2011年1月31日の私のブログで、プロタゴラスの相対主義について論考した。
「人間は、万物の尺度である。」
これは、例えば善悪を考えるときに、それぞれの人にとってそれぞれの善悪の価値観が存在する、という意味の言葉である。
プラトンの初期対話編『プロタゴラス』では、有力なソフィストである長老プロタゴラスたちを相手に、ソクラテスが議論を仕掛けていく。
「人間は、万物の尺度である。」
これは、ある人にとって「悪い」と感じることが、ほかの全ての人にとっての「悪い」にはならない。
究極に考えればある人にとって「悪い」と感じることが、ある人にとっては「良い」と感じることもあるかもしれないのだ、ということが導かれる。
相対的に善悪を考える、それがプロタゴラスの相対主義である。
100人、人間がいれば、100通りの善の考え方がある、だから、「人間は、万物の尺度である」とする。
1月31日のブログでは、歩道に落ちる落ち葉や、桜を愛でながら酒を飲むことに関して、プロタゴラスの相対主義を引用しながら論考した。
そして、あの3月11日。
大地震が襲った後の、原発の崩壊。
今更ながら、それを容認してきた私たちがいるから、原発を造り続けてきた日本があるのです、と言う人がいるだろう。
私たちひとりひとりがもっと強く原発を反対しなかったから、これだけの原発ができてしまったのです、と言う人も。
私は、そういう人たちに問いたい。
私たちが原発はいらないという強い気持ちを持っていたとしても、それを超える強い力で国家が原発を造ってきたのではないのかと。
歩道に落ちる落ち葉や、桜を愛でながら酒を飲む詩的な風景ではなく、原発の是非をプロタゴラスの相対主義に当てはめて考えるとどうなるだろうか。
私たちが原発は危険だからいらない、と思っていても、あらゆる理由から原発は必要なのです、という人たちがいる。
それを突き詰めて、私たちの側から原発は悪だとすると、その人たちにとっては原発は善であるのだ。
この両極をパースペクティブに見ると、私はニーチェがキリスト教をルサンチマンの宗教であると断罪したことが、一瞬脳裏を過った。
ニーチェはキリスト教を悪の宗教だと言い、一方、キリスト教を善としてすがる人たちがいる。
しかし宗教は意思の問題で、悪と考えれば自ら遠ざかることもできるだろう。
原発はフクシマのように、逃げても逃げても遠ざかることはできない。
原発の問題は、電力の供給の問題である。
電力の供給という大前提に、危険と知りつつ全てを屈して推進していったのか。
プラトンの初期対話編『プロタゴラス』を、あらためて原発を頭に入れながら読み進めていくと、ぞっとしてしまう。
以下引用するので、そのように読み進めてもらいたい。
そもそも「悪いと知りつつ行う」というときの「悪い」とは何を意味するのか。
何かを行って、ある快楽を得る場合、その瞬間に快楽を提供するのみで、後になっても一切苦痛が生じないとしたら、それは別に悪でも何でもなかろう。
美食や暴飲など目先の快楽が後に深刻な病気を引き起こすように、後から結果する大きな苦痛のゆえに悪とされるのだ。
つまり、結果として苦痛に終わり、他の快楽を奪うからこそ、ある行為や快楽が「悪い」と言われるのであって、快楽それ自身は決して悪ではない
(『プロタゴラス』三五二D-E)
紀元前400年の哲学者の言葉に、現代の私たちは考えさせられてしまう。
まるで、今フクシマを前にして原発のレゾンデトールを語っているかのようである。
フクシマの惨状を知った上で尚マスコミの前に出てきて、原発の必要性を語った学者たちの言葉そのものではないか。
しかしここには、哲学者・荻野弘之が言うように、プラトンにせよアリストテレスにせよ「無抑制」という事態を問題にする際に、「意思」に相当する概念を一切用いていないのである。
言い換えれば、前述の『プロタゴラス』の快楽を原発に読み替えて、原発のレゾンデトールを肯定できたとしても、原発を推進しようとする人の意思を読み取ることはできない。
日本の未来を安全に取り戻すために、私たちは今こそ深く思慮しなければならない。
参考文献
荻野弘之著 『哲学の饗宴 ソクラテス・プラトン・アリストテレス』
日本放送出版協会 2009年
2011年5月28日土曜日
2011年4月21日木曜日
甘美な死骸
閉会間近の「シュルレアリスム展――パリ、ポンピドゥセンター所蔵作品による――」を見に、新国立美術館に向かった。
前回ポンピドゥセンターに赴いたのはもう3年も前、仕掛かっていたプロジェクトを纏めるために、ウイーンのハンス・ホラインに会いに行った帰りにパリに立ち寄った時であった。
その時に滞在した、日本にはほとんど紹介されていないウイーンの極上なシャトーホテル、パレ・コブルグのことはいずれこのブログに書きたいと思うが、ヴァンドーム広場の横に当時新しくオープンしたパークハイアットが素晴らしいという噂を聞き、リサーチを兼ねて滞在する目的でパリに寄った。
その時のポンピドゥセンターは、この建築の設計者の一人であるリチャード・ロジャースの展覧会が開催されていた。
私が仕掛けた、そのハンス・ホラインが参加したプロジェクトには、リチャード・ロジャース、リチャード・マイヤー、磯崎新という世界のビッグネームの参加が実現し、リチャード・ロジャースの担当者からポンピドゥセンターで展覧会が開催されているというインフォメーションを受けたので、それを見る目的もありパリに立ち寄った。いずれ、このスーパープロジェクトのことも活字にしなければならないと思っている。
ロジャースの展覧会も印象的であったが、ポンピドゥセンターの広場を挟んで向かい側にあるカフェのコーヒーが、とても美味しかったのを覚えている。
パリのコーヒーは、なぜあんなに美味しいのだろうか。
文字通りの、深く焙煎したフレンチローストからドリップされた、漆黒のコーヒー。私がいつも悲しくなるのは、日本で飲む、いや「飲ませられる」、マシーンでボタン操作によって抽出されただけのコクのないコーヒーに遭遇するときである。
東京にある外資系の一流ホテルのコーヒーハウスでさえ、そのコーヒーがサーブされる。これは憂鬱な事態だ。
「シュルレアリスム展」の構成は素晴らしかった。
後にシュルレアリスムの胎動に繋がっていくダダに生き、ダダと絶縁しシュルレアリスムを解放する、アンドレ・ブルトンに導かれての会場散策。それぞれの会場入り口には、アンドレ・ブルトンの散文、論述のプレゼンテーションが掲げられ、それを確認し、展示物を鑑賞する。
私の2回目のブログ『建築日常茶飯事論』でも触れたが、1916年、チューリッヒのキャバレー・ヴォルテールでダダが誕生した。
サルトルの時代のパリのカフェもそうであるが、一介のカフェやバーから魅力的な文化や芸術運動が生まれた「古き良き時代」があった。その時代のカフェやバーは、良質なコミュニティとなり、多くの文化人、芸術家を引き寄せる。
建築家の私が23年間も荻窪の片隅で小さなバーを営んでいるのは、その憧れをいまだに追っているからなのだ。
展示作品に、「甘美な死骸」というタイトルの作品があった。
「甘美な死骸」という不思議な言葉は、アンドレ・ブルトンやマン・レイ、ジョアン・ミロ達が、それぞれの言葉を浮かべて、その脈絡のない言葉を並べて文章をつくる、言葉遊びである。
メンバーの誰かが「甘美」と言い、他の誰かが「死骸」と言って、それを繋げただけの言葉だ。
それがドローイングの作品となると、前後関係を無視して各自が自由なスケッチを描き、それを繋げて一つの作品としてプレゼンテーションする。
たぶん彼らはカフェやバーでワインを飲みながら芸術論を闘わし、ある時興が乗って、このような芸術作品を共同でつくろうという意思が生まれたのであろう。
その作品に対峙した私は、「甘美な死骸」が生まれたシチュエーションをまるで自分がその場にいたように、クリアーに目の前に浮かばせることができた。
そして、それを羨ましく想う。
ダダやシュルレアリスムの時代から現代を考察すれば、私たちの時代は芸術運動不毛の時代である。政治運動や社会論考が、芸術運動と直結していたその時代は、自分たちのイデオロギーを運動として昇華させていくのが自然であった。
