2012年1月25日水曜日

船戸与一とテキーラの芋虫

我が街荻窪に、訪れるべき名店がまた1軒姿を消す。

「番小屋」は40年も営業した、私の知る限りでは荻窪でもっとも古い居酒屋であった。
今年の3月に、番小屋はその幕を閉じる。
その番小屋を根城として、愛すべき凄い酒飲みがいた。

我が街荻窪を代表する作家といえば、かつては井伏鱒二であろうか。
荻窪駅前の教会通り商店街にある鮨屋を愛し、着流しでその鮨屋に入っていく姿を何度も私は見かけた。

その鮨屋も、既に何十年か前に姿を消している。

その井伏鱒二に弟子入りした太宰治も、一時は荻窪に暮らしていたようだ。
太宰治が暮らしていたという民家は、その古い当時の姿を変えずに荻窪の片隅に今も残っている。

文学界の巨星である井伏鱒二が、荻窪を堂々と歩き人目もはばからず街場の鮨屋に入るように、直木賞作家である冒険小説家・船戸与一も、荻窪の住民に溶け込んで荻窪の街を普通に歩いている。

番小屋は、「お母さん」が一人で切り盛りをしている居酒屋だ。
かつては、若いアルバイトの男の子もカウンターの中に入って働いていた。

そのお母さんを開店前に手伝うのが、「お父さん」である。

お父さんは、船戸与一と同じ小説家であり、作風もハードボイルドである。
スキンヘッドが似合う、ショーン・コネリーを彷彿とさせる風貌をしている。

お母さん、お父さんと家族ぐるみの付き合いをしているのが、船戸与一であった。

私は初めて、番小屋で船戸与一に出会う。
それ以降、船戸与一の魅力に私は惹きこまれていった。

お母さんたち、店の常連たちは、敬愛を込めて船戸与一のことを、本名をもじった名前で呼んでいた。
私は部外者の立場をわきまえて、一歩踏み込んだ中に溶け込みたかったけれども、「船戸さん」としか呼んだことがない。

それが私の礼儀だった。

番小屋に顔を出すたびに、どこの馬の骨かも分からない私にも、船戸与一は心優しく話しかけてくれるようになった。

次第に心は飲み友達のようになって、打ち解けていく。

いつしか私は、船戸与一を私が設計したレストランに連れて行くようになった。
冒険小説家に似つかわしくない、お上品なフランス料理でも、快く付き合ってくれる。

私のバーにも顔を出してくれるようになった。

「おい、堀川。オマエの店で一番高いボトルはどれだ。それを入れるぞ。」
私の店の売り上げを心配して、船戸与一は心優しく、そのひび割れた声で言う。

ある時、番小屋のお父さんと船戸与一は、二人で私のバーを訪れてくれた。
芋虫がまるまると1匹入ったテキーラのボトルを見つけて、それは何だと言う。

グサノロホというメスカルは、テキーラの原料となるリュウゼツランにつく芋虫を1匹、メスカルの中に入れている。
塩を舐めてからライムを口に入れ、テキーラを飲む、その塩がグサノロホには付いていた。
ただし、リュウゼツランに付く芋虫のオシッコを乾燥させてつくった塩である。

そんなことを話しながらメスカルを飲んでいると、おもむろに船戸与一が、その芋虫を食わせろと私に言った。
もちろん、腹が減っているから私に芋虫を食わせろと言ったのではない。

何にでも興味を持ち、自分の作品の舞台となる世界の地に行かないことには、作品を書くことができない、と言う船戸与一。

全て、自分の目で見て、自分で体験したことが、彼の小説の骨格となっている。

その興味がテキーラの芋虫に向けられ、私はボトルの中から芋虫をまな板の上に取り出した。
名を成す小説家にもなると、目の前の芋虫も食ってみないと気が済まないのであろうか。

端から1センチずつ位に切っていくと、白い外観の中からオレンジがかった内臓が見えてくる。
食べやすいように切って出すと、今度は「堀川、オマエも一緒に食え。」と言われてしまった。

