2013年2月28日木曜日

狂気の建築家・渡邊洋治と銀座のバー

ある日の午後、私は銀座松坂屋の裏通りを歩いていた。

仕事の途中であったから、久しぶりの裏町の散策という気分ではない。
目的地に向う途中の街並みの一角に、私は小さく佇むインフォメーションボードを目にした。

そこには、「当店は2月末日で閉店します」というインフォメーションが掲げられていた。
顔を上げてその店のファサードを目にすると、その閉店するという店はバーTARUではないか。

大正末期に開店し、長い間銀座を生き抜いてきたTARUが閉店するという。

老朽化したビルであるから、再開発に飲み込まれるのはいたしかたないのだろうか。

地下1階のその店に行くのに、私はいつも階段で下りずに、エレベーターを使うことにしていた。
自分で扉を開ける、古き良き時代のもっとも古いタイプのエレベーターが、私を迎えてくれる。

初めて乗った時には、途中で壊れて止まってしまうのではないかとびくびくしたことを、今でも思い出す。

TARUに私を連れて行ってくれたのは、建築家・渡邊洋治のアーカイブを管理している渡邊洋治の甥であった。

日本建築家協会で、私が「日本の前衛を再考する」というレクチャーを1年を通して開催した時に、渡邊洋治を取り上げ私は彼と邂逅する。

彼は私を、平河町の渡邊洋治のアトリエにも招きいれてくれた。
そこでは下から上まで、更に屋上にも、その全てに私は渡邊洋治の魂を感じ取った。

渡邊洋治ほど、「狂った建築家」という称号が相応しい建築家は他にはいないだろう。

建築家・松永安光が、渡邊洋治は事務所で所員を前にして日本刀を振りかざす、と話したことを思い出した。

東大からハーバードへ行き、芦原建築事務所に入所して独立した、建築家としての王道を歩み「建築界の良心」ともいえる松永安光さえも、渡邊洋治という狂った建築家に言及する。

それほどまで、渡邊洋治という異端は今でも輝いているのだろう。

彼が私をTARUに連れて行ってくれたのは、ここが渡邊洋治の縁の場所であったからだ。

渡邊洋治は、自分の師匠・吉阪隆正にここに何度も連れてこられたという。

早稲田の中で主流になれなかった渡邊洋治を、浮かび上がらせようとしていたのが吉阪隆正であった。

しかしクライアントや作品に恵まれず、つくりたくてもつくれなかった渡邊洋治は、生涯独身を貫き酒を自分の人生の欠かせない友としていた。

それ故、61歳の若さで逝ってしまったのだろう。

建築家にとって、「つくれない」ということは、どれほど悲しいことであるか。

そのTARUは、日本のインテリアデザインの礎を築き上げた二人の巨匠が、デザインに参加している。

剣持勇と渡辺力が一緒にデザインした仕事は、TARU以外には現存していないだろう。
そもそも、二人がコラボレートした仕事なんて、他にあるのだろうか。

その空間に、一時吉阪隆正と渡辺洋治がグラスを酌み交わしていた。

2月末日閉店と知って、私は友人とTARUを訪問した。
特に異端ではない、そのレトロな空気は、私たちを時間が止まった空間へと導いてくれた。

嬉しいことに、閉店が1ヶ月延長されるという。

あと何回か、あの蛇腹扉を自分で開けるエレベーターに乗ることが出来る。