しかし私たちの時代では、インターネットで世界と瞬時に個人が繋がり、情報発信がいとも容易く行えてしまう。
この時代に「甘美な死骸」を求めることは、夢物語のことなのだろうか。
参考文献
『現代詩手帖 1994年10月号 特集;いま、アンドレ・ブルトン』 思潮社
前回ポンピドゥセンターに赴いたのはもう3年も前、仕掛かっていたプロジェクトを纏めるために、ウイーンのハンス・ホラインに会いに行った帰りにパリに立ち寄った時であった。
その時に滞在した、日本にはほとんど紹介されていないウイーンの極上なシャトーホテル、パレ・コブルグのことはいずれこのブログに書きたいと思うが、ヴァンドーム広場の横に当時新しくオープンしたパークハイアットが素晴らしいという噂を聞き、リサーチを兼ねて滞在する目的でパリに寄った。
その時のポンピドゥセンターは、この建築の設計者の一人であるリチャード・ロジャースの展覧会が開催されていた。
私が仕掛けた、そのハンス・ホラインが参加したプロジェクトには、リチャード・ロジャース、リチャード・マイヤー、磯崎新という世界のビッグネームの参加が実現し、リチャード・ロジャースの担当者からポンピドゥセンターで展覧会が開催されているというインフォメーションを受けたので、それを見る目的もありパリに立ち寄った。いずれ、このスーパープロジェクトのことも活字にしなければならないと思っている。
ロジャースの展覧会も印象的であったが、ポンピドゥセンターの広場を挟んで向かい側にあるカフェのコーヒーが、とても美味しかったのを覚えている。
パリのコーヒーは、なぜあんなに美味しいのだろうか。
文字通りの、深く焙煎したフレンチローストからドリップされた、漆黒のコーヒー。私がいつも悲しくなるのは、日本で飲む、いや「飲ませられる」、マシーンでボタン操作によって抽出されただけのコクのないコーヒーに遭遇するときである。
東京にある外資系の一流ホテルのコーヒーハウスでさえ、そのコーヒーがサーブされる。これは憂鬱な事態だ。
「シュルレアリスム展」の構成は素晴らしかった。
後にシュルレアリスムの胎動に繋がっていくダダに生き、ダダと絶縁しシュルレアリスムを解放する、アンドレ・ブルトンに導かれての会場散策。それぞれの会場入り口には、アンドレ・ブルトンの散文、論述のプレゼンテーションが掲げられ、それを確認し、展示物を鑑賞する。
私の2回目のブログ『建築日常茶飯事論』でも触れたが、1916年、チューリッヒのキャバレー・ヴォルテールでダダが誕生した。
サルトルの時代のパリのカフェもそうであるが、一介のカフェやバーから魅力的な文化や芸術運動が生まれた「古き良き時代」があった。その時代のカフェやバーは、良質なコミュニティとなり、多くの文化人、芸術家を引き寄せる。
建築家の私が23年間も荻窪の片隅で小さなバーを営んでいるのは、その憧れをいまだに追っているからなのだ。
展示作品に、「甘美な死骸」というタイトルの作品があった。
「甘美な死骸」という不思議な言葉は、アンドレ・ブルトンやマン・レイ、ジョアン・ミロ達が、それぞれの言葉を浮かべて、その脈絡のない言葉を並べて文章をつくる、言葉遊びである。
メンバーの誰かが「甘美」と言い、他の誰かが「死骸」と言って、それを繋げただけの言葉だ。
それがドローイングの作品となると、前後関係を無視して各自が自由なスケッチを描き、それを繋げて一つの作品としてプレゼンテーションする。
たぶん彼らはカフェやバーでワインを飲みながら芸術論を闘わし、ある時興が乗って、このような芸術作品を共同でつくろうという意思が生まれたのであろう。
その作品に対峙した私は、「甘美な死骸」が生まれたシチュエーションをまるで自分がその場にいたように、クリアーに目の前に浮かばせることができた。
そして、それを羨ましく想う。
ダダやシュルレアリスムの時代から現代を考察すれば、私たちの時代は芸術運動不毛の時代である。政治運動や社会論考が、芸術運動と直結していたその時代は、自分たちのイデオロギーを運動として昇華させていくのが自然であった。
しかし私たちの時代では、インターネットで世界と瞬時に個人が繋がり、情報発信がいとも容易く行えてしまう。
この時代に「甘美な死骸」を求めることは、夢物語のことなのだろうか。
参考文献
『現代詩手帖 1994年10月号 特集;いま、アンドレ・ブルトン』 思潮社
2011年3月26日土曜日
ピュシスとノモス
自然に対峙するとき、人間の営みはどれほどの大きさなのだろうか。
3月11日、東日本に激震が走ったとき、私たちは自然の前でまったく力を持たなかった。
人間を幸福にするための最先端の科学・テクノロジー・エネルギーも、自然の脅威の前では役に立たない。それでも私たちは生き抜かなければならないのだ。
「自然は従うことによらなければ征服されない」とは、F・ベーコンのよく知られた言葉である。(1)
自然の脅威は、この短いセンテンスに凝縮されている。
宇宙の果てしない営みの長さから考えれば、私たち人間が科学を持ってから僅か400年。
たった400年では、あの自然の前に私たちの力が一瞬にして崩壊してしまうのは、当然の帰結であるというのだろうか。
私たちの科学・テクノロジー・エネルギーは、自然に従わなかったために、惨事を引き起こしてしまったというのだろうか。
「自然」と「科学」を対峙させて思考するとき、そこに生まれるのが「自然哲学」である。
デカルトの時代、17世紀に科学が誕生するまでは、人間の魂と肉体の関係をどのように位置付けて論じるか、それが哲学の一翼であった。魂、神、そして宇宙の神秘を思考すること、それが形而上学となる。
人間と自然のかかわりを論じた哲学者といえば、プラトンであろう。
紀元前5世紀のアテナイにおいて、「ピュシス(自然)」(=自然本性)という概念は、人為的な「法律・習慣(ノモス)」との対立におかれ、「これこれのものは自然本性的にあるのではなく、人為的にあるにすぎぬ」という形で、従来、強固な基盤を持つと思われていた伝統的な価値に不信の念が投げかけられた。
つまり、人の行為の規範に対して、人々が漠然と抱いていた不信の念は、ピュシスとノモス―――自然と人為―――という対立概念によって、一定の形を与えられたわけである。(2)
プラトンの対話編の中で、ノモスとピュシスという問題が初めて本格的な形でとりあげられるのは『ゴルギアス』においてである。(3)
『ゴルギアス』では、プラトンとソクラテスの自然に対する考え方の相違が鮮明に浮かび上がり、技術論が展開された。
技術は善とされ、「快適に生きること」こそ、よく生きることであり、善と快は同一のものと考えられたのだ。(4)
研究者は、プラトンを前期・中期・後期と3つの時代に括る。
中期プラトンから後期プラトンにかけて、プラトンはものの自然本来的な在り方、真実の構造、それぞれの事物にあって、そのものに固有なふるまい方をさせ、固有な相貌をとらせる内在的な原理を、自然の意味として論じている。
アリストテレスも「自らの内にそれ自体として動の原理を有するものの持っている本性(ウーシア)」とそれを規定し、これを「自然(ピュシス)」の第一の本来的な意味である、とした。(4)
研究者、武宮諦はこれを纏め、「自然に反して(パラ・ピュシン)何かをなそうとするならば、何もなしとげることができないのみか、事物のもっている折角のすぐれた本性を台なしにしてしまうのである」と論じる。(5)
では、やはり私たちは、「自然は従うことによらなければ、征服されない」というベーコンの言葉に還らなければならないのか。
紀元前5世紀のアテナイで、プラトンが「ピュシス」と「ノモス」を論じて以来、私たちは自然の上に文化を築くことなく、自然にただ従うだけの小さな存在でしかなかったのであろうか。
大地が大きく揺れ、多くの人間が死んでいくのを、アリストテレスの言葉を借りれば「ピュシスの本来的な意味である」として、力なく片付けてしまっていいのであろうか。
私たちは宇宙の中に存在する極小のエレメントとして、何かの摂理に作用されているだけなのだろうか。
私はまるで紀元前に生きている哲学者のように、人間の知りえない領域を今こそ知りたいと渇望している。
註
(1) 武宮 諦 「自然と人為」 『新・岩波講座哲学 5 自然とコスモス』収録 p.42.
