2010年4月13日火曜日

哲学者の恋人達

馴染みの古書店に入り、暫く棚を眺める。そして気になる数冊を買い求め、貪るように読んでいく。時には仕事を放り出して、そして時にはワインを飲みながら。気が向けばそのスタディをレポートに纏める。何のことはない、これが私の哲学へのアプローチだ。

建築家である私は、哲学の専門教育を受けていない。であるから思想の系譜を体系づけて学んだ訳ではないし、身近にいる有識者から最適なテクストの享受を受けたこともない。辞書を片手に、原文に挑むこともない。その楽しさ、苦しさを思うと、大学で哲学を学んだ人を羨ましく思ってしまう。しかし、そういう在野で自由に思索を深めていくと、研究者がスポットライトを当ててこなかった部分がとても気になるのだ。私の場合、それは哲学者の生き様と、生み出す思想の関係性であった。

世に出た偉大な哲学者の多くも、私たちと相違なく濃密な恋愛をしてきた。それぞれの哲学者の恋愛については、それはそれで研究者により多くのテクストが生まれている。しかし多くの哲学者の恋愛を並列させ、その恋愛が哲学者の思索に与えた多大なる影響を纏め上げ、哲学と恋愛の関係を説いたテクストにはまだお目にかかっていない。
だからと言って、私がここでそのテーマを描いていこうという大それた気持ちは持っていないが、少しずつでも触れていきたいと思い始めた。

このコンテクストでは、冒頭はやはりニーチェとルー・ザロメ(1)のわずか6ヶ月の叶わぬ恋であろう。研究者により「ルー体験」というテクストが確立されているほど、ニーチェにとってルーの存在はあまりにも大きかった。恋に破れ、そして「ツァラトゥストラはかく語りき(2)に突入、その後発狂して死へと向かう。ニーチェとルーのアフェアは、藤田健治による『ニーチェ(3)を読むと、ルーの吐息、ニーチェの苦悩が文学を超えて目の前に現れる。明治生まれのこの研究者による柔らかい文章が、ルーとニーチェの生きた時代へと読者を誘ってくれる。

ドイツ現代 思想家である三島憲一による『ニーチェ(4)の冒頭、第2章に興味深いテクストがあった。

    哲学者や思想家の生涯というものは、彼のなかで起きた思想のドラマに較べれば、外面的には往々にして波乱万丈の面白みをもってはいな いものである。彼の頭脳のなかで行われた思想的な冒瀆や凌辱、彼が蒙った知的な屈辱や敗北、そして十九世紀以後は多くの場合にそうであるが、最後には時代に取り残され、裏切られた結果としての自己破産、―――そうしたものに較べれば、実際の人生航路は割合と単調で変化に乏しいことが多い。
   それにもかかわらず、およそ時代に正面から立ち向かったほどの人物の場合には、彼の生い立ちや受けた教育や交友や出会いのうちに当該の時代や社会というものが、見えざる手によって計画され操られているかのように、典型的にそしてきわめて凝縮されたかたちで現れているものである(5)

このセンテンスこそが、ニーチェを始めとする偉大な哲学者の生涯を象徴している凝縮された表現に他ならない、と私は思う。ニーチェは自分が理解されるとは思っていなかったが、理解されることを希ってもいた。ある手紙には、「私の作品は時間がかかる。・・・・・ひょっとすると五十年もたてば、・・・・・わたしによってなにが為されたかに気がつく者が幾人かいるかもしれない」と書いている。また、「私の物語るのは、次の二世紀の歴史である。(中略)すなわちニヒリズムの到来を書きしるす」のだとも遺稿のなかで述べている(6)

発狂の末、1900年に死に至ったニーチェから100年後の私たちは、ニーチェの予言した通りのニヒリズムの時代を今生きているではないか。ニーチェとルーの恋が成就していたならば、ニーチェはニヒリズムなどを論じず別の思索をしたのかもしれない。

ニーチェから時代を遡り中世スコラ哲学を紐解けば、必ず登場する普遍論争。その唯名論者であるアベラールと恋人エロイーズの悲しい恋の物語は、私たち現代のアジアに生きる人間にとっては、本当に中世ヨーロッパの時代を感じさせる物語だ。

