2012年2月27日月曜日

カント『純粋理性批判』 ア・プリオリな認識

哲学書の中でも、最も難解である1冊に挙げられるカントの『純粋理性批判』。
この書物には、一体何が書かれているのであろうか。

『純粋理性批判』が扱っているテーマは、実に膨大なものがある。
空間/時間とは何か。自由と必然の関係はどうなっているのか。
形而上学はいかにして可能か。神の存在証明は可能なのか、などなど(1)

形而上学とは、簡単に言えば私たち人間の知識を超えたものに対するスタディである。

神とは何か。宇宙とは何か。世界の始まりとは。心とは。そして存在することとは、どういうことなのか。

難解な『純粋理性批判』を著したカントであるが、彼はこの著作の冒頭で早速と、そのような人間の理解を超えたものを考えることは、私の力以上であると断言している。

世間には、ごく有りふれた形而上学の綱要書のなかでさえ、心の単一性だの、世界の始まりが必然的であることなどを証明する、とうたっているような著者がいくらもいる。しかし私の言分は、このたぐいのどんな著者の主張よりも、くらべものにならぬほど穏やかなものである。かかる著者は、人間の認識を可能的経験の一切の限界を越えて拡張しようとするが、私のほうは、そういうことはまったく私の力以上である、とつつましく告白するからである(2)

このようにカントは、人間の理解を越えたものなど分からないよ、と始めに言っているのだ。
だからと言って、『純粋理性批判』が読みやすい書物である、ということは全くない。

哲学の醍醐味である、単語の意味の再確認に始まり、センテンスの吟味、パラグラフの理解、コンテクストのイメージを充分に浮かばせても、1回の読み込みでは満足したロジックが、私の場合は得られなかった。

当然のことである。
研究者でさえ、一生を『純粋理性批判』とつき合っているのだから。

早々と、本書『純粋理性批判』を解読することを諦めて、入門書を手に取った。
カント研究者である、哲学者・黒崎政男による、「カント『純粋理性批判』入門」である。

これは非常に理解しやすく書かれた入門書、手引書である。
カントのセンテンスを引用しながら、解説を併走させている。
だからといってやはり1回読んだだけでは理解しがたく、私は3回読んでやっと表層を理解した。

黒崎政男は、『純粋理性批判』の魅力とは、〈客観的な認識とは何か〉というテーマであると言う。私たちの認識が客観的であるとはどういうことか。つまり、カントの用語でいえば、〈超越論的真理〉とは何か、という問題である(3)

分かりやすく言うと、〈本当にある〉とはどういうことなのか、つまり、〈在る〉から〈見える〉のか、それとも、〈見る〉から〈在る〉のか、という問題(4)である。

そして、カントの『純粋理性批判』は、対象が認識に従う、という主張をつらぬき通す(5)

これは、ここにコンピュータが存在しているから、私にその存在が可能になる、ということではなく、私がコンピュータがある、と認識したから、ここにコンピュータが(初めて)存在する、と主張する(6)ことに近い。

これを、カントのコペルニクス的転回と呼ぶ。

このような認識、解釈は、哲学書には良く出てくることであるが、哲学と無縁の人は「何だ、これは。」と思うだろう。
コンピュータがそこにあるのに、私がコンピュータを認識しない、と思えばコンピュータは見えなくなるのであろうか。
 私も哲学とは無縁で初めてこの認識に触れれば、おかしなことを言っているではないか、と思わずにはいられない。

しかし独学でも哲学の海を泳いでいると、このような認識に触れることはいくらでもあり、このように思考することが頭の体操のような気になってくるから不思議である。

そうなると、私も一人前の「哲学をする人」の仲間入りだ。

「存在すること」を論考したのは、何もカントが初めてではなく、古代ギリシャのプラトン、ソクラテス、アリストテレス、そして中世スコラ哲学においては普遍論争が有名である。

その時代、その時の哲学者により、さまざまなベクトルで神に近づこうとする。

カントのコペルニクス的転回となった、対象が認識に従うという主張の根底には、ア・プリオリという述語が生きている。
ア・プリオリとは、「より先なるもの」という意味で、具体的に言うと、経験に先立つ、あるいは、経験に由来しない、という意味である(7)

カントは、ア・プリオリな認識を駆使しながら、『純粋理性批判』で存在することを論じ、時間・空間を論じていく。

カントは、『純粋理性批判』を著した時、実に57歳であった。
これを考えると、カントは沈黙の人であり、遅咲きの人でもあったのだ。
正式に大学に就職するのは、1770年、45歳になってからのことである(8)

遅咲き、これは高齢化社会の現代にとって、ありがたい言葉ではないか。
カントのように、50歳を超えてからもますます頑張りたいものである。


(1) 黒崎政男著 「カント『純粋理性批判』入門」p.10.
(2) カント著 篠田英雄訳 『純粋理性批判』p.18.
(3) 黒崎政男著『前掲書』p.10.
(4) 黒崎政男著『前掲書』p.13.
(5) 黒崎政男著『前掲書』p.12.
(6) 黒崎政男著『前掲書』p.12.
(7) 黒崎政男著『前掲書』p.99.
(8) 黒崎政男著『前掲書』p.14.

