2010年9月30日木曜日

荒木経惟の「エロース」と「エロス」の考察

 ある日、銀座のライカショールームから1通の招待状が届く。それは写真家・荒木経惟の写真展のオープニングパーティーの案内だった。ライカはショールームで購入したプロパーの顧客のために、併設された小さなギャラリーで開催される写真展のレセプションの招待を毎回行っている。

私は建築家ハンス・ホラインに会うために銀座のライカでM8を購入し、その数日後にウイーンに旅立った。2年前のことである。それ以来今までに届いた招待状を開封しても、私は一度も展覧会に足を運んだことはなかった。

しかし今回は荒木経惟である。私はこの狂気を孕んだ写真家に是非とも会いたくなった。

去年、建築家ザハ・ハディッドがデザインし香港から日本に到着したシャネルのモバイルアートギャラリーを、原宿に見に行ったことがある。その有機的な空間の一角には、荒木経惟の写真が鎮座していた。それは世界で評価されている荒木経惟の一端に他ならなかった。

荒木経惟は、日本を代表し世界の文化的フィールドで活躍する写真家となっても、「エロス」を捨てないでいる。私が荒木経惟を前述で、「狂気を孕んだ写真家」と最大限の賞賛をした所以がここにあるのだ。「文化人」となってしまっても、その両極の果てにあるフィールドで生きている狂気。

私はこの荒木経惟の生き方を見ると、田中美知太郎の名著『プラトン「饗宴」への招待』での一節を想い出さずにはいられない。

プラトン40代後半の著作である『饗宴』は、プラトン中期の作品に位置付けられる。研究者によれば、中期作品群のソクラテスは著者であるプラトン自身の見解を表明するものであると考えられている。(1)ということは、『饗宴』は完全なるプラトン哲学の「哲学書」に他ならない。

しかしアガトンの邸宅で催された酒宴を、神話から得たミュトス(物語)を挿入しながら「エロース」について語り合うこの「哲学書」は、プラトンの他の著作と一線を画した素晴らしい物語であると、私はには感じるのだ。

そのプラトンの物語を、初心者にも理解しやすく語ってくれているのが、NHKのラジオ放送を纏めた田中美知太郎の『プラトン「饗宴」への招待』である。ラジオの向こうにいる聴取者に、分かりやすく話した口語体をそのまま活字にしたこのテクストは、今や古典となってしまっているが是非一度手にしてもらいたい名著だ。頁を捲っていると、田中美知太郎が自分に語りかけてくれているような気持ちになってしまう。

『饗宴』は、アガトンの邸宅に集まったソクラテス他、パイドロスからアルキピアデスまでの「エロース」に関する演説をプラトンがそれぞれ浮かび上がらせているのだが、その「エロース」に関して田中美知太郎は放送の中で注釈を付けた。

ソクラテスたちが語り合う「エロース」は、美の総称でもあり、私たちが日常接する世俗的な「エロス」とはニュアンスが微妙に違う、ということを田中美知太郎は『饗宴』の理解のために説明をしている。

私は荒木経惟の写真展を見て、あらためて田中美知太郎の上述のパラグラフが頭に浮かんだ。まさに荒木経惟は、「エロース」と「エロス」の両極の世界で仕事をしているのである。

シャネルを相手に、そして世界をフィールドにして活躍する荒木経惟のメタファーが、プラトンがソクラテスに語らせた「エロース」ではないだろうか。一方「エロス」は、巨匠となってもいまだに週刊誌のグラビアで人妻の崩れかけたヌードを撮り続けている荒木経惟の姿である。

ライカの写真展では、美しいモデルの写真の間に敢えて豊満な女性のヌードを配置して展示をしている。妊娠しているのか、と見まがうほどの豊満な裸の女性の美しさを、荒木経惟は会場で熱心に語った。

美しい顔立ち、均整の取れた女性だけが、美の対象ではない。全ての女性の持っている美しさと「エロス」を、荒木経惟は写真で導きだそうとしているのだ。

文化を生み出す仕事と併走して、荒木経惟は好んで「エロス」の海へと入っていく。たぶん、荒木経惟はこのように言われるのを好まないだろうが、私には聞こえてくるのだ。

「世界の文化人なのだから、今さら『エロス』のフィールドで仕事をしなくてもいいのに。」

しかし荒木経惟は前衛だからこそ、このスタンスを永遠に崩さないだろう。気の利いたフィンガーフードと共にルイ・ロデレールのシャンパーニュがふんだんに振舞われた会場で、「また病院に戻らなければならない」と言う荒木経惟を私は引きとめて、買い求めた写真集にサインを貰った。