(2) 武宮 諦 『前掲書』 p.35.
(3) 武宮 諦 『前掲書』 p.38.
(4) 武宮 諦 『前掲書』 p.40.
(5) 武宮 諦 『前掲書』 p.36.
(6) 武宮 諦 『前掲書』 p.36.
参考文献
『新・岩波講座哲学 5 自然とコスモス』 岩波書店 1985年
3月11日、東日本に激震が走ったとき、私たちは自然の前でまったく力を持たなかった。
人間を幸福にするための最先端の科学・テクノロジー・エネルギーも、自然の脅威の前では役に立たない。それでも私たちは生き抜かなければならないのだ。
「自然は従うことによらなければ征服されない」とは、F・ベーコンのよく知られた言葉である。(1)
自然の脅威は、この短いセンテンスに凝縮されている。
宇宙の果てしない営みの長さから考えれば、私たち人間が科学を持ってから僅か400年。
たった400年では、あの自然の前に私たちの力が一瞬にして崩壊してしまうのは、当然の帰結であるというのだろうか。
私たちの科学・テクノロジー・エネルギーは、自然に従わなかったために、惨事を引き起こしてしまったというのだろうか。
「自然」と「科学」を対峙させて思考するとき、そこに生まれるのが「自然哲学」である。
デカルトの時代、17世紀に科学が誕生するまでは、人間の魂と肉体の関係をどのように位置付けて論じるか、それが哲学の一翼であった。魂、神、そして宇宙の神秘を思考すること、それが形而上学となる。
人間と自然のかかわりを論じた哲学者といえば、プラトンであろう。
紀元前5世紀のアテナイにおいて、「ピュシス(自然)」(=自然本性)という概念は、人為的な「法律・習慣(ノモス)」との対立におかれ、「これこれのものは自然本性的にあるのではなく、人為的にあるにすぎぬ」という形で、従来、強固な基盤を持つと思われていた伝統的な価値に不信の念が投げかけられた。
つまり、人の行為の規範に対して、人々が漠然と抱いていた不信の念は、ピュシスとノモス―――自然と人為―――という対立概念によって、一定の形を与えられたわけである。(2)
プラトンの対話編の中で、ノモスとピュシスという問題が初めて本格的な形でとりあげられるのは『ゴルギアス』においてである。(3)
『ゴルギアス』では、プラトンとソクラテスの自然に対する考え方の相違が鮮明に浮かび上がり、技術論が展開された。
技術は善とされ、「快適に生きること」こそ、よく生きることであり、善と快は同一のものと考えられたのだ。(4)
研究者は、プラトンを前期・中期・後期と3つの時代に括る。
中期プラトンから後期プラトンにかけて、プラトンはものの自然本来的な在り方、真実の構造、それぞれの事物にあって、そのものに固有なふるまい方をさせ、固有な相貌をとらせる内在的な原理を、自然の意味として論じている。
アリストテレスも「自らの内にそれ自体として動の原理を有するものの持っている本性(ウーシア)」とそれを規定し、これを「自然(ピュシス)」の第一の本来的な意味である、とした。(4)
研究者、武宮諦はこれを纏め、「自然に反して(パラ・ピュシン)何かをなそうとするならば、何もなしとげることができないのみか、事物のもっている折角のすぐれた本性を台なしにしてしまうのである」と論じる。(5)
では、やはり私たちは、「自然は従うことによらなければ、征服されない」というベーコンの言葉に還らなければならないのか。
紀元前5世紀のアテナイで、プラトンが「ピュシス」と「ノモス」を論じて以来、私たちは自然の上に文化を築くことなく、自然にただ従うだけの小さな存在でしかなかったのであろうか。
大地が大きく揺れ、多くの人間が死んでいくのを、アリストテレスの言葉を借りれば「ピュシスの本来的な意味である」として、力なく片付けてしまっていいのであろうか。
私たちは宇宙の中に存在する極小のエレメントとして、何かの摂理に作用されているだけなのだろうか。
私はまるで紀元前に生きている哲学者のように、人間の知りえない領域を今こそ知りたいと渇望している。
註
(1) 武宮 諦 「自然と人為」 『新・岩波講座哲学 5 自然とコスモス』収録 p.42.
(2) 武宮 諦 『前掲書』 p.35.
(3) 武宮 諦 『前掲書』 p.38.
(4) 武宮 諦 『前掲書』 p.40.
(5) 武宮 諦 『前掲書』 p.36.
(6) 武宮 諦 『前掲書』 p.36.
