2010年12月25日土曜日

教育者は『エミール』を読んでいるのだろうか。ルソーの「消極的教育」を再考する。

 小学生の児童が、いじめの果てに自殺をしたという報道が駆け巡った。何度となく繰り返される、いじめによる悲劇。しかしまた新しい事件が巷を賑わすと、その悲しさもいつのまにか風化していってしまう。そしてまた同じような悲劇が、私たちを襲う。そのとき、私たちは同じような涙を流すだけだ。

 この報道に接したとき、私はふたたびルソーの『エミール』を手に取った。『エミール』は、よく知られたようにルソーの教育論である。1762年に刊行されたこの古典を、私は現代教育者に参考にするべく提言をしようとするのではない。

 ルソーと教育論との結びつきも、一見きわめて特異なものであり、逆説的でさえある。まず第一に、彼自身、教育を受けた経験がない(1)教育を受けたことのない者が著した教育論に、何故私が惹かれたのだろうか。

 『エミール』は、教育小説ふうの教育論であるが、この教育論はルネサンスのモンテーニュ、ラブレーから、17世紀のロック、フェヌロン、それに同時代のコンディアックなどの近代の人間観の系譜につながり、とくにモンテーニュとロックに深い血縁を保っている(2)

 『エミール』は、後半ルソーの言う「自然宗教」の思想の展開に多くを費やすが、前半に表れるエミールに対する教育の具体的記述に、私は現代においても学ぶところが大きいと確信する。

 エミールとは、ルソーが自分に一人の架空の生徒を与えた、その名前である。孤児としてエミールを設定し、その生徒の教育にたずさわるにふさわしい年齢、健康、知識、その他すべての才能に恵まれていると仮定し、彼が生まれたときから、成人して、もう彼以外の人間によって指導される必要がなくなるときまで、その教育を監督しようと決心した(3)その思想が詳細に現れている。

 この『エミール』前半に現れている重要な思想は、ルソーの提唱する否定的教育、或いは消極的教育である。ルソーは、できるだけ子供の語彙を少なく限るようにしなさい(4)、と言う。これはどういうことかというと、子供が観念よりも言葉のほうを多くもっていると、自分の頭で考えて説明するということに不都合を生じるというのだ。

 これはルソーの独特な考えかもしれないが、あまりに早くから口をきかされる子供は、正確な発音を学んでいる暇も、自分の言わせられている事柄を十分に理解している暇ももたない(5)と述べる。

 反対に、子供のなすがままにほうっておけば、子供はまず、いちばん発音のやさしい音節を練習する。その音節に、少しずつ意味を付け加えて、それを身ぶりによって人に理解させ、あなたの方のことばを受け入れる前に、自分たちのことばをあなた方に伝えるのだ(6)

 要するに、ルソーは子供を過保護にせずに放っておけと言っているのである。それがルソーの消極的教育の原点だ。それにより、子供は「自分で考える」という一番重要なことを、自然に学んでいく。

 けがをしてしまった子供に対しての論考がある。ころんでも、頭にこぶをこしらえても、鼻血を出しても、指を切っても、わたしは驚いて子供のそばに駆け寄ったりしないで、じっとしているだろう(7)とルソーは述べる。

 けがはもうしてしまったのだ。子供がそれを我慢するのは、一つの必然である。実際けがをしたとき、われわれを苦しませるのは、傷そのものよりも、恐れの気持ちなのだ。わたしはせめて、子供にこの二番目の苦しみだけはさせないでおくことだろう(8)、と言う。

さらに引用を続ける。今回の事件の報道に接して、最も私の琴線に触れた一文を挙げたい。

エミールがけがをしないように心を配るどころか、わたしは、彼が一度もけがをせず、苦痛というものを知らずに大きくなったら、非常に残念だと思うだろう。苦しむということは、彼が学ばなければならぬ最初の事柄であり、将来のためにいちばん知っておく必要のある事柄である(9)

私はこの一文を読んで、自殺した児童をいじめた子供には、おそらく苦しむということがどういうことかを知らずに育ってしまったのではないかと考えた。いじめた児童だけではないだろう。自殺した児童には一人で給食を食べさせていたという担任教師でさえ、人間が苦しむということを知らずに教師になったとしか私には考えられないのだ。

ルソーの独壇場が、逆説的論考である。一般の子供を持つ親の思考とは、正反対の論考をしていることは否めない。そしてルソーが『エミール』を著した18世紀後半と、現代とを結びつけて何が得られるのか、という時代の隔たりもあるかもしれない。更に『エミール』の背景には、ルソーが故郷ジュネーブの豊かな自然を想って提唱した「田園的教育」が見える。

しかし私はこの古典から、「苦しむことを知る必要性」がいかに重要であるかを学んだ。はたして、自分がもがき苦しんだ経験がない人間に、人の苦しみなど到底理解できないのではないだろうか。

いじめを起こした児童も、自分が苦しんだ経験が少ないのであろう。だからこそ、あのような悲惨な事件を引き起こしてしまう。

ルソーの言う消極的教育を知り、子供に苦しむことを早くから学ばせることは、250年経った現代でも必要なことではないだろうか。教師だけではなく、小さい子供を持つ親にとって、ルソーの『エミール』を再考することが重要なことであると、私は真剣に考える。

今日は12月25日、クリスマスだ。楽しいことを知らずに死んでいった児童の無念さが悲しい。


(1) 平岡 昇著「ルソーの思想と作品」p.37 責任編集 平岡 昇『世界の名著 ルソー』
(2) 平岡 昇著『前掲書』p.41 
(3) ルソー著 平岡 昇訳『エミール』p.370
(4) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.384
(5) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.383
(6) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.383
(7) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.385
(8) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.385
(9) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.386

参考文献
責任編集 平岡 昇『世界の名著 ルソー』 中央公論社 昭和51年
ルソー著『エミール』(前掲書に収録)