エスコートした女性をカメラに収めるべくライカのコンパクトカメラを手にすると、「皆ライカなんだ。この女性、貰って帰ってもいい?」と私に素敵な軽口を叩く。

そこには、これからも前衛を貫いていく荒木経惟のしっかりとした姿があった。ルイ・ロデレールのシャンパーニュのほろ酔い加減に、崩れた女性も美しいのなら、建築も崩れた方が美しいのだということが頭を過ぎる。そして建築界に荒木経惟はいないことに気がつく。これからも更に、狂気と前衛を求めていかなければならないことを確信した銀座の夜だった。


(1) 朴 一功『饗宴/パイドン』p.366

参考文献
1 田中 美知太郎『プラトン「饗宴」への招待』 筑摩書房 昭和49年
2 プラトン『饗宴』(プラトン『饗宴/パイドン』朴 一功訳 京都大学学術出版会 2007年) 

2010年8月12日木曜日

ルソーの生き方に学ぶ

 相変わらず、我が国の年間自殺者数は3万人を下回ることはない。1日100人。他者との関係に疲れ、経済という魔物に苦しめられ、尊い命を自ら絶っている人が何と多いことだろうか。

 その苦しみは、苦しんでいる本人以外の他者には、どれだけのものであるかは分からない。周囲の人がいくらきれい事を言っても、本人にとっては「勘弁してくれよ」というぐらいの、余計なものでしかないはずだ。

 責任感が強く、真面目な人ほど、その責任をまっとう出来なくなると自ら命を絶つという。もっと気楽に生きればいいのに、という言葉は、彼らにとっては私たちの戯言でしかない。性格や気分を変えることができるのならば、とっくにそうしていたはずだ。

 だが、それでも私は気楽に生きて欲しいと言いたい。人間の生きることへの尊厳は、無限の可能性を秘めていると信じているからだ。

 フランス革命に大きな影響を与えた思想家、ジャン・ジャック・ルソーが青年期をどのように生きてきたのかを知ると、私たちは非常な驚きを感じるだろう。

 ルソーは、『学問芸術論』で幸運にも世に出た。その後、『人間不平等起源論』で思想家としての地位を固める。『学問芸術論』では、学問・芸術の有用性を「学問と芸術の追求しているのは、無益で無内容な研究であるばかりか、悲惨な結果を生み出す代物である」として、自分の論を展開する。もちろんこれはアイロニーからのロジックであり、このような否定から入る論述がこの後の著作にも現れ、それがルソー特有のものとなっていく。ニーチェがルソーのことを、「カテリーナ的知的権謀術師」と言わしめた所以である。

 さて、この「知的権謀術師」を彷彿とさせるルソーの思想は、青年期までのルソーの生き方、周囲の環境によって形成されたのではないかと私は想像するのである。ルソーの生まれた当時のジュネーブは独裁国家であり、大多数の平民はこの国に住んでいることを歎いていた。警察は厳しく、密告を奨励してはばからず、ジュネーブ市民の家に引っ切り無しに踏み込んでいった。

 そのような時代の中で、ルソーの母はジュネーブ人を美徳へと導いていた長老会議で、保護観察処分を受けていたという。男装して芝居を見に行ったカドで告発され、命じられた出頭を拒否して「要注意人物」ともなった。

 ルソーの父もケンカ口論を起こして、3回も長老会議の厄介になった。ジュネーブには珍しくない時計職人だったが、その仕事に嫌気が差し、ダンス禁制の町でダンスの教師になって若いイギリス人にダンスを教えた。

 ここまでが、ルソーを生んだ土壌である。このような気概の人物から生まれたルソーが、どのような少年期、青年期を送ったのかは想像に難くない。

 ルソーは就いた仕事にすぐに飽き、職を転々とした。書記の仕事、彫金の仕事に飽きると、ヴァランス夫人というカトリック擁護者の愛人になる。年上の資産家の愛人になる若い青年、という図式は、生活の面倒も見てもらうということに他ならない。そう、常にお金に困っていたルソーは、この後も生活のためにすべからく生きていくのである。

 その後神学生になり、神学校に通ったのはわずか2ヶ月であった。さらには教会聖歌隊の寄宿生となった。その後、音楽の知識はあやふやなのに、自分の名前を変えて音楽教師となる。その後も数々の家庭教師、地積調査員、伯爵秘書などを、生活のために行った。