参考文献
『新・岩波講座哲学 5 自然とコスモス』 岩波書店 1985年
2011年2月28日月曜日
前衛が消え去ろうとしている理由
最近、ある2冊の文献を並行的に読み解く機会があった。あらためてポストモダンを再考するために、何の脈絡もなく偶然に手に取った2冊である。
しかし読み解いていくと、この2冊が同じ向きを向いていることに気がつき、偶然の巡り合わせに面白く思い、その偶然に感謝もした。
2冊の文献とは、1985年初版の磯崎新著『いま、見えない都市』と、2001年に第1刷が発行された東浩紀著『動物化するポストモダン』である。
磯崎新の『いま、見えない都市』では、全編ポストモダンについて述べられているわけではない。「ポストモダンの時代的背景」、そして「ポストモダンの時代と建築」の項に、この著作ではポストモダンの 論考が集約されている。
東浩紀は建築に近いフィールドでの論考もあるようで、調べてみると2009年に磯崎新に言及したブログもあり、興味深い。
両者のポストモダン論考の背景には、フランスの社会学者ジャン・ボードリヤールから提出された概念、「シミュラークル」が基調となっている。
ボードリヤールはポストモダンの社会では、作品や商品のオリジナルとコピーの区別が弱くなり、そのどちらでもない「シミュラークル」という中間形態が支配的になると予測していた。(1)
シミュラークルという概念を加速させる底辺には、「二次創作」という存在があると東浩紀は指摘する。二次創作とは、原作のマンガ、アニメ、ゲームをおもに性的に読み替えて制作され、売買される同人誌や同人ゲーム、同人フィギュアなどの総称である。(2)
この視点からの論考は、この著作のタイトルのキャプションに付けられた「オタクから見た日本社会」に象徴される。
それを建築的フィルターに戻すと、磯崎新は世界の建築が「a+u」的になってくる、と述べる。
「a+u」などで、全世界の情報がひろげられる。そうすると、世界中に似たような建築が生まれてくるのもいたしかたない。
記号としての情報はそれがスピーディーにひろがって、数多くの眼にふれると、急に新鮮味がうすれる。記号が消費されていくのだ。
建築のスタイルについても同様で、コピーされ変形され、しぼられたあげくに、使い捨てられる。この消費の仕組みの良し悪しを論じてもしかたない程にそれは今日では一般化し、動かしがたい事実になっている。
そうすると、現実に起こっているものはどこか別なものの引き写しにすぎないというようなことが進行し始める。そういう状況になってきたのがポスト・モダンという時代ではないかと見てとれる。(3)
長い引用だが、磯崎新が1985年に指摘した状況が、2001年に、東浩紀によりオタク側からの視点として論考されることが私にはとても興味深い。
磯崎新が述べた、建築のコピー・使い捨ての状況からは、オリジナルが喪失していってしまう。そして磯崎新は、モダンとポストモダンをどこで区切るか、ということにこの著作では言及している。
著作の原文通りに引用したい。
そこで、モダニズムとポスト・モダニズム、あるいはモダンとポストモダンというものを仮定した場合に、それをどこで区切るかということが、まずいちばんの問題になります。
私はこの区切りをアヴァンギャルドが終わったとき、というとちょっと大げさになりますけれども、アヴァンギャルドが効力を失い始めたとき、その時点をこの二つの考え方の区切りにしたいと思うのです。
だから、もし現在がポストモダンであるならば、アヴァンギャルドというのはもはや有効性がなくなった時代であるとみていただいていいと思います。アヴァンギャルドはモダニズムの産物だったからです。(4)
「アヴァンギャルドはモダニズムの産物だった」というセンテンスに、私は衝撃を受けてしまった。それでは私はいま、まさにモダニズムのあとの時代を生きているのにもかかわらず、モダンの産物であるアヴァンギャルド、前衛を志向しようとしているのか。
だから、私のような作風では作品として成立することの困難さが、同時代を生き抜いている建築家に比べて重たいのだろうか。
しかしそれでは建築家としてのアイデンティティがあまりにも希薄である。それよりも、私がスタディの手を動かすとどうしてもあのようなデザインになってしまうのだ。
それが前衛であっても、時代に関係なく私の建築をつくっていくことしか私にはできない。
それが、私の生き方である。
磯崎新の『いま、見えない都市』では、サブ・カルチュアについても述べられている。サブ・カルチュアを評価する磯崎新のスタンスが、世界を代表する文化人であるがゆえに、魅力的な位置に立っていると思うのは私だけだろうか。
註
1 東浩紀著 『動物化するポストモダン』 p.41
2 東浩紀著 『前掲書』 p.40
3 磯崎新著 『いま、見えない都市』 p.142
4 磯崎新著 『前掲書』 pp.114f.
参考文献
東浩紀著『動物化するポストモダン』 講談社現代新書 2010年
磯崎新著『いま、見えない都市』 大和書房 1985年
しかし読み解いていくと、この2冊が同じ向きを向いていることに気がつき、偶然の巡り合わせに面白く思い、その偶然に感謝もした。
2冊の文献とは、1985年初版の磯崎新著『いま、見えない都市』と、2001年に第1刷が発行された東浩紀著『動物化するポストモダン』である。
磯崎新の『いま、見えない都市』では、全編ポストモダンについて述べられているわけではない。「ポストモダンの時代的背景」、そして「ポストモダンの時代と建築」の項に、この著作ではポストモダンの 論考が集約されている。
東浩紀は建築に近いフィールドでの論考もあるようで、調べてみると2009年に磯崎新に言及したブログもあり、興味深い。
両者のポストモダン論考の背景には、フランスの社会学者ジャン・ボードリヤールから提出された概念、「シミュラークル」が基調となっている。
ボードリヤールはポストモダンの社会では、作品や商品のオリジナルとコピーの区別が弱くなり、そのどちらでもない「シミュラークル」という中間形態が支配的になると予測していた。(1)
シミュラークルという概念を加速させる底辺には、「二次創作」という存在があると東浩紀は指摘する。二次創作とは、原作のマンガ、アニメ、ゲームをおもに性的に読み替えて制作され、売買される同人誌や同人ゲーム、同人フィギュアなどの総称である。(2)
この視点からの論考は、この著作のタイトルのキャプションに付けられた「オタクから見た日本社会」に象徴される。
それを建築的フィルターに戻すと、磯崎新は世界の建築が「a+u」的になってくる、と述べる。
「a+u」などで、全世界の情報がひろげられる。そうすると、世界中に似たような建築が生まれてくるのもいたしかたない。
記号としての情報はそれがスピーディーにひろがって、数多くの眼にふれると、急に新鮮味がうすれる。記号が消費されていくのだ。
建築のスタイルについても同様で、コピーされ変形され、しぼられたあげくに、使い捨てられる。この消費の仕組みの良し悪しを論じてもしかたない程にそれは今日では一般化し、動かしがたい事実になっている。
そうすると、現実に起こっているものはどこか別なものの引き写しにすぎないというようなことが進行し始める。そういう状況になってきたのがポスト・モダンという時代ではないかと見てとれる。(3)
長い引用だが、磯崎新が1985年に指摘した状況が、2001年に、東浩紀によりオタク側からの視点として論考されることが私にはとても興味深い。
磯崎新が述べた、建築のコピー・使い捨ての状況からは、オリジナルが喪失していってしまう。そして磯崎新は、モダンとポストモダンをどこで区切るか、ということにこの著作では言及している。
著作の原文通りに引用したい。
そこで、モダニズムとポスト・モダニズム、あるいはモダンとポストモダンというものを仮定した場合に、それをどこで区切るかということが、まずいちばんの問題になります。
私はこの区切りをアヴァンギャルドが終わったとき、というとちょっと大げさになりますけれども、アヴァンギャルドが効力を失い始めたとき、その時点をこの二つの考え方の区切りにしたいと思うのです。
だから、もし現在がポストモダンであるならば、アヴァンギャルドというのはもはや有効性がなくなった時代であるとみていただいていいと思います。アヴァンギャルドはモダニズムの産物だったからです。(4)
「アヴァンギャルドはモダニズムの産物だった」というセンテンスに、私は衝撃を受けてしまった。それでは私はいま、まさにモダニズムのあとの時代を生きているのにもかかわらず、モダンの産物であるアヴァンギャルド、前衛を志向しようとしているのか。
だから、私のような作風では作品として成立することの困難さが、同時代を生き抜いている建築家に比べて重たいのだろうか。
しかしそれでは建築家としてのアイデンティティがあまりにも希薄である。それよりも、私がスタディの手を動かすとどうしてもあのようなデザインになってしまうのだ。
それが前衛であっても、時代に関係なく私の建築をつくっていくことしか私にはできない。
それが、私の生き方である。
磯崎新の『いま、見えない都市』では、サブ・カルチュアについても述べられている。サブ・カルチュアを評価する磯崎新のスタンスが、世界を代表する文化人であるがゆえに、魅力的な位置に立っていると思うのは私だけだろうか。
註
1 東浩紀著 『動物化するポストモダン』 p.41
2 東浩紀著 『前掲書』 p.40
3 磯崎新著 『いま、見えない都市』 p.142
4 磯崎新著 『前掲書』 pp.114f.
