2012年12月15日土曜日

真冬のサマータイム・ブルース

3.11福島原発以降の、初めての総選挙が明日行われる。
この選挙の大きな争点の一つに、脱原発があることは間違いがないだろう。

3.11以降から現在までにトーンダウンしてしまっている政党・政治家に投票する人も、原発の扱いは気になるはずだ。

私の選挙区は長年に渡り、自民党選出議員の牙城である。
民主党の嵐が吹き荒れた時でも、全くその強さは揺るぐことがなかった。

そこに、脱原発を訴える独りの俳優が立候補をする。

3.11以降、脱原発を訴えていた俳優にすぎない、と私は思っていたが、敢えて磐石の組織・地盤を持っている自民党議員の選挙区に挑戦をする、という構図に私は驚いた。

中選挙区の時代に、その自民党候補以外の枠を争い当選していた議員は小選挙区1人区になり勝てず、何度も国政を目指していたが、しかたなく杉並区長になった。

その彼も、今回の選挙では別の選挙区・別の政党で立候補し、国政を目指す。

そのような、誰もが自民党候補者しかいないと思っている区民の中に、その俳優は飛び込んできたのだ。

地盤が無く、政党もない彼は、少しでも勝てそうな地区で立候補をすればよいのにと、誰もが思うだろう。

その彼の演説を聞いていると、あるアーティストの歌が頭を過った。
RCサクセション・忌野清志郎の「サマータイムブルース」。

1988年に発表されたこの楽曲を、現在の目で見る。
その歌詞は、2011年3月11日以降をまるで予言しているかのようだ。

(前略)
熱い炎が先っちょまで出てる

東海地震もそこまで来てる

だけどもまだまだ増えていく

原子力発電所が建っていく

さっぱり分かんねぇ 誰のため?

狭い日本のサマータイム・ブルース


寒い冬がそこまで来てる

あんたもこのごろ抜け毛が多い

それでもTVは言っている

「日本の原発は安全です」

さっぱり分かんねぇ 根拠がねぇ

これが最後のサマータイム・ブルース


あくせく稼いで税金とられ

たまのバカンス田舎へ行けば

37個も建っている

原子力発電所がまだ増える

知らねぇうちに 漏れていた

あきれたもんだなサマータイム・ブルース


電力は余ってる 要らねぇ

もう要らねえ

電力は余ってる 要らねぇ

欲しくない
(後略)


まるで現在のことを見ているかのような、忌野清志郎のシャウトだ。

この作品が発表された1988年は、私は20代最後の年を生きていた。
29歳という大人が、あの時恥ずかしいまでも原発に無関心だったのを、あらためて思い知る。

この楽曲には、都立日野高校で忌野清志郎と同級生だった俳優の三浦友和もバックボーカリストとして参加している。
泉谷しげるの叫び声も聞こえる。
三浦友和は、挿入されたナレーションを担当していた。

参加した三浦友和によると、反原発の歌が収録されているという理由で、このアルバム『COVERS』は所属のレコード会社からは発売されず、他社から出したという。

今日を生きている我々は、その圧力がどこからかかったのかは明白に理解できるだろう。

誰かが永遠に原発の危険性を訴え続けていかないと、我々はいつもの日常に戻っていってしまう。

先日渋谷で、現職総理大臣の応援演説に遭遇した。
人は集まってきたが、盛り上がることはなかった。

その総理大臣が、我が街荻窪で応援演説をする場面に、今日遭遇した。
私が知る限り、現職の総理大臣が荻窪の駅前に立ったことはない。

彼らも必死なのだろう。

昨日の夜、荻窪駅の横の小さなポケットパークで、その俳優が演説をしていた。
聴衆は溢れんばかりで、拍手が大きく熱気に包まれていた。

総理大臣が応援に来るわけでもない、その独りの候補者は、どこまで奮闘をするのだろうか。

「サマータイム・ブルース」が収録されている『COVERS』には、多くのゲストミュージシャンが参加している。

クレジットは全てローマ字なので特定は難しいが、「サン・トワ・マミー」では、ピアノがYosuke Yamashita とクレジットされている。

あの山下洋輔かな、と思って想像してしまう。

同じ楽曲のバックボーカルに、Isuke kuwatake  というクレジットがあった。
イスケ・クワタケ氏である。
私はこれを、ケイスケ・クワタと読み、桑田佳祐のことだと勝手に思うことにした。

今、忌野清志郎が生きていたら、この日本をどのように憂うだろうか。 

参考文献
『COVERS』RCサクセション 1988年 キティレコード
「忌野清志郎のロック魂を語ろう」 三浦友和×仲井戸麗市 対談 『週刊現代』2012年12月1日号 講談社

2012年11月26日月曜日

フロイトの料理読本

だいぶ前に古書店で手に入れた、『フロイトの料理読本』という著作が私の本棚にある。

このフロイトとは、精神分析の権威である、あのフロイトのことだ。

精神医学、心理学の領域の人間が料理読本を著す、という物珍しさも手伝って、この本を見せると誰もが興味深く手に取り、貸して欲しいと言われる。

そのような訳で、店のお客さん何人にもこの本を貸し出してあげた、人気の一冊である。

正確に言えば、フロイト自身がこの『フロイト料理読本』を著したわけではない。

巻頭の謝辞によれば、「ジムクント・フロイト記録保管所」に埋もれていた、フロイトの原稿を発掘した二人の編者が編集した著作である。

編者の覚書によれば、フロイトが晩年に英語で書いた料理読本もあるということだ。

フロイトが著した著作ではないが、原稿はフロイト自身のものであり、フロイトの人間関係から導かれた料理がレシピやエッセイ、文章とともに満載されている。

アイロニーが込められた、フロイト特有の文章に誰もが引き込まれてしまうだろう。

料理名だけを見ても、その内容を覗きたくなってしまう。

いくつか例を挙げよう。

失語症ソースをかけた牡牛のタン・ブレーズ
性感帯ホットケーキ
言葉のサラダ
フェットチーネ・リビドー
昇華サンドウィッチ
自己愛ソース
超自我エッグノッグ
妄想のパイ

