかく語りき」(2)に突入、その後発狂して死へと向かう。ニーチェとルーのアフェアは、藤田健治による『ニーチェ』(3)を読むと、ルーの吐息、ニーチェの苦悩が文学を超えて目の前に現れる。明治生まれのこの研究者による柔らかい文章が、ルーとニーチェの生きた時代へと読者を誘ってくれる。
ドイツ現代 思想家である三島憲一による『ニーチェ』(4)の冒頭、第2章に興味深いテクストがあった。
哲学者や思想家の生涯というものは、彼のなかで起きた思想のドラマに較べれば、外面的には往々にして波乱万丈の面白みをもってはいな いものである。彼の頭脳のなかで行われた思想的な冒瀆や凌辱、彼が蒙った知的な屈辱や敗北、そして十九世紀以後は多くの場合にそうであるが、最後には時代に取り残され、裏切られた結果としての自己破産、―――そうしたものに較べれば、実際の人生航路は割合と単調で変化に乏しいことが多い。
それにもかかわらず、およそ時代に正面から立ち向かったほどの人物の場合には、彼の生い立ちや受けた教育や交友や出会いのうちに当該の時代や社会というものが、見えざる手によって計画され操られているかのように、典型的にそしてきわめて凝縮されたかたちで現れているものである。(5)
このセンテンスこそが、ニーチェを始めとする偉大な哲学者の生涯を象徴している凝縮された表現に他ならない、と私は思う。ニーチェは自分が理解されるとは思っていなかったが、理解されることを希ってもいた。ある手紙には、「私の作品は時間がかかる。・・・・・ひょっとすると五十年もたてば、・・・・・わたしによってなにが為されたかに気がつく者が幾人かいるかもしれない」と書いている。また、「私の物語るのは、次の二世紀の歴史である。(中略)すなわちニヒリズムの到来を書きしるす」のだとも遺稿のなかで述べている。(6)
発狂の末、1900年に死に至ったニーチェから100年後の私たちは、ニーチェの予言した通りのニヒリズムの時代を今生きているではないか。ニーチェとルーの恋が成就していたならば、ニーチェはニヒリズムなどを論じず別の思索をしたのかもしれない。
ニーチェから時代を遡り中世スコラ哲学を紐解けば、必ず登場する普遍論争。その唯名論者であるアベラールと恋人エロイーズの悲しい恋の物語は、私たち現代のアジアに生きる人間にとっては、本当に中世ヨーロッパの時代を感じさせる物語だ。
更に遡ること、やがて中世スコラ哲学へと繋がっていく教義を論じた、哲学者であり偉大なキリスト教父であったアウグスティヌス。若い時代に自分の持つ強い肉欲に奔放に生きたアウグスティヌスは、階級の違う女性を愛し子供をもうけた男でもあった。しかしやがてアウグスティヌスと別離をさせられてしまうその女性には、世間から隠されるように葬られても、悲しみの中にアウグスティヌスへの愛と従順さが見て取れる。
ニーチェに影響を受けたハイデガー。1924年ケーニヒスベルグからやってきた、まだ18歳のユダヤ系美人の女子学生ハンナ・アーレントは、翌年には妻子ある35歳のハイデガーと不倫の恋に落ちる。(7) 1945年に公職を追放され大学を追われたハイデガーは、著名な政治哲学者に成長した昔の恋人、ハンナ・アーレントと再会し、ハンナはヤスパースと協力しハイデガーの追放解除に成功する。(8)不倫の恋人に助けられた幸運なハイデガーと見るよりも、不倫という自分の立場を超えて相手に与えることをした心美しいハンナ、とこの恋を私は読みたい。
ニーチェ同様に、ハイデガーに影響を与えたキルケゴール。そのキルケゴールは、父親の不倫のトラウマから婚約者の心を傷つけてしまった。24歳 のキルケゴールは、なんと出会った14歳の少女に一目惚れをしてしまう。3年後の27歳のときにプロポーズし、承諾を得る。しかし、翌年一方的に婚約を破棄し、婚約指輪を送り返す。(9)キルケゴールは、愛しながら別れるというのだ。愛すればこそ、自分には夫になるべき資格が備わっていないというのである。(10)相手は、まだ18歳になったばかりなのに。
このように私には、哲学者の生んだ思索と同等に、或いはそれ以上に、哲学者の恋愛が哲学者に与えた影響が気になってしまうのだ。専門の研究者でなくても構わない、学生の卒業論文としてでも、このテーマのテクストを読んでみたいと思っている。そして私も、ワインを片手にこのテクストのスタディを続けていきたいと思うのだ。
註
1 ルー・ザロメの表記は、三島憲一による『ニーチェ』に従った。
藤田健治『ニーチェ』では、ルゥ・ザローメである。
2 ここでは、藤田健治による表記に従った。
三島憲一による表記では、『ツァラトゥストラはこう言った』である。
3 藤田健治『ニーチェ』その思想と実存の解明 中公新書 1994年
4 三島憲一『ニーチェ』岩波新書 1993年
5 三島憲一『前掲書』p.16.