参考文献
東浩紀著『動物化するポストモダン』 講談社現代新書 2010年
磯崎新著『いま、見えない都市』 大和書房 1985年
2011年1月31日月曜日
歩道に落ちる落ち葉は不要なものだろうか プロタゴラスの相対主義
朝早く、街路樹が植栽されている歩道を歩く機会があった。幹が太く、10メートル以上もある立派な樹木が何百メートルも続いている。
落ち葉の季節だった。落葉樹からは葉がいっせいに落ち、歩道に落ち葉の絨毯をつくっていた。
その幅広い歩道いっぱいに、落ち葉が敷きつめられている。
都心から少し離れた場所とはいえ、都会的な風景の中に、こんなに美しい自然がつくる光景に出会ったのは久しぶりだった。
歩道の上に、こんなに厚く落ち葉が「積もっている」状態の上を歩くのは、初めてである。心地良いクッションのように、少し踵が沈む。踏み出した足を落ち葉に沈めるときに、「カサッ」という乾いた音がして新鮮だった。
子供の頃に霜柱を踏んで遊んだ、あの懐かしい、足の感触と聴こえてくる音の調和が蘇ってきた。革靴で歩いていると、少し滑りそうになる。それもまた、楽しい感触だった。
ほどなく歩いていくと中学校があり、そこの生徒が大勢で歩道の落ち葉を掃除していた。まだ授業前の朝のひと時である。何日か続けてその歩道を歩いたが、毎朝生徒が掃除を欠かさないでくれていた。もちろん、先生らしき姿の人も一緒に。
私はその歩道を歩くたびに、気持ちの良い朝を迎えることができた。私だけではないだろう。その歩道を歩く全ての人が、幸せな気持ちになったはずだ。落ち葉のおかげと、その中学校の関係者のおかげで。
「だから、落葉樹はやめましょう。」という声が聞こえてきそうだ。「掃除がたいへんですから。」いつもの聞き飽きた言葉が、後に続く。
クライアントがデベロッパーだと、住宅を設計するときに、よく出会う言葉がある。私は酒が好きだから、庭に桜を植えて家でゆっくりと酒を飲みながら花見ができるようにしましょう、とクライアントに提案をする。すると、いつもの聞き飽きた言葉が返ってくる。「桜は虫が付いて、手入れがたいへんですから。」
プラトンの初期対話編『プロタゴラス』に登場する長老プロタゴラスは、「人間は万物の尺度である」と説いた。これは、「プロタゴラスの相対主義」として有名な言葉である。
善悪を考えるときに、ある人が良いと思うことが、別の人にとっては良いと思わないこともある、それが相対主義の原点だ。
悪の絶対的な基準もない、とする。絶対主義の悪の概念ではなく、相対主義で悪を追求していくと、では一体「悪い」とはどういうことなのだろうか、という思考に入っていってしまう。ソクラテスのプロタゴラスへの提起は、その思考を切り取っている。
私が、落ち葉を踏みながら歩くことを楽しんでいるときに、落ち葉は掃除する手間がたいへんだから、落葉樹なんか植えない方がいいと思う人がいる。
桜を愛でながら酒を飲みたい、と私が思うときに、桜の手間がたいへんだと思う人がいる。
そういうときに、私は相対主義を超越して、美を尺度の拠り所にしようと考える。美や感覚を大事にしたい。
「人間は万物の尺度である」という「人間」を、「美」に変えてしまうのだ。それで全て上手く収まるはずはないし、クライアントにプロタゴラスの話をするわけではない。
しかし桜が散る美しい季節に、ひらひらと舞い落ちてきた桜の花びらが一枚、盃の酒の上に浮かぶ姿を美しいと思わない人はいないだろう。
この寒さが通り越していったら、美しい桜が舞う季節が今年もやってくる。愛する人と、盃を持って出かけようではないか。
落ち葉の季節だった。落葉樹からは葉がいっせいに落ち、歩道に落ち葉の絨毯をつくっていた。
その幅広い歩道いっぱいに、落ち葉が敷きつめられている。
都心から少し離れた場所とはいえ、都会的な風景の中に、こんなに美しい自然がつくる光景に出会ったのは久しぶりだった。
歩道の上に、こんなに厚く落ち葉が「積もっている」状態の上を歩くのは、初めてである。心地良いクッションのように、少し踵が沈む。踏み出した足を落ち葉に沈めるときに、「カサッ」という乾いた音がして新鮮だった。
子供の頃に霜柱を踏んで遊んだ、あの懐かしい、足の感触と聴こえてくる音の調和が蘇ってきた。革靴で歩いていると、少し滑りそうになる。それもまた、楽しい感触だった。
ほどなく歩いていくと中学校があり、そこの生徒が大勢で歩道の落ち葉を掃除していた。まだ授業前の朝のひと時である。何日か続けてその歩道を歩いたが、毎朝生徒が掃除を欠かさないでくれていた。もちろん、先生らしき姿の人も一緒に。
私はその歩道を歩くたびに、気持ちの良い朝を迎えることができた。私だけではないだろう。その歩道を歩く全ての人が、幸せな気持ちになったはずだ。落ち葉のおかげと、その中学校の関係者のおかげで。
「だから、落葉樹はやめましょう。」という声が聞こえてきそうだ。「掃除がたいへんですから。」いつもの聞き飽きた言葉が、後に続く。
クライアントがデベロッパーだと、住宅を設計するときに、よく出会う言葉がある。私は酒が好きだから、庭に桜を植えて家でゆっくりと酒を飲みながら花見ができるようにしましょう、とクライアントに提案をする。すると、いつもの聞き飽きた言葉が返ってくる。「桜は虫が付いて、手入れがたいへんですから。」
プラトンの初期対話編『プロタゴラス』に登場する長老プロタゴラスは、「人間は万物の尺度である」と説いた。これは、「プロタゴラスの相対主義」として有名な言葉である。
善悪を考えるときに、ある人が良いと思うことが、別の人にとっては良いと思わないこともある、それが相対主義の原点だ。
悪の絶対的な基準もない、とする。絶対主義の悪の概念ではなく、相対主義で悪を追求していくと、では一体「悪い」とはどういうことなのだろうか、という思考に入っていってしまう。ソクラテスのプロタゴラスへの提起は、その思考を切り取っている。
私が、落ち葉を踏みながら歩くことを楽しんでいるときに、落ち葉は掃除する手間がたいへんだから、落葉樹なんか植えない方がいいと思う人がいる。
桜を愛でながら酒を飲みたい、と私が思うときに、桜の手間がたいへんだと思う人がいる。
そういうときに、私は相対主義を超越して、美を尺度の拠り所にしようと考える。美や感覚を大事にしたい。
「人間は万物の尺度である」という「人間」を、「美」に変えてしまうのだ。それで全て上手く収まるはずはないし、クライアントにプロタゴラスの話をするわけではない。
しかし桜が散る美しい季節に、ひらひらと舞い落ちてきた桜の花びらが一枚、盃の酒の上に浮かぶ姿を美しいと思わない人はいないだろう。
この寒さが通り越していったら、美しい桜が舞う季節が今年もやってくる。愛する人と、盃を持って出かけようではないか。
2010年12月25日土曜日
教育者は『エミール』を読んでいるのだろうか。ルソーの「消極的教育」を再考する。
小学生の児童が、いじめの果てに自殺をしたという報道が駆け巡った。何度となく繰り返される、いじめによる悲劇。しかしまた新しい事件が巷を賑わすと、その悲しさもいつのまにか風化していってしまう。そしてまた同じような悲劇が、私たちを襲う。そのとき、私たちは同じような涙を流すだけだ。
この報道に接したとき、私はふたたびルソーの『エミール』を手に取った。『エミール』は、よく知られたようにルソーの教育論である。1762年に刊行されたこの古典を、私は現代教育者に参考にするべく提言をしようとするのではない。
ルソーと教育論との結びつきも、一見きわめて特異なものであり、逆説的でさえある。まず第一に、彼自身、教育を受けた経験がない。(1)教育を受けたことのない者が著した教育論に、何故私が惹かれたのだろうか。
『エミール』は、教育小説ふうの教育論であるが、この教育論はルネサンスのモンテーニュ、ラブレーから、17世紀のロック、フェヌロン、それに同時代のコンディアックなどの近代の人間観の系譜につながり、とくにモンテーニュとロックに深い血縁を保っている。(2)