「言葉のサラダ」などは、そのままお洒落なカフェメニューにクレジットされても良いくらいのネーミングであると思う。

これらのネーミングであっても、料理はしごく真っ当なレシピだ。

例えば、「仔牛肉神経衰弱」という料理のレシピを見てみよう。

良質の仔牛の尻肉を3、4ポンドを取り出し、紐でしっかり縛る。
ローストする前に、そのまま2~3時間おいておく。
小麦粉を大匙2杯、チリ・パウダーを茶匙1杯、パプリカ大匙1杯、塩とこしょうを混ぜたものをローストにまぶす。
溶かしたバターをときどき塗りながら、約180度のオーブンで半時間かけてローストにする。
その間に、茶色がかったストックにカップ1/2のコニャックを加えて、とろ火で1/3くらいに煮詰める。
さらに半時間ローストし続けるが、そのときには、ストックとコニャックを混ぜたものを塗りつける。炒めたタマネギやその他の心温まる野菜を加えてもよいが、皿を飾ることまで考えなくてよい。
問題なのは肉であり、柔らかくなくても一度だけは許される。

以上が「仔牛肉神経衰弱」という料理のレシピ全文である。

どこが神経衰弱なのかはこのレシピでは読みとれないが、最後の、柔らかくなくても一度だけは許される、という一文が引き締めている。

私たちがビストロで食べるメインディッシュの付け合せの、例えばニンジンのブレゼなどにも、「心温まる野菜」というネーミングを付けたらどうだろうか。

「仔牛肉のロースト 心温まる野菜添え」というように。

建築と料理は似たようなものである、というのが私の持論である。
素材を選び、切り方を変え、料理方法を選ぶ。
まるで、一つの建築をデザインするように、野菜や魚、肉を眺めながらイメージする。

とは言っても、素材を炒めて塩味を付けたパスタ程度しかいつもは作らないが。

フロイトの「仔牛肉神経衰弱」の、レシピの前に書かれている文章の中へ入っていこう。

フロイトは、神経衰弱の患者の身体は湿っていて締まりがなく青白いが、事実、これは良質の仔牛の肉の白みがかかったピンク色と非常に似ている、と記述している。

神経衰弱は意志の問題であるとし、研究者が「ヴィール(仔牛)」と発音していた「意志(ウイル)」の問題である、とフロイトは言う。

そこでこのメニューは、「仔牛肉(意志)神経衰弱」と、正確には本書にこのように記述されたのだ。

なるほど、と思わずにはいられない。

神経衰弱の多くの患者は従順で、治療には協力的である、とフロイトは言う。
ただ、症状の改善は遅い。
身体があまりにも弱いから、という理由だ。

したがって、神経衰弱の仔牛料理は、そのような「粗食」に対する失敗のない私の治療法になる、とフロイトは続ける。

最後に、こう記述してあった。

焼きすぎないように注意しなければならない。
少しはタフであってもいいだろう。
事実タフであるほどよい。

参考文献
J・ヒルマン+C・ボーア著 木村 定+池村義明 訳『フロイトの料理読本』 青土社1991年

2012年10月12日金曜日

ヴォルテール 『カンディード』を読む

ヴォルテールは、18世紀を生きたフランスの哲学者であり啓蒙思想家である。
ルソーへの批判、確執が知られているが、『リスボンの災禍に関する詩』を発表したことでも有名であった。

1755年11月1日に起きたリスボン大震災は、6万人を数える死者を出した。
大きな津波が発生し、1万人以上が津波により亡くなったという。

マグニチュードは9であり、2011年3月11日に起きたマグニチュード9の東日本大震災と同じ規模であった。
18世紀とは防災のスペックが異なるとはいえ、現在まで発表されている東日本大震災の死者数2万人に比べ、いかに大きな地震であったのかが理解できるだろう。

『カンディード』は、1758年1月に書き始められている(1)
第5章では、主人公のカンディード達がリスボンに到着し、大地震に遭遇する描写が挿入されている。

2005年に第1刷が発行された植田祐次訳の本書を、2011年第9刷版で私は最初に読んだ。
その後古書店で、1956年に第1刷が発行され1981年の第27刷版の、吉村正一郎の訳書を見つけ買い求めた。

二人の訳者の、異なる描写を楽しむ醍醐味を味わったが、我国でこれほどまでにヴォルテールが読まれていることを私は知らなかった。

カンディードは男爵の娘キュネゴンドを、初めて出会ったときには類い稀な美人だと思っていて、結婚を熱望していた。

しかし紆余曲折の後、旅の最後にキュネゴンドと再会し一緒に暮らすことになるのだが、そのときカンディードは、あれほど結婚を熱望していたキュネゴンドに対し結婚する気などさらさらないと思い、しかもキュネゴンドはひどく醜かった、とヴォルテールは描写している。

ヴォルテールの実生活の影、そのぺシミスム、アイロニーの描写がそうさせたのかもしれないが、女性の美を軽視するようで、私は『カンディード』はあまり好きにはなれない。

1745年から46年にかけて、ヴォルテールの心にはぺシミスムの影が忍び寄っていた。
彼がシレーでシャトレ侯爵夫人と垣間見た幸福と静かな生活、愛と英知についての夢に、予測のつかない気まぐれな実生活が侵入しつつあったからである。
五十の坂を越えた彼を容赦なく病魔が襲った。
シャトレ夫人との愛にしばらく前から倦怠を覚えていたヴォルテールは、44年頃から、浪費癖があってあまり貞淑でもなかったが魅惑的な未亡人、自身の姪にあたるドニ夫人に接近していた。(2)

ヴォルテールのこのような実生活が、あれほど恋焦がれたキュネゴンドを醜く描写をして、物語を終わらせているのだ。

植田祐次訳の版には他五篇が併収されていて、『ザディーク』が私はもっとも好きである。

バビロンに生まれたザディークという名の青年が、王妃アスタルテと出会い恋をする。
この始まりは『カンディード』と同様だ。

相思相愛になる二人は引き裂かれ、ザディークは逃げるように旅を始める。
戦争で王は殺され、王妃は売られていくが、最後までザディークはアスタルテをあきらめない。

最後は困難の末に、アスタルテとやっとの思いで結ばれるハッピーエンドの物語であるのが、私の琴線に触れた。

そのラブストーリーも素晴らしいが、私が気になった描写は別のところにあった。

旅の後半にザディークは隠者に出会い、その隠者を尊敬する。
ザディークと隠者は旅を共にするのだが、尊敬する隠者は、質素ではあるが二人に食事を提供してくれた家に火をつけたり、精一杯のもてなしをしてくれた未亡人の甥を殺してしまう。