一瞬躊躇したが、二人が何の逡巡もなく芋虫を口の中に入れるのを見て、私は覚悟を決めて口の中に入れる。
何の味もしない、ゴムのような食感は、今でも忘れられない。

それよりも、船戸与一と番小屋のお父さんと3人でテキーラの芋虫を食べたことは、誰にでも誇れる仲間意識を私に生み出してくれた。

その番小屋も幕を閉じてしまう春以降、私はどの店で粋な男に出会うことができるのだろうか。

2012年1月3日火曜日

クリエイティブとは、真似をしないこと

「クリエイティブとは、真似をしないこと」
これは、伝説のレストラン、エル・ブリの格言である。

スペインの田舎、カタルーニャ地方の海岸線沿いにある僅か50席のレストランに、年間200万件の予約が入る。

独創的な料理を提供するために、4月から10月までの半年しか営業をせず、残りの半年は新しいメニューの開発に勤しむという。

どの逸話を取っても、伝説のレストランにふさわしい言葉である。

かつては日本のメディアでは「エル・ブジ」とも表記されていたエル・ブリは、フェラン・アドリア率いる素晴らしいチームが運営するレストランであった。

であった、という過去形の表記をしたのは、2011年7月に惜しまれながらも閉店をしてしまったからである。
その閉店は、2年後に料理研究財団として新たに生まれ変わるためのステップだという。

まだエル・ブリの凄さが日本に完全に伝えられていない頃、それでもグルマンやワインフリークの間には、断片的な情報は入ってきていた。

私はかつて、ビルバオのグッゲンハイム美術館を訪れるために、バルセロナからビルバオをブッキングした際にカタルーニャのエル・ブリを訪れようと計画したことがあった。

しかし、冬の閉店時期だったために、それは叶わなかった。

もし、エル・ブリの完全なる凄さが私の耳に入ってきたならば、エル・ブリの開店時期に合わせてビルバオに行っていたかもしれない。

それほどにも、エル・ブリは焦がれて行かなければならないレストランである。

世界規模での訪れるべきレストランやホテルの新しい情報ほど、日本に入ってくることが遅いと、私は痛感する。

今でも鮮明に記憶しているが、アマンリゾーツの最初のホテル、アマンプリがオープンしたときにも、日本に入ってきた情報はごく僅かであった。

今でこそ我が日本の女性たちに大人気のアマンであるが、オープン当初は日本への情報発信がほとんどされていなかった、と言うと、信じられないと言う人がほとんどだろう。

私がプーケットを訪れようとしたときに、銀座にあったアメックスのトラベルカウンターにさえも、アマンプリのヴィジュアルな情報はなく、文字情報だけであった。

最高のラグジュアリーなホテルは、プーケット・ヨットクラブとアマンプリが併記されていて、ヴィジュアルな情報が完備されていた英語表記のプーケット・ヨットクラブよりも、文字情報だけしかなかった現地的な響きのするアマンプリを選んで、私は後悔しなかった。

こうして、オープン当初のアマンプリを訪れることができ、それ以来アマンリゾーツの虜になってしまう。

建築家、ハンス・ホラインに会いに行ったときに滞在したウイーンのシャトーホテル、パレ・コブルグも、まだ日本では誰も知らないだろう。

しかし数年後には、日本でブレイクするはずである。

世界中にある、まだ知らない素晴らしいレストランやホテルを訪れてみたいと思っているのは、私だけではないだろう。

このエル・ブリの、とてつもなく素晴らしい料理の数々を食べることの出来た人は、本当に幸せである。
料理と言う概念を覆した、創造性と斬新なコンセプト。

公開された映画、「エルブリの秘密 世界一予約のとれないレストラン」を鑑賞すると、フェラン・アドリアの生み出す料理は、料理を超えて芸術であることが誰の目にも理解できる。

フェラン・アドリアは、2007年ドイツの現代美術展ドクメンタ12にも参加した。
ドクメンタ12は、20世紀の重要な前衛芸術運動として、ピカソやモンドリアン、マティスを取り上げたり、ヨーゼフ・ボイスの作品を展示したりする、世界でもっとも重要な美術展の1つである。
もちろん、美術展に料理人が参加するのは初めてで、これは世界がフェラン・アドリアを芸術家として認めたことに他ならない。

食材を真空化したり、液体窒素で瞬間冷凍する。

エスプーマという泡立て手法を考案し、医療用のオブラートから食材を包む手法をインスピレーションする。

それは料理というよりは、美しい現代美術にも匹敵する創造物である。

「クリエイティブとは、真似をしないこと」
私たち建築家も、肝に銘じなければならない言葉だ。

参考文献
映画「エル・ブリの秘密 世界一予約のとれないレストラン」 パンフレット