2012年11月26日月曜日

フロイトの料理読本

だいぶ前に古書店で手に入れた、『フロイトの料理読本』という著作が私の本棚にある。

このフロイトとは、精神分析の権威である、あのフロイトのことだ。

精神医学、心理学の領域の人間が料理読本を著す、という物珍しさも手伝って、この本を見せると誰もが興味深く手に取り、貸して欲しいと言われる。

そのような訳で、店のお客さん何人にもこの本を貸し出してあげた、人気の一冊である。

正確に言えば、フロイト自身がこの『フロイト料理読本』を著したわけではない。

巻頭の謝辞によれば、「ジムクント・フロイト記録保管所」に埋もれていた、フロイトの原稿を発掘した二人の編者が編集した著作である。

編者の覚書によれば、フロイトが晩年に英語で書いた料理読本もあるということだ。

フロイトが著した著作ではないが、原稿はフロイト自身のものであり、フロイトの人間関係から導かれた料理がレシピやエッセイ、文章とともに満載されている。

アイロニーが込められた、フロイト特有の文章に誰もが引き込まれてしまうだろう。

料理名だけを見ても、その内容を覗きたくなってしまう。

いくつか例を挙げよう。

失語症ソースをかけた牡牛のタン・ブレーズ
性感帯ホットケーキ
言葉のサラダ
フェットチーネ・リビドー
昇華サンドウィッチ
自己愛ソース
超自我エッグノッグ
妄想のパイ

「言葉のサラダ」などは、そのままお洒落なカフェメニューにクレジットされても良いくらいのネーミングであると思う。

これらのネーミングであっても、料理はしごく真っ当なレシピだ。

例えば、「仔牛肉神経衰弱」という料理のレシピを見てみよう。

良質の仔牛の尻肉を3、4ポンドを取り出し、紐でしっかり縛る。
ローストする前に、そのまま2~3時間おいておく。
小麦粉を大匙2杯、チリ・パウダーを茶匙1杯、パプリカ大匙1杯、塩とこしょうを混ぜたものをローストにまぶす。
溶かしたバターをときどき塗りながら、約180度のオーブンで半時間かけてローストにする。
その間に、茶色がかったストックにカップ1/2のコニャックを加えて、とろ火で1/3くらいに煮詰める。
さらに半時間ローストし続けるが、そのときには、ストックとコニャックを混ぜたものを塗りつける。炒めたタマネギやその他の心温まる野菜を加えてもよいが、皿を飾ることまで考えなくてよい。
問題なのは肉であり、柔らかくなくても一度だけは許される。

以上が「仔牛肉神経衰弱」という料理のレシピ全文である。

どこが神経衰弱なのかはこのレシピでは読みとれないが、最後の、柔らかくなくても一度だけは許される、という一文が引き締めている。

私たちがビストロで食べるメインディッシュの付け合せの、例えばニンジンのブレゼなどにも、「心温まる野菜」というネーミングを付けたらどうだろうか。

「仔牛肉のロースト 心温まる野菜添え」というように。

建築と料理は似たようなものである、というのが私の持論である。
素材を選び、切り方を変え、料理方法を選ぶ。
まるで、一つの建築をデザインするように、野菜や魚、肉を眺めながらイメージする。

とは言っても、素材を炒めて塩味を付けたパスタ程度しかいつもは作らないが。

フロイトの「仔牛肉神経衰弱」の、レシピの前に書かれている文章の中へ入っていこう。

フロイトは、神経衰弱の患者の身体は湿っていて締まりがなく青白いが、事実、これは良質の仔牛の肉の白みがかかったピンク色と非常に似ている、と記述している。

神経衰弱は意志の問題であるとし、研究者が「ヴィール(仔牛)」と発音していた「意志(ウイル)」の問題である、とフロイトは言う。

そこでこのメニューは、「仔牛肉(意志)神経衰弱」と、正確には本書にこのように記述されたのだ。

なるほど、と思わずにはいられない。

神経衰弱の多くの患者は従順で、治療には協力的である、とフロイトは言う。
ただ、症状の改善は遅い。
身体があまりにも弱いから、という理由だ。

したがって、神経衰弱の仔牛料理は、そのような「粗食」に対する失敗のない私の治療法になる、とフロイトは続ける。

最後に、こう記述してあった。

焼きすぎないように注意しなければならない。
少しはタフであってもいいだろう。
事実タフであるほどよい。

参考文献
J・ヒルマン+C・ボーア著 木村 定+池村義明 訳『フロイトの料理読本』 青土社1991年