2010年12月25日土曜日

教育者は『エミール』を読んでいるのだろうか。ルソーの「消極的教育」を再考する。

 小学生の児童が、いじめの果てに自殺をしたという報道が駆け巡った。何度となく繰り返される、いじめによる悲劇。しかしまた新しい事件が巷を賑わすと、その悲しさもいつのまにか風化していってしまう。そしてまた同じような悲劇が、私たちを襲う。そのとき、私たちは同じような涙を流すだけだ。

 この報道に接したとき、私はふたたびルソーの『エミール』を手に取った。『エミール』は、よく知られたようにルソーの教育論である。1762年に刊行されたこの古典を、私は現代教育者に参考にするべく提言をしようとするのではない。

 ルソーと教育論との結びつきも、一見きわめて特異なものであり、逆説的でさえある。まず第一に、彼自身、教育を受けた経験がない(1)教育を受けたことのない者が著した教育論に、何故私が惹かれたのだろうか。

 『エミール』は、教育小説ふうの教育論であるが、この教育論はルネサンスのモンテーニュ、ラブレーから、17世紀のロック、フェヌロン、それに同時代のコンディアックなどの近代の人間観の系譜につながり、とくにモンテーニュとロックに深い血縁を保っている(2)

 『エミール』は、後半ルソーの言う「自然宗教」の思想の展開に多くを費やすが、前半に表れるエミールに対する教育の具体的記述に、私は現代においても学ぶところが大きいと確信する。

 エミールとは、ルソーが自分に一人の架空の生徒を与えた、その名前である。孤児としてエミールを設定し、その生徒の教育にたずさわるにふさわしい年齢、健康、知識、その他すべての才能に恵まれていると仮定し、彼が生まれたときから、成人して、もう彼以外の人間によって指導される必要がなくなるときまで、その教育を監督しようと決心した(3)その思想が詳細に現れている。

 この『エミール』前半に現れている重要な思想は、ルソーの提唱する否定的教育、或いは消極的教育である。ルソーは、できるだけ子供の語彙を少なく限るようにしなさい(4)、と言う。これはどういうことかというと、子供が観念よりも言葉のほうを多くもっていると、自分の頭で考えて説明するということに不都合を生じるというのだ。

 これはルソーの独特な考えかもしれないが、あまりに早くから口をきかされる子供は、正確な発音を学んでいる暇も、自分の言わせられている事柄を十分に理解している暇ももたない(5)と述べる。

 反対に、子供のなすがままにほうっておけば、子供はまず、いちばん発音のやさしい音節を練習する。その音節に、少しずつ意味を付け加えて、それを身ぶりによって人に理解させ、あなたの方のことばを受け入れる前に、自分たちのことばをあなた方に伝えるのだ(6)

 要するに、ルソーは子供を過保護にせずに放っておけと言っているのである。それがルソーの消極的教育の原点だ。それにより、子供は「自分で考える」という一番重要なことを、自然に学んでいく。

 けがをしてしまった子供に対しての論考がある。ころんでも、頭にこぶをこしらえても、鼻血を出しても、指を切っても、わたしは驚いて子供のそばに駆け寄ったりしないで、じっとしているだろう(7)とルソーは述べる。

 けがはもうしてしまったのだ。子供がそれを我慢するのは、一つの必然である。実際けがをしたとき、われわれを苦しませるのは、傷そのものよりも、恐れの気持ちなのだ。わたしはせめて、子供にこの二番目の苦しみだけはさせないでおくことだろう(8)、と言う。

さらに引用を続ける。今回の事件の報道に接して、最も私の琴線に触れた一文を挙げたい。

エミールがけがをしないように心を配るどころか、わたしは、彼が一度もけがをせず、苦痛というものを知らずに大きくなったら、非常に残念だと思うだろう。苦しむということは、彼が学ばなければならぬ最初の事柄であり、将来のためにいちばん知っておく必要のある事柄である(9)

私はこの一文を読んで、自殺した児童をいじめた子供には、おそらく苦しむということがどういうことかを知らずに育ってしまったのではないかと考えた。いじめた児童だけではないだろう。自殺した児童には一人で給食を食べさせていたという担任教師でさえ、人間が苦しむということを知らずに教師になったとしか私には考えられないのだ。

ルソーの独壇場が、逆説的論考である。一般の子供を持つ親の思考とは、正反対の論考をしていることは否めない。そしてルソーが『エミール』を著した18世紀後半と、現代とを結びつけて何が得られるのか、という時代の隔たりもあるかもしれない。更に『エミール』の背景には、ルソーが故郷ジュネーブの豊かな自然を想って提唱した「田園的教育」が見える。

しかし私はこの古典から、「苦しむことを知る必要性」がいかに重要であるかを学んだ。はたして、自分がもがき苦しんだ経験がない人間に、人の苦しみなど到底理解できないのではないだろうか。

いじめを起こした児童も、自分が苦しんだ経験が少ないのであろう。だからこそ、あのような悲惨な事件を引き起こしてしまう。

ルソーの言う消極的教育を知り、子供に苦しむことを早くから学ばせることは、250年経った現代でも必要なことではないだろうか。教師だけではなく、小さい子供を持つ親にとって、ルソーの『エミール』を再考することが重要なことであると、私は真剣に考える。

今日は12月25日、クリスマスだ。楽しいことを知らずに死んでいった児童の無念さが悲しい。


(1) 平岡 昇著「ルソーの思想と作品」p.37 責任編集 平岡 昇『世界の名著 ルソー』
(2) 平岡 昇著『前掲書』p.41 
(3) ルソー著 平岡 昇訳『エミール』p.370
(4) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.384
(5) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.383
(6) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.383
(7) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.385
(8) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.385
(9) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.386

参考文献
責任編集 平岡 昇『世界の名著 ルソー』 中央公論社 昭和51年
ルソー著『エミール』(前掲書に収録)

2010年11月27日土曜日

風の匂いを感じた、色彩豊かなファン・ゴッホ展

 ファン・ゴッホを見に、国立新美術館へ行った。夕方、外が暗くなってから訪れる。ホワイエに面した展示室の光壁が、幻想的に柔らかく灯っていた。

黒川紀章の最期の代表作になってしまった国立新美術館は、夜の帳が下りてから訪れると一層楽しめるだろう。外光が燦燦と降り注ぐ日中も、天井の高いボリュームのあるホワイエにそびえ立つ、レストランとなっている逆円錐形の異様が際立っている。

しかし夜はそれが妖しくライトアップされ、展示室の光壁が私に恍惚を誘った。そのフラッシュバックの中で、初めて黒川紀章と遭遇した時のことが頭を過ぎる。

それは学生時代に仲間と訪れた、黒川紀章の事務所のエントランス前での出来事であった。「KISHO N KUROKAWA」とクレジットされたオフィスの壁面に、「このNはなんだろう、紀章の訓読みの頭文字だろうか。」と言いながら立っていると、左の部屋から右の部屋へと本人がエントランスの前を通り抜けて行ったのだ。

その一瞬に、黒川紀章は私たちを鋭いあの眼光で睨んだ。私は怯みながらも、口の上に細い髭を生やしているのを見逃さなかった。後から先にも、黒川紀章が髭を蓄えているのを見たのは、この時だけである。

その後、ソウルオリンピックの選手村のコンペを手伝うようにと、縁があり呼ばれる。夜、外出から戻り、黒いコートと皮手袋をしたままでスタッフの進捗状況を見回るその姿は、ダンディそのものであった。

このファン・ゴッホ展には、オランダのファン・ゴッホ美術館からも多くの作品が来ている。そのオランダのファン・ゴッホ美術館も、黒川紀章の作品だ。もし黒川紀章が生きていたら、この因縁をどのような想いで感じたのだろうか。

哀しいかな、ファン・ゴッホの日本でのイメージは、新宿の超高層ビルの一室の一枚の絵と、ゴーギャンの目の前で自分の耳を切り落とし、最期は麦畑で腹をピストルで撃って自殺した姿だ。そして、生前は絵が一枚しか売れなかった悲劇の人生が付加えられる。

そういうイメージをファン・ゴッホに重ね合わせている全ての日本人は、この展覧会を訪れてほしい。前半の暗い色調の絵から、次第に美しい色彩が溢れる、輝く作品が続く。

私たちが抱いている「悲劇の運命の天才」の姿は、ここでは微塵も感じられなかった。

私は、『花瓶のヤグルマギクとケシ』という作品に注目した。背景の明るいブルーに、白いヤグルマギクと赤いケシが、見事に際立っている。ファン・ゴッホが弟のテオに宛てた手紙の中では、「これほどの色彩の管弦楽法に出会うためには、ドラクロワにまで一気に向かう必要がある」と記されている。(1)


この時期に、ファン・ゴッホは新しい色彩と技法を習得し、独自の静物画を描くためにきわめて個性的なやり方でそれを実践した。(2)

そして私が最も注目したのが、『ヒバリの飛び立つ麦畑』という作品だった。この絵からは「風の動き」が感じられる。そして「風の匂い」までもが沸き立ってくるのだ。

麦が風に揺られ、その少し「くぐもった」青い香りが風に運ばれてきて、画面の前の私に匂い立ってくるではないか。更に無数の麦の穂が風に揺られ、その音がシンフォニーの中の一瞬、軽いドラムの連打のように音を立てて私の耳に確かに聴こえて来る。

ファン・ゴッホは、麦にターコイズ、刈り取られた畑にはピンクを塗った。まだ濡れている下の層に、上から絵具を加えて構図を整えている。明るい色の地面は、下に塗られた薄い絵具層を通して輝いている。(3)

このブログでは、前回「アルチュール・ランボオ」を取り上げたが、そこにジャン・コクトーの文章を引用した。敢えてここでも、再び引用したい。


 これまでたびたびくり返してきたが、われわれの惑星よりも進化したある惑星が創造されれば、恐らくそれはアインシュタインを嘲笑することになるかもしれない。しかし、ヴァン・ゴッホやセザンヌを嘲笑することはなかろう。(4)