ザディークは怒り、訝しがるが、隠者は「人間たちは、なに一つ知らずに全体を判断する(3)と言う。
隠者は、天使ジェスラードであった。

二人に食事を提供してくれた家に火をつけたのは、家を消滅させるとその下から財宝がでてきて、質素な主は大金持ちになるのである。
未亡人の甥を殺したのは、甥が大きくなるとその未亡人を殺してしまうからであった。

天使ジェスラードは先のことが全て見えているが、私達人間は、今起こっていることと先のことの因果関係を知らない。

私達は混沌とした現在を生きていると、誰もが自分に降りかかってくる理不尽なことに遭遇する。
その時に、私達は誰かを、そして何かを恨むだろう。

私は『ザディーク』を読んだ以後、自分に理不尽なことが起きた時には、これでよかったのだ、と思うようにしている。
神の摂理が働き、私をこのようにしているのだと。

そう思えば、やりきれない思いを自分の中で咀嚼できてしまう。

心のありようは、自分で簡単にコントロールすることができることを、私はヴォルテールから学んだ。


(1) ヴォルテール著 植田祐次訳 『カンディード』 解説p.540.
(2) ヴォルテール著 植田祐次訳 『前掲書』p.207.
(3) ヴォルテール著 植田祐次訳 『前掲書』 解説p.534.


  参考文献
ヴォルテール著 植田祐次訳 『カンディード』 岩波文庫2011年

2012年7月31日火曜日

宵越しの金を持たない

暑い夏の日の夜、八十歳を超えた私の母がどじょうを食べに行きたい、と私に言った。

私はその言葉を聞いて、母は死ぬまで江戸っ子だと思い嬉しくなった。
母の世代に比べ、私の世代になると江戸っ子気質は希薄になっている。
今の若い世代にとって、日常にどじょうを食べるという親から受け継いだ習慣など、皆無に等しいだろう。

江戸っ子を自慢しようとしているのではない。
誰でも、自分の故郷を愛する気持ちを持っている。

私が小学生の頃、夏休みに同級生たちは「田舎」に行き、カブトムシやクワガタムシを採ってきて自慢していた。
父や母の実家の地方を「田舎」と言う概念など、小学生の私にあるはずもなく、「田舎」とは山や海のある、この東京とは違う自然豊かな場所であると認識していた。

私の父は神田で生まれ、母は新宿で生まれる。
父と母は神田明神で結婚式を挙げ、墓は谷中の寺にある。

これが、典型的な東京の庶民の姿であり、江戸っ子と言われていた人たちだろう。
だから夏休みに実家に帰り、自然に親しむという醍醐味を味わうことができなかったのは当然である。

しかし大人になって、誰もが故郷を愛するように、私も江戸っ子であって良かったと思うようになっていた。
父が、父の代で神田を離れ荻窪に来たことが、「俺の代で、江戸っ子を切ってしまった」と言っていたのが印象的である。

私が経理をお願いしている浅草橋の父の友人は、未だに「ヒとシ」の言葉の使い分けができなく、まだこういう正真正銘の江戸っ子がいるのだと思ってしまうが、私は、代々神田で育ったルーツを継いでいるだけで江戸っ子の仲間入りをしていると、自負している。

弟の車に母を乗せ、どじょうを食べに両国の老舗に向かった。
店に入ると、私たちのような年齢の子供が親と一緒に来ている客だけしかいなかった。

二十代、三十代の客は見あたらない。

母に聞くと、昔は魚屋でザル一杯のどじょうが安く買えたという。
だから江戸っ子の庶民の夏は、どじょうなのだろう。
今は、街の魚屋を見つけること自体が難しくなってきている。
このままでは、親から子へと受け継がれない、どじょうを食べる文化も衰退していってしまう。

この老舗に来ている客の年齢層が、どじょう文化の悲哀を物語っていた。
しかし満席である。

料理は、丸鍋、開いたどじょうの鍋、鯉のあらい、と続く。
駒形のどじょうに比べ食べやすい大きさで、骨が気になることはなかった。
どじょう料理のコースの中に、鯉が入っている。
これが、泥臭いイメージを持たれている川魚を食べる醍醐味である、と私は思う。
決して泥臭くはないのだが、イメージで敬遠されてしまうのだろう。

それであれば、それでもいい、と私は思うことにした。
一般的に敬遠されてしまう泥臭いと思われているどじょうや鯉は、私たち江戸っ子が食べてしまえば良いのだから。

なぜ、夏のどじょうなのか。

暑い夏を乗り切るためのスタミナ確保もあっただろうが、夏のこの時期だけは、どじょうの卵を食することができるのだ。

鍋に、小さなどじょうの卵を、仲居さんが最後に乗せてくれた。

鯉のあらいは、この時期になると鮨屋に出回るいさきのような色合いである。
薄くほのかなピンク色をした身に、血合いの筋が大きく彩られている。
食感は非常に力強く、山葵醤油と酢味噌で食べた。

どじょうを食べながら、母が昔の話をする。
私の祖父は、息子である父に「宵越しの金を持つな」と言っていたという。

宵越しの金を持たないことはやめて、貯金をしなさい、ではない。
江戸っ子の、典型的な気風を持っていた祖父の言葉に、父は貯金をしなければダメだと思ったという。

私は母の話を聞いて、嬉しくなった。
「宵越しの金は持つな」と言うなんて、なんてカッコいい祖父であろう。
そんな言葉は、息子に掛ける言葉ではない。

それを平気で言ってしまう祖父。

この言葉を、今の政府に言ってやりたいと思った。
財政再建という美談に向け、消費税を上げ、経済をますます縮めようとしている。
財布の紐がますます固くなる世の中に、私は宵越しの金は持つな、と声を大きくしたい。

私たち一人一人がお金を使い、経済が回るようにしなければならないだろう。
宵越しの金を持たない江戸っ子気質を、日本中に浸透させなければならない。

2012年6月18日月曜日

プラトン 『饗宴』での文学的構造に対する考察


プラトンの『饗宴』は、哲学書を超えた、素晴らしい文学書である。

『饗宴(シュンポシオン)』という表題の原意は、「一緒に(シュン)飲むこと(ポシオン)」である。
「飲む」とはこの場合、酒(ワイン)を飲むことであり、「シュンポシオン」とは、要するに「飲み会」のことである(1)

『饗宴』とは、この酒宴という人の集まる場を借りてプラトンが著した、プラトンの哲学を表現した「文学」であると私は考える。

『饗宴』は、プラトン四十代後半の作品、すなわちプラトン中期に位置する作品ということになる(2)
従って、これまでの研究によれば中期作品群のソクラテスは、著者であるプラトン自身の見解を表明するものと考えられている(3)