 そして「ギリシャ正教の大修道院長」といったペテン師がルソーの前に現れ、なんとルソーは、そのペテン師を自分のパトロンにしてしまうのである。

 女性関係も、常套ではなかったようだ。パリで同棲した宿屋の女中との間にできた子供を、孤児院に入れてしまう。現代とルソーの生きた18世紀とでは、常識的な感覚が異なっているのかもしれないが、自分の子供を孤児院に入れる気持ちはどのようなものであったのだろうか。しかも1人ではないのだ。その後も4人の子供をつくり、全て孤児院に入れてしまう。

その後も、ルソーの女性遍歴は続いた。生活に困るとヴァランス夫人のもとへ戻るのだが、新しい愛人がいて追い出されたということもあったようだ。

ルソーが生活に困るのは、いつものことだった。生来の移り気のために職を転々とし、失敗の絶え間もなかった。それでもルソーは偉大な思想家になっていくという驚嘆はあるが、私が言いたいのはそこではない。

私が冒頭で自殺者の数に触れ、そしてルソーの生き様を引用したのは、ルソーのいいかげんな生き方を知ってもらいたいということなのである。

ルソーの青年期までの生き様を見ると、私たちが欲望に忠実に生きてきた、後悔すべき生き方其の物ではないか。しかし私はこれで良いと思う。誰だって、自分の思った通りの生き方なんてできるはずがないのだから。でもその人生に失望することは決してしないことだ。

誤解を恐れずに言えば、生活に困れば誰かの愛人になればいいではないか。ルソーは生きるための大いなる活力を持っていた。自分の性格を修正することはできないから、その活力で自分の失敗をリカバリーしていたのである。

死を見つめて崖っぷちにいる人は、ルソーの生き方を是非参照してもらいたいと思う。その適当さを知り、気楽に人生を見つめ直して欲しい。私が参考としたD.モルネ著 高波 秋訳『ルソー』ジャン・ジャック書房 は、とても読みやすい文章でルソーの思想を説いている。是非一読を薦めたい。

参考文献
D.モルネ著 高波 秋訳『ルソー』 ジャン・ジャック書房 2003年

2010年7月13日火曜日

背徳のワインの楽しみ方とは

 ワインにはヴィンテージという、他の酒にはない記号が存在する。葡萄の収穫年を記し、ワイン好きにはその年の出来不出来が一目で分かり、それにより同じワインでもヴィンテージにより価格が大きく異なる場合がある。一般的なヴィンテージの捉え方は、概ねこのようなものだろう。しかし私は、別のアプローチでヴィンテージを愉しむことにしている。

赤ワイン、特にタンニンが豊富で長熟に耐えられる力強さを持ったワインは、私にとっては一種のタイムマシーンである。その年に収穫された葡萄でつくられたワインがセラーで深く眠り、生き耐えながら、例えば50年経った現在に偶然の縁で私の前に鎮座する。

今このボトルの中には50年前の液体が封印されているのかと思うと、ワインという飲み物がただの嗜好品を超越した存在として感じてしまう。このコルクを開けた瞬間に 、50年という歳月が目の前に展開されてくるのだ。
時間や空間を考える学問が哲学だとしたら、このようなワインの思考はまさに哲学に他ならないであろう。

私はいつしかオールドヴィンテージのワインを愉しむようになって、背徳の気分を味わうようになった。その年に生産されたワインには限りがあるのだから、年々消費されて残されているワインの数量は減少していく。ある程度の量がリリースされたワインも、50年、80年経てば、世の中に残された数量も僅かなものになってしまうだろう。

50年、80年経ったワインに少しでも歴史を感じてしまったら、これを飲んでしまって良いのだろうかと、一瞬躊躇してしまう。飲んでしまって、この歴史という時間を無にしてしまっていいのだろうか、そういう背徳を感じてしまうのだ。

一方、オールドヴィンテージのワインに対峙して、私は私の時間軸を考える。生きている、限りのある時間の中で、さらにワインに接することのできる短い時間をイメージする。それであれば、できるだけ自分にとって価値のあるワインの愉しみ方をしたほうが悔いが残らないであろう、そのように私の思考は帰結する。

このロジックに導かれ、私はオールドヴィンテージのワインを求めるようになった。100年前のワインを開ける背徳感、これはもう、エクスタシーに通じてしまう。人間が生きられない100年という時間を、ワインはボトルの中で生き続けている。コルクを慎重に開け、100年前の液体をグラスに注いだときには、遥かなる時間の宇宙が五感に広がる。

かつてパリの3つ星レストラン、「ギーサボア」に足を運んだことがある。日本人のグルメにも人気のあるこのレストランのワインリストは、とても重厚で厚かった。そこでは多くのワインに混じり、なんと1916年のポマールがオンリストされているのを私は見つけた。ギーサボアの中でも、最もオールドヴィンテージのワインである。