 ファン・ゴッホは1890年、37歳で死んだ。アルチュール・ランボオは1891年37歳で死ぬ。同時代、偶然にも同じ年齢で狂いながら死んでいった二人の天才芸術家がいた。

私は、決してファン・ゴッホが哀しい人生を送ったとは考えていない。画家として無名のままで逝ってしまったファン・ゴッホだったが、牧師の家に生まれ、後に画商となった弟・テオに勧められ画家になることを決心する。ロートレックやゴーギャンと邂逅し、画家としての自分の道をしっかりと進んでいった。

対象とする花を買う金にも困り、夏は静物画ではなく風景画を描かざるおえないほど困窮していたが、いつも弟・テオが生活費の面倒を見てくれていた。そこには、芸術家の濃密な人生に満足している自分があったのではないだろうか。そうでなければ、2000枚もの作品を残せる訳がない。

しかし、ファン・ゴッホは自分にストイックになりすぎて、作品のために人生を賭けすぎてしまい、理性を壊してしまった。

ある意味ファン・ゴッホの作品は、精神的な面から考えると弟・テオとの共同作業のようなものなのかもしれない。その弟・テオは、ファン・ゴッホが麦畑で自殺したわずか3ヵ月後に入院する。その年の初めにテオと妻ヨーとの間に息子が生まれたばかりだというのに。

そして兄、ファン・ゴッホが自殺してから半年後、自らも病院で死んでいった。あまりにも哀しいのは、弟・テオの方ではないか。

芸術家には、眩しいくらいの輝きと、それに反転する暗い影が付き纏う。それが天才を極めれば極めるほど、眩しさが突き抜ければ突き抜けるほど、影は暗闇に近づいてしまう。

『ヒバリの飛び立つ麦畑』は、いつまでも風の匂いと音を私に届けていた。


1 『没後120年 ゴッホ展』図録 p.104
2 『前掲書』 p.104 
3 『前掲書』 p.112
4 『ユリイカ』 総特集 ランボオ 1971年4月臨時増刊号 
  p.9 「ランボオの爆薬」 ジャン・コクトー/中条忍訳 青土社


参考文献
『没後120年 ファン・ゴッホ展』図録 
『ユリイカ』 総特集 ランボオ 1971年4月臨時増刊号  青土社




  

2010年11月10日水曜日

たった4年間の詩人 アルチュール・ランボオの死に様

 今日11月10日は、稀有な詩人アルチュール・ランボオがマルセイユで右足を切断された後に死んでいった日である。野垂れ死にである。1891年11月10日、37歳だった。

1873年7月10日。ランボオは恋人の男色家詩人・ヴェルレーヌに、恋愛沙汰の末に拳銃で右手首を撃たれる。ランボオ、僅か19歳の夏の出来事である。

1874年3月、ランボオ20歳の時に『イリュミナシオン』執筆。それ以降実質的に詩を放棄し、灼熱のアフリカに渡り武器商人となり金銭に翻弄される。

私はランボオを追った無数の文献から1冊を手にする時に、そこにランボーと表記されているより、ランボオと刻まれているほうが好きだ。

ランボオは、僅か4年間の詩人だった。その4年の短い間に、数え切れない幾多の研究者を追従させてしまうほどの、世界を震撼させる狂気の詩を生み出した。「その短い4年の間に」ではなく、「その短い4年の間だけ」と記述するほうが正確かもしれない。

狂気を孕む芸術を生み出すには、どれだけ自分が狂気に近づかなければならないのだろうか。それともランボオやニーチェのように、自分自身が狂気の世界に入ってしまわなければ狂気を生み出すことはできないのだろうか。

ランボオの生き様を見ると、「天才」は自由奔放に生き多くの人間に迷惑をかけても許される人種のような気がする。常に周囲に迷惑をかけながら、放浪への脱出をいつも試みて、母親から逃れようとしていた。いや、母親からの逃避だけではないだろう。

ランボオが生まれ育った北フランスのシャルルビル。パリからシャルルビルへ向かう途中に、ランスがある。シャンパーニュで有名なランスは、寒さゆえに葡萄の熟成が悪く、自家消費用の白ワインも品質が悪かった時代があった。消費されずにいるワインを放っておいたら自然に二次発酵をおこしてしまい、現在のシャンパンの原形が出来たという逸話もあるほど、気候には恵まれていない。

そこから更に北上しなければ、ランボオが生まれ育ち、何度も故郷を捨てようとしたシャルルビルには到達しない。ランボオは母親から逃避しようとし、そして寒々とした故郷を捨て、最後には灼熱のアフリカを目指してしまった。

天才の母親というのは、何て哀れなのだろうか。太宰治がそうであるように、ランボオは放浪し資金が底を突くと、親に金を無心する。母親は諌めながらも、ランボオに融通する。何度も故郷に召還されながらも、その都度母親から逃げようとしたランボオ。

 その母親は、息子が好き勝手生きた代償として腫瘍のために右足を切断するという電報を受け取ったとき、どのような気持ちになっていただろうか。

 私は『ユリイカ』1971年4月臨時増刊号「総特集 ランボオ」を参照しながら、この文を書いている。その巻頭に、ジャン・コクトーの興味深い文章が掲載されていた。

   アルチュール・ランボーのように閉ざされた作品が、シャルル・ボードレール
   のようになかば開かれた作品やヴィクトル・ユゴーのように広く開かれた作品
   と同じ資格でこの国に君臨していることは、わが国の一つの名誉である。



 ランボオはボードレールを貪り読んでいたが、コクトーによるこの比較は素晴らしい。そしてコクトーでさえ、ランボオを「閉ざされた」と評しているのだ。

 更に、コクトーの美しい文章を引用したい。

 ランボーぐらい大きな名声がでると、かならず行き違いが生ずる、行き違いは芸術のあらゆる大冒険につきまとう。
お供の犠牲となった多くの人たちはやっきになってある種の外観を、ランボーのある種の傲慢を何時までも持ち続けようとする。この「通りすがりの男」が「重要」であったのは、構文の新しい使い方をしたためだということを彼らは考えもしない。(中略)
   これまでたびたびくり返してきたが、われわれの惑星よりも進化したある惑星が創造されれば、恐らくそれはアインシュタインを嘲笑することになるかもしれない。しかし、ヴァン・ゴッホやセザンヌを嘲笑することはなかろう。
   分析や科学の進歩ではつかめぬある力が支配するこの分野で、アルチュール・ランボーは一つの素晴らしい爆薬を、つまり、勇壮や武器に関する既存の考えに対立する一響の春雷を、一つの武器を、一つの勇壮を代表している。(後略)
            (「ランボーの爆薬」 ジャン・コクトー/中条忍訳 文中「」は筆者による) 



 ランボオを知らなくても、コクトーが好きでなくても、この珠玉のセンテンスを読めば心が揺さぶられるはずだ。巻末の山口佳巳が編纂した「アルチュール・ランボオ詳細年譜」の頁に、ジャコメッティ、コクトー、ピカソが描いたランボオ像が挿入されている。

 ジャコメッティは、ランボオを線の濃淡だけで描く。ピカソは、その若い時代そのものの素晴らしいデッサンで、写実的にランボオを浮かび上がらせた。そしてコクトーは、いつものように背景にギリシャ神話の美男子を組み込んだ。

 たった4年間の詩人がこれほどまでに世界を坩堝に巻き込んだのは、男と恋愛をして19歳の若さで拳銃で撃たれからだろうか。
 詩を放棄して灼熱のアフリカで武器商人となったからなのか。
 梅毒にかかり腫瘍を併発して右足を切断されても尚、南を目指し旅をしようとしたからなのか。
 その驚きの人生全てを生きたからだろうか。

       子供たちには酸い林檎の肉よりももっと甘い
          緑の水が、樫材のおれの身体にしみわたり、
          安酒のしみ、へどのあとを洗いおとし、
          舵も錨も、ちりじりに流し去った
                     (粟津則雄訳 『酔いどれ船』より)

参考文献
『ユリイカ』 総特集 ランボオ 1971年4月臨時増刊号  青土社


   

2010年10月23日土曜日

もの派、そして前衛の意識とは

上村松園展で賑わう竹橋の東京国立近代美術館へ、常設展で展示されているコレクションの「ある作品」だけを鑑賞するために足を運んだ。吉田克朗のドローイングが展示されていると教えられたのだ。
会期をあと2日に残したその日も、上村松園展のチケットを求める人々が30分待ちの札を掲げる列を作っていた。 

列を整理している担当者に常設展だけを鑑賞したい旨を伝え、列に並ばずにエントランスホール内の受付カウンターでチケットを求めて2階の展示ホールに直接向かう。
常設展は所蔵作品展として、『近代日本の美術』と題し4階・3階・2階と展示ホールを巡る構成になっていた。2階は、「現代美術 1970年代以降」のフロアーである。

私の目指す吉田克朗のドローイングは、そのフロアーの一角の展示室で『手探りのドローイング』と題され、他の2人のアーティストと共に展示されていた。吉田克朗は1970年代に日本の美術史に大きな爪跡を残した、「もの派」の中心人物である。

2010年の現在にもの派を語ろうなどと言えば、「なんだ、それは」と言われかねないほど時代は加速していってしまった。
ここで私の言う「加速」とは、もの派の時代の1970年代から現在の2010年の、40年間もの時間のベクトルを指しているのではない。

もの派の語る、これ以上ない存在感を示す素材たち。圧倒的なボリュームと重量感で私たちに迫ってくる。
私がその片鱗に触れ驚愕したのは、1991年10月に上野の東京都美術館で開催された『構造と記憶』展だった。そこでは戸谷成雄、剣持和夫、遠藤利克の3人の作品が、私に衝撃を与える。

私は処女作を1988年に完成することができ、建築家として道を歩み始めたばかりだった。その頃はまだ建築だけの視野しか持つことが出来ず、美術全般への興味を持っていたが作品を眺める余裕などなかった。
私は自分の追い求める造形と共に、素材の持つ魅力を建築にフィードバックしようと、一生懸命に格闘していたような気がする。

その自分の追及するベクトルと同じ向きを向いていたのが、「ポストもの派」と呼ばれる3人の作品だった。偶然とは恐ろしいもので、私は見るべきものに導かれて東京都美術館に足を運んだのかもしれない。