私は、『饗宴』の文学的構造に着目した。
それを述べる前に、『シュンポシオン』という著作は、プラトンの哲学を表現する作品であるが、これは当時の一つの文学的形式であることを確認したい。

プラトンと同時代のクセノポンが、『シュンポシオン』という作品を著している(4)
この他に、紀元後一世紀、ローマ時代のブルタルコスにも『シュンポシオン』という作品がある(5)

ということは、現存していない作品も数多く著された可能性も、否定できない。
このことにより、『シュンポシオン』は当時の文学的形式のプロトタイプとなっていたことが、容易に想像できる。

私が着目した『饗宴』の文学的構造とは、二つの二重構造が入れ子のように組み込まれていることである。

一つ目の二重構造は、物語導入部分に現れる。

『饗宴』の酒宴の様子は、プラトン、すなわち登場するソクラテスが見た様子として書かれているのではない。
アポロドスという人物が、友人たちに酒宴の様子を報告する形で物語は進む。
そして、この報告者アポロドスも、酒宴に参加していたわけではない。

アポロドスは、アリストデモスという酒宴に参加した人物から聞いた話を、友人たちに語る。

語り手のアポロドスが聞いた「参加者であるアリストデモスから聞いた話」を話す、という入り組んだ文学的構造がここには存在する。
最初のこの二重構造が、『饗宴』の文学的形式に影響を与えているのではないかと私は考えるのだ。

二つ目の二重構造とは、参加者の演説を、前後に登場させる酒宴の様子で包み込んでいることである。

『饗宴』の骨格は、パイドロスからアルキピアデスに至る登場人物の演説である。
左に座っている人から、反時計回りに演説者がエロースについて論じていく。

このエロースの内容、そこでアリストパネスが語る、私たち誰もが知っている後世に伝わる有名なミュトスになった、相手を探す恋愛論については、別の機会に述べたい。

パイドロスの演説が始まる前に、宴の導入部分としてこの日の酒宴の様子をプラトンは登場させる。
そして一連のパイドロスからアルキピアデスまでの演説を終了させたあと、最後に再び酒宴の様子を描写している。

これは、「パイドロスからアルキピアデスに至る演説」を、前後の「酒宴の様子」で包んでいる大きな二重構造であると考えられないだろうか。

この考察が導かれた背景には、正当な理由が存在する。

なぜプラトンがこのような文学的二重構造を「二重」に存在させたのかというと、物語導入部分の二重構造のメタファーとして、大きな二重構造を構築したのではないかと私は考えるのである。

すなわち、物語導入部分の「アポロドスが話す<アリストデモスの話>」という、話を話で包んだ二重構造を、「一連の演説」を前後の「酒宴の様子」で包んだ二重構造として結実させている、と私は考えるのである。
「話で包んだ話」のメタファーが、「酒宴で包んだ演説」である。

プラトンは『饗宴』の中に二つの二重構造を表現し、文学に空間的な奥行きをつくりあげた。
この、大きなものが小さなものを包み込む入れ子構造は、宇宙に他ならない。

大宇宙から、銀河系宇宙へ、銀河系宇宙から太陽系宇宙へ、太陽系宇宙から地球へと大から小へと入れ子のように連鎖していく。
更に、地球から人間へ、人間から細胞へ、細胞から分子へ、分子から原子へと、連鎖の旅は果てしなく続く。

私は、プラトンが『饗宴』で、宇宙を表現したかったと思わずにいられないのである。


(1)  朴 一功『饗宴/パイドン』p.368.
(2)  朴 一功『前掲書』p.364.
(3)  朴 一功『前掲書』p.366.
(4)  田中 美知太郎『プラトン「饗宴」への招待』p.5.
(5 ) 田中 美知太郎『前掲書』p.10.

参考文献
プラトン『饗宴』 (プラトン『饗宴/パイドン』) 朴 一功訳
京都大学学術出版会 2007年 

田中 美知太郎 『プラトン「饗宴」への招待』 筑摩書房 昭和49年

2012年4月29日日曜日

セピア色をした国立の哀愁

東京の西のはずれ、国立(くにたち)は、駅前の街路樹が印象的な美しい街だ。
今年の桜も、大きく枝を広げた堂々とした姿を白い花で妖艶に飾っていた。

駅舎のロータリーから直線状にまっすぐと伸びた、大学通り。
さらに、ロータリーから放射状に、立川や国分寺方面に向かって伸びる道路を見ると、都市計画がきれいに為されている印象を受ける。

相変わらずに、大学通り沿いにはお洒落な店が並ぶ。
吉祥寺が、住みたい町のランクトップであるが、吉祥寺よりも洗練された美しい街が国立であると、私は思う。

かつては南口を線路沿いに歩けば、すぐに土手が現れ、そこから狸が顔を出したという。

今は駅舎も新しく改修され、もうすぐ完成の日を見る。

北口のゴルフ練習場も、マンションに変わってしまって年月が経った。
馴染みの風景が変わっていくことは、誰もが寂しいと思うことである。

しかし、私の愛する変わらない存在が、国立の裏通りには今も健在である。

私が、年に数回足を運ぶ名店、「うなちゃん」。

つい先日も、私はうなちゃんに足を運んだ。

いつもどおりの土曜日の4時前。
暖簾が仕舞ってあり、外から見ると中には誰もいないような佇まいが、せっかく来たのに臨時休業か、と不安にさせる。

引き戸の隙間から裸電球が灯っているのを確認し、私は扉を引き中へと入った。

開店の1時間前だというのに、既に常連で半分の席が埋まっている。
勿論、それを承知の上で、私は4時に訪れた。

年に数回しか足を運ぶことができない、そして御常連で埋まる店に入る緊張感。
二代目だという店主の笑顔が、新参者の私にも常連と同じ扱いをする安心感を与えてくれる。

開店1時間前の、準備の真っ最中。
この時間帯は、飲み物だけは飲むことができる状況で、常連はそれぞれの、自分の好きな酒を飲み、店主の準備を眺めながら開店を待つ。

弾ける炭を避けながら、私もビールをグラスに注いだ。
そして、鰻を焼く煙に何十年もくすんできた店内を、ゆっくりと見渡す。
セピア色をしたフィルターで撮った写真のように、下焼きを始めた蒲焼の煙が、店の風景をぼかしていた。