『エミール』は、後半ルソーの言う「自然宗教」の思想の展開に多くを費やすが、前半に表れるエミールに対する教育の具体的記述に、私は現代においても学ぶところが大きいと確信する。
エミールとは、ルソーが自分に一人の架空の生徒を与えた、その名前である。孤児としてエミールを設定し、その生徒の教育にたずさわるにふさわしい年齢、健康、知識、その他すべての才能に恵まれていると仮定し、彼が生まれたときから、成人して、もう彼以外の人間によって指導される必要がなくなるときまで、その教育を監督しようと決心した、(3)その思想が詳細に現れている。
この『エミール』前半に現れている重要な思想は、ルソーの提唱する否定的教育、或いは消極的教育である。ルソーは、できるだけ子供の語彙を少なく限るようにしなさい(4)、と言う。これはどういうことかというと、子供が観念よりも言葉のほうを多くもっていると、自分の頭で考えて説明するということに不都合を生じるというのだ。
これはルソーの独特な考えかもしれないが、あまりに早くから口をきかされる子供は、正確な発音を学んでいる暇も、自分の言わせられている事柄を十分に理解している暇ももたない(5)と述べる。
反対に、子供のなすがままにほうっておけば、子供はまず、いちばん発音のやさしい音節を練習する。その音節に、少しずつ意味を付け加えて、それを身ぶりによって人に理解させ、あなたの方のことばを受け入れる前に、自分たちのことばをあなた方に伝えるのだ。(6)
要するに、ルソーは子供を過保護にせずに放っておけと言っているのである。それがルソーの消極的教育の原点だ。それにより、子供は「自分で考える」という一番重要なことを、自然に学んでいく。
けがをしてしまった子供に対しての論考がある。ころんでも、頭にこぶをこしらえても、鼻血を出しても、指を切っても、わたしは驚いて子供のそばに駆け寄ったりしないで、じっとしているだろう、(7)とルソーは述べる。
けがはもうしてしまったのだ。子供がそれを我慢するのは、一つの必然である。実際けがをしたとき、われわれを苦しませるのは、傷そのものよりも、恐れの気持ちなのだ。わたしはせめて、子供にこの二番目の苦しみだけはさせないでおくことだろう(8)、と言う。
さらに引用を続ける。今回の事件の報道に接して、最も私の琴線に触れた一文を挙げたい。
エミールがけがをしないように心を配るどころか、わたしは、彼が一度もけがをせず、苦痛というものを知らずに大きくなったら、非常に残念だと思うだろう。苦しむということは、彼が学ばなければならぬ最初の事柄であり、将来のためにいちばん知っておく必要のある事柄である。(9)
私はこの一文を読んで、自殺した児童をいじめた子供には、おそらく苦しむということがどういうことかを知らずに育ってしまったのではないかと考えた。いじめた児童だけではないだろう。自殺した児童には一人で給食を食べさせていたという担任教師でさえ、人間が苦しむということを知らずに教師になったとしか私には考えられないのだ。
ルソーの独壇場が、逆説的論考である。一般の子供を持つ親の思考とは、正反対の論考をしていることは否めない。そしてルソーが『エミール』を著した18世紀後半と、現代とを結びつけて何が得られるのか、という時代の隔たりもあるかもしれない。更に『エミール』の背景には、ルソーが故郷ジュネーブの豊かな自然を想って提唱した「田園的教育」が見える。
しかし私はこの古典から、「苦しむことを知る必要性」がいかに重要であるかを学んだ。はたして、自分がもがき苦しんだ経験がない人間に、人の苦しみなど到底理解できないのではないだろうか。
いじめを起こした児童も、自分が苦しんだ経験が少ないのであろう。だからこそ、あのような悲惨な事件を引き起こしてしまう。
ルソーの言う消極的教育を知り、子供に苦しむことを早くから学ばせることは、250年経った現代でも必要なことではないだろうか。教師だけではなく、小さい子供を持つ親にとって、ルソーの『エミール』を再考することが重要なことであると、私は真剣に考える。
今日は12月25日、クリスマスだ。楽しいことを知らずに死んでいった児童の無念さが悲しい。
註
(1) 平岡 昇著「ルソーの思想と作品」p.37 責任編集 平岡 昇『世界の名著 ルソー』
(2) 平岡 昇著『前掲書』p.41
(3) ルソー著 平岡 昇訳『エミール』p.370
(4) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.384
(5) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.383
(6) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.383
(7) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.385
(8) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.385
(9) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.386
参考文献
責任編集 平岡 昇『世界の名著 ルソー』 中央公論社 昭和51年
ルソー著『エミール』(前掲書に収録)
この報道に接したとき、私はふたたびルソーの『エミール』を手に取った。『エミール』は、よく知られたようにルソーの教育論である。1762年に刊行されたこの古典を、私は現代教育者に参考にするべく提言をしようとするのではない。
ルソーと教育論との結びつきも、一見きわめて特異なものであり、逆説的でさえある。まず第一に、彼自身、教育を受けた経験がない。(1)教育を受けたことのない者が著した教育論に、何故私が惹かれたのだろうか。
『エミール』は、教育小説ふうの教育論であるが、この教育論はルネサンスのモンテーニュ、ラブレーから、17世紀のロック、フェヌロン、それに同時代のコンディアックなどの近代の人間観の系譜につながり、とくにモンテーニュとロックに深い血縁を保っている。(2)
『エミール』は、後半ルソーの言う「自然宗教」の思想の展開に多くを費やすが、前半に表れるエミールに対する教育の具体的記述に、私は現代においても学ぶところが大きいと確信する。
エミールとは、ルソーが自分に一人の架空の生徒を与えた、その名前である。孤児としてエミールを設定し、その生徒の教育にたずさわるにふさわしい年齢、健康、知識、その他すべての才能に恵まれていると仮定し、彼が生まれたときから、成人して、もう彼以外の人間によって指導される必要がなくなるときまで、その教育を監督しようと決心した、(3)その思想が詳細に現れている。
この『エミール』前半に現れている重要な思想は、ルソーの提唱する否定的教育、或いは消極的教育である。ルソーは、できるだけ子供の語彙を少なく限るようにしなさい(4)、と言う。これはどういうことかというと、子供が観念よりも言葉のほうを多くもっていると、自分の頭で考えて説明するということに不都合を生じるというのだ。
これはルソーの独特な考えかもしれないが、あまりに早くから口をきかされる子供は、正確な発音を学んでいる暇も、自分の言わせられている事柄を十分に理解している暇ももたない(5)と述べる。
反対に、子供のなすがままにほうっておけば、子供はまず、いちばん発音のやさしい音節を練習する。その音節に、少しずつ意味を付け加えて、それを身ぶりによって人に理解させ、あなたの方のことばを受け入れる前に、自分たちのことばをあなた方に伝えるのだ。(6)