更に遡ること、やがて中世スコラ哲学へと繋がっていく教義を論じた、哲学者であり偉大なキリスト教父であったアウグスティヌス。若い時代に自分の持つ強い肉欲に奔放に生きたアウグスティヌスは、階級の違う女性を愛し子供をもうけた男でもあった。しかしやがてアウグスティヌスと別離をさせられてしまうその女性には、世間から隠されるように葬られても、悲しみの中にアウグスティヌスへの愛と従順さが見て取れる。

ニーチェに影響を受けたハイデガー。1924年ケーニヒスベルグからやってきた、まだ18歳のユダヤ系美人の女子学生ハンナ・アーレントは、翌年には妻子ある35歳のハイデガーと不倫の恋に落ちる(7) 1945年に公職を追放され大学を追われたハイデガーは、著名な政治哲学者に成長した昔の恋人、ハンナ・アーレントと再会し、ハンナはヤスパースと協力しハイデガーの追放解除に成功する(8)不倫の恋人に助けられた幸運なハイデガーと見るよりも、不倫という自分の立場を超えて相手に与えることをした心美しいハンナ、とこの恋を私は読みたい。

ニーチェ同様に、ハイデガーに影響を与えたキルケゴール。そのキルケゴールは、父親の不倫のトラウマから婚約者の心を傷つけてしまった。24歳 のキルケゴールは、なんと出会った14歳の少女に一目惚れをしてしまう。3年後の27歳のときにプロポーズし、承諾を得る。しかし、翌年一方的に婚約を破棄し、婚約指輪を送り返す(9)キルケゴールは、愛しながら別れるというのだ。愛すればこそ、自分には夫になるべき資格が備わっていないというのである(10)相手は、まだ18歳になったばかりなのに。

このように私には、哲学者の生んだ思索と同等に、或いはそれ以上に、哲学者の恋愛が哲学者に与えた影響が気になってしまうのだ。専門の研究者でなくても構わない、学生の卒業論文としてでも、このテーマのテクストを読んでみたいと思っている。そして私も、ワインを片手にこのテクストのスタディを続けていきたいと思うのだ。

1 ルー・ザロメの表記は、三島憲一による『ニーチェ』に従った。
  藤田健治『ニーチェ』では、ルゥ・ザローメである。
2 ここでは、藤田健治による表記に従った。
  三島憲一による表記では、『ツァラトゥストラはこう言った』である。
3 藤田健治『ニーチェ』その思想と実存の解明 中公新書 1994年
4 三島憲一『ニーチェ』岩波新書 1993年
5 三島憲一『前掲書』p.16.
6 三島憲一『前掲書』p.194.
7 木田元『反哲学入門』p.212.文脈により筆者が一部改編した。
8 木田元『前掲書』p.225.文脈により筆者が一部改編した。
9 渋谷大輔・山本洋一・三森定史・鰆木周見夫『哲学・思想がわかる』p.186.文脈により筆者が一部改編した。
10 渋谷大輔・山本洋一・三森定史・鰆木周見夫『哲学・思想がわかる』p.186.文脈により筆者が一部改編した。
参考文献
藤田健治『ニーチェ』その思想と実存の解明 中公新書 1994年
三島憲一『ニーチェ』岩波新書 1993年
木田元『反哲学入門』新潮社 2009年
渋谷大輔・山本洋一・三森定史・鰆木周見夫『哲学想がわかる』日本文芸社 2000年


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2010年4月2日金曜日

ヨウジヤマモトの東京コレクション、その建築的表層と「モードの体系」

19年ぶりという、ヨウジヤマモトの東京コレクションを見る。桜の夜も暖かかった4月1日、丹下健三の代々木第2体育館は、3000人のファンで埋まっていた。

私は「ヨウジヤマモト」のファッションを愛用している一人である。彼のデザインするジャケットは左右非対称であり、シンメトリーではないところが建築的で面白い。ファッションを建築という記号で捉えれば、もう一人、布を立体的に裁断しようとする三宅一生の発想も建築的である。二人とも建築を専門に学んだ訳ではないが、建築を学びモードの世界に入ったジャンフランコ・フェレの生み出すファッションよりも建築的であるのが、これもまた興味深いことである。