その情景に、店主がかけるCDの前川清の歌声が相乗する。
開店前の準備から、閉店まで、店主はCDを代えずに同じ前川清をかけ続ける。
今日だけではなく、明日も、あさっても、出す鰻が変わらないように、BGMも変わらないのがこの店だ。

手際よい店主の準備も終わり、開店が整った。

この店では、最後に食べるうな重が欲しければ、最初に注文するだけで、後は料理の注文はいらない。
次々に出てくる鰻の串焼きを、楽しみに待つだけで良いのだ。

この時間の流れ方、この店の雰囲気は、作ろうと思って作れるものではないだろう。
長い年月をかけて出来上がった、極上の空間である。

歴史は、お金では買えることができない。
新しくプロデュースをし、デザインをし、演出をしたところで、この空気感を再現することは不可能だ。

時間の流れだけが生み出すことのできる、国立の街のはずれにあるサンクチュアリ。

ある時、うなちゃんを訪れた私は、いつもの見慣れた風景に少しながら違和感を覚えたことがあった。
違和感を覚えるのだが、そこには変わらない姿の店構えがあるだけだ。
何が私を奇妙な感じにさせるのだろうかと、不思議に思いながら店に入った。

店内も、いつもと変わらぬ情景がそこにある。
いつものように、店内をゆっくりと見渡した。

私の視線が壁から床へと移ったとき、新しいモルタル塗りの、床から立ち上がった基礎が目に入った。
建築家の私は、曳き家で家屋をそのまま引っ張ったことを理解する。
前面道路の拡張で、後退した敷地に新しく建築をしないで、曳き家という方法で家屋を壊さずに、そのまま移動させたのだ。

私が感じた奇妙な違和感とは、いつもの変わらない姿の店構えがあるのだが、店がそのまま後退し、前の道路との間に2メートル程度の空き地ができたことから生じたものだった。

歴史を変えないという店主の思いが、道路の拡張にあったとしても、うなちゃんのそのままの姿を残すことができたのだろう。

隣の客から、店主が冷蔵庫から出した氷が回ってきた。
酎ハイを飲んでいる客の、氷の継ぎ足しだ。
氷が足りない客は自分のグラスに氷を入れ、隣の客に渡す。

それぞれ客同士の手渡しで、氷が回っていく。

この連帯感が、今日もこの店に来ることができて良かったと思わせる。

袖触れ合う隣同士が、カウンターを囲んだ全員が、一つの空間を共有する幸せな時間を過ごすことができた夜だった。



2012年3月24日土曜日

ソクラテスの弁明

手元に、1冊の薄い本がある。

『ソクラテスの弁明』、『クリトン』が1冊になった、岩波文庫だ。

1927年に第1刷が発行された、久保勉が訳したこのプラトンの著作は、紀元前399年ソクラテスは不信心にして、新しき神を導入し、かつ青年を腐敗せしめる者として、市民の各階級を代表する三人の告発者から訴えられ、ついに死刑を宣告されるに至った(1)ときの物語である。

『ソクラテスの弁明』では、アテナイの法廷でのソクラテスの弁明が、弟子プラトンの筆により活き活きと、かつ芸術的に語られている。

『クリトン』は死刑の宣告があった後、獄中においてソクラテスとその忠信なる老友クリトンとの間に交わされたる対話から成っている(2)

ソクラテスの友であるカイレフォンはデルフォイにおもむき、巫女に神託を求めた。

ソクラテス以上の賢者があるか、とカイレフォンに伺いを立てられた巫女は、ソクラテス以上の賢者は一人もいない、と答える。

ソクラテスはこの神託に対し、神は一体、何を意味し、また何事を暗示するのであろうか(3)と考える。

神には虚言のあるはずがなく、ソクラテスは賢者と名高い人に会い、その賢者とソクラテスとどちらが至賢であるかを確かめようとした。

その結果、自ら賢者だと信じている者が賢者でないと分かると、ソクラテスは、あなたは賢者ではないのだ、と説明しようと努める。

その行為が、自らを賢者であると信じている者たちからの憎悪を受け、ソクラテスは捕らえられてしまうのである。

自らを賢者であると信ずる者に会い、そこを立ち去るソクラテスは、独り考える。

とにかく俺の方があの男より賢明であると。

では、何故ソクラテスは、その男より自分の方が賢明であると考えたのであろうか。

ソクラテスは、その男と自分の二人は、善についても美についても何も知っていないと思っている。
しかし、その男は何も知らないのに、何かを知っていると信じている。

これに反してソクラテスは、何も知りもしないが、知っているととも思っていない。

その男は、自ら知らぬことを知っていない。

少なくともソクラテスは、自ら知らぬことを知っているかぎりにおいて、その男より智慧の上で少しばかり優っていると考えるのだ。

要するにソクラテスは、自分は善や美について深く知ってはいない、ということを自覚している分だけ、知ったかぶりをしている男よりは賢明である、と説いているのである。

この一見逆説のような、美しいコンテクストに私は魅了された。

賢者であることの証明が、何も知らない、ということを自覚していることであるというのだ。

これは、カントが、著作『純粋理性批判』の冒頭で述べた、人間の理解を超えたものを考えることは、私の力以上である、と断言していることを彷彿とさせる。

このように、紀元前399年の古代ギリシャでは、ソクラテスが、自らを知らないということについて論考していた。


そして、現代のギリシャ。

2010年に初めて表面化した、財政危機。
デフォルトが叫ばれている。
EUのお荷物、とも。

ギリシャに世界が注目し始めると、お国事情が露呈されてきた。
公務員の数の多さ、給与の高さを私たちは知る。
財政圧縮を許さないために、ストやデモを繰り返す国民。

私は、このギリシャの国柄を初めて知ると、『ソクラテスの弁明』というタイトルが頭を過った。

まるで、現代のギリシャの窮状を、紀元前399年の古代ギリシャのアテナイから、「世界の皆様、ごめんなさい、許してください」とソクラテスが謝っているかのような、「弁明」である。

ソクラテスは、自分は深い知識は持っていない、と自己評価をして、最高の賢者であると評された。

現代のギリシャも、自国がどのような窮状であるかを充分に知った上で、対策を取らなければならない、とソクラテスは教えている。


(1) プラトン著 久保勉訳 『ソクラテスの弁明・クリトン』 解説p.121.
(2) プラトン著 久保勉訳 『前掲書』 解説p118.
(3) プラトン著 久保勉訳 『前掲書』 p.23.