私はソムリエに、こんな古いワインが飲める状態なのか、ましてや料理に合わせられるポテンシャルを持っているのかどうかを聞いた。ソムリエはテイスティングをしたことないから、分からないと言う。ボトルをセラーから持ってきてもらい、その表情を暫く眺めた私は、状態が悪くても買い取るから開けて欲しいとリクエストをしてしまった。

ソムリエが慎重にコルクを抜栓して、テイスティングをしてから私に言った言葉は今でも忘れられない。フランス人の彼が英語で一言、「パーフェクト」と力強く言ったのだ。
100年経っていても果実味がしっかりと残り、余韻がふくよかで、レンガ色の液体から訴えてくるアロマが素晴らしかった。
その後は背徳を飛び越えて、人生の至福の時間を過ごす。厨房で腕を振るっているサボア氏本人に客席に来てもらい、1916年のポマールを一緒に味わった。そのことは昨日のように今でも思い出される。

1916年といえば、大正5年で第1次世界大戦の最中である。その後の様々な時代の変革をくぐり抜けてきた、たかだか1本のワイン。たかだか1本のワインであるが、そのワインに隠された歴史や時間の宇宙を想像し味わうことが、私の背徳でありエクスタシーであるのだ。このワインの愉しみ方を知ってしまうと、新しい世界が広がっていく。
そうは言っても、いつものデイリーワインをおいしく飲んでいるのは、紛れもなく私がソムリエの顔も持っているからなのである。





 

2010年6月30日水曜日

「街並み不要論」 都市の街並みは誰がつくるのだろうか 

 建築家として仕事をしていると、必ず「街並み」という言葉が付いて回る。特に住宅を設計して街と向き合っていると、クライアントから言われるのではなく、有識者たちが「街並みのコンテクスト」について言及してくる場面がとても気になる。それは京都などの歴史的街並みを持った都市の中ではなく、東京の雑多な建築の集積の中であってもそうだ。

 この「街並み」という、一見お行儀の良さそうな記号を使えば、都市について論考しているような気になってくるのかもしれない。果たして、京都のような風致地域や歴史的都市以外のそれぞれがそれぞれの価値観だけでつくりあげられた猥雑な都市の街に、私たちは「街並み」を必要とするのだろうか。

これは、ルソーが『学問芸術論』などで言い回した「逆説」や「アイロニー」からの論考ではない。建築家であれば不可侵の、誰もがその「お行儀の良さ」を認めている「街並み」に対しての、「街並み不要論」として述べているのである。

 そもそも雑多な集積の都市の中に、街並みを持ち込んでコンテクストを作ろうとすること自体間違っているのではないか。「街並み」という記号から導かれるイメージは、美しい街、気持ちのいい街、整然とした街、などが挙げられるだろう。私たちが生活している街を、それこそこのような文脈に沿って論考しようとすることは、思索の上では可能である。しかし、建築家や都市計画家たちがアカデミックな立場から線を引っ張っていく結果を、私たちが街として現実に見ている訳ではない。

では、一体誰がこの街並みをつくっているのであろうか。都市の猥雑な街並みをつくっているのは、建築家でも都市計画家でも、それに付随する有識者の誰でもない。それは、建て売り住宅業者と不動産業者なのである。この現実を前にして、彼らを責めている訳ではない。彼らは彼らのやり方で、この社会を生き抜いているのだから。

 彼らはまるでゲリラのように土地を細分化しながら、商品としての住宅を売り捌く。もし仮に50坪の土地が入手できたならば、迷わずに25坪ずつの2分割を行うだろう。50坪の土地の建て売り住宅では、価格が高く手を出せる世帯が少ないという大義名分の影には、分割して数を増やした方がトータルの利益が出るというロジックが潜む。

 更に踏み込んで言及すれば、できれば土地の上に住宅など造らないで土地だけの転売で早く売り抜けたいというのが、大多数の本音だ。上に住宅を造ればその分いらぬ金がかかるし、工事期間が鬱陶しい。そして何年ものクレーム処理に走らなければならなくなってしまう。

 こう述べると、まるで多くの建て売り住宅業者は、土地を売るために住宅を乗せているだけではないか、と思われるだろう。その通りであると思われてもしかたのない状況なのだ。競売や任意売却などで入手した土地が、そのまま売り抜けられる良い仕入れであれば、転売を試みる業者は多いはずだ。良い仕入れとは、あらゆる手段を講じ安く入手できた土地である。それをできればエンド(彼らは実際にその土地を利用し、住むであろう一般購入者のことをそう呼ぶ。)に高値で売りたい。そしてそうでない土地は、まずプランを付けて売ってみる。プランといっても、私たち建築家が言うプランとはかけ離れた、パズルの間取り図だ。ここで売れないと、ようやく付き合いのある建て売り住宅専門設計屋に設計を依頼する。