1960年代・70年代のコンセプチュアルな前衛芸術を否定しようと、「素材の持つ力」を表現しようとしたのが「もの派」であると言われている。
その系譜を受け継いだ「ポストもの派」と呼ばれる3人の作品を東京都美術館で見たときに、私はこれこそが前衛であると感じた。

鑑賞者の意識を混沌とさせる細工などを持たず、原点に帰り「素材の持つ力」だけで私たちに圧倒的な迫力で語りかけてくる。
これが前衛でなくて、何が前衛なのだろうか。

前述した「時代の加速」とは、時間のベクトルではなく、表現のベクトルを言っている。建築でいえば、「建築を消していく」作業が時代の潮流の先端ということなのだろうか。
そこにはここで私が今まで語ってきた「素材感」以上に、「存在感」をも消したい、という意識が働く。

その流れの中で埋没しないためにも、私は吉田克朗のドローイングをあらためて見る必要があった。それらは白い紙の中に、暗闇を生み出そうとするかのようにボリュームをつくっていた。

前衛は、いつまでたっても前衛のままでいるはずだ。時代の流れがどのように流れようとも、その流れの中から切っ先を立てて頭を出している、川の中の尖った岩が前衛である。
川の流れは何千年と岩に当たりながら、岩を細くしようとする。しかし決してその岩は消滅することはない。

吉田克朗のドローイングを見て、これからの私の歩むべき方向をあらためて確認した1日だった。

 

2010年9月30日木曜日

荒木経惟の「エロース」と「エロス」の考察

 ある日、銀座のライカショールームから1通の招待状が届く。それは写真家・荒木経惟の写真展のオープニングパーティーの案内だった。ライカはショールームで購入したプロパーの顧客のために、併設された小さなギャラリーで開催される写真展のレセプションの招待を毎回行っている。

私は建築家ハンス・ホラインに会うために銀座のライカでM8を購入し、その数日後にウイーンに旅立った。2年前のことである。それ以来今までに届いた招待状を開封しても、私は一度も展覧会に足を運んだことはなかった。

しかし今回は荒木経惟である。私はこの狂気を孕んだ写真家に是非とも会いたくなった。

去年、建築家ザハ・ハディッドがデザインし香港から日本に到着したシャネルのモバイルアートギャラリーを、原宿に見に行ったことがある。その有機的な空間の一角には、荒木経惟の写真が鎮座していた。それは世界で評価されている荒木経惟の一端に他ならなかった。

荒木経惟は、日本を代表し世界の文化的フィールドで活躍する写真家となっても、「エロス」を捨てないでいる。私が荒木経惟を前述で、「狂気を孕んだ写真家」と最大限の賞賛をした所以がここにあるのだ。「文化人」となってしまっても、その両極の果てにあるフィールドで生きている狂気。

私はこの荒木経惟の生き方を見ると、田中美知太郎の名著『プラトン「饗宴」への招待』での一節を想い出さずにはいられない。

プラトン40代後半の著作である『饗宴』は、プラトン中期の作品に位置付けられる。研究者によれば、中期作品群のソクラテスは著者であるプラトン自身の見解を表明するものであると考えられている。(1)ということは、『饗宴』は完全なるプラトン哲学の「哲学書」に他ならない。

しかしアガトンの邸宅で催された酒宴を、神話から得たミュトス(物語)を挿入しながら「エロース」について語り合うこの「哲学書」は、プラトンの他の著作と一線を画した素晴らしい物語であると、私はには感じるのだ。

そのプラトンの物語を、初心者にも理解しやすく語ってくれているのが、NHKのラジオ放送を纏めた田中美知太郎の『プラトン「饗宴」への招待』である。ラジオの向こうにいる聴取者に、分かりやすく話した口語体をそのまま活字にしたこのテクストは、今や古典となってしまっているが是非一度手にしてもらいたい名著だ。頁を捲っていると、田中美知太郎が自分に語りかけてくれているような気持ちになってしまう。

『饗宴』は、アガトンの邸宅に集まったソクラテス他、パイドロスからアルキピアデスまでの「エロース」に関する演説をプラトンがそれぞれ浮かび上がらせているのだが、その「エロース」に関して田中美知太郎は放送の中で注釈を付けた。

ソクラテスたちが語り合う「エロース」は、美の総称でもあり、私たちが日常接する世俗的な「エロス」とはニュアンスが微妙に違う、ということを田中美知太郎は『饗宴』の理解のために説明をしている。

私は荒木経惟の写真展を見て、あらためて田中美知太郎の上述のパラグラフが頭に浮かんだ。まさに荒木経惟は、「エロース」と「エロス」の両極の世界で仕事をしているのである。

シャネルを相手に、そして世界をフィールドにして活躍する荒木経惟のメタファーが、プラトンがソクラテスに語らせた「エロース」ではないだろうか。一方「エロス」は、巨匠となってもいまだに週刊誌のグラビアで人妻の崩れかけたヌードを撮り続けている荒木経惟の姿である。

ライカの写真展では、美しいモデルの写真の間に敢えて豊満な女性のヌードを配置して展示をしている。妊娠しているのか、と見まがうほどの豊満な裸の女性の美しさを、荒木経惟は会場で熱心に語った。

美しい顔立ち、均整の取れた女性だけが、美の対象ではない。全ての女性の持っている美しさと「エロス」を、荒木経惟は写真で導きだそうとしているのだ。

文化を生み出す仕事と併走して、荒木経惟は好んで「エロス」の海へと入っていく。たぶん、荒木経惟はこのように言われるのを好まないだろうが、私には聞こえてくるのだ。

「世界の文化人なのだから、今さら『エロス』のフィールドで仕事をしなくてもいいのに。」

しかし荒木経惟は前衛だからこそ、このスタンスを永遠に崩さないだろう。気の利いたフィンガーフードと共にルイ・ロデレールのシャンパーニュがふんだんに振舞われた会場で、「また病院に戻らなければならない」と言う荒木経惟を私は引きとめて、買い求めた写真集にサインを貰った。

エスコートした女性をカメラに収めるべくライカのコンパクトカメラを手にすると、「皆ライカなんだ。この女性、貰って帰ってもいい?」と私に素敵な軽口を叩く。

そこには、これからも前衛を貫いていく荒木経惟のしっかりとした姿があった。ルイ・ロデレールのシャンパーニュのほろ酔い加減に、崩れた女性も美しいのなら、建築も崩れた方が美しいのだということが頭を過ぎる。そして建築界に荒木経惟はいないことに気がつく。これからも更に、狂気と前衛を求めていかなければならないことを確信した銀座の夜だった。


(1) 朴 一功『饗宴/パイドン』p.366

参考文献
1 田中 美知太郎『プラトン「饗宴」への招待』 筑摩書房 昭和49年
2 プラトン『饗宴』(プラトン『饗宴/パイドン』朴 一功訳 京都大学学術出版会 2007年) 

2010年8月12日木曜日

ルソーの生き方に学ぶ

 相変わらず、我が国の年間自殺者数は3万人を下回ることはない。1日100人。他者との関係に疲れ、経済という魔物に苦しめられ、尊い命を自ら絶っている人が何と多いことだろうか。

 その苦しみは、苦しんでいる本人以外の他者には、どれだけのものであるかは分からない。周囲の人がいくらきれい事を言っても、本人にとっては「勘弁してくれよ」というぐらいの、余計なものでしかないはずだ。

 責任感が強く、真面目な人ほど、その責任をまっとう出来なくなると自ら命を絶つという。もっと気楽に生きればいいのに、という言葉は、彼らにとっては私たちの戯言でしかない。性格や気分を変えることができるのならば、とっくにそうしていたはずだ。

 だが、それでも私は気楽に生きて欲しいと言いたい。人間の生きることへの尊厳は、無限の可能性を秘めていると信じているからだ。

 フランス革命に大きな影響を与えた思想家、ジャン・ジャック・ルソーが青年期をどのように生きてきたのかを知ると、私たちは非常な驚きを感じるだろう。

 ルソーは、『学問芸術論』で幸運にも世に出た。その後、『人間不平等起源論』で思想家としての地位を固める。『学問芸術論』では、学問・芸術の有用性を「学問と芸術の追求しているのは、無益で無内容な研究であるばかりか、悲惨な結果を生み出す代物である」として、自分の論を展開する。もちろんこれはアイロニーからのロジックであり、このような否定から入る論述がこの後の著作にも現れ、それがルソー特有のものとなっていく。ニーチェがルソーのことを、「カテリーナ的知的権謀術師」と言わしめた所以である。

 さて、この「知的権謀術師」を彷彿とさせるルソーの思想は、青年期までのルソーの生き方、周囲の環境によって形成されたのではないかと私は想像するのである。ルソーの生まれた当時のジュネーブは独裁国家であり、大多数の平民はこの国に住んでいることを歎いていた。警察は厳しく、密告を奨励してはばからず、ジュネーブ市民の家に引っ切り無しに踏み込んでいった。

 そのような時代の中で、ルソーの母はジュネーブ人を美徳へと導いていた長老会議で、保護観察処分を受けていたという。男装して芝居を見に行ったカドで告発され、命じられた出頭を拒否して「要注意人物」ともなった。

 ルソーの父もケンカ口論を起こして、3回も長老会議の厄介になった。ジュネーブには珍しくない時計職人だったが、その仕事に嫌気が差し、ダンス禁制の町でダンスの教師になって若いイギリス人にダンスを教えた。

 ここまでが、ルソーを生んだ土壌である。このような気概の人物から生まれたルソーが、どのような少年期、青年期を送ったのかは想像に難くない。

 ルソーは就いた仕事にすぐに飽き、職を転々とした。書記の仕事、彫金の仕事に飽きると、ヴァランス夫人というカトリック擁護者の愛人になる。年上の資産家の愛人になる若い青年、という図式は、生活の面倒も見てもらうということに他ならない。そう、常にお金に困っていたルソーは、この後も生活のためにすべからく生きていくのである。

