2013年8月27日火曜日

はなきちがひの大工

藝術の美は所詮、市民への奉仕の美である。
花きちがひの大工がゐる。邪魔だ。

これは、太宰治の第一創作集である『晩年』の中の、『葉』の一節である。

デコラティブな装飾を造る独りよがりの大工に、藝術とは市民が楽しめる、もっと控えめな美なんだよ、と太宰治が諭していることを、この一節だけを括れば読み取ることができるかもしれない。

しかし『葉』の美しく儚い文体の中で、この挿入された二行は前後の文脈に関連を持っていない。

私と婆様のことを語りながら、幽霊を見た、夢ではないと言って、太宰治はこの二行を挿入する。

直後では、まち子が「あの花の名前を知っている?」と言い、僕は「こんな樹の名を知っている?」と語る。

『葉』の中には、まるでアフォリズムのような挿入句がいくつも散りばめられ、不思議な感覚を持って進んでいくのだ。

『葉』の冒頭では、ヴェルレエヌの句

撰ばれてあることの
恍惚と不安と
二つわれにあり

が挿入され、物語が始まる。

昭和五十一年十版発行の河出書房新社から出ている『文芸読本 太宰 治』は、旧仮名遣いで太宰治の断片を追うことが出来る味わい深いテクストである。

現在、書店で入手できる新潮文庫の『晩年』は現代仮名遣いになっているので、
私は古書店で旧仮名遣いの『晩年』があるかどうかを聞いてみた。

店主はしばらく考えて、奥の倉庫から、年月を経て装丁が綺麗に焼けた一冊を取り出してきてくれる。
その一冊は、私にとって大変珍しい書物だった。

それは、昭和十六年に発行されたオリジナルの砂子屋書房版を完全復刻した、財団法人 日本近代文学館から刊行された『晩年』である。

中を開くと数ページずつくっついていて、ページごとに切り取られていなかった。
製本が乱れていると思い店主に見せると、昔の本はそのように製本されていて、読む前に自分でページを切り開くことを教えてもらう。

読書をする行為が、こんなにも美しい時代があったことを私は知らなかった。

このブログの冒頭で引用した、花きちがひの大工の句は、私の心を奮わせた。
太宰の言う、花きちがひの大工を戒めるのではなく、花きちがひの大工が建築家の私に他ならない。

これから生み出す私の全ての作品は、花きちがひの大工がつくったものでなければならないと、『葉』を読んで私はあらためて強く思った。

河出書房新社の『文芸読本 太宰 治』には、江藤淳、坂口安吾、瀬戸内晴美、埴谷雄高、大江健三郎、もちろん井伏鱒二に至る文壇が、太宰治を綴っている。

その中に、『「走れメロス」と熱海事件』と謳い、壇一雄が一文を寄稿している。
その冒頭を引用したい。

あらゆる芸術作品が成立する根本の事情は、その作家の内奥にかくれている動かしがたい長年月の忍苦に近い肉感があって、それが激発し流露してゆくものに相違なく、それらの作品成立の動機や原因を、卑近な出来事に結えつけてみるのは決していいことではない。

「あらゆる芸術作品」であるから、文学だけではなく、建築も括られると私は思う。

長年月の忍苦に近い肉感、この表現をなぞるだけで、太宰治が生きてきた瞬間を頭の中に浮かび上がらせることができる。

私は太宰治の死を想いながら書かれた壇一雄のこの一文を読み、あるエッセイが頭の中を過った。
しばしば私が引用する、ランボウに向けたジャン・コクトーの一文である。

しかも太宰治の『葉』に引用されたベルレーヌは、一時期ランボオを恋人にしていたではないか。

アルチュール・ランボーのように閉ざされた作品が、シャルル・ボードレールのようになかば開かれた作品やヴィクトル・ユゴーのように広く開かれた作品と同じ資格でこの国に君臨していることは、わが国の一つの名誉である。

中条忍訳の、この名文で始まるジャン・コクトーの『ランボーの爆薬』と題されたエッセイが、いつも私の頭の中で渦巻いている。

ランボーぐらい大きな名声がでると、かならず行き違いが生ずる、行き違いは芸術のあらゆる大冒険につきまとう。お供の犠牲になった多くの人たちはやっきになってある種の傲慢を何時までも持ち続けようとする。この通りすがりの男が重要であったのは、構文の新しい使い方をしたためだということを彼らは考えもしない。

このように、ジャン・コクトーの文は続く。

これ以上、太宰治とアルチュール・ランボオを重ね合わせることには意味がないが、若くして死んでいった芸術家を回想するそれぞれの文を、相乗させられずにはいられなかった。

太宰治の生み出す芸術作品のような建築を、私はつくりたいと思うのである。

参考文献
『文芸読本 太宰 治』  河出書房新社 昭和五十一年十版
太宰 治著 『晩年』   精選 名著復刻全集 近代文学館  
  財団法人 日本近代文学館 刊行 昭和49
『ユリイカ 総特集 ランボオ4月臨時増刊』青土社 1971年