参考文献
プラトン著 久保勉訳 『ソクラテスの弁明・クリトン』岩波文庫 2009年 

2012年2月27日月曜日

カント『純粋理性批判』 ア・プリオリな認識

哲学書の中でも、最も難解である1冊に挙げられるカントの『純粋理性批判』。
この書物には、一体何が書かれているのであろうか。

『純粋理性批判』が扱っているテーマは、実に膨大なものがある。
空間/時間とは何か。自由と必然の関係はどうなっているのか。
形而上学はいかにして可能か。神の存在証明は可能なのか、などなど(1)

形而上学とは、簡単に言えば私たち人間の知識を超えたものに対するスタディである。

神とは何か。宇宙とは何か。世界の始まりとは。心とは。そして存在することとは、どういうことなのか。

難解な『純粋理性批判』を著したカントであるが、彼はこの著作の冒頭で早速と、そのような人間の理解を超えたものを考えることは、私の力以上であると断言している。

世間には、ごく有りふれた形而上学の綱要書のなかでさえ、心の単一性だの、世界の始まりが必然的であることなどを証明する、とうたっているような著者がいくらもいる。しかし私の言分は、このたぐいのどんな著者の主張よりも、くらべものにならぬほど穏やかなものである。かかる著者は、人間の認識を可能的経験の一切の限界を越えて拡張しようとするが、私のほうは、そういうことはまったく私の力以上である、とつつましく告白するからである(2)

このようにカントは、人間の理解を越えたものなど分からないよ、と始めに言っているのだ。
だからと言って、『純粋理性批判』が読みやすい書物である、ということは全くない。

哲学の醍醐味である、単語の意味の再確認に始まり、センテンスの吟味、パラグラフの理解、コンテクストのイメージを充分に浮かばせても、1回の読み込みでは満足したロジックが、私の場合は得られなかった。

当然のことである。
研究者でさえ、一生を『純粋理性批判』とつき合っているのだから。

早々と、本書『純粋理性批判』を解読することを諦めて、入門書を手に取った。
カント研究者である、哲学者・黒崎政男による、「カント『純粋理性批判』入門」である。

これは非常に理解しやすく書かれた入門書、手引書である。
カントのセンテンスを引用しながら、解説を併走させている。
だからといってやはり1回読んだだけでは理解しがたく、私は3回読んでやっと表層を理解した。

黒崎政男は、『純粋理性批判』の魅力とは、〈客観的な認識とは何か〉というテーマであると言う。私たちの認識が客観的であるとはどういうことか。つまり、カントの用語でいえば、〈超越論的真理〉とは何か、という問題である(3)

分かりやすく言うと、〈本当にある〉とはどういうことなのか、つまり、〈在る〉から〈見える〉のか、それとも、〈見る〉から〈在る〉のか、という問題(4)である。

そして、カントの『純粋理性批判』は、対象が認識に従う、という主張をつらぬき通す(5)

これは、ここにコンピュータが存在しているから、私にその存在が可能になる、ということではなく、私がコンピュータがある、と認識したから、ここにコンピュータが(初めて)存在する、と主張する(6)ことに近い。

これを、カントのコペルニクス的転回と呼ぶ。

このような認識、解釈は、哲学書には良く出てくることであるが、哲学と無縁の人は「何だ、これは。」と思うだろう。
コンピュータがそこにあるのに、私がコンピュータを認識しない、と思えばコンピュータは見えなくなるのであろうか。
 私も哲学とは無縁で初めてこの認識に触れれば、おかしなことを言っているではないか、と思わずにはいられない。

しかし独学でも哲学の海を泳いでいると、このような認識に触れることはいくらでもあり、このように思考することが頭の体操のような気になってくるから不思議である。

そうなると、私も一人前の「哲学をする人」の仲間入りだ。

「存在すること」を論考したのは、何もカントが初めてではなく、古代ギリシャのプラトン、ソクラテス、アリストテレス、そして中世スコラ哲学においては普遍論争が有名である。

その時代、その時の哲学者により、さまざまなベクトルで神に近づこうとする。

カントのコペルニクス的転回となった、対象が認識に従うという主張の根底には、ア・プリオリという述語が生きている。
ア・プリオリとは、「より先なるもの」という意味で、具体的に言うと、経験に先立つ、あるいは、経験に由来しない、という意味である(7)

カントは、ア・プリオリな認識を駆使しながら、『純粋理性批判』で存在することを論じ、時間・空間を論じていく。

カントは、『純粋理性批判』を著した時、実に57歳であった。
これを考えると、カントは沈黙の人であり、遅咲きの人でもあったのだ。
正式に大学に就職するのは、1770年、45歳になってからのことである(8)

遅咲き、これは高齢化社会の現代にとって、ありがたい言葉ではないか。
カントのように、50歳を超えてからもますます頑張りたいものである。


(1) 黒崎政男著 「カント『純粋理性批判』入門」p.10.
(2) カント著 篠田英雄訳 『純粋理性批判』p.18.
(3) 黒崎政男著『前掲書』p.10.
(4) 黒崎政男著『前掲書』p.13.
(5) 黒崎政男著『前掲書』p.12.
(6) 黒崎政男著『前掲書』p.12.
(7) 黒崎政男著『前掲書』p.99.
(8) 黒崎政男著『前掲書』p.14.

参考文献
 黒崎政男著 「カント『純粋理性批判』入門」 講談社選書メチエ 2008年
 カント著 篠田英雄訳 『純粋理性批判』上 岩波文庫 2010年

2012年2月17日金曜日

カントから澁澤龍彦へと向かう思考の旅

今年に入ってから澁澤龍彦を再考しようと思い、1月初旬に古書店でユリイカ臨時増刊『総特集 澁澤龍彦』を入手した。

何故私は今年に入ってから澁澤龍彦を再考しようと思ったのか、そこに至るには、少なからず思考の旅があった。

去年の暮れに、なにげなく馴染みの古書店に私はふらっと入る。

特に求めたいものがある訳でもなく、書棚を眺めたり、平積みでぎっしりと置かれているユリイカや現代思想、現代詩手帖などを「発掘」していた。

そこに、『カントのアクチュアリティ(1)という1冊が目に留まる。
柄谷行人や浅田彰など4人の共同討議として、その中に黒崎政男のクレジットが目に入った。

私は黒崎政男の著書「カント『純粋理性批判』入門」で、ア・プリオリに認識することの概念を学んだ。
あくまでも、ア・プリオリの概念の表層を舐める程度に、であるが。

現代の論客4人の中にカント研究者・黒崎政男の名を見つけ、この共同討議が興味深いものに思え、私はこの1冊、『批評空間』を買い求めた。

巻頭から始まる26ページもの、しかも3段組みの中身の濃い討議を熟読していくと、浅田彰が言った言葉が気になってくる。

前後のコンテクストを省略し、以下に引用しよう。

浅田
一般に、ヒュームとルソーの衝撃があって、六十年代以降カントが大きく変わると言われますね。そこでルソーの衝撃のほうをもっと突きつめていくと、(中略)ホルクハイマーやラカンが言ったように「サドと共にあるカント(Kant avec Sade)」というのが出てくるだろう。(後略(2)