 その後神学生になり、神学校に通ったのはわずか2ヶ月であった。さらには教会聖歌隊の寄宿生となった。その後、音楽の知識はあやふやなのに、自分の名前を変えて音楽教師となる。その後も数々の家庭教師、地積調査員、伯爵秘書などを、生活のために行った。

 そして「ギリシャ正教の大修道院長」といったペテン師がルソーの前に現れ、なんとルソーは、そのペテン師を自分のパトロンにしてしまうのである。

 女性関係も、常套ではなかったようだ。パリで同棲した宿屋の女中との間にできた子供を、孤児院に入れてしまう。現代とルソーの生きた18世紀とでは、常識的な感覚が異なっているのかもしれないが、自分の子供を孤児院に入れる気持ちはどのようなものであったのだろうか。しかも1人ではないのだ。その後も4人の子供をつくり、全て孤児院に入れてしまう。

その後も、ルソーの女性遍歴は続いた。生活に困るとヴァランス夫人のもとへ戻るのだが、新しい愛人がいて追い出されたということもあったようだ。

ルソーが生活に困るのは、いつものことだった。生来の移り気のために職を転々とし、失敗の絶え間もなかった。それでもルソーは偉大な思想家になっていくという驚嘆はあるが、私が言いたいのはそこではない。

私が冒頭で自殺者の数に触れ、そしてルソーの生き様を引用したのは、ルソーのいいかげんな生き方を知ってもらいたいということなのである。

ルソーの青年期までの生き様を見ると、私たちが欲望に忠実に生きてきた、後悔すべき生き方其の物ではないか。しかし私はこれで良いと思う。誰だって、自分の思った通りの生き方なんてできるはずがないのだから。でもその人生に失望することは決してしないことだ。

誤解を恐れずに言えば、生活に困れば誰かの愛人になればいいではないか。ルソーは生きるための大いなる活力を持っていた。自分の性格を修正することはできないから、その活力で自分の失敗をリカバリーしていたのである。

死を見つめて崖っぷちにいる人は、ルソーの生き方を是非参照してもらいたいと思う。その適当さを知り、気楽に人生を見つめ直して欲しい。私が参考としたD.モルネ著 高波 秋訳『ルソー』ジャン・ジャック書房 は、とても読みやすい文章でルソーの思想を説いている。是非一読を薦めたい。

参考文献
D.モルネ著 高波 秋訳『ルソー』 ジャン・ジャック書房 2003年

2010年7月13日火曜日

背徳のワインの楽しみ方とは

 ワインにはヴィンテージという、他の酒にはない記号が存在する。葡萄の収穫年を記し、ワイン好きにはその年の出来不出来が一目で分かり、それにより同じワインでもヴィンテージにより価格が大きく異なる場合がある。一般的なヴィンテージの捉え方は、概ねこのようなものだろう。しかし私は、別のアプローチでヴィンテージを愉しむことにしている。

赤ワイン、特にタンニンが豊富で長熟に耐えられる力強さを持ったワインは、私にとっては一種のタイムマシーンである。その年に収穫された葡萄でつくられたワインがセラーで深く眠り、生き耐えながら、例えば50年経った現在に偶然の縁で私の前に鎮座する。

今このボトルの中には50年前の液体が封印されているのかと思うと、ワインという飲み物がただの嗜好品を超越した存在として感じてしまう。このコルクを開けた瞬間に 、50年という歳月が目の前に展開されてくるのだ。
時間や空間を考える学問が哲学だとしたら、このようなワインの思考はまさに哲学に他ならないであろう。

私はいつしかオールドヴィンテージのワインを愉しむようになって、背徳の気分を味わうようになった。その年に生産されたワインには限りがあるのだから、年々消費されて残されているワインの数量は減少していく。ある程度の量がリリースされたワインも、50年、80年経てば、世の中に残された数量も僅かなものになってしまうだろう。

50年、80年経ったワインに少しでも歴史を感じてしまったら、これを飲んでしまって良いのだろうかと、一瞬躊躇してしまう。飲んでしまって、この歴史という時間を無にしてしまっていいのだろうか、そういう背徳を感じてしまうのだ。

一方、オールドヴィンテージのワインに対峙して、私は私の時間軸を考える。生きている、限りのある時間の中で、さらにワインに接することのできる短い時間をイメージする。それであれば、できるだけ自分にとって価値のあるワインの愉しみ方をしたほうが悔いが残らないであろう、そのように私の思考は帰結する。

このロジックに導かれ、私はオールドヴィンテージのワインを求めるようになった。100年前のワインを開ける背徳感、これはもう、エクスタシーに通じてしまう。人間が生きられない100年という時間を、ワインはボトルの中で生き続けている。コルクを慎重に開け、100年前の液体をグラスに注いだときには、遥かなる時間の宇宙が五感に広がる。

かつてパリの3つ星レストラン、「ギーサボア」に足を運んだことがある。日本人のグルメにも人気のあるこのレストランのワインリストは、とても重厚で厚かった。そこでは多くのワインに混じり、なんと1916年のポマールがオンリストされているのを私は見つけた。ギーサボアの中でも、最もオールドヴィンテージのワインである。

私はソムリエに、こんな古いワインが飲める状態なのか、ましてや料理に合わせられるポテンシャルを持っているのかどうかを聞いた。ソムリエはテイスティングをしたことないから、分からないと言う。ボトルをセラーから持ってきてもらい、その表情を暫く眺めた私は、状態が悪くても買い取るから開けて欲しいとリクエストをしてしまった。

ソムリエが慎重にコルクを抜栓して、テイスティングをしてから私に言った言葉は今でも忘れられない。フランス人の彼が英語で一言、「パーフェクト」と力強く言ったのだ。
100年経っていても果実味がしっかりと残り、余韻がふくよかで、レンガ色の液体から訴えてくるアロマが素晴らしかった。
その後は背徳を飛び越えて、人生の至福の時間を過ごす。厨房で腕を振るっているサボア氏本人に客席に来てもらい、1916年のポマールを一緒に味わった。そのことは昨日のように今でも思い出される。

1916年といえば、大正5年で第1次世界大戦の最中である。その後の様々な時代の変革をくぐり抜けてきた、たかだか1本のワイン。たかだか1本のワインであるが、そのワインに隠された歴史や時間の宇宙を想像し味わうことが、私の背徳でありエクスタシーであるのだ。このワインの愉しみ方を知ってしまうと、新しい世界が広がっていく。
そうは言っても、いつものデイリーワインをおいしく飲んでいるのは、紛れもなく私がソムリエの顔も持っているからなのである。





 

2010年6月30日水曜日

「街並み不要論」 都市の街並みは誰がつくるのだろうか 

 建築家として仕事をしていると、必ず「街並み」という言葉が付いて回る。特に住宅を設計して街と向き合っていると、クライアントから言われるのではなく、有識者たちが「街並みのコンテクスト」について言及してくる場面がとても気になる。それは京都などの歴史的街並みを持った都市の中ではなく、東京の雑多な建築の集積の中であってもそうだ。

 この「街並み」という、一見お行儀の良さそうな記号を使えば、都市について論考しているような気になってくるのかもしれない。果たして、京都のような風致地域や歴史的都市以外のそれぞれがそれぞれの価値観だけでつくりあげられた猥雑な都市の街に、私たちは「街並み」を必要とするのだろうか。

これは、ルソーが『学問芸術論』などで言い回した「逆説」や「アイロニー」からの論考ではない。建築家であれば不可侵の、誰もがその「お行儀の良さ」を認めている「街並み」に対しての、「街並み不要論」として述べているのである。

 そもそも雑多な集積の都市の中に、街並みを持ち込んでコンテクストを作ろうとすること自体間違っているのではないか。「街並み」という記号から導かれるイメージは、美しい街、気持ちのいい街、整然とした街、などが挙げられるだろう。私たちが生活している街を、それこそこのような文脈に沿って論考しようとすることは、思索の上では可能である。しかし、建築家や都市計画家たちがアカデミックな立場から線を引っ張っていく結果を、私たちが街として現実に見ている訳ではない。

では、一体誰がこの街並みをつくっているのであろうか。都市の猥雑な街並みをつくっているのは、建築家でも都市計画家でも、それに付随する有識者の誰でもない。それは、建て売り住宅業者と不動産業者なのである。この現実を前にして、彼らを責めている訳ではない。彼らは彼らのやり方で、この社会を生き抜いているのだから。

 彼らはまるでゲリラのように土地を細分化しながら、商品としての住宅を売り捌く。もし仮に50坪の土地が入手できたならば、迷わずに25坪ずつの2分割を行うだろう。50坪の土地の建て売り住宅では、価格が高く手を出せる世帯が少ないという大義名分の影には、分割して数を増やした方がトータルの利益が出るというロジックが潜む。

 更に踏み込んで言及すれば、できれば土地の上に住宅など造らないで土地だけの転売で早く売り抜けたいというのが、大多数の本音だ。上に住宅を造ればその分いらぬ金がかかるし、工事期間が鬱陶しい。そして何年ものクレーム処理に走らなければならなくなってしまう。

 こう述べると、まるで多くの建て売り住宅業者は、土地を売るために住宅を乗せているだけではないか、と思われるだろう。その通りであると思われてもしかたのない状況なのだ。競売や任意売却などで入手した土地が、そのまま売り抜けられる良い仕入れであれば、転売を試みる業者は多いはずだ。良い仕入れとは、あらゆる手段を講じ安く入手できた土地である。それをできればエンド(彼らは実際にその土地を利用し、住むであろう一般購入者のことをそう呼ぶ。)に高値で売りたい。そしてそうでない土地は、まずプランを付けて売ってみる。プランといっても、私たち建築家が言うプランとはかけ離れた、パズルの間取り図だ。ここで売れないと、ようやく付き合いのある建て売り住宅専門設計屋に設計を依頼する。

 1棟の設計料は、確認申請込みで仕上げ表を付けた設計図書を10枚程度作成し、おおよそ50万円前後だろう。そして施工坪単価35万円程度の木造住宅が出来上がる。彼ら建て売り住宅業者や、不動産業者には、知的生産料の重要性は必要がない。住宅が出来上がるまでの設計料などは、できればいらぬ経費であり、1円でも安くしたいのが本音だ。

