2011年4月21日木曜日

甘美な死骸

 閉会間近の「シュルレアリスム展――パリ、ポンピドゥセンター所蔵作品による――」を見に、新国立美術館に向かった。

前回ポンピドゥセンターに赴いたのはもう3年も前、仕掛かっていたプロジェクトを纏めるために、ウイーンのハンス・ホラインに会いに行った帰りにパリに立ち寄った時であった。
その時に滞在した、日本にはほとんど紹介されていないウイーンの極上なシャトーホテル、パレ・コブルグのことはいずれこのブログに書きたいと思うが、ヴァンドーム広場の横に当時新しくオープンしたパークハイアットが素晴らしいという噂を聞き、リサーチを兼ねて滞在する目的でパリに寄った。

その時のポンピドゥセンターは、この建築の設計者の一人であるリチャード・ロジャースの展覧会が開催されていた。
私が仕掛けた、そのハンス・ホラインが参加したプロジェクトには、リチャード・ロジャース、リチャード・マイヤー、磯崎新という世界のビッグネームの参加が実現し、リチャード・ロジャースの担当者からポンピドゥセンターで展覧会が開催されているというインフォメーションを受けたので、それを見る目的もありパリに立ち寄った。いずれ、このスーパープロジェクトのことも活字にしなければならないと思っている。

ロジャースの展覧会も印象的であったが、ポンピドゥセンターの広場を挟んで向かい側にあるカフェのコーヒーが、とても美味しかったのを覚えている。

パリのコーヒーは、なぜあんなに美味しいのだろうか。

文字通りの、深く焙煎したフレンチローストからドリップされた、漆黒のコーヒー。私がいつも悲しくなるのは、日本で飲む、いや「飲ませられる」、マシーンでボタン操作によって抽出されただけのコクのないコーヒーに遭遇するときである。
東京にある外資系の一流ホテルのコーヒーハウスでさえ、そのコーヒーがサーブされる。これは憂鬱な事態だ。

「シュルレアリスム展」の構成は素晴らしかった。
後にシュルレアリスムの胎動に繋がっていくダダに生き、ダダと絶縁しシュルレアリスムを解放する、アンドレ・ブルトンに導かれての会場散策。それぞれの会場入り口には、アンドレ・ブルトンの散文、論述のプレゼンテーションが掲げられ、それを確認し、展示物を鑑賞する。

私の2回目のブログ『建築日常茶飯事論』でも触れたが、1916年、チューリッヒのキャバレー・ヴォルテールでダダが誕生した。
サルトルの時代のパリのカフェもそうであるが、一介のカフェやバーから魅力的な文化や芸術運動が生まれた「古き良き時代」があった。その時代のカフェやバーは、良質なコミュニティとなり、多くの文化人、芸術家を引き寄せる。
建築家の私が23年間も荻窪の片隅で小さなバーを営んでいるのは、その憧れをいまだに追っているからなのだ。

展示作品に、「甘美な死骸」というタイトルの作品があった。
「甘美な死骸」という不思議な言葉は、アンドレ・ブルトンやマン・レイ、ジョアン・ミロ達が、それぞれの言葉を浮かべて、その脈絡のない言葉を並べて文章をつくる、言葉遊びである。
メンバーの誰かが「甘美」と言い、他の誰かが「死骸」と言って、それを繋げただけの言葉だ。

それがドローイングの作品となると、前後関係を無視して各自が自由なスケッチを描き、それを繋げて一つの作品としてプレゼンテーションする。

たぶん彼らはカフェやバーでワインを飲みながら芸術論を闘わし、ある時興が乗って、このような芸術作品を共同でつくろうという意思が生まれたのであろう。
その作品に対峙した私は、「甘美な死骸」が生まれたシチュエーションをまるで自分がその場にいたように、クリアーに目の前に浮かばせることができた。
そして、それを羨ましく想う。

ダダやシュルレアリスムの時代から現代を考察すれば、私たちの時代は芸術運動不毛の時代である。政治運動や社会論考が、芸術運動と直結していたその時代は、自分たちのイデオロギーを運動として昇華させていくのが自然であった。
しかし私たちの時代では、インターネットで世界と瞬時に個人が繋がり、情報発信がいとも容易く行えてしまう。

この時代に「甘美な死骸」を求めることは、夢物語のことなのだろうか。

参考文献
『現代詩手帖 1994年10月号 特集;いま、アンドレ・ブルトン』 思潮社