6 三島憲一『前掲書』p.194.
7 木田元『反哲学入門』p.212.文脈により筆者が一部改編した。
8 木田元『前掲書』p.225.文脈により筆者が一部改編した。
9 渋谷大輔・山本洋一・三森定史・鰆木周見夫『哲学・思想がわかる』p.186.文脈により筆者が一部改編した。
10 渋谷大輔・山本洋一・三森定史・鰆木周見夫『哲学・思想がわかる』p.186.文脈により筆者が一部改編した。
参考文献
藤田健治『ニーチェ』その思想と実存の解明 中公新書 1994年
三島憲一『ニーチェ』岩波新書 1993年
木田元『反哲学入門』新潮社 2009年
渋谷大輔・山本洋一・三森定史・鰆木周見夫『哲学想がわかる』日本文芸社 2000年
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2010年4月2日金曜日
ヨウジヤマモトの東京コレクション、その建築的表層と「モードの体系」
19年ぶりという、ヨウジヤマモトの東京コレクションを見る。桜の夜も暖かかった4月1日、丹下健三の代々木第2体育館は、3000人のファンで埋まっていた。
私は「ヨウジヤマモト」のファッションを愛用している一人である。彼のデザインするジャケットは左右非対称であり、シンメトリーではないところが建築的で面白い。ファッションを建築という記号で捉えれば、もう一人、布を立体的に裁断しようとする三宅一生の発想も建築的である。二人とも建築を専門に学んだ訳ではないが、建築を学びモードの世界に入ったジャンフランコ・フェレの生み出すファッションよりも建築的であるのが、これもまた興味深いことである。
当日の演出は秀逸であった。プロによるウォーキングではない、それぞれに個性を出したステージ上でのプレゼンテーション。ライブによるショーの音楽も、柔らかく暖かかった。
山本耀司フリークの3000人の中にいて、僭越であるが私は「山本耀司賞」を受賞した唯一の建築家である、と自慢したくなった。これは、自慢してもいいことだろう。
ある建築の賞の審査で、私の作品を特別審査員であった山本耀司氏が、「私の名を付ける賞はこれしかない」と言って選定していただいた。まるでバロックのようだ、という言葉を添えて。この山本耀司氏の言葉は、今でも忘れられない。
私は山本耀司賞を受賞してから、ヨウジヤマモトを着始めたのではなかった。それ以前から、そのテイストが好きで着ている。であるから受賞の感慨は非常に大きなものであった。受賞から10年、代々木第2体育館の3000人の一人として、非常に光栄な賞を受賞したのだと改めて想い出される。
山本耀司氏の暖かいエピソードがある。山本耀司賞を受賞したその時、山本耀司氏は賞とは別に自分から何かをプレゼントしたい、と私に言ってくれた。何が欲しいか考えておいてくれ、とも言われた。私は非常に感激したが、賞の選考での公開プレゼンテーション上での社交辞令のようなものだとも思っていた。