 何度も言及するが、多くの建て売り業者や不動産業者の悪口を言おうとしているのではない。建築家として、憂いているだけなのだ。全部とは言わないが、多くの建て売り住宅業者の土地入手から住宅販売のフローは、上述したような流れである。そして、建築家が関わる住宅をヒエラルキーの頂点とすると、その下にハウスメーカーなどの注文住宅があり、最もボリュームの多いゾーンに建て売り住宅が輝いている現実がある。

あらためて考えると、「注文住宅」という言葉は何ていう不適切なニュアンスを響かせるのだろう。そもそも住宅とは、注文して建てるのが当然であると言ってしまいたい。

さて、このようなロジックで街並みに建て売り住宅がスプロールすると、建て売り住宅業者や不動産業者が街並みを生み出し、都市計画家の役割を担っていると言えるではないか。それ故に猥雑で、ある意味魅力的な街並みが生まれてしまうのだ。もちろん、建築の文化を考え、街並みを美しく考えようとしている、素晴らしい建て売り住宅業者や不動産業者がいることも忘れてはならないことを、この「街並み不要論」の最後に付加えたい。

2010年6月15日火曜日

ニーチェの芸術論 アポロンとディオニュソス

 私と同じように哲学の専門教育を受けていないが、哲学が好きで、哲学を自分で探求している人は意外と多い。そういう哲学好きの人が、たまにふらりとバーの扉を開けてくれる。先日もウエブサイトで哲学とバーで検索し、初めてこのバーに足を踏み入れてくれた人がいた。
 そのW氏が薦めてくれたのが、アンドレコント=スポンヴィルという哲学者の『資本主義に徳はあるか』という著作である。私はスポンヴィルという哲学者を知らなかったし、その著作にも触れたことはなかった。このありがたいサジェスチョンから、スポンビルの思想に触れることが楽しみだ。
 独学で哲学を思索していると、研究者のように幅広い知識や情報を得ることができない。私は恥ずかしくもなく、知らないことを知らないと言うようにしている。そうすると、いろいろな人が、いろいろなことを教えてくれる。このようにして、私の拙い思索の系譜が広がっていくのだ。

 そのW氏と酒を飲みながら話すうちに、ニーチェはどのように芸術を語ったのだろうか、という話題になった。私はバックカウンターの、酒の棚に挟まれてある本棚から2冊のニーチェの本を取り出し、カウンターの上に置いた。私が愛読している藤田健治と三島憲一が著した著作である。

 ニーチェは、ギリシャ悲劇がどのように起こり、どのように亡びたか、ギリシャにおける悲劇的なものは何をその根底にしていたか(1)、という問題から説き始め、芸術論を展開させている。では何故ニーチェがギリシャ悲劇を論考しようとしたのか、ということは、三島憲一の「『ニーチェ』第三章 第一節 ギリシアへの夢」を参照することで、想像がつく。
 ニーチェが古典文献学を学んでいた学生時代、古代ギリシャの厳密な学問的研究から学んだ(2)知識が、ギリシャへの憧れを形成していったのだ。その憧れが、ギリシャ文化自身の相反する二つの方向がある、アポロンとディオニュソスという神々(3)を引用することで、自分の芸術論を位置づけようとしたとする私の考察は、後述するショーペンハウアやワーグナーとの関係と共に、ニーチェがギリシャ悲劇を論考した理由の一つとして数え上げてもいいだろう。

 三島憲一によれば、ディオニュソスとは生の根源にうごめくほの暗い名称であり、酒と狂乱の神であり、衝動と情念の世界の原理とされる。(4)それに対し、アポロンは光にあふれた形態の世界の原理であるという。(5)ディオニュソスが「生命の祝祭」であると同時に「性的放縦」を意味していたのと同様に、アポロンは美しい形態の神であるとともに、また場合によっては、生命の自然な発露を押さえ、抑圧する形式万能主義の神でもある。(6)

 ニーチェがこのように自身の芸術論を語ろうとした背景には、音楽への愛があった。ニーチェによるワーグナーへの憧れと邂逅、そして別離。その時代の中でニーチェが触れたのは、悲劇的なものはギリシャを超え現代に及び、それはワーグナーの生み出した楽劇の核心でもあり、やがてまたそれは生きんとする意志の現れであった。(7) 

 ニーチェは、ルソー、ゲーテ、ショーペンハウア三人を、近代が立てた三つの人間像として挙げている。(8)ルソー的な人間がときとすると権謀術策を弄するカティリナ的な人間となるように、ゲーテ的な人間は時代に妥協し協調する俗物的人間となる。これらに対し、ショーペンハウア的人間は誠実から進んで苦悩を引き受ける人間であるとする。(9) このショーペンハウアに見出される同じ悲劇的英雄を、ニーチェはワーグナーのうちに見ている。(10)

 このような過程を経て、ニーチェはショーペンハウアの哲学からディオニュソス的なものの方が根源的直接的であり、アポロン的なものは第二次間接的であるとする見方をする。(11)
 もう少し分かりやすく論ずれば、アポロン的芸術は理念を仲介として具体的に描写し、その限り現象の世界における一定の時と所にしばられた個の枠から離れられないのに対し、ディオニュソス的芸術は、わき上がる情熱的な歓喜の中に個の枠が吹き飛ばされて、すべてのものの根源と一つになってとけこむ体験を与えるのである。(12)そして、本来音楽の精神は、陶酔的感情的なディオニュソス的なものであるとニーチェはいう。(13)

 ニーチェ は、ショーペンハウア、ワーグナーを通してこのような芸術論を語るのであるが、その根底にはニーチェ特有の人間が持つ永遠の生命の存在が叫び続けられているのが見て取れる。
ニーチェの芸術論においては、悲劇は私たち人間に向かってあるがままの自然のあるとおりであれ、という。あるがままの自然とは、たえず移り変わる現象の中で永遠に生み出してやまず、すべてを存在させずにいない生命力のことであり、現象の変化のうちに永遠に生き続ける創造的生命のことである。(14)
 これはまさに、ニーチェがこの後展開させる永劫回帰や超人という思索に通じる論考に他ならない。

なにげなくカウンターの上に置いた二冊のニーチェから、思いがけずに芸術論から人間の永遠の生命を探求することができた一夜だった。

1 藤田健治 『ニーチェ』p.32.
2 三島憲一 『ニーチェ』p.47. 
3 藤田健治 『前掲書』p.33.文脈により筆者が改編する。
4 三島憲一 『前掲書』p.69.
5 三島憲一 『前掲書』p.69
6 三島憲一 『前掲書』p.70文脈により筆者が改編する。
7 藤田健治 『前掲書』p,32文脈により筆者が改編する。
8 藤田健治 『前掲書』p.63
9 藤田健治 『前掲書』p.63
10 藤田健治 『前掲書』pp.63f.
11 藤田健治 『前掲書』p.34.
12 藤田健治 『前掲書』p.35.文脈により筆者が改編する。
13 藤田健治 『前掲書』p.36.
14 藤田健治 『前掲書』pp37f..
参考文献
藤田健治 『ニーチェ』中公新書1994年
三島憲一 『ニーチェ』岩波新書1993年

2010年5月23日日曜日

プルーストからヴェネツィアの幻惑を想像する。

 いつ購入したのかも忘れてしまった本を、棚から取り出して読んだ。それは馴染みの古書店で見つけた、タイトルが美しい、そして装丁も美しい本だった。両手を頬に当てて目を閉じて、何かを考えているかのような哲学的な表情をした、美しい女性が表紙になっている。その横に、『ヴェネツィアでプルーストを読む』と本のタイトルがクレジットされていた。

帯には、「マルセル・プルーストに導かれてヴェネツィアを徘徊するための、幻惑のヴェネツィア・ガイド」と書かれている。「幻惑のヴェネツィア・ガイド」という部分は、大きくクレジットされていた。全体が黒いベースに、女性の上半身の写真がモノクロで、そして白抜きの文字が表紙を引き締めている。私はプルーストに惹かれてというよりも、この美しいグラフィカルな装丁に魅せられて買ってしまっていた。

そろそろヴェネツィアにまた行きたい、そう思ってこの本を古書店の棚から引き出したのだが、ヨーロッパに赴いてもヴェネツィアまで足を延ばす機会はなかった。ヴェネツィアに行くことになったらこの本を読もう、そう思いながらこの本は自分の書棚から全く動くことはなかった。

この本を読んだのは、ヴェネツィアに行くことになったからではない。ヴェネツィアに焦がれながらも、ヴェネツィアに行く機会がない自分の心を満たすために、購入して以来初めて本の扉を開けた。

「幻惑のヴェネツィア・ガイド」と帯にあるが、この本は、所謂ガイドブックではない。フランス文学を専攻し、詩人でもある著者の鈴村和成が、プルーストの跡を辿りヴェネツィアやノルマンディーを徘徊する、美しい文体で書かれた詩的な文学評論である。文章の余韻や空白感が素晴らしく、著者の詩人である謂れを彷彿とさせていた。

プルーストがヴェネツィアで泊まったホテルには、長らくダニエリ説とエウローバ説があった(1)という。そして近年の評伝ではエウローバ説が採られている(2)、とされる。私は、ここでホテル・チプリアーニを思い浮かべた。確か5月だったと思うが、その時のヴェネツィアは風が強く、とても肌寒かった。専用のタクシー(モーターボート)で迎えられたホテルは、離れ小島のようなロケーションを独り占めするかのように建っている。私は無意識にダニエリの窮屈そうなファサードを嫌って、チプリアーニを選択したのかもしれなかった。

著者はこの本の所々に、レストランや料理、酒についての記述を散りばめていた。プルーストを辿り、彼の泊まった同じホテルに泊まり、時には同じレストランでプルーストの食べた料理も食べる。ノルマンディでムール貝やカキ、海老を氷の上に盛ったフリュイ・ド・メールを食べたときの記述が、「目の前の夕暮れの海にレモンを搾って食べているようだ」(3)という詩的な表現が 美しかった。