 1棟の設計料は、確認申請込みで仕上げ表を付けた設計図書を10枚程度作成し、おおよそ50万円前後だろう。そして施工坪単価35万円程度の木造住宅が出来上がる。彼ら建て売り住宅業者や、不動産業者には、知的生産料の重要性は必要がない。住宅が出来上がるまでの設計料などは、できればいらぬ経費であり、1円でも安くしたいのが本音だ。

 何度も言及するが、多くの建て売り業者や不動産業者の悪口を言おうとしているのではない。建築家として、憂いているだけなのだ。全部とは言わないが、多くの建て売り住宅業者の土地入手から住宅販売のフローは、上述したような流れである。そして、建築家が関わる住宅をヒエラルキーの頂点とすると、その下にハウスメーカーなどの注文住宅があり、最もボリュームの多いゾーンに建て売り住宅が輝いている現実がある。

あらためて考えると、「注文住宅」という言葉は何ていう不適切なニュアンスを響かせるのだろう。そもそも住宅とは、注文して建てるのが当然であると言ってしまいたい。

さて、このようなロジックで街並みに建て売り住宅がスプロールすると、建て売り住宅業者や不動産業者が街並みを生み出し、都市計画家の役割を担っていると言えるではないか。それ故に猥雑で、ある意味魅力的な街並みが生まれてしまうのだ。もちろん、建築の文化を考え、街並みを美しく考えようとしている、素晴らしい建て売り住宅業者や不動産業者がいることも忘れてはならないことを、この「街並み不要論」の最後に付加えたい。

2010年6月15日火曜日

ニーチェの芸術論 アポロンとディオニュソス

 私と同じように哲学の専門教育を受けていないが、哲学が好きで、哲学を自分で探求している人は意外と多い。そういう哲学好きの人が、たまにふらりとバーの扉を開けてくれる。先日もウエブサイトで哲学とバーで検索し、初めてこのバーに足を踏み入れてくれた人がいた。
 そのW氏が薦めてくれたのが、アンドレコント=スポンヴィルという哲学者の『資本主義に徳はあるか』という著作である。私はスポンヴィルという哲学者を知らなかったし、その著作にも触れたことはなかった。このありがたいサジェスチョンから、スポンビルの思想に触れることが楽しみだ。
 独学で哲学を思索していると、研究者のように幅広い知識や情報を得ることができない。私は恥ずかしくもなく、知らないことを知らないと言うようにしている。そうすると、いろいろな人が、いろいろなことを教えてくれる。このようにして、私の拙い思索の系譜が広がっていくのだ。

 そのW氏と酒を飲みながら話すうちに、ニーチェはどのように芸術を語ったのだろうか、という話題になった。私はバックカウンターの、酒の棚に挟まれてある本棚から2冊のニーチェの本を取り出し、カウンターの上に置いた。私が愛読している藤田健治と三島憲一が著した著作である。

 ニーチェは、ギリシャ悲劇がどのように起こり、どのように亡びたか、ギリシャにおける悲劇的なものは何をその根底にしていたか(1)、という問題から説き始め、芸術論を展開させている。では何故ニーチェがギリシャ悲劇を論考しようとしたのか、ということは、三島憲一の「『ニーチェ』第三章 第一節 ギリシアへの夢」を参照することで、想像がつく。
 ニーチェが古典文献学を学んでいた学生時代、古代ギリシャの厳密な学問的研究から学んだ(2)知識が、ギリシャへの憧れを形成していったのだ。その憧れが、ギリシャ文化自身の相反する二つの方向がある、アポロンとディオニュソスという神々(3)を引用することで、自分の芸術論を位置づけようとしたとする私の考察は、後述するショーペンハウアやワーグナーとの関係と共に、ニーチェがギリシャ悲劇を論考した理由の一つとして数え上げてもいいだろう。

 三島憲一によれば、ディオニュソスとは生の根源にうごめくほの暗い名称であり、酒と狂乱の神であり、衝動と情念の世界の原理とされる。(4)それに対し、アポロンは光にあふれた形態の世界の原理であるという。(5)ディオニュソスが「生命の祝祭」であると同時に「性的放縦」を意味していたのと同様に、アポロンは美しい形態の神であるとともに、また場合によっては、生命の自然な発露を押さえ、抑圧する形式万能主義の神でもある。(6)