要するに、ルソーは子供を過保護にせずに放っておけと言っているのである。それがルソーの消極的教育の原点だ。それにより、子供は「自分で考える」という一番重要なことを、自然に学んでいく。
けがをしてしまった子供に対しての論考がある。ころんでも、頭にこぶをこしらえても、鼻血を出しても、指を切っても、わたしは驚いて子供のそばに駆け寄ったりしないで、じっとしているだろう、(7)とルソーは述べる。
けがはもうしてしまったのだ。子供がそれを我慢するのは、一つの必然である。実際けがをしたとき、われわれを苦しませるのは、傷そのものよりも、恐れの気持ちなのだ。わたしはせめて、子供にこの二番目の苦しみだけはさせないでおくことだろう(8)、と言う。
さらに引用を続ける。今回の事件の報道に接して、最も私の琴線に触れた一文を挙げたい。
エミールがけがをしないように心を配るどころか、わたしは、彼が一度もけがをせず、苦痛というものを知らずに大きくなったら、非常に残念だと思うだろう。苦しむということは、彼が学ばなければならぬ最初の事柄であり、将来のためにいちばん知っておく必要のある事柄である。(9)
私はこの一文を読んで、自殺した児童をいじめた子供には、おそらく苦しむということがどういうことかを知らずに育ってしまったのではないかと考えた。いじめた児童だけではないだろう。自殺した児童には一人で給食を食べさせていたという担任教師でさえ、人間が苦しむということを知らずに教師になったとしか私には考えられないのだ。
ルソーの独壇場が、逆説的論考である。一般の子供を持つ親の思考とは、正反対の論考をしていることは否めない。そしてルソーが『エミール』を著した18世紀後半と、現代とを結びつけて何が得られるのか、という時代の隔たりもあるかもしれない。更に『エミール』の背景には、ルソーが故郷ジュネーブの豊かな自然を想って提唱した「田園的教育」が見える。
しかし私はこの古典から、「苦しむことを知る必要性」がいかに重要であるかを学んだ。はたして、自分がもがき苦しんだ経験がない人間に、人の苦しみなど到底理解できないのではないだろうか。
いじめを起こした児童も、自分が苦しんだ経験が少ないのであろう。だからこそ、あのような悲惨な事件を引き起こしてしまう。
ルソーの言う消極的教育を知り、子供に苦しむことを早くから学ばせることは、250年経った現代でも必要なことではないだろうか。教師だけではなく、小さい子供を持つ親にとって、ルソーの『エミール』を再考することが重要なことであると、私は真剣に考える。
今日は12月25日、クリスマスだ。楽しいことを知らずに死んでいった児童の無念さが悲しい。
註
(1) 平岡 昇著「ルソーの思想と作品」p.37 責任編集 平岡 昇『世界の名著 ルソー』
(2) 平岡 昇著『前掲書』p.41
(3) ルソー著 平岡 昇訳『エミール』p.370
(4) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.384
(5) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.383
(6) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.383
(7) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.385
(8) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.385
(9) ルソー著 平岡 昇訳『前掲書』p.386
参考文献
責任編集 平岡 昇『世界の名著 ルソー』 中央公論社 昭和51年
ルソー著『エミール』(前掲書に収録)
2010年11月27日土曜日
風の匂いを感じた、色彩豊かなファン・ゴッホ展
ファン・ゴッホを見に、国立新美術館へ行った。夕方、外が暗くなってから訪れる。ホワイエに面した展示室の光壁が、幻想的に柔らかく灯っていた。
黒川紀章の最期の代表作になってしまった国立新美術館は、夜の帳が下りてから訪れると一層楽しめるだろう。外光が燦燦と降り注ぐ日中も、天井の高いボリュームのあるホワイエにそびえ立つ、レストランとなっている逆円錐形の異様が際立っている。
しかし夜はそれが妖しくライトアップされ、展示室の光壁が私に恍惚を誘った。そのフラッシュバックの中で、初めて黒川紀章と遭遇した時のことが頭を過ぎる。
それは学生時代に仲間と訪れた、黒川紀章の事務所のエントランス前での出来事であった。「KISHO N KUROKAWA」とクレジットされたオフィスの壁面に、「このNはなんだろう、紀章の訓読みの頭文字だろうか。」と言いながら立っていると、左の部屋から右の部屋へと本人がエントランスの前を通り抜けて行ったのだ。
その一瞬に、黒川紀章は私たちを鋭いあの眼光で睨んだ。私は怯みながらも、口の上に細い髭を生やしているのを見逃さなかった。後から先にも、黒川紀章が髭を蓄えているのを見たのは、この時だけである。
その後、ソウルオリンピックの選手村のコンペを手伝うようにと、縁があり呼ばれる。夜、外出から戻り、黒いコートと皮手袋をしたままでスタッフの進捗状況を見回るその姿は、ダンディそのものであった。
このファン・ゴッホ展には、オランダのファン・ゴッホ美術館からも多くの作品が来ている。そのオランダのファン・ゴッホ美術館も、黒川紀章の作品だ。もし黒川紀章が生きていたら、この因縁をどのような想いで感じたのだろうか。
哀しいかな、ファン・ゴッホの日本でのイメージは、新宿の超高層ビルの一室の一枚の絵と、ゴーギャンの目の前で自分の耳を切り落とし、最期は麦畑で腹をピストルで撃って自殺した姿だ。そして、生前は絵が一枚しか売れなかった悲劇の人生が付加えられる。
そういうイメージをファン・ゴッホに重ね合わせている全ての日本人は、この展覧会を訪れてほしい。前半の暗い色調の絵から、次第に美しい色彩が溢れる、輝く作品が続く。
私たちが抱いている「悲劇の運命の天才」の姿は、ここでは微塵も感じられなかった。
私は、『花瓶のヤグルマギクとケシ』という作品に注目した。背景の明るいブルーに、白いヤグルマギクと赤いケシが、見事に際立っている。ファン・ゴッホが弟のテオに宛てた手紙の中では、「これほどの色彩の管弦楽法に出会うためには、ドラクロワにまで一気に向かう必要がある」と記されている。(1)
この時期に、ファン・ゴッホは新しい色彩と技法を習得し、独自の静物画を描くためにきわめて個性的なやり方でそれを実践した。(2)
そして私が最も注目したのが、『ヒバリの飛び立つ麦畑』という作品だった。この絵からは「風の動き」が感じられる。そして「風の匂い」までもが沸き立ってくるのだ。
麦が風に揺られ、その少し「くぐもった」青い香りが風に運ばれてきて、画面の前の私に匂い立ってくるではないか。更に無数の麦の穂が風に揺られ、その音がシンフォニーの中の一瞬、軽いドラムの連打のように音を立てて私の耳に確かに聴こえて来る。
ファン・ゴッホは、麦にターコイズ、刈り取られた畑にはピンクを塗った。まだ濡れている下の層に、上から絵具を加えて構図を整えている。明るい色の地面は、下に塗られた薄い絵具層を通して輝いている。(3)
このブログでは、前回「アルチュール・ランボオ」を取り上げたが、そこにジャン・コクトーの文章を引用した。敢えてここでも、再び引用したい。
これまでたびたびくり返してきたが、われわれの惑星よりも進化したある惑星が創造されれば、恐らくそれはアインシュタインを嘲笑することになるかもしれない。しかし、ヴァン・ゴッホやセザンヌを嘲笑することはなかろう。(4)
ファン・ゴッホは1890年、37歳で死んだ。アルチュール・ランボオは1891年37歳で死ぬ。同時代、偶然にも同じ年齢で狂いながら死んでいった二人の天才芸術家がいた。