チプリアーニのオーナーが経営している、世界で最も有名なバー「ハリーズ・バー」。そこには誰もが知っているスペシャリテ、桃のシャンパンカクテル「ベリーニ」がある。バーと名が付いているとはいえ、本格的なダイニングを擁した世界の社交場だ。カウンターの前面では、普通以上にドレスアップした男女がスタンディングでひしめき合う。この異空間を目にすると、外界のヴェネツィアの歴史的な街並みからのギャップに、くらくらと目眩がするほどだ。カウンターの中では、あらかじめ桃のネクターとスプマンテをブレンドしたベリーニが大きな銀のボールに入れられ、それをシャンパングラスにすくって入れてサーブされる。このスノッブな空間は鈴村和成の詩的な文体と相乗しないが、私は著者の余韻が美しい酒や料理の記述を読むに連れて、「ハリーズ・バー」で繰り広げられる「幻惑のヴェネツィア」を想い出していたのだった。

この本の帯にあるように、ヴェネツィアを表すのに最も相応しい言葉は「幻惑」であろう。マルセル・プルーストを追わないまでも、ヴェネツィアに佇めば誰でも幻惑を目にすることができるはずだ。ヴェネツィアの美しく輝く光を目にすればするほど、その影に幻惑される。私は、かつて須賀敦子の『ザッテレの河岸で』というエッセイで、「コルティジャーネ」という言葉を初めて知った。コルティジャーネ。この言葉の語尾をコルテジャーニと男性形に変えると、宮廷人や貴族の意味になるのだが、女性名詞の場合には、日本語でふつう「高級娼婦」という、およそ詩的でない言葉があてられる。(4)コルティジャーネが最後に収容される施設が「なおる見込みのない人たちの病院」(オスペターレデリ インクラビリ)と名づけられた病院であった。そして彼女たちが罹ったなおる見込みのない病気とは、梅毒だった。その施設の遺構は、いまだヴェネツィアに佇んでいる。

もちろん、このような施設は世界のどこにでも存在した。しかし、カサノヴァまで遡らなくても、男色という影を持つプルーストしかり、ヴェネツィアの魅力を追っていくと闇の美しさを持った幻惑に、どうしても足を引き摺りこまれてしまう。

この美しい装丁は、木村裕治、後藤洋介によるもので、カバー写真は”Threading thought” Diana and Marlo/Orion Pressからのものである。


1 鈴村和成 『ヴェネツィアでプルーストを読む』p.54.
2 鈴村和成 『前掲書』p.54.
3 鈴村和成 『前掲書』p.182.
4 須賀敦子 『ザッテレの河岸で』p.101. 

参考文献
鈴村和成 『ヴェネツィアでプルーストを読む』集英社2004年
渡部雄吉 須賀敦子 中嶋和郎 『ヴェネツィア案内』新潮社2007年

2010年5月7日金曜日

『新建築』2010年4月号の足跡

先月号の『新建築』(2010年4月号)は、「東京2010」という巻頭特集であった。110名による、見るべき建築を各人3つずつ挙げてコメントを入れたガイドである。4月から建築を学ぶために入学した学生や、社会人1年生となった若者に、あらためて東京の建築の中から「この建築は是非見ておきなさい」という、先輩からのメッセージが込められている。まさに、「新年度が始まるこの時期に、建築入門またはより深く建築を考えるきっかけとして使う保存版」となる特集だった。

そして、丹下健三・吉阪隆正・村野藤吾・篠原一男・磯崎新といった巨匠たちの作品に混じり、私の小さな「建築と哲学のバー SAD CAFÉ」も掲載される。建築の規模としても掲載作品の中で一番小さいだろうが、それよりもバーとして唯一の掲載作品である。これは、建築家・宇野亨による推薦であった。

宇野亨は、そのコメントの通りに学生時代によくこのバーに通ってくれていた。当時は「建築と哲学のバー SAD CAFÉ」とは名乗らずに、「SAD CAFÉ  THE LAST RESORT」というキャプションを店名に付けていた時代だった。SAD CAFÉもTHE LAST RESORTも、ウエストコーストから世界を巻き込んだロックグループ イーグルスの曲名から取ったものである。そう、あの「ホテルカリフォルニア」のイーグルスだ。

宇野亨はカウンターに座り、現在と変わらないあの瞑目で低音の、そして思慮深い言葉でグラスを傾ける合間に静かに話していた。そういえば、眼鏡の奥から覗く目はまるで哲学をしているかのような目であったかもしれない。あるとき、著名な建築家集団であるシーラカンスで働くことにしたと報告をしに来たことがあった。学生時代から、そこでアルバイトをしていたのだろうか。詳細は忘れてしまったが、学生生活を終え建築家としての修行の第一歩をシーラカンスに向けたということだった。

その時に私は反対の立場を取ったのを、よく覚えている。シーラカンスが悪い、と言ったのではない。建築家として、設計共同体の中で自分の個性をどのようにコントロールしていくのか、ということを真剣に議論したのだった。たぶんそのときも、宇野亨は言葉を選びながら、静かに自分の意見を私に言ったのだろう。そして私の危惧は取り越し苦労に終わり、現在はCAnパートナーとして名古屋ブランチを統括している素晴らしい建築家となっている。宇野亨の推薦文に、「世界中で一番好きなバーである」というコメントを見つけたときには、非常に光栄な気持ちになった。

さて、『新建築』2010年4月号がリリースされてから、バーの様子が変わってきた。まだ発売されたばかりなので、そのガイドを見て来店する人がいるとすれば3~4ヶ月位あとであろうと私は思っていた。かつて雑誌『ブルータス』にこのバーが掲載された切り抜きを持って、その『ブルータス』が発売された2年後に初めて来店してくれた写真家がいたことを思い出す。彼は「いつか来たかった」と言ってくれ、手帖に挟んで入れていたその切抜きを嬉しそうに私に見せた。そして自宅を、建築家・室伏次郎氏に依頼して設計してもらったことを話し始める。水深10センチ程度の「見るためのプール」をつくってもらったのだと言う。私はその作品を『新建築』で見て記憶にあり、その作品の記憶と目の前にいるその作品の住人が一致した奇妙な感覚に陥ったことも、おぼろげに思い出した。

しかし今回は、『新建築』発売後からバーの前で写真を撮る人が増えてきた。22年前の作品を撮ってくれるなんて、嬉しい限りである。そして先日は、『新建築』を手に持ちながら沖縄からわざわざこのバーにやって来てくれた建築家がいた。遠方からの来訪とはいえ、なんと沖縄からである。なかなか場所が特定できなくて迷ったと言われ、裏通りにあるこのバーを申し訳なく思ってしまった。

ガイドブックを見なくても、面白がってやってくる来訪者がいる。このバーの近くにある小学校の生徒たちだ。彼らはまるで、アミューズメントパークのアトラクションを見るかのように、このバーのファサードに興味を示す。昼間、バーの店内で建築のスタディをしていると、表の小さな子供たちの喧騒とファサードの突出したパネルを叩く音が聞こえてくる。それは私にとって、心地良い騒音だ。小さな子供がこの奇妙な建築物を見て、インプレッションを受けて将来建築家を目指すきっかけになってくれればこの上なく幸せである。そんな大それたことを考えなくても、いつもの子供たちの「何だ、これは!」という嬌声が、考えるという「哲学」に結びつくことを願っているのだ。

沖縄の来訪者とは、暫く後に酒を酌み交わす約束をして別れた素晴らしい一夜だった。宇野亨に感謝したい。

 

2010年4月13日火曜日

哲学者の恋人達

馴染みの古書店に入り、暫く棚を眺める。そして気になる数冊を買い求め、貪るように読んでいく。時には仕事を放り出して、そして時にはワインを飲みながら。気が向けばそのスタディをレポートに纏める。何のことはない、これが私の哲学へのアプローチだ。

建築家である私は、哲学の専門教育を受けていない。であるから思想の系譜を体系づけて学んだ訳ではないし、身近にいる有識者から最適なテクストの享受を受けたこともない。辞書を片手に、原文に挑むこともない。その楽しさ、苦しさを思うと、大学で哲学を学んだ人を羨ましく思ってしまう。しかし、そういう在野で自由に思索を深めていくと、研究者がスポットライトを当ててこなかった部分がとても気になるのだ。私の場合、それは哲学者の生き様と、生み出す思想の関係性であった。

世に出た偉大な哲学者の多くも、私たちと相違なく濃密な恋愛をしてきた。それぞれの哲学者の恋愛については、それはそれで研究者により多くのテクストが生まれている。しかし多くの哲学者の恋愛を並列させ、その恋愛が哲学者の思索に与えた多大なる影響を纏め上げ、哲学と恋愛の関係を説いたテクストにはまだお目にかかっていない。
だからと言って、私がここでそのテーマを描いていこうという大それた気持ちは持っていないが、少しずつでも触れていきたいと思い始めた。

このコンテクストでは、冒頭はやはりニーチェとルー・ザロメ(1)のわずか6ヶ月の叶わぬ恋であろう。研究者により「ルー体験」というテクストが確立されているほど、ニーチェにとってルーの存在はあまりにも大きかった。恋に破れ、そして「ツァラトゥストラはかく語りき(2)に突入、その後発狂して死へと向かう。ニーチェとルーのアフェアは、藤田健治による『ニーチェ(3)を読むと、ルーの吐息、ニーチェの苦悩が文学を超えて目の前に現れる。明治生まれのこの研究者による柔らかい文章が、ルーとニーチェの生きた時代へと読者を誘ってくれる。

ドイツ現代 思想家である三島憲一による『ニーチェ(4)の冒頭、第2章に興味深いテクストがあった。

    哲学者や思想家の生涯というものは、彼のなかで起きた思想のドラマに較べれば、外面的には往々にして波乱万丈の面白みをもってはいな いものである。彼の頭脳のなかで行われた思想的な冒瀆や凌辱、彼が蒙った知的な屈辱や敗北、そして十九世紀以後は多くの場合にそうであるが、最後には時代に取り残され、裏切られた結果としての自己破産、―――そうしたものに較べれば、実際の人生航路は割合と単調で変化に乏しいことが多い。
   それにもかかわらず、およそ時代に正面から立ち向かったほどの人物の場合には、彼の生い立ちや受けた教育や交友や出会いのうちに当該の時代や社会というものが、見えざる手によって計画され操られているかのように、典型的にそしてきわめて凝縮されたかたちで現れているものである(5)