参考文献
 黒崎政男著 「カント『純粋理性批判』入門」 講談社選書メチエ 2008年
 カント著 篠田英雄訳 『純粋理性批判』上 岩波文庫 2010年

2012年2月17日金曜日

カントから澁澤龍彦へと向かう思考の旅

今年に入ってから澁澤龍彦を再考しようと思い、1月初旬に古書店でユリイカ臨時増刊『総特集 澁澤龍彦』を入手した。

何故私は今年に入ってから澁澤龍彦を再考しようと思ったのか、そこに至るには、少なからず思考の旅があった。

去年の暮れに、なにげなく馴染みの古書店に私はふらっと入る。

特に求めたいものがある訳でもなく、書棚を眺めたり、平積みでぎっしりと置かれているユリイカや現代思想、現代詩手帖などを「発掘」していた。

そこに、『カントのアクチュアリティ(1)という1冊が目に留まる。
柄谷行人や浅田彰など4人の共同討議として、その中に黒崎政男のクレジットが目に入った。

私は黒崎政男の著書「カント『純粋理性批判』入門」で、ア・プリオリに認識することの概念を学んだ。
あくまでも、ア・プリオリの概念の表層を舐める程度に、であるが。

現代の論客4人の中にカント研究者・黒崎政男の名を見つけ、この共同討議が興味深いものに思え、私はこの1冊、『批評空間』を買い求めた。

巻頭から始まる26ページもの、しかも3段組みの中身の濃い討議を熟読していくと、浅田彰が言った言葉が気になってくる。

前後のコンテクストを省略し、以下に引用しよう。

浅田
一般に、ヒュームとルソーの衝撃があって、六十年代以降カントが大きく変わると言われますね。そこでルソーの衝撃のほうをもっと突きつめていくと、(中略)ホルクハイマーやラカンが言ったように「サドと共にあるカント(Kant avec Sade)」というのが出てくるだろう。(後略(2)

更に読み進めていく。

柄谷
でも、坂部さんのカント論を読んだとき、ぼくはなんとなくドゥールーズを考えた。ヒューム-ドゥールーズの線でカントを読む。
浅田
それはレトロスペクティヴな錯覚なんで、さっきも言ったとおり、あの段階では、ラカンやフーコーの言うようなルソー-サドの線に近いカント像だったと思いますよ。(中略)
ともあれ、坂部さんご自身も、それを読まれた柄谷さんも、かつてはカントをルソー-サドの線にひきつけて読まれたのではないかと思うけれども、(後略)(3)

このように、浅田彰はカントを読み解く1つのベクトルとして、サドを引用してくるのである。
前述の浅田彰の言葉にもあるように、カントはルソーの思想に強い影響を受けた。
一方、サドは囚われたバスティーユ監獄の中で、ルソーを読み解いていたという。

ここに登場するサドとは、もちろんサド侯爵のことである。

一般社会では特殊なフィルターをかけられて見られてしまうサドは、思想界・哲学の世界では、思想家としての揺るぎない地位を誇っている。

カントにおける「ルソーの衝撃」には、浅田彰が言う「ラカンが言う、サドと共にあるカント」が背景にあることが、私にとって興味深かった。
そこで、私はサドを読み解くことにしようと考える。

再び馴染みの古書店を訪れて、書棚を眺めた。
サドの文献を探すと、そこには当然のように澁澤龍彦の著作が数多く並んでいる。
私はサドを解釈することに至る前に、日本にサドを紹介した人物と言っていい、澁澤龍彦を再考しようと考えたのだ。

これが、カント― 黒崎政男―浅田彰―サドという思考の海を泳いで澁澤龍彦に到達した、私の旅である。

今年の1月下旬、あるパーティーで世話になっている人から、鎌倉、湘南周辺で家を建てたいから設計をお願いしたいと言われた。
ありがたい話である。
土地から探すので、私は早速鎌倉へと足を運んだ。

江ノ電に乗ると、稲村ガ崎を過ぎて七里ガ浜の手前から海が開けてくる。
東京から訪れた人間がその光景を目にすると、非日常の美しい風景に心を奪われてしまうだろう。

この突然に現れる海の風景も私は大好きであるが、鬱蒼とした鎌倉の森が私は気になる。
鎌倉を訪れるたびに、私は澁澤龍彦と鎌倉を重ね合わせて考えてしまうようになった。

澁澤龍彦は、鎌倉の輝く海よりも、鎌倉の深い森のくぐもった緑の匂いに包まれて暮らすほうが相応しいのではないか。
私は澁澤龍彦の、鎌倉小町の家も、北鎌倉の家も見たことは無い。
しかし、澁澤龍彦―三島由紀夫―土方巽―池田満寿夫―四谷シモンといった交遊録を思うと、鎌倉の海よりも、鎌倉の森を私は想像してしまう。

何回か鎌倉を訪れ、土地を見た。
七里ガ浜の山の頂上に土地があるというので、訪れる。

鬱蒼と茂った、主がいなく手入れを放棄された木々の中に入り、庭に出た。
そこには、大きな空と、遥か彼方まで見渡せる静かな海しか見えない。

私はこういう鎌倉の風景が好きだ。


(1) 柄谷行人+浅田彰+坂部恵+黒崎政男 『共同討議 カントのアクチュアリティ』
(2) 『前掲書』p.8.
(3) 『前掲書』p.18.

参考文献
柄谷行人+浅田彰+坂部恵+黒崎政男 『共同討議 カントのアクチュアリティ』
批評空間 19 大田出版 1998年

黒崎政男著 「カント『純粋理性批判』入門」 講談社選書メチエ 2008年