2011年12月4日日曜日

問われなければ知っているが、問われたら知らない。

今年もいつもの年と変わらず、あっという間に師走になってしまった。
1年の短さは、特にこの時期に痛感する。

あれもやればよかった、これもやることができなかった。
1年という限定された時間の中で、あらゆる後悔が生まれてくる。

私たちが当然のように持っている、時間という概念。
哲学のフィールドを泳いでいると、しばしば「時間とは、何か。」という問い掛けに出くわすことがある。

時間とは、何か。

多くの人は、このように問い掛けられて応えることができるだろうか。
私も哲学に興味を抱かなければ、時間の概念などを考察することはなかったであろう。

ここに、偉大な哲学者が時間について言及した興味深い言葉を挙げたい。

《時間とは何かと問われなければ、私はそれが何であるかを知っている。もし問われたら、私は知らない。(アウグスティヌス『告白』)》(1)

もし私たちが時間について問われたなら、ほとんどの人が上述したアウグスティヌスのように考えるのが普通であろう。

時間というものは、私たちのもっとも身近にあるものであるから、それがどのようなものであるかはイメージ的に頭の中に入っている。
しかし、それを人に論理的に説明することが難しいことも、私たちは知っているのだ。

問われなければ、知っている。

問われたら、知らない。

アウグスティヌスは、西暦354年から430年を生きた、古代キリスト教の偉大な教父であり哲学者であった。
アウグスティヌスの説いた「自由意志」は、ショーペンハウアーやニーチェにまで影響を及ぼす。

『告白』では、若い頃に強い肉欲に支配され生きたこと、私生児である息子をもうけたこと、盗みを働き罪に溺れたことまでも、言及されている。

そのような奔放な生き方をしていたアウグスティヌスは、人間の意志は非常に無力なものである、と説いた。そして、神なしには善をなしえない、と教える。

西洋思想史上もっとも偉大な哲学者の一人であるアウグスティヌスが展開する時間概念は、現在の西洋思想が時間概念を語る上での基礎となっている。

一方、物理学者は時間を測定する、という言い方をする。
しかし、時間は視覚でも触覚でも、聴覚でも味覚でも、そして嗅覚でも捉えられない。

感覚で捉えられないものを、いったいどうやって測定できるのであろうか(2)

時間の特性に関する長期にわたる哲学論議には昔も今も変わらず、対極な二つの立場がある。一方の側には、時間は自然の創造物として客観的に存在するという考え方がある。
時間の存在形式は、知覚できないという点をのぞけば、他の自然物と変わらない。
ニュートンこそおそらくこの客観論的な考え方のもっとも重要な代表者だった(3)

反対側の陣営での支配的な考え方によると、時間とはさまざまな出来事をいわば通観することであり、人間の意識、言い換えれば人間の精神や理性の特性に依拠し、したがって、それらの条件である人間の経験に先行するものということになる。

すでにデカルトがこの考え方に傾いていた。それは、時間と空間をア・プリオリな総合の表示と見たカント哲学にもっとも大きな影響を与えた(4)

どちらにしても、時間は自然の産物である。

アインシュタインの相対性理論を駆使し、物理学から時間を解き明かそうとも、カントの『純粋理性批判』からア・プリオリな認識を抽出し、哲学から時間にアプローチしようとも、私たちは「永遠の現在」を生きることができるのだ。

永遠の現在、その瞬間に時間という概念は消滅していってしまう。

また1年、今年も時が過ぎていくが、時間が通過していってしまうのではなく、私たちの肉体・精神が成長していくのであると、私は考える。

その成長は、時間とは無関係に私が滅びるまで続くのだ。


(1) ノベルト・アリエス著 ミヒャエル・シュレーター編 井本晌二/青木誠之訳
   『時間について』p.1.
(2) 『前掲書』p.1.
(3) 『前掲書』p.4.
(4) 『前掲書』p.4.

参考文献
 ノベルト・アリエス著 ミヒャエル・シュレーター編 井本晌二/青木誠之訳
  『時間について』  
 《叢書・ウニベルシタス 545》 財団法人 法政大学出版局 1996年