このセンテンスこそが、ニーチェを始めとする偉大な哲学者の生涯を象徴している凝縮された表現に他ならない、と私は思う。ニーチェは自分が理解されるとは思っていなかったが、理解されることを希ってもいた。ある手紙には、「私の作品は時間がかかる。・・・・・ひょっとすると五十年もたてば、・・・・・わたしによってなにが為されたかに気がつく者が幾人かいるかもしれない」と書いている。また、「私の物語るのは、次の二世紀の歴史である。(中略)すなわちニヒリズムの到来を書きしるす」のだとも遺稿のなかで述べている(6)

発狂の末、1900年に死に至ったニーチェから100年後の私たちは、ニーチェの予言した通りのニヒリズムの時代を今生きているではないか。ニーチェとルーの恋が成就していたならば、ニーチェはニヒリズムなどを論じず別の思索をしたのかもしれない。

ニーチェから時代を遡り中世スコラ哲学を紐解けば、必ず登場する普遍論争。その唯名論者であるアベラールと恋人エロイーズの悲しい恋の物語は、私たち現代のアジアに生きる人間にとっては、本当に中世ヨーロッパの時代を感じさせる物語だ。

更に遡ること、やがて中世スコラ哲学へと繋がっていく教義を論じた、哲学者であり偉大なキリスト教父であったアウグスティヌス。若い時代に自分の持つ強い肉欲に奔放に生きたアウグスティヌスは、階級の違う女性を愛し子供をもうけた男でもあった。しかしやがてアウグスティヌスと別離をさせられてしまうその女性には、世間から隠されるように葬られても、悲しみの中にアウグスティヌスへの愛と従順さが見て取れる。

ニーチェに影響を受けたハイデガー。1924年ケーニヒスベルグからやってきた、まだ18歳のユダヤ系美人の女子学生ハンナ・アーレントは、翌年には妻子ある35歳のハイデガーと不倫の恋に落ちる(7) 1945年に公職を追放され大学を追われたハイデガーは、著名な政治哲学者に成長した昔の恋人、ハンナ・アーレントと再会し、ハンナはヤスパースと協力しハイデガーの追放解除に成功する(8)不倫の恋人に助けられた幸運なハイデガーと見るよりも、不倫という自分の立場を超えて相手に与えることをした心美しいハンナ、とこの恋を私は読みたい。

ニーチェ同様に、ハイデガーに影響を与えたキルケゴール。そのキルケゴールは、父親の不倫のトラウマから婚約者の心を傷つけてしまった。24歳 のキルケゴールは、なんと出会った14歳の少女に一目惚れをしてしまう。3年後の27歳のときにプロポーズし、承諾を得る。しかし、翌年一方的に婚約を破棄し、婚約指輪を送り返す(9)キルケゴールは、愛しながら別れるというのだ。愛すればこそ、自分には夫になるべき資格が備わっていないというのである(10)相手は、まだ18歳になったばかりなのに。

このように私には、哲学者の生んだ思索と同等に、或いはそれ以上に、哲学者の恋愛が哲学者に与えた影響が気になってしまうのだ。専門の研究者でなくても構わない、学生の卒業論文としてでも、このテーマのテクストを読んでみたいと思っている。そして私も、ワインを片手にこのテクストのスタディを続けていきたいと思うのだ。

1 ルー・ザロメの表記は、三島憲一による『ニーチェ』に従った。
  藤田健治『ニーチェ』では、ルゥ・ザローメである。
2 ここでは、藤田健治による表記に従った。
  三島憲一による表記では、『ツァラトゥストラはこう言った』である。
3 藤田健治『ニーチェ』その思想と実存の解明 中公新書 1994年
4 三島憲一『ニーチェ』岩波新書 1993年
5 三島憲一『前掲書』p.16.
6 三島憲一『前掲書』p.194.
7 木田元『反哲学入門』p.212.文脈により筆者が一部改編した。
8 木田元『前掲書』p.225.文脈により筆者が一部改編した。
9 渋谷大輔・山本洋一・三森定史・鰆木周見夫『哲学・思想がわかる』p.186.文脈により筆者が一部改編した。
10 渋谷大輔・山本洋一・三森定史・鰆木周見夫『哲学・思想がわかる』p.186.文脈により筆者が一部改編した。
参考文献
藤田健治『ニーチェ』その思想と実存の解明 中公新書 1994年
三島憲一『ニーチェ』岩波新書 1993年
木田元『反哲学入門』新潮社 2009年
渋谷大輔・山本洋一・三森定史・鰆木周見夫『哲学想がわかる』日本文芸社 2000年


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2010年4月2日金曜日

ヨウジヤマモトの東京コレクション、その建築的表層と「モードの体系」

19年ぶりという、ヨウジヤマモトの東京コレクションを見る。桜の夜も暖かかった4月1日、丹下健三の代々木第2体育館は、3000人のファンで埋まっていた。

私は「ヨウジヤマモト」のファッションを愛用している一人である。彼のデザインするジャケットは左右非対称であり、シンメトリーではないところが建築的で面白い。ファッションを建築という記号で捉えれば、もう一人、布を立体的に裁断しようとする三宅一生の発想も建築的である。二人とも建築を専門に学んだ訳ではないが、建築を学びモードの世界に入ったジャンフランコ・フェレの生み出すファッションよりも建築的であるのが、これもまた興味深いことである。

当日の演出は秀逸であった。プロによるウォーキングではない、それぞれに個性を出したステージ上でのプレゼンテーション。ライブによるショーの音楽も、柔らかく暖かかった。
山本耀司フリークの3000人の中にいて、僭越であるが私は「山本耀司賞」を受賞した唯一の建築家である、と自慢したくなった。これは、自慢してもいいことだろう。
ある建築の賞の審査で、私の作品を特別審査員であった山本耀司氏が、「私の名を付ける賞はこれしかない」と言って選定していただいた。まるでバロックのようだ、という言葉を添えて。この山本耀司氏の言葉は、今でも忘れられない。
私は山本耀司賞を受賞してから、ヨウジヤマモトを着始めたのではなかった。それ以前から、そのテイストが好きで着ている。であるから受賞の感慨は非常に大きなものであった。受賞から10年、代々木第2体育館の3000人の一人として、非常に光栄な賞を受賞したのだと改めて想い出される。

山本耀司氏の暖かいエピソードがある。山本耀司賞を受賞したその時、山本耀司氏は賞とは別に自分から何かをプレゼントしたい、と私に言ってくれた。何が欲しいか考えておいてくれ、とも言われた。私は非常に感激したが、賞の選考での公開プレゼンテーション上での社交辞令のようなものだとも思っていた。
そして後日、秘書の方から本当に電話があり、「山本が何かをしたいと言っていますので・・・」といわれた時には、本当に驚かされた。一介の受賞しただけの建築家に、約束を守りフォローをする。巨匠が、ここまでしてくれるのだろうかという気持ちで一杯だった。

今思えば、「私のためにジャケットをデザインしてください。」とでも言えばよかったと後悔している。秘書の方の言葉に私は恐縮し、「私が招待しますから、是非一緒に食事を共にし、写真でも撮らせてください。」という、簡単なお願いをしてしまった。私は遠慮して畏れ多い巨匠にそう申し上げたかったのだが、よく考えるとこちらの方が簡単ではなかったかもしれない。忙しく世界を飛び回っているスケジュールを調整するのが、どれほど大変なことであるか、私には想像もつかなかったのである。この私の「お願い」は、スケジュールの絡みなどもあったのだろう、実現できないままに現在に至っている。
私は自分の心の中で、山本耀司氏に「貸し」がある男であるとほくそえんでいるのだ。

賞のプレゼントに私だけのジャケットをデザインしてください、と言えなかったからではないが、私はヨウジヤマモトの1点もののジャケットを手に入れた。青山本店のスタッフと顔なじみになり、「ショーの1点ものですが・・・」と言って裏から持ってきてもらったのだ。生産ラインに乗せなかったコレクションアイテムは、山本耀司氏の手の跡がダイレクトに見て取れる。それは、かつての三宅一生のブランド「ぺルマネンテ」で、三宅一生の手の跡が見て取れたのと同じ感動であった。

上述の美しいヨウジヤマモトの1点もののジャケットや、三宅一生の独特の素材感を出した詩的な「ペルマネンテ」を想うと、衣服のレトリックから詩を導いた記号言語学者、ロラン・バルトのテクストが浮かんでくる。
バルトは衣服と言語活動が出会うところに、多かれ少なかれ詩的なものが生まれるという前提から出発し、(1)「現実的機能から見せるものに移るとたんに詩的移行がある、たとえその見せるものが機能という外観に姿を変えていても。」(2)と続ける。
「衣服は見せるものとして、その素材、形態、色彩、触感、動き、着こなし、輝きといった物質性を動員するし、さらに衣服は身体に接触し、身体に代わり、身体を覆うものとしての機能を果たす以上、きわめて詩的であろうと考えうる。」(3)と、ロラン・バルトを解読する篠田浩一郎は語る。

現実的機能から見せるものに移るとたんに詩的移行がある

バルトのこの言葉に、建築家としての私は何度となく鼓舞された。

ヨウジヤマモト東京コレクションの余韻を、ライトアップされた夜桜を眺めながら代々木公園の裏手に位置する馴染みの「ヴィオレット」で、ロラン・バルトを想いながら白ワインとともに愉しんだ夜だった。


1 篠田 浩一郎『ロラン・バルト -世界の解読―』p.150.
2 篠田 浩一郎『前掲書』p.151.
3 篠田 浩一郎『前掲書』p.151.
参考文献
篠田 浩一郎『ロラン・バルト -世界の解読―』岩波書店 1989年   