私は、決してファン・ゴッホが哀しい人生を送ったとは考えていない。画家として無名のままで逝ってしまったファン・ゴッホだったが、牧師の家に生まれ、後に画商となった弟・テオに勧められ画家になることを決心する。ロートレックやゴーギャンと邂逅し、画家としての自分の道をしっかりと進んでいった。
対象とする花を買う金にも困り、夏は静物画ではなく風景画を描かざるおえないほど困窮していたが、いつも弟・テオが生活費の面倒を見てくれていた。そこには、芸術家の濃密な人生に満足している自分があったのではないだろうか。そうでなければ、2000枚もの作品を残せる訳がない。
しかし、ファン・ゴッホは自分にストイックになりすぎて、作品のために人生を賭けすぎてしまい、理性を壊してしまった。
ある意味ファン・ゴッホの作品は、精神的な面から考えると弟・テオとの共同作業のようなものなのかもしれない。その弟・テオは、ファン・ゴッホが麦畑で自殺したわずか3ヵ月後に入院する。その年の初めにテオと妻ヨーとの間に息子が生まれたばかりだというのに。
そして兄、ファン・ゴッホが自殺してから半年後、自らも病院で死んでいった。あまりにも哀しいのは、弟・テオの方ではないか。
芸術家には、眩しいくらいの輝きと、それに反転する暗い影が付き纏う。それが天才を極めれば極めるほど、眩しさが突き抜ければ突き抜けるほど、影は暗闇に近づいてしまう。
『ヒバリの飛び立つ麦畑』は、いつまでも風の匂いと音を私に届けていた。
註
1 『没後120年 ゴッホ展』図録 p.104
2 『前掲書』 p.104
3 『前掲書』 p.112
4 『ユリイカ』 総特集 ランボオ 1971年4月臨時増刊号
p.9 「ランボオの爆薬」 ジャン・コクトー/中条忍訳 青土社
参考文献
『没後120年 ファン・ゴッホ展』図録
『ユリイカ』 総特集 ランボオ 1971年4月臨時増刊号 青土社
黒川紀章の最期の代表作になってしまった国立新美術館は、夜の帳が下りてから訪れると一層楽しめるだろう。外光が燦燦と降り注ぐ日中も、天井の高いボリュームのあるホワイエにそびえ立つ、レストランとなっている逆円錐形の異様が際立っている。
しかし夜はそれが妖しくライトアップされ、展示室の光壁が私に恍惚を誘った。そのフラッシュバックの中で、初めて黒川紀章と遭遇した時のことが頭を過ぎる。
それは学生時代に仲間と訪れた、黒川紀章の事務所のエントランス前での出来事であった。「KISHO N KUROKAWA」とクレジットされたオフィスの壁面に、「このNはなんだろう、紀章の訓読みの頭文字だろうか。」と言いながら立っていると、左の部屋から右の部屋へと本人がエントランスの前を通り抜けて行ったのだ。
その一瞬に、黒川紀章は私たちを鋭いあの眼光で睨んだ。私は怯みながらも、口の上に細い髭を生やしているのを見逃さなかった。後から先にも、黒川紀章が髭を蓄えているのを見たのは、この時だけである。
その後、ソウルオリンピックの選手村のコンペを手伝うようにと、縁があり呼ばれる。夜、外出から戻り、黒いコートと皮手袋をしたままでスタッフの進捗状況を見回るその姿は、ダンディそのものであった。
このファン・ゴッホ展には、オランダのファン・ゴッホ美術館からも多くの作品が来ている。そのオランダのファン・ゴッホ美術館も、黒川紀章の作品だ。もし黒川紀章が生きていたら、この因縁をどのような想いで感じたのだろうか。
哀しいかな、ファン・ゴッホの日本でのイメージは、新宿の超高層ビルの一室の一枚の絵と、ゴーギャンの目の前で自分の耳を切り落とし、最期は麦畑で腹をピストルで撃って自殺した姿だ。そして、生前は絵が一枚しか売れなかった悲劇の人生が付加えられる。
そういうイメージをファン・ゴッホに重ね合わせている全ての日本人は、この展覧会を訪れてほしい。前半の暗い色調の絵から、次第に美しい色彩が溢れる、輝く作品が続く。
私たちが抱いている「悲劇の運命の天才」の姿は、ここでは微塵も感じられなかった。
私は、『花瓶のヤグルマギクとケシ』という作品に注目した。背景の明るいブルーに、白いヤグルマギクと赤いケシが、見事に際立っている。ファン・ゴッホが弟のテオに宛てた手紙の中では、「これほどの色彩の管弦楽法に出会うためには、ドラクロワにまで一気に向かう必要がある」と記されている。(1)
この時期に、ファン・ゴッホは新しい色彩と技法を習得し、独自の静物画を描くためにきわめて個性的なやり方でそれを実践した。(2)
そして私が最も注目したのが、『ヒバリの飛び立つ麦畑』という作品だった。この絵からは「風の動き」が感じられる。そして「風の匂い」までもが沸き立ってくるのだ。
麦が風に揺られ、その少し「くぐもった」青い香りが風に運ばれてきて、画面の前の私に匂い立ってくるではないか。更に無数の麦の穂が風に揺られ、その音がシンフォニーの中の一瞬、軽いドラムの連打のように音を立てて私の耳に確かに聴こえて来る。
ファン・ゴッホは、麦にターコイズ、刈り取られた畑にはピンクを塗った。まだ濡れている下の層に、上から絵具を加えて構図を整えている。明るい色の地面は、下に塗られた薄い絵具層を通して輝いている。(3)
このブログでは、前回「アルチュール・ランボオ」を取り上げたが、そこにジャン・コクトーの文章を引用した。敢えてここでも、再び引用したい。
これまでたびたびくり返してきたが、われわれの惑星よりも進化したある惑星が創造されれば、恐らくそれはアインシュタインを嘲笑することになるかもしれない。しかし、ヴァン・ゴッホやセザンヌを嘲笑することはなかろう。(4)
ファン・ゴッホは1890年、37歳で死んだ。アルチュール・ランボオは1891年37歳で死ぬ。同時代、偶然にも同じ年齢で狂いながら死んでいった二人の天才芸術家がいた。
私は、決してファン・ゴッホが哀しい人生を送ったとは考えていない。画家として無名のままで逝ってしまったファン・ゴッホだったが、牧師の家に生まれ、後に画商となった弟・テオに勧められ画家になることを決心する。ロートレックやゴーギャンと邂逅し、画家としての自分の道をしっかりと進んでいった。
対象とする花を買う金にも困り、夏は静物画ではなく風景画を描かざるおえないほど困窮していたが、いつも弟・テオが生活費の面倒を見てくれていた。そこには、芸術家の濃密な人生に満足している自分があったのではないだろうか。そうでなければ、2000枚もの作品を残せる訳がない。
しかし、ファン・ゴッホは自分にストイックになりすぎて、作品のために人生を賭けすぎてしまい、理性を壊してしまった。
ある意味ファン・ゴッホの作品は、精神的な面から考えると弟・テオとの共同作業のようなものなのかもしれない。その弟・テオは、ファン・ゴッホが麦畑で自殺したわずか3ヵ月後に入院する。その年の初めにテオと妻ヨーとの間に息子が生まれたばかりだというのに。
そして兄、ファン・ゴッホが自殺してから半年後、自らも病院で死んでいった。あまりにも哀しいのは、弟・テオの方ではないか。
芸術家には、眩しいくらいの輝きと、それに反転する暗い影が付き纏う。それが天才を極めれば極めるほど、眩しさが突き抜ければ突き抜けるほど、影は暗闇に近づいてしまう。
『ヒバリの飛び立つ麦畑』は、いつまでも風の匂いと音を私に届けていた。
註
1 『没後120年 ゴッホ展』図録 p.104
2 『前掲書』 p.104
3 『前掲書』 p.112
4 『ユリイカ』 総特集 ランボオ 1971年4月臨時増刊号
p.9 「ランボオの爆薬」 ジャン・コクトー/中条忍訳 青土社
参考文献
『没後120年 ファン・ゴッホ展』図録
『ユリイカ』 総特集 ランボオ 1971年4月臨時増刊号 青土社
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