更に読み進めていく。

柄谷
でも、坂部さんのカント論を読んだとき、ぼくはなんとなくドゥールーズを考えた。ヒューム-ドゥールーズの線でカントを読む。
浅田
それはレトロスペクティヴな錯覚なんで、さっきも言ったとおり、あの段階では、ラカンやフーコーの言うようなルソー-サドの線に近いカント像だったと思いますよ。(中略)
ともあれ、坂部さんご自身も、それを読まれた柄谷さんも、かつてはカントをルソー-サドの線にひきつけて読まれたのではないかと思うけれども、(後略)(3)

このように、浅田彰はカントを読み解く1つのベクトルとして、サドを引用してくるのである。
前述の浅田彰の言葉にもあるように、カントはルソーの思想に強い影響を受けた。
一方、サドは囚われたバスティーユ監獄の中で、ルソーを読み解いていたという。

ここに登場するサドとは、もちろんサド侯爵のことである。

一般社会では特殊なフィルターをかけられて見られてしまうサドは、思想界・哲学の世界では、思想家としての揺るぎない地位を誇っている。

カントにおける「ルソーの衝撃」には、浅田彰が言う「ラカンが言う、サドと共にあるカント」が背景にあることが、私にとって興味深かった。
そこで、私はサドを読み解くことにしようと考える。

再び馴染みの古書店を訪れて、書棚を眺めた。
サドの文献を探すと、そこには当然のように澁澤龍彦の著作が数多く並んでいる。
私はサドを解釈することに至る前に、日本にサドを紹介した人物と言っていい、澁澤龍彦を再考しようと考えたのだ。

これが、カント― 黒崎政男―浅田彰―サドという思考の海を泳いで澁澤龍彦に到達した、私の旅である。

今年の1月下旬、あるパーティーで世話になっている人から、鎌倉、湘南周辺で家を建てたいから設計をお願いしたいと言われた。
ありがたい話である。
土地から探すので、私は早速鎌倉へと足を運んだ。

江ノ電に乗ると、稲村ガ崎を過ぎて七里ガ浜の手前から海が開けてくる。
東京から訪れた人間がその光景を目にすると、非日常の美しい風景に心を奪われてしまうだろう。

この突然に現れる海の風景も私は大好きであるが、鬱蒼とした鎌倉の森が私は気になる。
鎌倉を訪れるたびに、私は澁澤龍彦と鎌倉を重ね合わせて考えてしまうようになった。

澁澤龍彦は、鎌倉の輝く海よりも、鎌倉の深い森のくぐもった緑の匂いに包まれて暮らすほうが相応しいのではないか。
私は澁澤龍彦の、鎌倉小町の家も、北鎌倉の家も見たことは無い。
しかし、澁澤龍彦―三島由紀夫―土方巽―池田満寿夫―四谷シモンといった交遊録を思うと、鎌倉の海よりも、鎌倉の森を私は想像してしまう。

何回か鎌倉を訪れ、土地を見た。
七里ガ浜の山の頂上に土地があるというので、訪れる。

鬱蒼と茂った、主がいなく手入れを放棄された木々の中に入り、庭に出た。
そこには、大きな空と、遥か彼方まで見渡せる静かな海しか見えない。

私はこういう鎌倉の風景が好きだ。


(1) 柄谷行人+浅田彰+坂部恵+黒崎政男 『共同討議 カントのアクチュアリティ』
(2) 『前掲書』p.8.
(3) 『前掲書』p.18.

参考文献
柄谷行人+浅田彰+坂部恵+黒崎政男 『共同討議 カントのアクチュアリティ』
批評空間 19 大田出版 1998年

黒崎政男著 「カント『純粋理性批判』入門」 講談社選書メチエ 2008年

2012年1月25日水曜日

船戸与一とテキーラの芋虫

我が街荻窪に、訪れるべき名店がまた1軒姿を消す。

「番小屋」は40年も営業した、私の知る限りでは荻窪でもっとも古い居酒屋であった。
今年の3月に、番小屋はその幕を閉じる。
その番小屋を根城として、愛すべき凄い酒飲みがいた。

我が街荻窪を代表する作家といえば、かつては井伏鱒二であろうか。
荻窪駅前の教会通り商店街にある鮨屋を愛し、着流しでその鮨屋に入っていく姿を何度も私は見かけた。

その鮨屋も、既に何十年か前に姿を消している。

その井伏鱒二に弟子入りした太宰治も、一時は荻窪に暮らしていたようだ。
太宰治が暮らしていたという民家は、その古い当時の姿を変えずに荻窪の片隅に今も残っている。

文学界の巨星である井伏鱒二が、荻窪を堂々と歩き人目もはばからず街場の鮨屋に入るように、直木賞作家である冒険小説家・船戸与一も、荻窪の住民に溶け込んで荻窪の街を普通に歩いている。

番小屋は、「お母さん」が一人で切り盛りをしている居酒屋だ。
かつては、若いアルバイトの男の子もカウンターの中に入って働いていた。

そのお母さんを開店前に手伝うのが、「お父さん」である。

お父さんは、船戸与一と同じ小説家であり、作風もハードボイルドである。
スキンヘッドが似合う、ショーン・コネリーを彷彿とさせる風貌をしている。

お母さん、お父さんと家族ぐるみの付き合いをしているのが、船戸与一であった。

私は初めて、番小屋で船戸与一に出会う。
それ以降、船戸与一の魅力に私は惹きこまれていった。

お母さんたち、店の常連たちは、敬愛を込めて船戸与一のことを、本名をもじった名前で呼んでいた。
私は部外者の立場をわきまえて、一歩踏み込んだ中に溶け込みたかったけれども、「船戸さん」としか呼んだことがない。