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2010年3月11日木曜日

パッヘルベルのカノンと、映画・タイタニックのテーマの相似性について、或いはマニエリスムの作品としてのタイタニックのテーマ。

BARでレコードをかけていたら、奇妙なインスピレーションが頭を過ぎった。

常連の整形外科医であり脳神経内科医でもあるS氏が、友人の外科医を連れて3人で店を訪れてくれた時のことである。学芸大学の彼のクリニックには、著名な女性ジャズヴォーカリストを始め多くの有名人が訪れるという。彼は業界で名を轟かせるほどの、優秀な医師であった。

暫くしてテーブルに座った彼から、クラシックをかけて欲しいとリクエストがあった。彼は「可能であれば」という言葉を添えて、しかし何をかけてくれるのだろうかという期待感を顔に表している。
ジャズを中心に、ソウルやロック、そしてJ-POP、演歌まで、かけて欲しいと言われた曲は、あるものであれば全てかけている。クラシックもBARには何枚か置いてあるが、今まで客が訪れている時にはかけた経験はなかった。私は数枚のクラシックのレコードから1枚を選び、自分でデザインしたレコードプレーヤーのターンテーブルに載せた。

エリック・サティにしようかと思ったが、静か過ぎてしまう。そして私がかけたのは、「パッヘルベルのカノン」(カノンとジーグ ニ長調)であった。一時期この曲が有名になり、ポップス的なアレンジでいくつものカヴァーがリリースされた、メロディアスなバロックと言えば、冒頭のメロディーを頭に思い浮かべてくれるだろうか。しかし私がかけたのは軽やかなそれらとは違い、カラヤンが指揮をしてベルリンフィルハーモニー管弦楽団が演奏をする、正統なバロック室内楽だった。

クラシックファンに言わせると、指揮者と演奏者(楽団)の組み合わせにもクラシックの醍醐味の一つが求められるという。そういうことで言えば、カラヤンとベルリンフィルは最高の組み合わせであろう。カラヤン以前と言えば、フルトヴェングラー率いるベルリンフィルだろうか。但しバロックを奏でるとすれば、カラヤン・ベルリンフィルよりもベストチョイスがあるはずである。しかし志鳥栄八郎によるライナーノーツの通り、ベートーヴェン・ブルックナー・マーラーのような大交響曲以外にも、カラヤンは繊細に柔らかくこのバロックを奏でていた。

冒頭の有名な旋律から少しすると、私の頭の中で「あれっ」という感覚が沸き起こった。そして今度はレコードではなく、CDを探す。探し当てたCDを、カノンが終わるとすぐに続けてかけた。それはセリーヌ・ディオンが歌う「MY HEART WILL GO ON」である。映画・タイタニックのテーマ曲と言った方が分かりやすいかもしれない。
私の頭の片隅に、「タイタニック」のメロディが残っていたのだろう。「パッヘルベルのカノン」を聴いている最中に、反応してしまった。その反応は、「タイタニック」をかけることにより確信に変わっていく。その確信とは、2つの曲が相似性を持っている、ということであった。

「タイタニックのテーマ」が、「パッヘルベルのカノン」のメロディをトレースしている訳ではない。であるからイメージを膨らませていかないと、2つの曲の相似形が頭の中で一致しないかもしれない。もし偶然にも2つの曲が手元にあれば、是非「パッヘルベルのカノン」を先に、続けて「MY HEART WILL GO ON」をかけて聞き比べて欲しい。イマジネーションを膨らませると、面白いように2つの曲が「似たもの同士」になってくるはずである。カノンは誰のバージョンでも良いと思う。

私がこの2曲を並列して、敢えて数学的なイメージを持つ「相似形」と喩えたのは、「タイタニック」が「カノン」からインスピレーションを受けて作曲されたのではないだろうか、ということを探るためではない。数学的な言葉の「相似形」を、美術的な言葉「マニエリスム」に置き換えても良いだろう。「マニエリスム」とは、イタリアを中心とした後期ルネッサンスの芸術様式の1つであり、簡単に言えば、その時代より過去の歴史的な様式をその時代の作品に取り込んで、自分の作品にしてしまうということである。建築でいえば、パラーディオのファサードが有名だ。

常連のS氏のリクエストで何気なく選んだバロック音楽から、相似形をイメージし、マニエリスムまで想起できたことに、驚きもし嬉しくも思った。私の頭は、まだ錆び付いていないということである。このロジックで言えば、「タイタニック」はマニエリスムの作品であると言えないだろうか。

そして、更にここには二重の引喩が隠されている。マニエリスムの隆盛した後期ルネッサンス時代は、やがてバロック時代へと繋がっていく。「タイタニック」の作曲者が、もし「カノン」をマニエリスムの手法で自分の作品に取り込もうとして、しかもマニエリスムの影響が残っているバロック時代の音楽から意識的に取り込もうとしたならば、これはもう「タイタニックのテーマ」はコンテクストの上では1級の芸術作品として成立するのではないだろうかと思う。

酒を手にしながら、このように作者の意思を飛び越えて勝手に思索を深めていくのも、楽しいことである。「タイタニック」の作曲者が、私の上述したコンテクストのような意志を持って作曲した訳では無いことは、百も承知だ。もちろん、私も「タイタニックのテーマ」の美しいメロディをバックに、ディカプリオとケイト・ウィンスレットの悲しい愛の映像を見ながら、何度も何度も涙するのが大好きだ。


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2010年3月8日月曜日

建築日常茶飯事論


 先日、酒を飲みながら本を括っていたら、興味深い文章に出会った。荻窪の古書店で購入した「現代詩手帖 1994年10月号」。本の後半の連載ページに目が留まる。文芸評論家・中川千春の「罵倒詞華抄―――詩と詩人への」という連載であった。そしてその中で引用されていた文章が、私には気にかかる。

(前略)
どんな素人でも、このような「詩的社会」に住み、詩的論理による思惟の訓練をうけていれば、詩のまがいものを書くことぐらいはいとたやすい仕事である。現在の日本では、詩は詩人の意識的な凝縮作用によってなるものではなく、若干の教養と感受性の持ち主なら誰にでも書ける日常茶飯事に堕落している。
(江藤淳「日本の詩はどこにあるか」)

 15年以上前であるが、この連載、そして中川千春については興味深いので足を踏み入れていきたいが、ここではこれ以上触れない。何気なく一杯の酒と共に読み進んでいった江藤淳のこの文章に、私の目が留まったのだ。
私は瞬時に、「詩」を「建築」に、「詩人」を「建築家」に置き換えて読んでいた。

(前略)
どんな素人でも、このような「建築的社会」に住み、建築的論理による思惟の訓練をうけていれば、建築のまがいものを設計することぐらいはいとたやすい仕事である。現在の日本では、建築は建築家の意識的な凝縮作用によってなるものではなく、若干の教養と感受性の持ち主なら誰にでも設計できる日常茶飯事に堕落している。

 私は上述したように読み換えて、衝撃を受けていた。江藤淳が生きて、建築家そして建築界にこのように発言したらどのような影響を与えるのだろうかと考える。そうなれば、もっと良い建築が多く生まれていただろうか。それとも、江藤淳は建築は今のままで良いと思い、このようなフィールドには飛び込んでこなかっただろうか。どちらにしろ、現代詩に対する憂いを「日常茶飯事に堕落している」と括った江藤淳の言葉は、私に重くのしかかってきた。
 建築を日常茶飯事に堕落しているものとし鼓舞すれば、私のような前衛にも仕事がやりやすくなる状況は生まれるかもしれない。しかし、前衛に身を置いている以上、建築に生きることと、建築を仕事とすることとは別のベクトルである、といつしか考えるようになった。それは現代詩人であっても同様であろう。であるから、江藤淳から引いた私の「建築日常茶飯事論」は、ニーチェの言うルサンチマンからの発想ではない。

 私がこの江藤淳の文章に出会った「現代詩手帖 1994年10月号」は、アンドレ・ブルトンの特集であった。ブルトンこそ、前衛を生き抜いた詩人であり芸術家である。
 時代が、ブルトンの生き様をそうさせたのだろうか。私は3日前に磯崎新氏の出版記念講演会に伺った。磯崎新氏は、1968年に前衛は終わったと言い、その後 20年 の空白があったと語る。戦争のない時代が始まり、「歴史が宙吊りになった時代」と続けた。
 そういう平和な時代には、ムーブメントや前衛が起こるはずがない。その通りだろう。
ブルトンの時代には戦争が勃発し、ダダが生まれ、魅力的なシュルレアリスムの暴力が渦巻く。前掲誌の朝吹亮二編によるブルトン年譜によれば、生涯においてブルトン周囲の友人が6人も自殺し、公式に記録される乱闘騒ぎが4回もあった。

 時代が、そうさせている。私は今から100年前に始まった危険な50年間を、羨ましく想った。決して不謹慎だとは、思わないで欲しい。1916年、チューリッヒで開店されたキャバレー・ヴォルテールから、ダダが生まれた。そして、シュルレアリスム。
 さらに現代の、平和な時代の東京の片隅。しかし、少しずつ地球や環境、社会や経済が違うのではないか、という疑問が渦巻き始めたのは確かだろう。私は東京の片隅、荻窪の小さなバーから、今の時代に前衛を生み出していきたいという、言ってみれば「狂った夢」を持っている。1988年の暑い夏から22年間、この小さなバーを拠点に芸術活動を行ってきた。このブログは2010年、仲間とともにここから新たに発信する「狂気と併走し、知的好奇心を刺激する思索」を加速させるためのものとなりたい。不定期にこのページに綴る雑文に、是非目を留めてもらいたいと思う。


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2010年2月15日月曜日

SAD CAFEとは

JR荻窪駅から北へ歩いた裏通りに、ひっそりと佇む驚きの空間。
1988年の開店以来、前衛の空気を街に放ち続けている異端の建築家BARです。
多くの建築家を中心に、様々な文化人がこのBARを訪れて頂きました。
1杯のお酒を片手に、文化や哲学を語り心地良い音楽に耳を傾ける。あなたも、そんな仲間の1人に是非なってください。

あえて地図は掲載していません。荻窪の街を散策しながら、このBARを探し出してくれたら幸いです。あなたが私たちの仲間になってくれるのを願いながら、お待ちしています。

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