そして後日、秘書の方から本当に電話があり、「山本が何かをしたいと言っていますので・・・」といわれた時には、本当に驚かされた。一介の受賞しただけの建築家に、約束を守りフォローをする。巨匠が、ここまでしてくれるのだろうかという気持ちで一杯だった。
今思えば、「私のためにジャケットをデザインしてください。」とでも言えばよかったと後悔している。秘書の方の言葉に私は恐縮し、「私が招待しますから、是非一緒に食事を共にし、写真でも撮らせてください。」という、簡単なお願いをしてしまった。私は遠慮して畏れ多い巨匠にそう申し上げたかったのだが、よく考えるとこちらの方が簡単ではなかったかもしれない。忙しく世界を飛び回っているスケジュールを調整するのが、どれほど大変なことであるか、私には想像もつかなかったのである。この私の「お願い」は、スケジュールの絡みなどもあったのだろう、実現できないままに現在に至っている。
私は自分の心の中で、山本耀司氏に「貸し」がある男であるとほくそえんでいるのだ。
賞のプレゼントに私だけのジャケットをデザインしてください、と言えなかったからではないが、私はヨウジヤマモトの1点もののジャケットを手に入れた。青山本店のスタッフと顔なじみになり、「ショーの1点ものですが・・・」と言って裏から持ってきてもらったのだ。生産ラインに乗せなかったコレクションアイテムは、山本耀司氏の手の跡がダイレクトに見て取れる。それは、かつての三宅一生のブランド「ぺルマネンテ」で、三宅一生の手の跡が見て取れたのと同じ感動であった。
上述の美しいヨウジヤマモトの1点もののジャケットや、三宅一生の独特の素材感を出した詩的な「ペルマネンテ」を想うと、衣服のレトリックから詩を導いた記号言語学者、ロラン・バルトのテクストが浮かんでくる。
バルトは衣服と言語活動が出会うところに、多かれ少なかれ詩的なものが生まれるという前提から出発し、(1)「現実的機能から見せるものに移るとたんに詩的移行がある、たとえその見せるものが機能という外観に姿を変えていても。」(2)と続ける。
「衣服は見せるものとして、その素材、形態、色彩、触感、動き、着こなし、輝きといった物質性を動員するし、さらに衣服は身体に接触し、身体に代わり、身体を覆うものとしての機能を果たす以上、きわめて詩的であろうと考えうる。」(3)と、ロラン・バルトを解読する篠田浩一郎は語る。
現実的機能から見せるものに移るとたんに詩的移行がある
バルトのこの言葉に、建築家としての私は何度となく鼓舞された。
ヨウジヤマモト東京コレクションの余韻を、ライトアップされた夜桜を眺めながら代々木公園の裏手に位置する馴染みの「ヴィオレット」で、ロラン・バルトを想いながら白ワインとともに愉しんだ夜だった。
註
1 篠田 浩一郎『ロラン・バルト -世界の解読―』p.150.
2 篠田 浩一郎『前掲書』p.151.
3 篠田 浩一郎『前掲書』p.151.
