2010年9月30日木曜日

荒木経惟の「エロース」と「エロス」の考察

 ある日、銀座のライカショールームから1通の招待状が届く。それは写真家・荒木経惟の写真展のオープニングパーティーの案内だった。ライカはショールームで購入したプロパーの顧客のために、併設された小さなギャラリーで開催される写真展のレセプションの招待を毎回行っている。

私は建築家ハンス・ホラインに会うために銀座のライカでM8を購入し、その数日後にウイーンに旅立った。2年前のことである。それ以来今までに届いた招待状を開封しても、私は一度も展覧会に足を運んだことはなかった。

しかし今回は荒木経惟である。私はこの狂気を孕んだ写真家に是非とも会いたくなった。

去年、建築家ザハ・ハディッドがデザインし香港から日本に到着したシャネルのモバイルアートギャラリーを、原宿に見に行ったことがある。その有機的な空間の一角には、荒木経惟の写真が鎮座していた。それは世界で評価されている荒木経惟の一端に他ならなかった。

荒木経惟は、日本を代表し世界の文化的フィールドで活躍する写真家となっても、「エロス」を捨てないでいる。私が荒木経惟を前述で、「狂気を孕んだ写真家」と最大限の賞賛をした所以がここにあるのだ。「文化人」となってしまっても、その両極の果てにあるフィールドで生きている狂気。

私はこの荒木経惟の生き方を見ると、田中美知太郎の名著『プラトン「饗宴」への招待』での一節を想い出さずにはいられない。

プラトン40代後半の著作である『饗宴』は、プラトン中期の作品に位置付けられる。研究者によれば、中期作品群のソクラテスは著者であるプラトン自身の見解を表明するものであると考えられている。(1)ということは、『饗宴』は完全なるプラトン哲学の「哲学書」に他ならない。

しかしアガトンの邸宅で催された酒宴を、神話から得たミュトス(物語)を挿入しながら「エロース」について語り合うこの「哲学書」は、プラトンの他の著作と一線を画した素晴らしい物語であると、私はには感じるのだ。

そのプラトンの物語を、初心者にも理解しやすく語ってくれているのが、NHKのラジオ放送を纏めた田中美知太郎の『プラトン「饗宴」への招待』である。ラジオの向こうにいる聴取者に、分かりやすく話した口語体をそのまま活字にしたこのテクストは、今や古典となってしまっているが是非一度手にしてもらいたい名著だ。頁を捲っていると、田中美知太郎が自分に語りかけてくれているような気持ちになってしまう。

『饗宴』は、アガトンの邸宅に集まったソクラテス他、パイドロスからアルキピアデスまでの「エロース」に関する演説をプラトンがそれぞれ浮かび上がらせているのだが、その「エロース」に関して田中美知太郎は放送の中で注釈を付けた。

ソクラテスたちが語り合う「エロース」は、美の総称でもあり、私たちが日常接する世俗的な「エロス」とはニュアンスが微妙に違う、ということを田中美知太郎は『饗宴』の理解のために説明をしている。

私は荒木経惟の写真展を見て、あらためて田中美知太郎の上述のパラグラフが頭に浮かんだ。まさに荒木経惟は、「エロース」と「エロス」の両極の世界で仕事をしているのである。

シャネルを相手に、そして世界をフィールドにして活躍する荒木経惟のメタファーが、プラトンがソクラテスに語らせた「エロース」ではないだろうか。一方「エロス」は、巨匠となってもいまだに週刊誌のグラビアで人妻の崩れかけたヌードを撮り続けている荒木経惟の姿である。

ライカの写真展では、美しいモデルの写真の間に敢えて豊満な女性のヌードを配置して展示をしている。妊娠しているのか、と見まがうほどの豊満な裸の女性の美しさを、荒木経惟は会場で熱心に語った。

美しい顔立ち、均整の取れた女性だけが、美の対象ではない。全ての女性の持っている美しさと「エロス」を、荒木経惟は写真で導きだそうとしているのだ。

文化を生み出す仕事と併走して、荒木経惟は好んで「エロス」の海へと入っていく。たぶん、荒木経惟はこのように言われるのを好まないだろうが、私には聞こえてくるのだ。

「世界の文化人なのだから、今さら『エロス』のフィールドで仕事をしなくてもいいのに。」

しかし荒木経惟は前衛だからこそ、このスタンスを永遠に崩さないだろう。気の利いたフィンガーフードと共にルイ・ロデレールのシャンパーニュがふんだんに振舞われた会場で、「また病院に戻らなければならない」と言う荒木経惟を私は引きとめて、買い求めた写真集にサインを貰った。

エスコートした女性をカメラに収めるべくライカのコンパクトカメラを手にすると、「皆ライカなんだ。この女性、貰って帰ってもいい?」と私に素敵な軽口を叩く。

そこには、これからも前衛を貫いていく荒木経惟のしっかりとした姿があった。ルイ・ロデレールのシャンパーニュのほろ酔い加減に、崩れた女性も美しいのなら、建築も崩れた方が美しいのだということが頭を過ぎる。そして建築界に荒木経惟はいないことに気がつく。これからも更に、狂気と前衛を求めていかなければならないことを確信した銀座の夜だった。


(1) 朴 一功『饗宴/パイドン』p.366

参考文献
1 田中 美知太郎『プラトン「饗宴」への招待』 筑摩書房 昭和49年
2 プラトン『饗宴』(プラトン『饗宴/パイドン』朴 一功訳 京都大学学術出版会 2007年)