2011年10月31日月曜日

経験の差が、感動の差を生むということ。

ある人が何気なく、「経験の差が、感動の差を生む。」と呟いた。
バーの、カウンターでの話である。

会話の中での1フレーズは、そのパラグラフの中に埋もれていってしまうことが多い。
しかし私は、その何気ない「経験の差が、感動の差を生む」という言葉に、大きく反応してしまった。

その理由は、ピカソと岡本太郎であった。

岡本太郎がピカソの絵画を鑑賞して、感動のあまりに涙を流したらしい。
その話を大学4年生の時、卒業設計のゼミの先生から聞いた覚えがあった。

絵を見て、涙を流す。
そんなことが、あるのだろうか。

岡本太郎一流の、周りをインスパイアする語りなのではないだろうか、そう思っていた。

私は、非常に感動しやすいタイプである。
映画を鑑賞したり、小説を読んだりして、幾度と無く感動して涙を目に滲ませる。

それは表現者の一人として喜ばしいことであると、自分自身考えていることだ。
日常の中、人前で涙を流してしまうこと、それは恥ずべきことではないと考えている。

感受性が強いこと、それが自分の作品に還ってくると思っている。
だから、可能な限りに感動して涙を流し続けていたい。

そんな私でも、絵画を鑑賞して涙を流したことはなかった。

ピカソはもっとも好きな画家の一人である。
しかしピカソを鑑賞しても、一度も涙を流したことがなかった。

経験が少なかったのだろう。
ピカソをどれだけ思い入れて鑑賞してきた、という経験。
表現者としての経験も、未熟だった。

初めてパリのピカソ美術館を訪れ、本物の空気に触れたときにも、涙は滲まなかった。
感動をし、インスパイアされ、ピカソと同化したと思ったのに。

私はその後、建築家として経験を積んでいく。

様々な絵画を鑑賞し、そして鑑賞するだけではなく、画家の生き様に触れるように、作品を自分の心に取り込もうとした。


スティーブ・ジョブズが亡くなって、週刊誌に彼の伝説の名演説が全文掲載される。
電車に乗る時間潰しのために、何気なく買った週刊誌のページの中に、私はそれを見つけた。

そのスタンフォード大学の卒業式の演説を読むと、どうしても涙が滲んできてしまう。
読むたびに、読むたびに、感動を誘い涙が流れてきてしまうのだ。

私はアップル信奉者ではないし、アップル製品は1つも持っていない。
しかしこの演説は絶妙で、彼の生き様からはなむけの言葉まで、完璧に美しく纏まっていた。

ジョブズの演説に同調できるのは、人生の経験値が深くなったからなのだろうか。

波乱万丈の人生を自分が生きているから、心の琴線に触れてしまうのだろうか。

パリのピカソ美術館の数十年後、私はバルセロナのピカソ美術館を訪れた。
そのとき、私はピカソの作品に触れ、涙が自然に滲んでくるのを確かに感じたのだ。

幼少期の作品、青の時代、そして最上階に展示してある死ぬ間際のエスキースまでを、涙を滲ませながらピカソを旅するように鑑賞した。

この時私は初めて、岡本太郎がピカソの絵を見て涙を流したことを理解することができたのだった。