 ニーチェがこのように自身の芸術論を語ろうとした背景には、音楽への愛があった。ニーチェによるワーグナーへの憧れと邂逅、そして別離。その時代の中でニーチェが触れたのは、悲劇的なものはギリシャを超え現代に及び、それはワーグナーの生み出した楽劇の核心でもあり、やがてまたそれは生きんとする意志の現れであった。(7) 

 ニーチェは、ルソー、ゲーテ、ショーペンハウア三人を、近代が立てた三つの人間像として挙げている。(8)ルソー的な人間がときとすると権謀術策を弄するカティリナ的な人間となるように、ゲーテ的な人間は時代に妥協し協調する俗物的人間となる。これらに対し、ショーペンハウア的人間は誠実から進んで苦悩を引き受ける人間であるとする。(9) このショーペンハウアに見出される同じ悲劇的英雄を、ニーチェはワーグナーのうちに見ている。(10)

 このような過程を経て、ニーチェはショーペンハウアの哲学からディオニュソス的なものの方が根源的直接的であり、アポロン的なものは第二次間接的であるとする見方をする。(11)
 もう少し分かりやすく論ずれば、アポロン的芸術は理念を仲介として具体的に描写し、その限り現象の世界における一定の時と所にしばられた個の枠から離れられないのに対し、ディオニュソス的芸術は、わき上がる情熱的な歓喜の中に個の枠が吹き飛ばされて、すべてのものの根源と一つになってとけこむ体験を与えるのである。(12)そして、本来音楽の精神は、陶酔的感情的なディオニュソス的なものであるとニーチェはいう。(13)

 ニーチェ は、ショーペンハウア、ワーグナーを通してこのような芸術論を語るのであるが、その根底にはニーチェ特有の人間が持つ永遠の生命の存在が叫び続けられているのが見て取れる。
ニーチェの芸術論においては、悲劇は私たち人間に向かってあるがままの自然のあるとおりであれ、という。あるがままの自然とは、たえず移り変わる現象の中で永遠に生み出してやまず、すべてを存在させずにいない生命力のことであり、現象の変化のうちに永遠に生き続ける創造的生命のことである。(14)
 これはまさに、ニーチェがこの後展開させる永劫回帰や超人という思索に通じる論考に他ならない。

なにげなくカウンターの上に置いた二冊のニーチェから、思いがけずに芸術論から人間の永遠の生命を探求することができた一夜だった。

1 藤田健治 『ニーチェ』p.32.
2 三島憲一 『ニーチェ』p.47. 
3 藤田健治 『前掲書』p.33.文脈により筆者が改編する。
4 三島憲一 『前掲書』p.69.
5 三島憲一 『前掲書』p.69
6 三島憲一 『前掲書』p.70文脈により筆者が改編する。
7 藤田健治 『前掲書』p,32文脈により筆者が改編する。
8 藤田健治 『前掲書』p.63
9 藤田健治 『前掲書』p.63
10 藤田健治 『前掲書』pp.63f.
11 藤田健治 『前掲書』p.34.
12 藤田健治 『前掲書』p.35.文脈により筆者が改編する。
13 藤田健治 『前掲書』p.36.
14 藤田健治 『前掲書』pp37f..
参考文献
藤田健治 『ニーチェ』中公新書1994年
三島憲一 『ニーチェ』岩波新書1993年

2010年5月23日日曜日

プルーストからヴェネツィアの幻惑を想像する。

 いつ購入したのかも忘れてしまった本を、棚から取り出して読んだ。それは馴染みの古書店で見つけた、タイトルが美しい、そして装丁も美しい本だった。両手を頬に当てて目を閉じて、何かを考えているかのような哲学的な表情をした、美しい女性が表紙になっている。その横に、『ヴェネツィアでプルーストを読む』と本のタイトルがクレジットされていた。

帯には、「マルセル・プルーストに導かれてヴェネツィアを徘徊するための、幻惑のヴェネツィア・ガイド」と書かれている。「幻惑のヴェネツィア・ガイド」という部分は、大きくクレジットされていた。全体が黒いベースに、女性の上半身の写真がモノクロで、そして白抜きの文字が表紙を引き締めている。私はプルーストに惹かれてというよりも、この美しいグラフィカルな装丁に魅せられて買ってしまっていた。

そろそろヴェネツィアにまた行きたい、そう思ってこの本を古書店の棚から引き出したのだが、ヨーロッパに赴いてもヴェネツィアまで足を延ばす機会はなかった。ヴェネツィアに行くことになったらこの本を読もう、そう思いながらこの本は自分の書棚から全く動くことはなかった。