参考文献
篠田 浩一郎『ロラン・バルト -世界の解読―』岩波書店 1989年
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私は「ヨウジヤマモト」のファッションを愛用している一人である。彼のデザインするジャケットは左右非対称であり、シンメトリーではないところが建築的で面白い。ファッションを建築という記号で捉えれば、もう一人、布を立体的に裁断しようとする三宅一生の発想も建築的である。二人とも建築を専門に学んだ訳ではないが、建築を学びモードの世界に入ったジャンフランコ・フェレの生み出すファッションよりも建築的であるのが、これもまた興味深いことである。
当日の演出は秀逸であった。プロによるウォーキングではない、それぞれに個性を出したステージ上でのプレゼンテーション。ライブによるショーの音楽も、柔らかく暖かかった。
山本耀司フリークの3000人の中にいて、僭越であるが私は「山本耀司賞」を受賞した唯一の建築家である、と自慢したくなった。これは、自慢してもいいことだろう。
ある建築の賞の審査で、私の作品を特別審査員であった山本耀司氏が、「私の名を付ける賞はこれしかない」と言って選定していただいた。まるでバロックのようだ、という言葉を添えて。この山本耀司氏の言葉は、今でも忘れられない。
私は山本耀司賞を受賞してから、ヨウジヤマモトを着始めたのではなかった。それ以前から、そのテイストが好きで着ている。であるから受賞の感慨は非常に大きなものであった。受賞から10年、代々木第2体育館の3000人の一人として、非常に光栄な賞を受賞したのだと改めて想い出される。
山本耀司氏の暖かいエピソードがある。山本耀司賞を受賞したその時、山本耀司氏は賞とは別に自分から何かをプレゼントしたい、と私に言ってくれた。何が欲しいか考えておいてくれ、とも言われた。私は非常に感激したが、賞の選考での公開プレゼンテーション上での社交辞令のようなものだとも思っていた。
そして後日、秘書の方から本当に電話があり、「山本が何かをしたいと言っていますので・・・」といわれた時には、本当に驚かされた。一介の受賞しただけの建築家に、約束を守りフォローをする。巨匠が、ここまでしてくれるのだろうかという気持ちで一杯だった。
今思えば、「私のためにジャケットをデザインしてください。」とでも言えばよかったと後悔している。秘書の方の言葉に私は恐縮し、「私が招待しますから、是非一緒に食事を共にし、写真でも撮らせてください。」という、簡単なお願いをしてしまった。私は遠慮して畏れ多い巨匠にそう申し上げたかったのだが、よく考えるとこちらの方が簡単ではなかったかもしれない。忙しく世界を飛び回っているスケジュールを調整するのが、どれほど大変なことであるか、私には想像もつかなかったのである。この私の「お願い」は、スケジュールの絡みなどもあったのだろう、実現できないままに現在に至っている。
私は自分の心の中で、山本耀司氏に「貸し」がある男であるとほくそえんでいるのだ。
賞のプレゼントに私だけのジャケットをデザインしてください、と言えなかったからではないが、私はヨウジヤマモトの1点もののジャケットを手に入れた。青山本店のスタッフと顔なじみになり、「ショーの1点ものですが・・・」と言って裏から持ってきてもらったのだ。生産ラインに乗せなかったコレクションアイテムは、山本耀司氏の手の跡がダイレクトに見て取れる。それは、かつての三宅一生のブランド「ぺルマネンテ」で、三宅一生の手の跡が見て取れたのと同じ感動であった。
上述の美しいヨウジヤマモトの1点もののジャケットや、三宅一生の独特の素材感を出した詩的な「ペルマネンテ」を想うと、衣服のレトリックから詩を導いた記号言語学者、ロラン・バルトのテクストが浮かんでくる。
バルトは衣服と言語活動が出会うところに、多かれ少なかれ詩的なものが生まれるという前提から出発し、(1)「現実的機能から見せるものに移るとたんに詩的移行がある、たとえその見せるものが機能という外観に姿を変えていても。」(2)と続ける。
「衣服は見せるものとして、その素材、形態、色彩、触感、動き、着こなし、輝きといった物質性を動員するし、さらに衣服は身体に接触し、身体に代わり、身体を覆うものとしての機能を果たす以上、きわめて詩的であろうと考えうる。」(3)と、ロラン・バルトを解読する篠田浩一郎は語る。
現実的機能から見せるものに移るとたんに詩的移行がある
バルトのこの言葉に、建築家としての私は何度となく鼓舞された。
ヨウジヤマモト東京コレクションの余韻を、ライトアップされた夜桜を眺めながら代々木公園の裏手に位置する馴染みの「ヴィオレット」で、ロラン・バルトを想いながら白ワインとともに愉しんだ夜だった。
註
1 篠田 浩一郎『ロラン・バルト -世界の解読―』p.150.
2 篠田 浩一郎『前掲書』p.151.
3 篠田 浩一郎『前掲書』p.151.
参考文献
篠田 浩一郎『ロラン・バルト -世界の解読―』岩波書店 1989年
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