それが私の礼儀だった。

番小屋に顔を出すたびに、どこの馬の骨かも分からない私にも、船戸与一は心優しく話しかけてくれるようになった。

次第に心は飲み友達のようになって、打ち解けていく。

いつしか私は、船戸与一を私が設計したレストランに連れて行くようになった。
冒険小説家に似つかわしくない、お上品なフランス料理でも、快く付き合ってくれる。

私のバーにも顔を出してくれるようになった。

「おい、堀川。オマエの店で一番高いボトルはどれだ。それを入れるぞ。」
私の店の売り上げを心配して、船戸与一は心優しく、そのひび割れた声で言う。

ある時、番小屋のお父さんと船戸与一は、二人で私のバーを訪れてくれた。
芋虫がまるまると1匹入ったテキーラのボトルを見つけて、それは何だと言う。

グサノロホというメスカルは、テキーラの原料となるリュウゼツランにつく芋虫を1匹、メスカルの中に入れている。
塩を舐めてからライムを口に入れ、テキーラを飲む、その塩がグサノロホには付いていた。
ただし、リュウゼツランに付く芋虫のオシッコを乾燥させてつくった塩である。

そんなことを話しながらメスカルを飲んでいると、おもむろに船戸与一が、その芋虫を食わせろと私に言った。
もちろん、腹が減っているから私に芋虫を食わせろと言ったのではない。

何にでも興味を持ち、自分の作品の舞台となる世界の地に行かないことには、作品を書くことができない、と言う船戸与一。

全て、自分の目で見て、自分で体験したことが、彼の小説の骨格となっている。

その興味がテキーラの芋虫に向けられ、私はボトルの中から芋虫をまな板の上に取り出した。
名を成す小説家にもなると、目の前の芋虫も食ってみないと気が済まないのであろうか。

端から1センチずつ位に切っていくと、白い外観の中からオレンジがかった内臓が見えてくる。
食べやすいように切って出すと、今度は「堀川、オマエも一緒に食え。」と言われてしまった。

一瞬躊躇したが、二人が何の逡巡もなく芋虫を口の中に入れるのを見て、私は覚悟を決めて口の中に入れる。
何の味もしない、ゴムのような食感は、今でも忘れられない。

それよりも、船戸与一と番小屋のお父さんと3人でテキーラの芋虫を食べたことは、誰にでも誇れる仲間意識を私に生み出してくれた。

その番小屋も幕を閉じてしまう春以降、私はどの店で粋な男に出会うことができるのだろうか。

2012年1月3日火曜日

クリエイティブとは、真似をしないこと

「クリエイティブとは、真似をしないこと」
これは、伝説のレストラン、エル・ブリの格言である。

スペインの田舎、カタルーニャ地方の海岸線沿いにある僅か50席のレストランに、年間200万件の予約が入る。

独創的な料理を提供するために、4月から10月までの半年しか営業をせず、残りの半年は新しいメニューの開発に勤しむという。

どの逸話を取っても、伝説のレストランにふさわしい言葉である。

かつては日本のメディアでは「エル・ブジ」とも表記されていたエル・ブリは、フェラン・アドリア率いる素晴らしいチームが運営するレストランであった。

であった、という過去形の表記をしたのは、2011年7月に惜しまれながらも閉店をしてしまったからである。
その閉店は、2年後に料理研究財団として新たに生まれ変わるためのステップだという。

まだエル・ブリの凄さが日本に完全に伝えられていない頃、それでもグルマンやワインフリークの間には、断片的な情報は入ってきていた。

私はかつて、ビルバオのグッゲンハイム美術館を訪れるために、バルセロナからビルバオをブッキングした際にカタルーニャのエル・ブリを訪れようと計画したことがあった。

しかし、冬の閉店時期だったために、それは叶わなかった。

もし、エル・ブリの完全なる凄さが私の耳に入ってきたならば、エル・ブリの開店時期に合わせてビルバオに行っていたかもしれない。

それほどにも、エル・ブリは焦がれて行かなければならないレストランである。

世界規模での訪れるべきレストランやホテルの新しい情報ほど、日本に入ってくることが遅いと、私は痛感する。

今でも鮮明に記憶しているが、アマンリゾーツの最初のホテル、アマンプリがオープンしたときにも、日本に入ってきた情報はごく僅かであった。

今でこそ我が日本の女性たちに大人気のアマンであるが、オープン当初は日本への情報発信がほとんどされていなかった、と言うと、信じられないと言う人がほとんどだろう。

私がプーケットを訪れようとしたときに、銀座にあったアメックスのトラベルカウンターにさえも、アマンプリのヴィジュアルな情報はなく、文字情報だけであった。

最高のラグジュアリーなホテルは、プーケット・ヨットクラブとアマンプリが併記されていて、ヴィジュアルな情報が完備されていた英語表記のプーケット・ヨットクラブよりも、文字情報だけしかなかった現地的な響きのするアマンプリを選んで、私は後悔しなかった。

こうして、オープン当初のアマンプリを訪れることができ、それ以来アマンリゾーツの虜になってしまう。

建築家、ハンス・ホラインに会いに行ったときに滞在したウイーンのシャトーホテル、パレ・コブルグも、まだ日本では誰も知らないだろう。

しかし数年後には、日本でブレイクするはずである。

世界中にある、まだ知らない素晴らしいレストランやホテルを訪れてみたいと思っているのは、私だけではないだろう。

このエル・ブリの、とてつもなく素晴らしい料理の数々を食べることの出来た人は、本当に幸せである。
料理と言う概念を覆した、創造性と斬新なコンセプト。

公開された映画、「エルブリの秘密 世界一予約のとれないレストラン」を鑑賞すると、フェラン・アドリアの生み出す料理は、料理を超えて芸術であることが誰の目にも理解できる。

フェラン・アドリアは、2007年ドイツの現代美術展ドクメンタ12にも参加した。
ドクメンタ12は、20世紀の重要な前衛芸術運動として、ピカソやモンドリアン、マティスを取り上げたり、ヨーゼフ・ボイスの作品を展示したりする、世界でもっとも重要な美術展の1つである。
もちろん、美術展に料理人が参加するのは初めてで、これは世界がフェラン・アドリアを芸術家として認めたことに他ならない。

食材を真空化したり、液体窒素で瞬間冷凍する。

エスプーマという泡立て手法を考案し、医療用のオブラートから食材を包む手法をインスピレーションする。

それは料理というよりは、美しい現代美術にも匹敵する創造物である。

「クリエイティブとは、真似をしないこと」
私たち建築家も、肝に銘じなければならない言葉だ。

参考文献
映画「エル・ブリの秘密 世界一予約のとれないレストラン」 パンフレット