この本を読んだのは、ヴェネツィアに行くことになったからではない。ヴェネツィアに焦がれながらも、ヴェネツィアに行く機会がない自分の心を満たすために、購入して以来初めて本の扉を開けた。

「幻惑のヴェネツィア・ガイド」と帯にあるが、この本は、所謂ガイドブックではない。フランス文学を専攻し、詩人でもある著者の鈴村和成が、プルーストの跡を辿りヴェネツィアやノルマンディーを徘徊する、美しい文体で書かれた詩的な文学評論である。文章の余韻や空白感が素晴らしく、著者の詩人である謂れを彷彿とさせていた。

プルーストがヴェネツィアで泊まったホテルには、長らくダニエリ説とエウローバ説があった(1)という。そして近年の評伝ではエウローバ説が採られている(2)、とされる。私は、ここでホテル・チプリアーニを思い浮かべた。確か5月だったと思うが、その時のヴェネツィアは風が強く、とても肌寒かった。専用のタクシー(モーターボート)で迎えられたホテルは、離れ小島のようなロケーションを独り占めするかのように建っている。私は無意識にダニエリの窮屈そうなファサードを嫌って、チプリアーニを選択したのかもしれなかった。

著者はこの本の所々に、レストランや料理、酒についての記述を散りばめていた。プルーストを辿り、彼の泊まった同じホテルに泊まり、時には同じレストランでプルーストの食べた料理も食べる。ノルマンディでムール貝やカキ、海老を氷の上に盛ったフリュイ・ド・メールを食べたときの記述が、「目の前の夕暮れの海にレモンを搾って食べているようだ」(3)という詩的な表現が 美しかった。

チプリアーニのオーナーが経営している、世界で最も有名なバー「ハリーズ・バー」。そこには誰もが知っているスペシャリテ、桃のシャンパンカクテル「ベリーニ」がある。バーと名が付いているとはいえ、本格的なダイニングを擁した世界の社交場だ。カウンターの前面では、普通以上にドレスアップした男女がスタンディングでひしめき合う。この異空間を目にすると、外界のヴェネツィアの歴史的な街並みからのギャップに、くらくらと目眩がするほどだ。カウンターの中では、あらかじめ桃のネクターとスプマンテをブレンドしたベリーニが大きな銀のボールに入れられ、それをシャンパングラスにすくって入れてサーブされる。このスノッブな空間は鈴村和成の詩的な文体と相乗しないが、私は著者の余韻が美しい酒や料理の記述を読むに連れて、「ハリーズ・バー」で繰り広げられる「幻惑のヴェネツィア」を想い出していたのだった。

この本の帯にあるように、ヴェネツィアを表すのに最も相応しい言葉は「幻惑」であろう。マルセル・プルーストを追わないまでも、ヴェネツィアに佇めば誰でも幻惑を目にすることができるはずだ。ヴェネツィアの美しく輝く光を目にすればするほど、その影に幻惑される。私は、かつて須賀敦子の『ザッテレの河岸で』というエッセイで、「コルティジャーネ」という言葉を初めて知った。コルティジャーネ。この言葉の語尾をコルテジャーニと男性形に変えると、宮廷人や貴族の意味になるのだが、女性名詞の場合には、日本語でふつう「高級娼婦」という、およそ詩的でない言葉があてられる。(4)コルティジャーネが最後に収容される施設が「なおる見込みのない人たちの病院」(オスペターレデリ インクラビリ)と名づけられた病院であった。そして彼女たちが罹ったなおる見込みのない病気とは、梅毒だった。その施設の遺構は、いまだヴェネツィアに佇んでいる。

もちろん、このような施設は世界のどこにでも存在した。しかし、カサノヴァまで遡らなくても、男色という影を持つプルーストしかり、ヴェネツィアの魅力を追っていくと闇の美しさを持った幻惑に、どうしても足を引き摺りこまれてしまう。

この美しい装丁は、木村裕治、後藤洋介によるもので、カバー写真は”Threading thought” Diana and Marlo/Orion Pressからのものである。


1 鈴村和成 『ヴェネツィアでプルーストを読む』p.54.
2 鈴村和成 『前掲書』p.54.
3 鈴村和成 『前掲書』p.182.
4 須賀敦子 『ザッテレの河岸で』p.101. 

