2010年10月23日土曜日

もの派、そして前衛の意識とは

上村松園展で賑わう竹橋の東京国立近代美術館へ、常設展で展示されているコレクションの「ある作品」だけを鑑賞するために足を運んだ。吉田克朗のドローイングが展示されていると教えられたのだ。
会期をあと2日に残したその日も、上村松園展のチケットを求める人々が30分待ちの札を掲げる列を作っていた。 

列を整理している担当者に常設展だけを鑑賞したい旨を伝え、列に並ばずにエントランスホール内の受付カウンターでチケットを求めて2階の展示ホールに直接向かう。
常設展は所蔵作品展として、『近代日本の美術』と題し4階・3階・2階と展示ホールを巡る構成になっていた。2階は、「現代美術 1970年代以降」のフロアーである。

私の目指す吉田克朗のドローイングは、そのフロアーの一角の展示室で『手探りのドローイング』と題され、他の2人のアーティストと共に展示されていた。吉田克朗は1970年代に日本の美術史に大きな爪跡を残した、「もの派」の中心人物である。

2010年の現在にもの派を語ろうなどと言えば、「なんだ、それは」と言われかねないほど時代は加速していってしまった。
ここで私の言う「加速」とは、もの派の時代の1970年代から現在の2010年の、40年間もの時間のベクトルを指しているのではない。

もの派の語る、これ以上ない存在感を示す素材たち。圧倒的なボリュームと重量感で私たちに迫ってくる。
私がその片鱗に触れ驚愕したのは、1991年10月に上野の東京都美術館で開催された『構造と記憶』展だった。そこでは戸谷成雄、剣持和夫、遠藤利克の3人の作品が、私に衝撃を与える。

私は処女作を1988年に完成することができ、建築家として道を歩み始めたばかりだった。その頃はまだ建築だけの視野しか持つことが出来ず、美術全般への興味を持っていたが作品を眺める余裕などなかった。
私は自分の追い求める造形と共に、素材の持つ魅力を建築にフィードバックしようと、一生懸命に格闘していたような気がする。

その自分の追及するベクトルと同じ向きを向いていたのが、「ポストもの派」と呼ばれる3人の作品だった。偶然とは恐ろしいもので、私は見るべきものに導かれて東京都美術館に足を運んだのかもしれない。

1960年代・70年代のコンセプチュアルな前衛芸術を否定しようと、「素材の持つ力」を表現しようとしたのが「もの派」であると言われている。
その系譜を受け継いだ「ポストもの派」と呼ばれる3人の作品を東京都美術館で見たときに、私はこれこそが前衛であると感じた。

鑑賞者の意識を混沌とさせる細工などを持たず、原点に帰り「素材の持つ力」だけで私たちに圧倒的な迫力で語りかけてくる。
これが前衛でなくて、何が前衛なのだろうか。

前述した「時代の加速」とは、時間のベクトルではなく、表現のベクトルを言っている。建築でいえば、「建築を消していく」作業が時代の潮流の先端ということなのだろうか。
そこにはここで私が今まで語ってきた「素材感」以上に、「存在感」をも消したい、という意識が働く。

その流れの中で埋没しないためにも、私は吉田克朗のドローイングをあらためて見る必要があった。それらは白い紙の中に、暗闇を生み出そうとするかのようにボリュームをつくっていた。

前衛は、いつまでたっても前衛のままでいるはずだ。時代の流れがどのように流れようとも、その流れの中から切っ先を立てて頭を出している、川の中の尖った岩が前衛である。
川の流れは何千年と岩に当たりながら、岩を細くしようとする。しかし決してその岩は消滅することはない。

吉田克朗のドローイングを見て、これからの私の歩むべき方向をあらためて確認した1日だった。

 

1 件のコメント:

  1. 混雑の上村松園展もなかなかでございました。

    たまにはまたいきます。

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