当日の演出は秀逸であった。プロによるウォーキングではない、それぞれに個性を出したステージ上でのプレゼンテーション。ライブによるショーの音楽も、柔らかく暖かかった。
山本耀司フリークの3000人の中にいて、僭越であるが私は「山本耀司賞」を受賞した唯一の建築家である、と自慢したくなった。これは、自慢してもいいことだろう。
ある建築の賞の審査で、私の作品を特別審査員であった山本耀司氏が、「私の名を付ける賞はこれしかない」と言って選定していただいた。まるでバロックのようだ、という言葉を添えて。この山本耀司氏の言葉は、今でも忘れられない。
私は山本耀司賞を受賞してから、ヨウジヤマモトを着始めたのではなかった。それ以前から、そのテイストが好きで着ている。であるから受賞の感慨は非常に大きなものであった。受賞から10年、代々木第2体育館の3000人の一人として、非常に光栄な賞を受賞したのだと改めて想い出される。

山本耀司氏の暖かいエピソードがある。山本耀司賞を受賞したその時、山本耀司氏は賞とは別に自分から何かをプレゼントしたい、と私に言ってくれた。何が欲しいか考えておいてくれ、とも言われた。私は非常に感激したが、賞の選考での公開プレゼンテーション上での社交辞令のようなものだとも思っていた。
そして後日、秘書の方から本当に電話があり、「山本が何かをしたいと言っていますので・・・」といわれた時には、本当に驚かされた。一介の受賞しただけの建築家に、約束を守りフォローをする。巨匠が、ここまでしてくれるのだろうかという気持ちで一杯だった。

今思えば、「私のためにジャケットをデザインしてください。」とでも言えばよかったと後悔している。秘書の方の言葉に私は恐縮し、「私が招待しますから、是非一緒に食事を共にし、写真でも撮らせてください。」という、簡単なお願いをしてしまった。私は遠慮して畏れ多い巨匠にそう申し上げたかったのだが、よく考えるとこちらの方が簡単ではなかったかもしれない。忙しく世界を飛び回っているスケジュールを調整するのが、どれほど大変なことであるか、私には想像もつかなかったのである。この私の「お願い」は、スケジュールの絡みなどもあったのだろう、実現できないままに現在に至っている。
私は自分の心の中で、山本耀司氏に「貸し」がある男であるとほくそえんでいるのだ。

賞のプレゼントに私だけのジャケットをデザインしてください、と言えなかったからではないが、私はヨウジヤマモトの1点もののジャケットを手に入れた。青山本店のスタッフと顔なじみになり、「ショーの1点ものですが・・・」と言って裏から持ってきてもらったのだ。生産ラインに乗せなかったコレクションアイテムは、山本耀司氏の手の跡がダイレクトに見て取れる。それは、かつての三宅一生のブランド「ぺルマネンテ」で、三宅一生の手の跡が見て取れたのと同じ感動であった。

上述の美しいヨウジヤマモトの1点もののジャケットや、三宅一生の独特の素材感を出した詩的な「ペルマネンテ」を想うと、衣服のレトリックから詩を導いた記号言語学者、ロラン・バルトのテクストが浮かんでくる。
バルトは衣服と言語活動が出会うところに、多かれ少なかれ詩的なものが生まれるという前提から出発し、(1)「現実的機能から見せるものに移るとたんに詩的移行がある、たとえその見せるものが機能という外観に姿を変えていても。」(2)と続ける。
「衣服は見せるものとして、その素材、形態、色彩、触感、動き、着こなし、輝きといった物質性を動員するし、さらに衣服は身体に接触し、身体に代わり、身体を覆うものとしての機能を果たす以上、きわめて詩的であろうと考えうる。」(3)と、ロラン・バルトを解読する篠田浩一郎は語る。

現実的機能から見せるものに移るとたんに詩的移行がある

バルトのこの言葉に、建築家としての私は何度となく鼓舞された。

ヨウジヤマモト東京コレクションの余韻を、ライトアップされた夜桜を眺めながら代々木公園の裏手に位置する馴染みの「ヴィオレット」で、ロラン・バルトを想いながら白ワインとともに愉しんだ夜だった。


1 篠田 浩一郎『ロラン・バルト -世界の解読―』p.150.
2 篠田 浩一郎『前掲書』p.151.
3 篠田 浩一郎『前掲書』p.151.
参考文献
篠田 浩一郎『ロラン・バルト -世界の解読―』岩波書店 1989年   


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