参考文献
鈴村和成 『ヴェネツィアでプルーストを読む』集英社2004年
渡部雄吉 須賀敦子 中嶋和郎 『ヴェネツィア案内』新潮社2007年

2010年5月7日金曜日

『新建築』2010年4月号の足跡

先月号の『新建築』(2010年4月号)は、「東京2010」という巻頭特集であった。110名による、見るべき建築を各人3つずつ挙げてコメントを入れたガイドである。4月から建築を学ぶために入学した学生や、社会人1年生となった若者に、あらためて東京の建築の中から「この建築は是非見ておきなさい」という、先輩からのメッセージが込められている。まさに、「新年度が始まるこの時期に、建築入門またはより深く建築を考えるきっかけとして使う保存版」となる特集だった。

そして、丹下健三・吉阪隆正・村野藤吾・篠原一男・磯崎新といった巨匠たちの作品に混じり、私の小さな「建築と哲学のバー SAD CAFÉ」も掲載される。建築の規模としても掲載作品の中で一番小さいだろうが、それよりもバーとして唯一の掲載作品である。これは、建築家・宇野亨による推薦であった。

宇野亨は、そのコメントの通りに学生時代によくこのバーに通ってくれていた。当時は「建築と哲学のバー SAD CAFÉ」とは名乗らずに、「SAD CAFÉ  THE LAST RESORT」というキャプションを店名に付けていた時代だった。SAD CAFÉもTHE LAST RESORTも、ウエストコーストから世界を巻き込んだロックグループ イーグルスの曲名から取ったものである。そう、あの「ホテルカリフォルニア」のイーグルスだ。

宇野亨はカウンターに座り、現在と変わらないあの瞑目で低音の、そして思慮深い言葉でグラスを傾ける合間に静かに話していた。そういえば、眼鏡の奥から覗く目はまるで哲学をしているかのような目であったかもしれない。あるとき、著名な建築家集団であるシーラカンスで働くことにしたと報告をしに来たことがあった。学生時代から、そこでアルバイトをしていたのだろうか。詳細は忘れてしまったが、学生生活を終え建築家としての修行の第一歩をシーラカンスに向けたということだった。

その時に私は反対の立場を取ったのを、よく覚えている。シーラカンスが悪い、と言ったのではない。建築家として、設計共同体の中で自分の個性をどのようにコントロールしていくのか、ということを真剣に議論したのだった。たぶんそのときも、宇野亨は言葉を選びながら、静かに自分の意見を私に言ったのだろう。そして私の危惧は取り越し苦労に終わり、現在はCAnパートナーとして名古屋ブランチを統括している素晴らしい建築家となっている。宇野亨の推薦文に、「世界中で一番好きなバーである」というコメントを見つけたときには、非常に光栄な気持ちになった。

さて、『新建築』2010年4月号がリリースされてから、バーの様子が変わってきた。まだ発売されたばかりなので、そのガイドを見て来店する人がいるとすれば3~4ヶ月位あとであろうと私は思っていた。かつて雑誌『ブルータス』にこのバーが掲載された切り抜きを持って、その『ブルータス』が発売された2年後に初めて来店してくれた写真家がいたことを思い出す。彼は「いつか来たかった」と言ってくれ、手帖に挟んで入れていたその切抜きを嬉しそうに私に見せた。そして自宅を、建築家・室伏次郎氏に依頼して設計してもらったことを話し始める。水深10センチ程度の「見るためのプール」をつくってもらったのだと言う。私はその作品を『新建築』で見て記憶にあり、その作品の記憶と目の前にいるその作品の住人が一致した奇妙な感覚に陥ったことも、おぼろげに思い出した。

しかし今回は、『新建築』発売後からバーの前で写真を撮る人が増えてきた。22年前の作品を撮ってくれるなんて、嬉しい限りである。そして先日は、『新建築』を手に持ちながら沖縄からわざわざこのバーにやって来てくれた建築家がいた。遠方からの来訪とはいえ、なんと沖縄からである。なかなか場所が特定できなくて迷ったと言われ、裏通りにあるこのバーを申し訳なく思ってしまった。

ガイドブックを見なくても、面白がってやってくる来訪者がいる。このバーの近くにある小学校の生徒たちだ。彼らはまるで、アミューズメントパークのアトラクションを見るかのように、このバーのファサードに興味を示す。昼間、バーの店内で建築のスタディをしていると、表の小さな子供たちの喧騒とファサードの突出したパネルを叩く音が聞こえてくる。それは私にとって、心地良い騒音だ。小さな子供がこの奇妙な建築物を見て、インプレッションを受けて将来建築家を目指すきっかけになってくれればこの上なく幸せである。そんな大それたことを考えなくても、いつもの子供たちの「何だ、これは!」という嬌声が、考えるという「哲学」に結びつくことを願っているのだ。

沖縄の来訪者とは、暫く後に酒を酌み交わす約束をして別れた素晴らしい一夜だった。宇野亨に感謝したい。